鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

退行による対抗 ――宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』についての逸脱的感想その①

■光の影の記憶に――漫画・アニメイション論 その③

退行による対抗

――宮﨑駿監督『君たちはどう生きるか』についての逸脱的感想その①

 

監督      宮﨑駿

脚本      宮﨑駿

原作      宮﨑駿

出演者    山時聡真・菅田将暉柴咲コウあいみょん木村佳乃

木村拓哉風吹ジュン大竹しのぶ阿川佐和子

火野正平小林薫竹下景子國村隼滝沢カレン

音楽      久石譲

主題歌    米津玄師「地球儀」

制作会社  スタジオジブリ

製作会社  スタジオジブリ

配給      東宝・GKIDS

公開      2023年7月14日

上映時間  124分

製作国    日本

言語      日本語

 

■2023年8月2日、海老名東宝シネマズにて鑑賞。

■採点 ★★★★☆。

 

目次

退行による対抗... 1

1 宮﨑駿ワールド全開!... 2

2 場所、建物、土地... 3

3 素晴らしい声の演技... 4

4 カポーティ『遠い声、遠い部屋』との関連?... 4

5 『君たちはどう生きるか』... 6

6 退行による対抗... 7

7 楽園と巨大な鸚鵡... 8

8  他の問題点... 11

主要参考文献・映像作品目録... 12

 

 

 

1 宮﨑駿ワールド全開!

先日、例の、宮﨑駿監督の手になる新作映画『君たちはどう生きるか[1]をうちの相方と観てきました。正式な感想はまた、別にアップするかも知れませんが、一言で言うと宮﨑監督が好き放題(?)やっていて、よかったのではないか思いました。宮﨑駿ワールド全開! というところでしょうか。

前作『風立ちぬ[2]については、いささか首を傾げざるを得ないところがあって、これが監督作品としては最後なのかと思うと、芸術家や創造者の常ではありますが、どうしても衰えというのは隠せないものだな、とか思っていたのですが、全くの杞憂に終わりました。流石、というしかありません。

 

2 場所、建物、土地

千と千尋の神隠し[3]についてもそうなのですが、キャラクターやストーリーの素晴らしさについては言うまでもありませんが、どうもわたしは「場所」とか「建物」、あるいは「土地」の醸し出す雰囲気、「地(ゲニウス)霊(・ロキ)」とでも言うのでしょうか、そういったものに心惹かれるようです。もうとにかく、その映画の中の場所に入り込みたい、そこにただいたい、場合によっては半永久的にそこにいたい、と思わせるような空間の想像=創造については、いずれ何かの機会に書きたいとは思っていますが、宮﨑駿の創造する場所とはそういう場所なのです。

 

3 素晴らしい声の演技

話が変わりますが、声の出演をしていた俳優の皆さんが、観ていて正直誰なのかさっぱり分からなかった、というのも、或る意味、素晴らしい演技力というべきもの、これまた素晴らしい、と思いました。沢山でてきたお婆さんたちが誰が誰やら分からない、というのも、全く御愛嬌と言うべきでしょうか。

 

4 カポーティ『遠い声、遠い部屋』との関連?

で、ここからが本題なのですが、偶々、この夏にカポーティの『遠い声、遠い部屋』[4]村上春樹さんの手による新訳が刊行されました。わたしがこの映画を観た、全く同じ日、2023年8月2日です。

ご存知のように14歳の少年ジョエル・ノックスは母を亡くし、長く会うことのなかった父に呼ばれて、父の広壮な屋敷に棲みつきます。しかし、実際には父に会うことはできません。さらにその屋敷にいた継母は冷たく、奇妙な叔父ランドルフにも振り回されます。しかし、ほとんど野生児とも思われる少女アイダベルや、料理女の黒人ズーたちと心を通わせることで、なんとか、その波乱万丈の少年時代の危機をジョエルは乗り越えたように見えるところで、この物語は幕を降ろします。こんなラストです。

 

(前略)彼は行かねばならないことを知っていた――恐れず、ためらわず、彼はただ庭の端でちょっと立ちどまっただけだった。かれはふとそこで、何か置き忘れてきたように足をとめ、茜色の消えた垂れ下がりつつある青さを、後に残してきた少年の姿を、もう一度振り返ってみるのだった。[5]

 

 

 若干、話は逸れますが、この『遠い声 遠い部屋』を始めとして、数多くの名訳をなされた、英米文学者・翻訳家の河野一郎さんが今年2023年の1月に亡くなっていました。享年93歳だったとのことです。謹んで哀悼の意を表します。

 

5 『君たちはどう生きるか

 さて、振り返って『君たちはどう生きるか』について考えてみると、主人公の少年牧眞人は空襲で母を亡くします。戦火を逃れて、田舎にある、亡母の実家(広壮な屋敷)に父と共に疎開します。ところが、そこでは亡母の実妹が、既に父の子を身籠って、継母として彼を待っていました。昔は兄弟姉妹で再婚するというのはよく見られたことなので、世間的には何の問題もないのでしょうが、眞人からすると、そうそう簡単には引き受けることのできない現実です。この現実を、彼は謎の青(あお)鷺(さぎ)の導きにより、恐らくは彼の空想、あるいは内的な世界の中に入り込み、そこで亡母の転生であるヒミ(火見、ということか?)や屋敷のばあやのキリコの転生である漁師・キリコたちの手を借りながら、彼は一歩成長していったのでしょう。

 ラストは、外的にも、また内的にも「戦争」が終わり、牧一家が揃って東京に戻ろうとして、眞人が、自室を去るところで幕を閉じます。

 多分、実際には、継母ナツコが行方不明になり、それを探しに行った眞人とキリコが、廃墟となった塔に迷い込み、しばらくして、父親たちに救い出される。その時に塔も崩れ落ちたのかも知れません。その後、ナツコは無事、眞人の弟を生み、二年が経ち戦争も終わっていた、ということでしょうか。

 

6 退行による対抗

いずれも、生き難い、受け入れ難い現実を、「退行」[6]という言葉をここで使うのが正しいかどうか分かりませんが、自身の内的な世界へと「退行」することで、現実からの攻撃に「対抗」している気がするのです。ここは今後、考えを深める余地が十分あると思います。

 無論、カポーティの作品はゴシック・ホラーの形式は借りてはいますが、基本的にはリアリズム小説です。それに対し、宮﨑さんの映画は、まさにファンタジーです。何の関連性も、影響関係も、内的共通性も存在しないはずですが、少年の成長、いや、成長というよりも、内的危機の乗り越えとでも言った方が良さそうですが、それらを考えるのに、何らかの共通点があるような気がするのです。無論、多かれ少なかれ、少年少女の内的危機の乗り越えを描いた作品は枚挙に暇がないとも言えますが、一旦心覚えとして書いておきます。

 

7 楽園と巨大な鸚鵡

さらに、これもまた、全く関係のないことなのでしょうが、この映画の後半には巨大な鸚鵡(おうむ)たちが登場します。いささか異和感を感じさせる造形です。そこまでに登場している青鷺、ペリカン、そして鸚鵡という具合に何らかの形で主人公の少年を攻撃しようとするのが、鳥なのですが、何か意味があるのでしょうか? 青鷺(その中から出てくる鷺男は別として)とペリカンたちが比較的リアルな描写になっているのに対して、この鸚鵡(おうむ)(そうか、『風の谷のナウシカ[7]に登場した巨大な虫、王(おう)蟲(む)に通じますね、偶然でしょうか?)は人間大の大きさで(確かに、最後は普通の鸚鵡になってしまいますが)、いささかコミカルなデザインなのです。なんか変だな、という印象を残します。

 ところで、またまたカポーティですが、彼の、一家4人惨殺事件を扱ったノンフィクション・ノヴェル『冷血』/In Cold Blood(冷酷に、冷たい血の中で)[8]の中で犯人のペリーの夢? 空想? の中に鸚鵡が登場するのです。それは、「“キリストより背が高く、ヒマワリのように黄色い”鳥」[9]で彼を虐待する孤児院の尼たちの皆殺しにしてしまいます。そして、それは、彼の「力」の表象となり、さらにまた、彼が夢見る「楽園」の象徴ともなっているのです。

 

ひどい苦痛から鳥に救いだしてもらったものの、歳月を経るうち、また別の苦痛が襲ってきた。ほかの連中――年上の子どもたち、父親、不実な女、軍で出くわした軍曹――が尼さんたちに取って代わったのだ。しかし、空を舞う復讐者のオウムは変わらなかった。だから、ダイヤがなる木の守り手の蛇も、ペリーをのみこむ前に、オウムにのみこまれてしまった。そして、あの至福の飛翔! そういう天国への飛翔も、ある場合には“感じ”だけにとどまった。力の感覚、揺るぎない優越の感覚に。しかし、また、ある場合には、それがさらに変遷していった。ほんとの場所へな。映画から抜けだしたような場所へ。たぶん、おれがその映画を見たんだな――映画に出てきたのをおぼえてたんだろう。でなきゃ、あんな楽園をほかのどこで見るっていうんだ? 白い大理石の階段。噴水。楽園の外れまでいくと、ずっと下のほうに海が見える。まさに絶景だ! カリフォルニアのカーメルあたりみたいな。だが、何よりすばらしいのは――そう、長い長いテーブルだ。あんなにたくさんの食べ物は誰にも想像がつかないだろう。牡蠣。七面鳥。ホットドッグ。百万杯のフルーツカップでもつくれそうな果物。それに、いいか、――それがみんな、ただなんだ。つまり、びくびくしながら手を出すなんてことはない。食いたいだけ食っても、一銭も払わなくていいんだ。おれは自分が今、どこにいるかを、それで知るんだ」[10]

 

ペリーはこれらを映画で観た記憶からの想像だとしていますが、あるいはそうかも知れませんし、その方面での探究は充分必要ではあります。こうして世界的に強い影響力を持つ宮﨑さんの映画の中にも鸚鵡が登場し、楽園かどうかは不明ではありますが、何やら天上界のようなところも登場しますから、こういうものの後世への影響も考えねばなりませんが、むしろ、わたしが思うのは、人類が持つ根源的なイメージとしての楽園と、鸚鵡なのです。ま、そんなものがあるとして、ですが。

これが、実際に犯人のペリーが語ったことなのか、あるいはカポーティが創作したのかは分かりませんが、少なくともカポーティにとって、これらの楽園と鸚鵡のイメージは自身の内的世界の何かと呼応する、極めて重要なものだったのではないかと思います。

いずれにしても、ここでもまた、ペリーは自身の外的危機を内的な退行、すなわち巨大な鸚鵡が敵を撃退して、彼を楽園へと連れて行ってくれる、という妄想で対抗しようとしているのです。

 

8  他の問題点

さて、この映画『君たちはどう生きるか』について、というよりも、その周辺についての感想になりますが、他にもいくつかの点について述べておきたいこともあります。

例えば、ラストの「舞台崩し」の意味。あるいは「理想の母を殺して、現実の母を受容する」ことの意味、それとの関連で「死者を蘇らせてはいけない」ということ、さらにまた、眞人少年と、それに先んじてナツコが使用する「矢」の意味、「矢」とは一体何なのか? そして、タイトルを借用している、吉野源三郎君たちはどう生きるか[11]との関連、あるいは元ネタとされているジョン・コナリーの 『失われたものたちの本』[12]との関連なども考えに入れなければなりません。

 が、とても、そこまで手が回るとは思えないのです。

 今は『トルーマン・カポーティ――叶えられなかった祈り』の完成(? 本当に完成するのか?)を急ぎたいと思います。

 一旦、感想、というか、逸脱的な妄想の一端として、アップしておきます。お粗末様でした。

 

主要参考文献・映像作品目録

カポーティトルーマン. (1948年/1971年). 『遠い声 遠い部屋』. (河野一郎, 訳) ランダム・ハウス社/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1948年/2023年). 『遠い声、遠い部屋』. (村上春樹, 訳) Random House/新潮社.

カポーティトルーマン. (1966年/2006年). 『冷血』. (佐々田雅子, 訳) Random House/新潮文庫.

コナリージョン. (2006年/2021年). 『失われたものたちの本』. (田内志文, 訳) Atria Books/創元推理文庫.

吉野源三郎. (1937年/1982年). 『君たちはどう生きるか』. 新潮社/岩波文庫.

宮崎駿. (1984年). 『風の谷のナウシカ』. トップクラフト.

宮崎駿. (2001年). 『千と千尋の神隠し』. スタジオジブリ.

宮崎駿. (2013年). 『風立ちぬ』. スタジオジブリ.

宮﨑駿. (2023年). 『君たちはどう生きるか』. スタジオジブリ.

 

 

 

 

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②5,700字(15枚) 20230808 1000

①4,300字(11枚) 20230807 1230

 

 

*[1] [宮﨑, 2023年]。

*[2] [宮崎, 『風立ちぬ』, 2013年]。

*[3] [宮崎, 『千と千尋の神隠し』, 2001年]

*[4] [カポーティ, 『遠い声、遠い部屋』, 1948年/2023年]。

*[5] [カポーティ, 『遠い声 遠い部屋』, 1948年/1971年]p.276。

*[6] フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』によれば以下の通りである。「心理学において退行(たいこう、Regression)とは、精神分析ジークムント・フロイトによれば防衛機制のひとつであり、許容できない衝動をより適切な方法で処理するのではなく、自我を一時的または長期的に、発達段階の初期に戻してしまう事である(B.J.Kaplan; V.A.Sadock『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開』(3版)メディカルサイエンスインターナショナル、2016年5月31日、Chapt.4)。退行の防衛機制は、精神分析理論においては、個人の性格が、より幼稚な性癖を採用し、発達段階の初期に戻るときに起こる(“Psychology Dictionary (R) at AllPsych Online”. allpsych.com. 2008年3月11日閲覧)」。という訳でフロイトの理論をそのまま、本稿の考え方に適用するのは無理があるので、その点お断りをしておく。別の言葉を使用すべきなのかも知れない。

*[7] [宮崎, 『風の谷のナウシカ』, 1984年]。

*[8] [カポーティ, 1966年/2006年]。

*[9] [カポーティ, 1966年/2006年]p.173。

*[10] [カポーティ, 1966年/2006年]p.p.171-172。下線引用者。

*[11] [吉野, 1937年/1982年]。

*[12] [コナリー, 2006年/2021年]。