鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

トルーマン・カポーティ――叶えられなかった祈り    第2章 その作品 第Ⅳ節 不気味なものへの誘い、あるいは恐怖の根源へ――『夜の樹』

 

トルーマン・カポーティ――叶えられなかった祈り

  

第2章 その作品

第Ⅳ節 不気味なものへの誘い、あるいは恐怖の根源へ――『夜の樹』

  

 

【目次】

 不気味なものへの誘い、あるいは恐怖の根源へ――『夜の樹』... 1

1 長篇小説作家になり切れなかった、天才短篇小説作家... 3

2 「北部もの」「南部もの」... 6

3 「ミリアム」... 9

4 「夜の樹」... 11

5 「夢を売る女」... 16

6 「最後の扉を閉めて」/「最後のドアを閉めろ」... 25

6-1 「北部もの」の典型的な代表作... 25

6-2 梗概... 26

6-3 自業自得... 28

6-4 中心のない円... 30

6-5 電話... 33

6-6 題名の問題... 43

6-6-1 単数性と複数性、あるいは固有性と無名性... 43

6-6-2 何故不定冠詞“a”なのか?... 44

6-6-3 「最後のドア」とは何か?... 46

6-6-4 〝すべての行為は、恐怖から生まれる〟... 53

6-6-5 邦訳題の問題... 60

6-6-6 think of nothing things, think of wind.. 61

6-7 付論 村上訳の訳語の問題... 63

 

 

はじめに

 皆様、お疲れ様です。

いやー今年の夏は異常に暑かったと思っているのはわたしだけですか。とにかく汗だくで頭がぼーっとしてどうにかなっちゃうかと思いました。で、今日(9月18日)も極限に暑かったですね。わたしが落書きをしているこの部屋は本日36.9℃を記録しました(笑)。って笑いごとじゃない! 

 というわけで空調もない部屋で扇風機や冷風扇でなんとか生き延びたわたしを褒めてあげたい! よくやった!! 「我らの暑気を生き延びる道を教えよ」とか、もう意味分かんないです。

 さて、そんな訳で、昨年の夏休みはジョイスユリシーズ』がらみで小文を1本上げました。

 今年はカポーティ関連で何本か上げようと思っていたのですが、なかなか思うに任せず、『冷血』について1本でっち上げて、ほぼ同時期に書き始めたこの『夜の樹』についてのものが、なんと1か月かかって、やっとのことで、文章の形を成しているかどうかは別問題として、一応、形になりました。

 途中で、『トルーマン・カポーティ――叶えられなかった祈り』という文書の束の一部にすることにしたので、今後、束化に当たって、修正などをしていこうとは思います。

 いやはや、それにしても、何でこんなことになったのか自分でも分りません。人生とは奇妙で、不思議なものですね。このような愚にも付かない道楽をさせて頂けるのは、全く以てありがたいことです。

このような機会を与えてくれた、天にましますトルーマン・カポーティ氏と、ミスター・カポーティの作品へと導いてくれた村上春樹さん、そしてわたしを生きながらえさせてくれている相方に感謝の念を捧げます。有難う御座いました。

 それでは皆様、引き続き、宜しくお願いいたします。

2023年9月18日

🐤

鳥の事務所

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■Truman Capote, A Tree of Night and Other Stories,1945-1949/トルーマン・カポーティ『夜の樹』川本三郎訳・1994年2月25日・新潮社。

■目次

・「ミリアム」

・「夜の樹」

・「夢を売る女」

・「最後の扉を閉めて」

・「無頭の鷹」

・「誕生日の子どもたち」

・「銀の壜」

・「ぼくにだって言いぶんがある」

・「感謝祭のお客」

・訳注

・解説(川本三郎

■480円(税込み)。

■2023年6月29日読了。 

■採点 ★★★☆☆。

 

■Truman Capote, “Shut a Final Door”,1947/トルーマン・カポーティ「最後のドアを閉めろ」村上春樹訳/『MONKEY』vol.30 ・2023年SUMMER/FALL ・Switch Publishing

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トルーマン・カポーティ「最後のドアを閉めろ」村上春樹

村上春樹カポーティ・ショック」

村上春樹柴田元幸村上春樹インタビュー――カポーティは僕にとってとても大事な作家――『遠い声、遠い部屋』と「最後のドアを閉めろ」」

■1,540円(税込み)。

■2023年8月11日読了。 

■採点 ★★★★★。

 

 

🖊ここがPOINTS!

① トルーマン・カポーティの最初にして最後の短篇小説集『夜の樹』は彼が長篇小説家になり切れなかった天才短篇小説家ぶりを遺憾なく発揮している。

② その中でも「北部もの」と呼ばれる諸作品は、人間存在の「不気味な部分」すなわち自分自身の暗部を照らし出している。

③「最後のドアを閉めろ」は、そこから「恐怖」へと引きづり込まれて行く様を微細に描き切った名作と言わねばならない。

 

 

 

 

 

1 長篇小説作家になり切れなかった、天才短篇小説作家

本人はどう思っていたか、わたしには分かりませんが、恐らくカポーティは本来的には、短篇小説型の小説家ではないかと思います。というか、どちらかと言えば短篇小説に向いている、というぐらいの意味なんですけど、そんなカポーティの最初の短篇小説集にして、最後の短篇小説集となったのが本作です[1]。無論、この後も何篇かの短篇小説は書いていますが、それをきちんと纏めようとしなかったのは、あるいは本人が、自身を長篇小説型の作家だと自負していたからなのかも知れません。それにもかかわらず、幾篇かの短篇小説の鋭さ、切れ味、作品の完成度、文学的達成度と比較すると、彼の長篇小説はいずれも、長篇小説として構成される内的宇宙が完結しないまま、途中で放り出されているような気がします。簡単に言えば、結末が弱い。そういう意味からすれば、カポーティは本人の思惑とは異なり、長篇小説作家になり切れなかった、天才短篇小説作家だと言えるかもしれませんね。

例として適切かどうかは分りませんが、それはあたかも、天才子役として名を馳せた俳優が、長じて伸び悩むのとも似ているのもかも知れません。あるいは、子ども時代の自在さに馴染む余りに、遂には大人になり切れない人のように。大人の仮面を被った、大人の成りをした子供、つまりは精神的に子ども、ということになるのでしょうが、それは、第三者から見て、いささか見苦しいものです。あるいは気持ちのいいものではありません。それは、実は本人が、一番そのことを知っている。そのことを知った上で、世界に絶望するか、絶望した上で、奇矯(クウィア)な振る舞いをするか、ということになるのでしょうか。

そう考えて来ると、この小説家が独自に持つ奇矯な世界を提示するには短篇小説の方が向いていたのかも知れない、と思えてくるのです。

 因みに、カポーティがデビューした頃、「恐るべき(アンファン)子供(・テリブル)」と揶揄されたように、彼の少年時代から青年時代にかけてのポートレイトはまさに、絵に描いたような美少年でした。ところが、中年から晩年にかけて、広く知られるカポーティの肖像写真は、失礼ながら、彼がしばしば愛用した「悪魔」という言葉に相応しい印象を残します。卑近な例ですが、映画、というか元々は漫画ですが『BATMAN』に登場するジョーカーという敵役を想起させる(ミスター・カポーティ、失礼、許してください)。一体全体、カポーティはいつどこで悪魔と取引をしたのだろうかと訝しむほどです。

 

 2 「北部もの」「南部もの」

さて、では、このカポーティの最初にして、最後の短篇小説集ではありますが、必ずしも、そのような不気味な色合いの物ばかりではありません。とは、言っても、オリジナルとは若干編成が異なります。オリジナルは以下の通りですが、ここに川本訳単行本では「感謝祭のお客」/“The Thanksgiving Visitors”と「クリスマスの思い出」/”A Christmas  Memory”が追加されましたが、文庫では後者が外されました。また、配列も異なります。

"Master Misery" 「夢を売る女」

"Children on Their Birthdays" 「誕生日の子どもたち」

"Shut a Final Door" 「最後の扉を閉めて」

"Jug of Silver" 「銀の壜」

"Miriam" 「ミリアム」

"The Headless Hawk" 「無頭の鷹」

"My Side of the Matter" 「ぼくにだって言いぶんがある」

"A Tree of Night" 「夜の樹」

この配列を訳者の川本三郎さんが上記のように(目次参照)変えたのは、日本の読者に理解され易いように、恐らく、平たく言って「北部もの」と「南部もの」という具合に分けたのかも知れません。前半が「北部もの」で、後半が「南部もの」ということになります。

「北部もの」「南部もの」というのは、翻訳家の柴田元幸さんの提唱によるものですが、彼は、村上春樹さんへのインタヴューの中で、カポーティの作品は「大雑把に北部もの、南部ものと分けられる」と述べています[2]

「南部もの」は、『クリスマスの思い出』*[3]や『おじいさんの思い出』*[4]などを代表とする、カポーティの本来の出自であるアメリカ南部の、いわゆる「イノセント」な少年時代に材を採った、屈折も屈託もない、比較的単純な、と言っても、そこには、満ち足りた、精神的な豊かさが存在する、そういう作品たちです。

「誕生日の子どもたち」はそれほど単純な話ではない。視点が現在にあるからでしょうが、これは第Ⅵ節にて触れます。

「銀の壜」や「感謝祭のお客」のような、他人を、他者を何の疑いもなく、信じられる存在として描く。恐らくそれは「クリスマスの思い出」や「感謝祭のお客」に登場する、カポーティの育ての親のような存在だった、年長の従姉ミス・スックが大きな働きを示していたことでしょう。確かにカポーティは実の親の愛には恵まれなかったかも知れませんが、ミス・スックの愛情には十分恵まれて育てられたことは確かな事実のように思われます。

ところが、大都市、ニューヨークなどの生活から生まれた、「北部もの」は、光が屈折し過ぎて、むしろ真っ暗に閉ざされてしまったかのような感があります。恐らく、ここでは辛く生きることを、そのまま生きることでしか回避できぬような迷宮が存在する。「イノセントの崩壊」とはよく言われることではあるが、崩壊と言われても、崩壊そのものを自らのものとして引き受けざるを得ない、脱出困難の状況というしかないのです。

そのコアにあるものは、或る種の「不気味なもの」、「ホラー的なもの」、「奇矯なもの」ということになるような気がします。

では、本節では、この短篇集に収録されている北部ものを代表する「ミリアム」、「夜の樹」、「夢を売る女」、そして長めに「最後の扉を閉めて」について述べていきます。

村上春樹さんが訳している「誕生日の子どもたち」などについては第Ⅴ節にてお話しして参ります。他の作品については、また機会を改めてご紹介させて頂ければ幸いです。ご了承のほどよろしくお願いします。

それでは参りましょう。

 

3 「ミリアム」

デビュー作「ミリアム」でO. ヘンリー賞を受賞し、次第に頭角を現わします。この作品は老齢に差し掛かった女性ミセス・ミラーが、謎の少女ミリアムによって、その生活に侵入されるというものですが、これはもうゴシック・ホラーの典型のように思えます。現実的なことを言えば、この老女は精神に異常を来しているのであろうが、それだけでは済まない、というかそれに限定されない人間の不気味さ、怖さがここにあります。

 

彼女(*[5]をさらによく観察しているうちにミセス・ミラーは、彼女の本当の特徴は髪ではなくであることに気づいた。薄茶色で、落着いていて、子どもらしさがまったくない。それに、大きくて顔じゅう目のようだった。*[6]

 

ここには、視線を合わせること、注視されることの恐怖が表れています。視ることは評価されることです。だが、わたしたち、他人の評価を窺うこと、推理することはできても、相手が何を考えているのか、自分に対していかなる評価を下しているのかは全く分かりません。恐らく、ありうべきパターンは相手の挙措動作、顔いろ、口元や目尻の様子で、それを推測することです。普段わたしたちはそれを自然に行っています。だが、「顔じゅう目」、だというのですから、純粋な目だけでそれをすることはできないでしょう。これほどの不気味なことがあるでしょうか。

「不気味」とは一体どういうことでしょうか? 何かが存在するのは分かる。だが、それが何かは分からない、場合によっては自分に危害を加えてくる危険性もある気がするが、それも実は分からない。自分の単なる疑心暗鬼なのかもしれない。これが不気味、ということです。

現実には「顔じゅう目」などという人間は存在しません。この不気味さは、自分が発した不気味だと思うその視線が、相手に反映して、目だけを異常に注視することで生じているのでしょう。目を合わせるのが怖いのだが、しかし、それにも関わらずその相手の目を視てしまうのだ。その視線を外すことができないのだ。

この場面は、少女ミリアムとミセス・ミラーが初めて、映画館で出会った場面ですが、あるいは、ここで、ミラーは実際に、眼の大きな少女を見かけたのかも知れません。だが、そこから先は、実際にその少女が、ミラーを訪ねてきたかも知れませんが、恐らく、そこでミラーは自身を観ているのでしょう。自身の内的世界が外界の何ものかに投影された自身の姿を観て恐怖に陥っているのでしょう。ミラーはミリアムです。

つまり、本当に不気味なものは何を考えているのか分からない他者ではなくて、自分自身なのではないでしょうか?

 

4 「夜の樹」

人は、予想に反する、あるいは予想し難い状況に巻き込まれることが、時としてありますね。予想に反する訳ですから、当然これからどうなるのかも分からない訳です。そういう時に、人は、そこから逃れようとするか、あるいは、それとは全く逆に、その渦中に吸い込まれでもするかのように、取り込まれてしまう人たちがいます。小説だから、と、言ってしまえば、それまでですが、カポーティの小説に登場する主要な人物たちは、不可解な運命の渦に、あたかも自らの意思のように取り込まれていきます。

この短篇集の表題作となっている「夜の樹」の主人公、女性の大学生ケイもその一人です。叔父の葬式の帰り、一人夜の列車に乗った彼女は、空席が他にはなかったため、一組の男女の坐っていたボックス席に座ることになります。この男女が一癖も二癖もある曰くありげなのですが、ここのところは予想通りというべきか、彼女は絡まれます。女性は酒を呑んでいて、その酒をケイに頻りに勧めてくるのです。

ところで、その男の様子はこうです。

 

男は座席にだらしなく坐り、頭を横に向け、横目でケイをじっと観察した。 目は、 曇った、 不透明なブルーのおはじきのようで、 まつげが濃く、 不思議な美しさがある。幅広い、 つるっとした顔には、 一種のよそよそしさの他には人間らしい表情がまったくない。男は小さな感情を持ったり、 あらわしたりすることも出来ないようだった。グレイの髪を短く切って、なでつけてあるが、額のところでふぞろいに垂れている。男はまるで何かおそろしい方法で突然年をとってしまった子どものように見える。すり切れた、ブルーのサージの上着を着て、安い、いやな匂いの香水を身体にふりまいている。手首にはミッキー・マウスの絵のついた腕時計をはめている。*[7]

 

これは確かに不気味です。「何かおそろしい方法で突然年をとってしまった子ども」というのは、カポーティの他の作品にも登場しますし、そもそも、これは、誰あろう、中年以降のカポーティ本人の容貌をこそ思い起こさせます。

彼の様子は、ケイが坐る前に一目で分かったはずなのに、彼女は坐ってしまうのです。不思議、というか不可解ですね。

さて、幾ばくかその女と会話を交わすうちに、彼らの正体が明かされます。本当かどうかは分かりませんが、彼らは、というか彼は、生き埋めになって見せる、旅芸人だったようです。彼は地中の棺桶に一時間ほど埋められるようですが、そんなことが芸として成立するのか、分かりませんが、まー、昔は娯楽が少なかったので、こんなことにも小銭を払って、娯楽として愉しんでいたのでしょうか。

そんな話のあとに男がポケットから出してきた桃の種のようなものにニスを塗ったものを1ドルで買えと言われるのです。え? これが目的だったのでしょうか? もちろん、ケイはそれを断った訳ですが、恐怖に駆られてなのか、あるいは不穏な空気になった為か、ケイはその席を立ち、列車の最後尾に出ますが、男が迎えに来て、席に戻ると、結局、その不可解な種を買うことに同意することで、この話は終幕を迎えます。

何が、ケイの気持ちを変えさせたのでしょうか? 理由のようなものは、一応書かれてはいます。列車の最後尾に出ていた時に子供時代の記憶を蘇らせています。

 

男は、 口のきけない人間独特の無関心な様子でそこに立っていた。頭を傾け、両腕を脇に垂らしている。男の、害のない、ぼんやりとした顔が、 ランプの光で明るく照らし出されるのをじっと見つめているうちに、 ケイは、自分が何をこわがっているかがわかってきた。それはある記憶、子どもっぽい恐怖の記憶だった。 かつて、遠い昔、夜の木の上に広がった幽霊の出る枝のように彼女の上におおいかぶさっていたものだった。叔母たち、 コックたち、見知らぬ人間たち――みんなが、お化け、死、予言、幽霊、悪魔といった話を長々としたがり、また、そうしたものを歌った歌を教えたがった。それに魔法使いの男に対する変らぬおそれがあった。家から離れちゃだめよ、さもないと、魔法使いの男がお前をさらっていって、生きたまま食べてしまうよ! 魔法使いの男はどこにでもいるから、どこもみんな危ないんだよ。夜、べッドにいても、魔法使いの男が窓をたたく音が聞えるだろう? ほら!*[8]

 

つまり、その生き埋めの男を「魔法使い」だと見破った、ということでしょうか? 問題はここです。「魔法使い」だと見破って(?)おきながら、そこから、逃げ去るのではなく、何故か、自らの意思のように、そこに身を投じて、彼らと取引をするのです。彼らは単なる「魔法使い」だったのでしょうか? いや、実は「悪魔」ではなかったでしょうか? ケイは悪魔と桃の種と1ドルを交換することで、悪魔との取引をしたのではないでしょうか?

 

5 「夢を売る女」

わたくしごとですが、会社でのストレスのためか、生きるのがとても辛かった時期が結構長く続いていたことがあります。その頃は、泥のように睡り、現実の生の反映なのかどうか分かりませんが、矢鱈と面白い夢を見ていました。余りに面白いので、ワード・プロセッサーで文章に起こしてみましたが、なかなか、夢を見ているときの臨場感は再現できず、難しいものだな、と思ったことがあります。

今は、有難いことに、ほとんど夢を見ない、というか、すっかり忘れてしまいます。現実の辛さは依然として存在しますが、それよりも現実の面白さ、楽しさの方が勝っているのでしょうね。

それはともかく、夢を再現、再話してもさほど面白いものではありません。確か、ポール・ボウルズの小説を原作とした、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『シェルタリング・スカイ』*[9]の中でも、確か、他人の夢の話を聴くのは詰まらない、という会話がされていたような気がする。気のせいかな。

それはともかく、本作はどうも、その逆で、他人の夢を買う男を題名に持っていますが、実は主人公は夢を売る女の方なのです。

これもなかなか捻った、というか屈折率の高い短篇です。原題は“Master(マスター) Misery(ミザリー)”なので、川本さんの和訳は大分解釈の入ったものだと言えます。「マスター・ミザリー」は主人公の女性が夢を売りに行く「レヴァーコーム」という男の通称、というか後出のオライリー命名です。

“misery”は、例の『レ・ミゼラブル』の“miserable(ミゼラブル)”ですから、「惨めな」とか「苦しみに満ちた」とかいう形容詞の名詞形ですから、「惨めさ」、「苦しみ」とかでしょうか。したがって「マスター・ミザリー」は、あえて日本語にすれば、「苦悩先生」を含意させて「久能先生」とかでしょうか。本文中ではミスター・レヴァーコームの顧客の一人であったオライリーという中年の男性が「不幸という名のご主人様」*[10]と字解きしています。

さて、主人公と目されるシルヴィアは偶然知った情報から夢を買ってくれるというレヴァーコームという男の元へ行き、何回か夢を売るようになったのです。例えば一回分の夢の代金が「五ドル」*[11]とあります。これは夢の内容によって金額が変わるようですが、ま、そこそこの小遣い稼ぎにはなりますね。ところが、夢を売った彼女は奇妙な感覚に囚われます。

 

部屋に戻る前に、 シルヴィアは睡眠薬を一錠飲んだ。めったにないことだが、彼女にはそうでもしなければ今夜は眠れそうにないとわかっていた。心臓がどきどきして、ひっくりかえっているようだった。それに、彼女は奇妙な悲しみも感じていた。喪失感といってもいし実際に何かを盗まれたか、あるいは、心を盗まれてしまったような感じだった。公園で会った若者たちにハンドバッグを(そこで彼女は電気を点けた)ひったくられたような感じだった。*[12]

 

彼女は夢を売ることで、自身の心を、あるいは魂のようなものを売ってしまった、ということでしょうか? なんとなくでは、ありますが、「魂を売る」とくれば、悪魔との取引を想起しまいますね。思い込み過ぎでしょうか? 

その後もシルヴィアは自らの意思、というよりは何者かに操られるように、マスター・ミザリーの元を訪れます。

 

彼女は映画を見ようと部屋を出たが、どうしたわけか、まるで無意識にそうなってしまったように、気がついてみると、ミスター・レヴァーコームの家の二ブロック先のマディソン街に来ていた。*[13]

 

というのですから、もう大部持っていかれている感があります。

 その後、やはりミスター・レヴァーコームの元へ、夢を売りに来て、どういう訳か、そこを追い出された男マーク・オライリーという中年の男と知り合います。彼はこう言います。

 

「あんなことをするなんて。悪いのはあの男のせいだよ。もともとこっちははじめからそんなにたくさん夢を持っているわけじゃない。それなのに、あの男はみんな取り上げてしまった。いまじゃ、もう空っぽ(ニエンテ)、空っぽ(ニエンテ)だよ」*[14]

 

詳細は分かりませんが、どうも彼の持ち合わせの夢を全部売ってしまって、用済みになってしまったようです。何故かシルヴィアはこの中年男性が気になります。

 

彼らはあてもなくゆっくり歩いた。①雨が強く降りしきり、全てのものから二人を切り離すように彼らを包んだ。②彼女は子どものころの人形といっしょに歩いているような気がしてきた。奇跡的に成長し、何でも出来るようになった人形だ。③彼女は手を伸ばして彼の手を握った。*[15]

 

つまり、こういうことでしょうか。下線部①の箇所は、同じ夢を売ることで、魂を売る羽目になった二人は、孤独感によって逆に連帯感のようなものを持つことができたようです。下線部②。シルヴィアはそこから、オライリーを子どもの頃に慣れ親しんだ人形のような存在として認知します。幼児が人形と遊んだり語り合ったりするのをご覧になったことのある方はお分りでしょうが、そこでの世界では、子どもは、つまりシルヴィアが万能です。言うなればその世界の女王とも言えます。そこでは親友でもある人形は、臣下とも言えますから、ご主人様に逆らうことはありません。現実のオライリーは人形ではありませんから、そうはならないのでしょうが、ここで、シルヴィアは自分自身がまさに自分であるという、自在感、万能感を取り戻そうとしているのかも知れません。したがって、その人形は、シルヴィア自身の反映でもありますから、「奇跡的に成長し、何でも出来るようになった人形」に思えるのです。実際には違うのでしょうが。

そこで下線部③、気持ちの緩んだシルヴィアは思わずオライリーの手を握ってしまうのです。「彼女は手を伸ばして彼の手を握った」とありますから、偶然手が触れて、握った訳ではなくて、彼女がオライリーの手を握りたくて、わざわざ手を伸ばして、手を握っているのです。しかしながら、それは意図して、「男」の手を握ろうとしたわけではなく、あくまでも、「人形」の手を握っただけなのです。あるいは、ここでシルヴィアは真っ当な感覚を失いつつあると考えてもいいのかもしれません。

その後、オライリーと暮らすことになりますが、結局は別れてしまいます。

ところで、この項の冒頭の夢の話に戻りますが、ミスター・レヴァーコームは何故、わざわざ金を払ってまで、他人の夢を集めているのでしょうか? 彼は心理学などの研究者なのか、あるいは医者なのか、はたまた、単なる金持ちの道楽なのか、本文中にはそれは明示されていません。しかしながら、彼を「マスター・ミザリー」と呼んだ、オライリーはこう述べます。

 

「(前略)たいていの夢は、われわれの心のなかにすべての心の扉を押し開く怨霊のようなものがいるから生まれるんだ。私は、イエス・キリストは信じないが、人間の魂は信じる。だから、ベイビー、こう考えるんだ。夢というのは魂のひとつの状態で、われわれの隠された真実の姿だって、ね。マスター・ミザリーという男は、たぶん、自分の魂を持っていないんだ。だから、彼は、魂を少しずつ他人から借りる。きみの人形や皿から鶏の手羽を盗むように、きみの魂を盗む。何百という魂があの男を通り抜けて、ファイル・ケースのなかにおさめられていく」*[16] *[17]

 

やはり思った通りです。ミスター・ミザリーは少なくともオライリーの中では、「悪魔」的存在として描かれていないでしょうか。なにしろ「自分の魂を持って」おらず、「魂を少しずつ他人から借りる」あるいは「盗む」のですから。また、その「ミスター・ミザリー」という呼称を表題とした作者、作者を代理する存在からしてもそうではなかったでしょうか。

と、なれば、悪魔に魂を吸い取られてしまったシルヴィアには残されたものは何もないのです。したがって、ラストで彼女はこう思います。

 

何が欲しいのか、わからない。おそらくこれからも分からないだろう。(中略)ほんとうにもう何も怖くない。あとをつけてくる彼らの雪を踏む音を聞きながら、彼女はそう思った。ともかく、もう、盗まれるものなんか何もないのだから。*[18]

 

「あとをつけてくる彼ら」とは「バーから出てき」た、「ふたり」の「男の子」(と川本さんは訳していますが、「若者」とか「青年」とか「若い男」ぐらいが妥当のように思えます)のことです。「あとをつけてくる」というのですから、追剥なのか、強姦しようとしているのか、通常の感覚で言えば、いささかならず危険な状況にあるにも関わらず、「怖くない」というのは、魂を盗まれているからでしょうか? 無論、それもあるとは思いますが、本来であれば、「子どものころの人形」のように愛していたオライリーとの別れをむざむざ受け入れてしまったシルヴィアは、言うなれば、生きているということの「底板」を踏み破ってしまった*[19]のではないでしょうか? 

 

 

6 「最後の扉を閉めて」/「最後のドアを閉めろ」

6-1 「北部もの」の典型的な代表作

 うーーん、これは、カポーティの短篇のなかでは南部ものを代表とする、と言っても、必ずしも典型的な「南部もの」ではないですが、「誕生日の子どもたち」と双璧を為す、「北部もの」の代表とも言うべき作品で、まさにツイン・ピークス的な作品です。あるいは「北部もの」の代表格として「無頭の鷹」を挙げられる方もいらっしゃるとは思いますが、まー、それはそれとして、ということです。

本項では、本書収録の川本三郎訳と、雑誌『MONKEY』vol.30に掲載された村上春樹訳の、翻訳の問題も含めつつ、両者の訳を使用して検討していきます。

言ってみれば、南部ものが、人の世界は、人の愛と善意によって成り立っていて、信頼こそがそれを維持させていく、ガソリンのようなものであって、そこに悪の付け入る余地はない、とでも言いたげな世界観であるのに対して*[20]、この「最後の扉を閉めて」を代表とする「北部もの」は、先程の世界観を全く以て逆倒させたものと言えるかもしれません。中でも、本作「最後の扉を閉めて」は酷い、というか凄い、というか、うーーん、まあ、世の中、言ってしまえば、こんな感じかも知れませんけど、そうだとするなら、本当に救いがない話です。

 

6-2 梗概

主人公ウォルター・ラリーはハートフォードからニューヨークにポッと出て来た田舎者ですが、頭の回転と口先だけで、うまく世渡りをしていきます。うーーん、こういう奴、いるよなー、って思わされます。ニューヨークで最初に識り合ったアーヴィングという青年に引き回されて、多くの知り合いを作ることができました。ところが、早速ですが、その中の一人、アーヴィングのガール・フレンドのマーガレットを寝取ります。当然、アーヴィングとは仲違いになりますが、そんなことはお構いなしです。仕事のないウォルターは、マーガレットの口利きで、彼女の勤めている広告会社に潜り込むことに成功します。そこでウォルターにとっては幸か不幸か、社長であるクーンハルト氏に声を掛けられます。要は社長のお気に入りの存在となった訳ですが、裏側の事情については、まるで書かれていないのですが、まー、独占的な権力を一人の人間が持つ会社や組織ではあるあるなことなのかな、とも思います。こういうことを無責任に書いてはいけないのかも知れませんが、戦後日本の芸能界に君臨してきた、男性アイドル・グループのみをプロデュースしている大手芸能プロダクションの、某会長の素行が慮れますね。ま、知らないことは書くべきではないですけどね。

そう考えて来ると、クーンハルト社長とウォルターの関係も、あるいは、その種の性(的)関係もあったかもしれませんし、ま、そう言うものでしょう。

そんな訳で、彼はその広告会社の重役にまで上り詰めます。

さらに彼は、「恋人」マーガレットとの約束(彼の両親に会いに行く)をすっぽかして、大手乳業会社の令嬢(その会社の相続人)であるローザのデビュー舞踏会に出席し、まんまと彼女の気持ちを引くことに成功し、マーガレットを棄てて、ローザに乗り換えるのです。

ところが、ここで運命がウォルターに対して背を向けます。ウォルターが先走り過ぎて、ローザと結婚するかも知れないとマスコミにリークするのですが、これは当然、ローザも、またクーンハルトも寝耳に水で、彼らの怒りを買います。ローザはウォルターに別れを告げ、クーンハルトは彼を解雇してしまいます。無論、今となってはマーガレットもどこの誰も、彼を助けようとする者はいません。

彼はとりあえず、ニューヨーク北部のサラトガに逃亡します。そこで知り合った脚の悪い女と一夜を共にしようとする寸前で、謎の電話が鳴り、そのまま寝てしまいます。

彼はそのあと、見知らぬ土地であるニューオーリンズへと流れていき、場末のホテルの一室で寝くるまって震えているところで幕を閉じます。全く、救いのないはなしではありますが、ここには何らかの教訓めいたものは存在します。

 

6-3 自業自得

 

「ウォルター、聞いて。 たとえ、 みんながあなたのこと嫌っても、 仕事のうえであなたに反対しても、勝手な連中だと思ってはだめよ。 こうなったのはあなたのせいなんだから」*[21]

    

本作の冒頭で、年長の女友達(? なのか? あるいは愛人だったのか? ちょっと分からない*[22])のアンナが彼に忠告する言葉です。

いささか、詰まらないようなことを書きますが、恐らくカポーティ自身が何かの機会に身につまされたのが、「自業自得」、「身から出た錆」ということではなかったかと思います。カポーティが若くして文学的栄光を勝ち得て、或る時期から、そういう文学的ステイタスのような場所から失墜していくわけですが、それ以前にも、つまり、文学的成功を勝ち取る以前の若年の頃から、幾度も失敗と挫折を重ね、苦渋を舐めた結果、カポーティが率直に思ったことは、結局、「俺が悪いんだ」、「俺のせいでみんな怒ってるんだ」という感懐のようなものだったかも知れません。しかしながら、そうも思いながら、ウォルターがそうであったように、カポーティ自身も論敵を執拗に攻撃せざるを得ない、そういう、いささか、厄介な心根を持つ人物だったのかも知れません。

 

6-4 中心のない円

さて、この物語はサンドイッチ型の構造をしています。別の言葉で言えば帰納法ということになります。最初にニューオーリンズの場末のホテルの一室で横になって身悶えをしているところから、何故、こんなことになってしまったのかと回想シーンに入って、最後に、現在のニューオーリンズに戻る、という訳なのです。

彼は相当な絶望の淵に追い込まれています。空腹で仕方なくピーナツ・バターのクラッカーをウィスキーで流し込んで、気持ちが悪くなり、汚いですが、嘔吐(げろ)を吐き、「そして枕が濡れるまで泣いた」*[23]というのですから、相当なものです。余程辛かったのでしょう。

それからしばらく彼はベッドに寝っ転がりながら、天井でぐるぐる回っている扇風機のことを考えます。

 

そのあとしばらく暑苦しい部屋で横になっていた。震えながらただ横になり、ゆっくりと回る扇風機を見つめていた。扇風機の動きには始まりも終わりもない。ただ円を描いているだけだ。/目、地球、木の年輪。あらゆるものが円形をしている。そして、どの円にも中心がある、とウォルターはいった。みんなあなたの責任よとアンナはいったが、彼女は頭がどうかしているのだ。(中略)/しかし、彼は自分のことになると、どこから考えたらいいか、中心がどこにあるのか、わからなかった。*[24]

 

つまりは、自身の依って来る「中心」が分からないのです。中心のない円を描くことはできません*[25]

では中心とは何でしょうか。生きる上での規範と考えてもいいし、ポリシーでもいいかも知れません。いずれにしても、彼は無軌道に生きてきて、何とかなるところまでは何とかなったのですが、或る一点を越えると、あたかも小暗(おぐら)い森で彷徨う旅人のように、見たところ、同じところをぐるぐると回っているかのように思えるのです。あるいは、全く別の場所を歩いているにしても、全く同じ場所を旋回しているかのように思えるのです。これほどの徒労感はありません。肉体的疲労よりも精神的な疲労こそが、人をして生きる気力を蝕み、奪い去っていくものなのでしょう。

彼、ウォルターは、あるいは若くして成功を手に入れたカポーティ自身は、時代精神のようなものがあるとしてですが、その波に幸いにも乗ることができました。しかし、その波が過ぎ去ると、一瞬にして、ウォルターは失墜し、あたかも「世界の果て」のような場末のホテルの一室の片隅で、絶望の涙を流すことになります。カポーティは暫く複数の波に乗ることができましたが、彼の若い晩年の惨状を知るものからすると、自身の内的な絶望を、或る意味予言的な形で描いたものだとも言えます。

カポーティの若い時代の伝記的な事実から、このような苦境に陥ったことは窺えませんが、一体全体、カポーティはどこからこんな人物を探し出してきたのでしょうか?

先程も申し上げたように、本短篇集に収録されている「最後の扉を閉めて」のウォルターと、「誕生日の子どもたち」のミス・ボビットの人物造形は恐るべく目を瞠るものがあります。

生きる規範を喪ったウォルターと、早々にそれを諦めて、悪魔と取引をしたミス・ボビット。

一体、この二人は何を意味しているのでしょうか。

本書『トルーマン・カポーティ――叶えられなかった祈り』の最大のテーマこそ、実はそこにあるのです。

 

6-5 電話

 世の中には電話が嫌い、という方が少なからずいらっしゃると思います。何を隠そう、わたしも電話が嫌いです。会社の電話は仕方なく出ますが、自分の携帯電話にかかって来た電話に直接出ることはほぼ100パーセントありません。

無論、こちらから電話を掛けるのが嫌だ、ということもあるとは思いますが、電話の問題点は予告なしにかかってくるということです。言うなれば、日常生活に突如侵入してくる襲撃者(レイダース)なのです。

今であれば、多少関係性が薄いところだと、事前にメイルやラインとかで、お電話してもよろしいですか、と事前に確認することが、しようと思えばできます。そうでなくても、非通知になっていなければ、相手が誰だかわかりますから、電話に出る前に、どうするか判断できまし。

 ところが、長らく、つまり、電話が発明されてから、交換手が取り次ぐ方式を止めてから、電話は、突然、誰からか分からない人から、突然、日常生活に侵入してくるようになりました。これはナーヴァスになっている人間からすると、大変な恐怖感、重圧感をもたらすものです。

突然かかってくる電話、と言えば、村上春樹さんの「ねじまき鳥と火曜日の女たち」*[26]を思い出す人がいるかも知れません。そこでは、謎の「女性」? から性的な電話がかかってくるのですが、結局それは誰だか分らずじまいで、物語を閉じます*[27]

それは、ともかく、この作品にも電話が重要な役どころで2回登場します。正確に言うと3回なのですが、その3回目の電話にはウォルターは出ません。そのことについては後ほどお話しいたします。

1回目はせっかく重役になるまで上り詰めた会社を馘首になって、どこかに行こうとして、リラックスしている時にかかってきます。

 

音楽が終った瞬間、電話が鳴った。彼は、返事をするのが怖いような気がして、立ちつくした。電燈の光、家具、部屋のなかのすべてのものが生気を失なったように思えた。電話は鳴りやんだと思ったらまた鳴りはじめた。さっきより大きく、しつこい。彼は、足のせ台につまづき、いったん受話器を取ったが、取り落し、また取って、返事をした。「もしもし?」

長距離電話だった。ぺンシルヴェニア州のどこかの町からだったが、町の名前は聞き取れなかった。 ひとしきり痙攣(けいれん)したような機械音が聞え、それから、乾いた、男とも女ともわからない、これまで聞いたことのある声とはまったく違う声が聞えてきた。「もしもし、 ウォルター」

「どなたですか?」

向うからの答えはない。ただ強く、規則的な呼吸の音だけが聞える。接続の状態はいいので、だれかが彼のすぐ横に立って唇(くちびる)を彼の耳に押しつけているように感じられる。「冗談はやめてくれ。誰なんだ?」

わたしが誰か、わかっているだろ、ウォルター。長い付き合いじゃないか」。そこでカチャッと音がして、あとは何も聞えなくなった。*[28]

 

というものです。相手の電話の主たる内容は「わたしが誰か、わかっているだろ、ウォルター。長い付き合いじゃないか」という、ほぼ、その一言です。要は、電話をかけてきた相手が誰なのか、名乗らずともわかるはずだ。なぜなら、「長いつきあい」だから、というものです。もちろん、と言っていいのか分かりませんが、ウォルターにはそれが誰だか分かりません。

ところで、いささか些末な問題ですが、この電話の相手は「男とも女ともわからない」とされている訳ですから、この川本さんの訳は普通に読めば男言葉ですね。原文はこうなっています。

 

“Oh, you know me, Walter. You’ve known me a long time.”*[29]

 

このニュートラルな英文のニュアンスを活かして、男性とも女性とも、どちらとも取れるように日本語に移し替えることは、相当難しい技です。最近出た、村上春樹さんの訳はこうなっています。

 

「ああ、わたしのことは知っているはず、ウォルター。ずっと前から知っている」*[30]

 

うん、流石ですね。これだと確かに性差をうまく消すことに成功しています。

それから、もう1回かかって来た電話は、サラトガで知り合った脚の悪い女性と、まさにこれからベッドに入ろうとしている時に、――と言っても、ウォルターはその女性と寝ることをかなり不本意に思っているのですが、まさにことの直前でかかってきたのです。

 

そのとき電話が鳴って、会話(*[31]がとぎれた。彼女(*[32]は黙って彼を見た。「驚いたわ」彼女はそういって、受話器を手でおさえた。「長距離よ!  ロニー(*[33]がどうかしたんだわ! きっと病気になったのよ……もしもし――えっ? ラニ(*[34]? 違います。番号が違っているわ……」

「待った」ウォルターが受話器を取りながらいった。「ぼくだ、ウォルターだ」

やあ、ウォルター

あのけだるい、男とも女ともいえない、遠い声が、まっすぐに彼の胃の底にまで届いた。部屋がシーソーのように揺れ、歪んでいるように見える。汗がロひげのように上唇のところに、吹き出た。「誰だ?」と彼はいった。ゆっくりといったので、言葉がつながっていないようだった。

知ってるくせに、ウォルター、長い付き合いじゃないか」そして沈黙。誰からかわからない電話はすでに切れていた。*[35]

 

という訳ですが、川本訳では1回目と2回目を微妙に訳し分けています。

 

《1回目・川本訳》 「わたしが誰か、わかっているだろ、ウォルター。長い付き合いじゃないか」*[36]

 

《2回目・川本訳》 「知ってるくせに、ウォルター、長い付き合いじゃないか」*[37]

 

しかしながら、原文はどちらも全く同じなのです。

 

“Oh, you know me, Walter. You’ve known me a long time.” *[38]

 

因みに、村上訳も1回目と2回目を訳し分けています。

 

《1回目・村上訳》 「ああ、わたしのことは知っているはず、ウォルター。ずっと前から知っている」*[39]

 

《2回目・村上訳》 「ああ、ウォルター、のことを知っている。ずっと前から」*[40] 

 

村上さんは、何故、2回目を訳し変えたのでしょうか? ちょっと意図が分かりかねますが、「君」、「私」(の漢字表記)にした段階で、一般的に日本語では男性の言葉になってしまいます。さらには、或る種の人格のようなものが感じられないように、できるだけ、無機質な文章が望ましいと思うのですが、いかがでしょうか。

さて、もう少し踏み込みましょうか。もしかしたら、これらの電話はウォルターの幻聴か、妄想かも知れませんが、少なくとも2回目の時、電話を取ったのは、その脚の悪い女性でしたから、電話そのものはかかって来たのでしょう。

あくまでも、プラトンに登場する限りでのソクラテス、ということですが、――今手元に本がないので、うろ覚えなのですが、彼にはダイモンの声が聞えたと言います。そのダイモンの声は、あくまでも、ソクラテスをして、禁止の形でしか命令をしなかった、とされています*[41]。なんと言ったらいいのか、虫の知らせ、とでもいうのか、なんだか嫌な予感とでも言いましょうか。

それと同じだとする根拠は全くないのですが、この電話もウォルターに何かを禁じる、あるいは停止させようとする命令ではなかったでしょうか。

1回目の電話はニューヨークをから離れようとするウォルターに「ニューヨークから離れてはいけない」とするものです。2回目は、今まさにベッド・インする直前ですから、「その女と寝るな」という内容です。1回目の禁止は彼には伝わらず、ニューヨークを離れます。2回目は、その電話が功を奏してか、ウォルターはその女生徒の性行為には至りませんでした。

一体、この電話は誰からだったのか? 先程話した村上さんの『ねじまき鳥クロニクル』の伝で行けば、ウォルターのことを心配している女性でしょうか。それは、既に別れてしまった、と言うよりもウォルターが捨てたマーガレットでしょうか。あるいは冒頭に登場してウォルターに訓戒を垂れるアンナでしょうか。確かにアンナはウォルターのことを心配して「~~するな」という形で禁止のメッセイジを伝えようとしています。そうですね、現実的にはアンナからと考えるのが、一番可能性があるように思います。しかし、「わたしたち友だちでさえないわ……」*[42]と言い切るアンナがそこまで手を回すでしょうか。いささかリアリティがないようです。

やはり、それは実際の誰でもなく、ウォルター自身のこころの暗部からのメッセイジだったのかも知れません。

あるいは、それは、例の「悪魔」からのダイレクト・メッセイジとしたら暴論でしょうか。いや、カポーティの作品における「悪魔」とは、実のところ「神」の隠喩になっているとも考えれば、ソクラテスのダイモンのごとき、「神」からの伝言、禁止の形を取った伝言ではなかったでしょうか。

 

6-6 題名の問題

6-6-1 単数性と複数性、あるいは固有性と無名性

皆さんは、英語の定冠詞“the”と不定冠詞“a”の違いについては、よくご存じのことだと思いますが、一応、ここで確認しておきます、念のため。定冠詞“the”は、「まさにそのもの」という「限定」を表し、不定冠詞“a”は「不特定多数の中の単なる一つ」を表す、つまり、「その辺にあるものなら何でもいい」と習いましたよね。習ってませんか、あ、そうですか? 

従って、例えば、

① I found the dog. と

② I found a dog. を比べてみると、①は、「まさにその犬」、つまり、例えば「私の飼っていた犬」とか、「さっき話しに出て来た犬」とか、要は「他に替え難い」、「かけがえのない犬」です。したがって、この“the”が示すものを「単数性」(実際には複数であるものにしても、その一つ一つは「単数性」を保有していると、一応考えます)あるいは「固有性」、つまり「固有名詞」の「固有」です。仮にその犬が「ジャック」という名前だとすると、あるいは、だとしても、他の「ジャック」という犬とは交換できない、という意味合いに置いての「固有性」です。

ところが、②は、「その辺にいる犬なら何でもいい」、そういう犬なのです。従って、この犬自体は「一匹」で「単数」かも知れませんが、持っている性質は「複数性」です。交換できる犬が沢山存在するからです。言い換えれば、名前などどうでもいいので「匿名性」あるいは「無名性」と言ってもいいでしょう。以上、前置きです。

 

6-6-2 何故不定冠詞“a”なのか?

さて、題名の問題です。原題は“Shut a Final Door”なのですが、普通に読めば、“final”なのに“a”なのか、“the final”の間違いではないのか、と思います。先行研究がどうなっているか、不勉強故に分かりませんが(´;ω;`)、ただ村上春樹さんへのインタヴューの中で、翻訳家の柴田元幸さんもそのことを指摘されたにも関わらず、解答らしきものはおっしゃっていません。

村上さんの「「最後のドアを閉めろ」のShut a final doorというのは意味がわからない。何がfinal door なんだろうかと。」*[43]という問いかけに柴田さんはこう答えています。「――しかもaですからね、theではなく。」*[44]しかし、その問題はそこで立ち消えになっています。

実際のところは、誤植だったかも知れませんし、あるいは作者本人も分からぬまま、無意識のうちに選択されていたかも知れません。

ただ、なんとなく、こうかも知れない、という妄想に近い推測のようなものはつきます。

先程の前提に基いて考えるとこうなります。

① Shut the final door   こちらは「まさにそのものであるところの“最後のドア”を閉めろ」ということになり、この「最後のドア」は、その「名前」の通り、この世に1枚しか存在しないことになります。その究極のドアを閉めろ、と言っている訳です。

ところが、② Shut a final door の方は、確かに「最後のドア」とは書かれていますが、その「最後のドア」は、実のところ、何枚も、何枚も存在するのです。最後かと思って、閉めたとしても、また現れる。さらにまた、最後かと思って閉めても、またもや現れる。それの繰り返しです。あたかも、この物語で、再三登場する「謎の電話」のように。それは、たったの三回しかかっていませんが、ウォルターにとっては、無限にかかってくるような気がしたかも知れません。こんな嫌なことはありませんよね。あるいは、それは、これも、ここで何度も登場する扇風機の羽根のように無限に連鎖するイメージだったかもしれません。

つまり、「これで終わりだ、これで最後だ」と思って閉めたドアは、実は最後でもなんでもなくて、無限に現れる、ということなのでしょうか。

 

6-6-3 「最後のドア」とは何か?

ウォルターは社会的にも、人間的にも失墜をして、恐らくこれからも、何者かの追跡を逃れるための「逃亡」のようなことを蜿蜒と続けるのかも知れません。彼はニューヨークを離れ、サラトガに行き、またニューヨークを経て、ニューオーリンズまで辿り着きました。そこの場末のホテルのベッドの片隅で寝転がりながら、ウォルターは判然として悟ります。

 

四枚の扇風機の羽根、車輪と声、それがぐるぐるとまわっている。いまようやく彼にはわかった。この悪意のネットワークには終わりがないのだ。絶対に。*[45]

 

その時に、3回目の電話が鳴ります。無論、普通の電話である可能性もあった訳ですが、ウォルターにとっては、ここはどう転んでも、あの謎の電話に他ならなかったでしょう。逃げても、どこまで逃げても、この謎の電話は、ウォルターの居場所を見つけ出して電話をかけてくるのです。ここは重要なので、原文、川本役、村上訳の順で引用します。引用文の番号は引用者によるものです。

 

〈原文〉

His feet shining in the transom-light looked like amputated(*[46] stone: the gleaming toes nails were ten small mirrors, all reflecting greenly. Sitting up, he rubbed sweat off with a towel; ②now more than anything the heat frightened him, for it made him know tangibly(*[47] his helplessness. He threw the towel across the room, where, landing on a lampshade, it swung back and forth. ③At this moment the telephone rang. And rang. And it was ringing so loud he was sure all the hotel could hear. ④An army would be pounding at his door. ⑤So he pushed his face into the pillow, covered his ears with his hands, and thought: ⑥think of nothing things, think of wind. *[48]

 

〈川本訳〉

①彼の足は、明かり取りから来る光を受けて輝き、切断された石のように見える。きらきら輝いている足の爪は、十個の小さな鏡のようだ。どれも緑色に反射している。彼は、身体を起すとタオルで汗をふいた。 ②いま彼は、何よりも暑さが怖かった。暑さのなかで自分の無力が明らかになるからだ。③彼はタオルを部屋の向うへ投げた。タオルは電燈の笠の上に引っかかり、前後に揺れた。④そのとき電話が鳴った。また鳴った。大きな音だったのでホテルじゅうに聞えているだろうと彼は思った。このままにしておいたら⑤軍隊が部屋のドアを叩きかねない。そう思ったので彼は顔を枕に押しつけ、両手で耳をふさいだ。そして思った。⑥何も考えまい。ただ風のことだけを考えていよう。*[49]

 

〈村上訳〉

①欄間の明かりに照らされた彼の足は切断された石のように見えた。煌めいている足の爪は十個の小さな鏡みたいだ。すべてが緑色に反射している。身を起こし、彼は汗をタオルでごしごしと拭いた。②今では熱気が何より彼を怯えさせた。それは彼に、自らの救いのなさを肌感覚で教えていたからだ。彼はタオルを部屋の向こう側に放り投げたが、それは電気スタンドの傘にひっかかった。傘は前にゆらゆらと揺れた。④そのときに電話のベルが鳴った。また鳴った。それは鳴り続け、その音はどこまでも大きく、ホテル中の人々聞きつけるだろう。⑤軍団が押し寄せて、彼の部屋のドアをどんどん叩くことだろう。だから彼は枕に顔を押しつけ、両手で耳を塞いだ。そして思った。⑥もうなにひとつなにも考えるまい。風を思え。*[50]

 

まず①です。「彼の足は、明かり取りから来る光を受けて輝き、切断された石のように見える。」無論切断されているのは石なのですが、そう見える、彼の両足があたかも切断されたかのように読めますね。つまり、彼は死にかけているイメージで覆われています。

そして、②。「いま彼は、何よりも暑さが怖かった。暑さのなかで自分の無力が明らかになるからだ。」そう、確かにその部屋は「暑」かったのでしょう。それにしても、何故、彼は「暑さが怖かった」のでしょうか。また、何故そのことで「自分の無力が明らかになる」のでしょうか。川本さんが「暑さ」とした原文は“heat”です。無論、「暑さ」と訳して間違いではありません。一方、村上さんは「熱気」と訳していますが、ここは「熱さ」でいいのではないでしょうか。何の熱さか。いうまでもなく「地獄」の業火の熱さではないでしょうか。かれは地獄の業火に焼かれようとしつつ、その熱さ(の予兆)に苦しみますが、そこから逃れる術を知りません。だからこそ自らの「無力」や「救いのなさ」を知るのです。つまり、彼は既にして死の淵に追いやられているのです。

③「彼はタオルを部屋の向うへ投げた」。「タオルを投げる」と言えば、ボクシングや格闘技を見たことのある人にはお分かりになるとは思いますが、ギヴ・アップの意思表示です。当該の選手ではなくて、セコンド(選手のサポートでリング脇に控えているコーチやトレイナーなど)が、自選手の劣勢を判断し、試合の続行を停止するために、リング内にタオルを投げ入れます。

つまり、ウォルターは自らの敗北を認めたと取れないでしょうか。

④。しかし、そこにも電話が鳴ります。彼らは地獄へすら、あるいは地獄に行かんとする者にも電話をかけてよこします。彼らとは誰でしょうか。

⑤。それは「軍隊」=「軍団」ではないでしょうか? 電話が鳴り響くので、その五月蠅(うるさ)さから「軍隊」=「軍団」が現れて、彼の部屋の「扉」=「ドア」を「叩く」のだ、と彼は恐れています。妄想にしてもそんなことがあるのでしょうか。電話の騒音のためにホテルの客たちが怒りだす、と言うのであれば分かります。しかし、そんなことのために「軍隊」=「軍団」が出動して、「早く電話に出なさい」とでも言うというのでしょうか。

実はこの電話、――いや、もうこの段階では電話ではなかったかも知れませんが、この電話を掛けてきて、更に、電話に出るようにドアを叩こうとしていたのが「軍隊」=「軍団」なのです。原文は“an army”です。何故、ここで突如“an army”=「軍隊」=「軍団」が登場するのでしょうか? 当然のことながら“an army”=「軍隊」でOKなのですが、村上さんが「軍団」と訳しているところに注目しましょう。『聖書』を多少なりとも繙いたことがある方はご存知かと思いますが、「軍団(レギオン)」とは「悪霊」のことです。「レギオン」は元はローマ帝国の軍団兵のことでした。

 

そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。(『マルコによる福音書』5-15*[51]

 

彼は「悪霊」のようなものに捕らえられようとしているのです。まさにそのような生きるか死ぬか、地獄に堕ちるかどうかの瀬戸際に存在する「最後のドア」を「閉めよう」としていることになります。

 ⑥については後述致します。

 

6-6-4 〝すべての行為は、恐怖から生まれる〟

相当傍若無人振りを発揮するウォルターですが、そうであるにも関わらず、いや、そうであるが故に、彼は相当のビビラーですね。逆か? ビビラーなので傍若無人なんでしょうね。弱い犬程よく吠える、という奴です。それを裏書きするかのように「恐れ」、「恐怖」に類する言葉が頻出します。例えば、ニューオーリンズのホテルで「ボーイを呼ぶのも怖かったし(あの若者はひどく妙な目をしていた!)、ホテルの外に出るのも怖かった。道に迷ったら? 少しでも道に迷ったら、それきりになってしまいそうに思えた。」*[52]とあります。一体彼は何に恐怖しているのでしょうか? 無論のことですが、「ボーイ」のことや「道に迷」うことは表面的な問題であって、何か漠然とした、根源的な不安のようなものがあるのでしょうか。

 

彼が我慢出来ないのは、あいまいな関係だった。というのは②彼自身の感情が、いつもどっちつかずではっきりしないものだからだ。たとえば彼は、Xという人間が好きなのか、嫌いなのか、はっきりわからない。③自分はXに好かれたいと思っているのに、Xを好きになることは出来ない。Xに対して誠実にもなれない。ほんとうのことは半分もいえない。それでいてXが自分と同じ不完全さを持つことは許ない。そんな人間ならいずれXは自分を裏切るだろうとウォルターは確信した。彼はXを④怖れた。恐怖した。昔、高校時代、彼はある詩を剽窃(ひょうせつ)して、校内誌に載せたことがある。その詩の最後の行を忘れることが出来ない。〝⑤すべての行為は、恐怖から生まれる〟。教師が剽窃を見破ったとき、彼には、それが不当なことに思えた。*[53]

 

①「彼が我慢出来ないのは、あいまいな関係だった。」と言いますが、要は③「自分はXに好かれたいと思っているのに、Xを好きになることは出来ない」ということですから、Xが自分のことが好きだということが明確であって欲しい。ただ、自分がXのことを好きかというとそうでもない*[54]。むしろ、そこは問題ではないのでしょう。相手が自分のことを好いてくれていればいい訳です。随分虫のいい話ですが、そうでなければ、相手がやがて、彼のことを裏切るだろうと思い、④「怖れ」て「恐怖した」ということになりますが、結局のところ、それは②「彼自身の感情が、いつもどっちつかずではっきりしない」ことの反映、裏返しということになります。つまり、自分の気持ちが「いつもどっちつかずではっきりしない」ということは、いつ、相手を裏切ってしまうか、自分でも分らない。ということは、相手が、あるいは相手の子持ちが「怖い」訳ではなくて、実は、ウォルター、自分自身の気持ちこそが、摑みどころがなく、恐怖せざるを得ないことだった、といえます。したがって、自分こそが「恐怖」の根源な訳ですから、その「恐怖」を打ち消す、ありとあらゆる行為は容認されるべきものだ、ということになりますが、自身がその起因となっている訳ですから、何をどうしようとも、――つまり、そのことに気づかない限りは、その恐怖を打ち消すことは困難な作業ではなかったでしょうか?

では、自分自身が恐怖の根源となる、ということは一体どういうことでしょうか。要は、他人からは愛されたいが、自分は他人を愛することができない。もっと言えば、自分は自分のことすらも愛することができないのかも知れません。そのことが恐怖の根源となり、恐怖の連鎖を、恐怖のネットワークを形作っていくのかも知れません。

それにしても、人は、生まれながらにして、このような、愛することの「能力」、と言っていいのか分かりませんが、そのような感情的な能力を持ち得ないものなのでしょうか? あるいは人生の途上で何らかの理由で喪ってしまうものなのでしょうか。さらには、このような根源的、とも言うべき恐怖を人は持つことができるのでしょうか。

わたしが思うに、端的に言えば、親子関係、もっと言えば母子関係に問題があったとするのが、妥当なところではないでしょうか。無論、ウォルターの幼年期のことは何も記されていません。したがって、導きの手、ということで、あくまでも参考ということで、作者であるカポーティの履歴を紐解いてみるのも一興かも知れません。つまり、「ヘヴンズ・ドア!」ということです。

ところで、このような文学作品の意味を、作者の伝記的な事実に遡行するのはどうなんだ、という議論もありますが、それはそれということで、話を進めます。

カポーティの伝記と言えば、ジェラルド・クラークの『カポーティ』*[55]を嚆矢とすべきですが、難点は、というよりも、この種の伝記、評伝の筆者たちはどうして、こうも、揃いも揃って、出典を明記しないのでしょうか。誰も、そんなことは気にしないとでも言うのでしょうか。という問題はありますが、一旦受け入れることにします。

おそらく、この下りはクラークが直接カポーティにインタヴューしたものの文字起こしであろうと思われます。したがって、引用文中の「ぼく」はカポーティのことです。

 

「わが人生における何かがぼくに恐るべき痛手を与えた。そしてそれは取り消すことができないように思われる」と実際に言っている。

その痛手――彼はそう信じていたし、たぶんそれは本当だったろう――は母親の終ることのない拒絶によるものだった。それはドアのなかで回る鍵の音に象徴されていた。若いリリー・メイ(*[56]は彼をホテルの部屋に閉じこめて夜の街に出て行ったのだ。「すべてをこまかく鮮明に覚えている」と彼はますますその時代にさまよい戻りながら言う。「いまこの瞬間にも、セントルイスニューオーリンズの部屋を思い描くことができる。そのときからぼくの閉所恐怖症捨てられることへの恐怖が始まったんだ。母は鍵をかけてぼくを閉じこめた。そしていまだにそこから出られないぼくのすべての不安の原因は母だ。ぼくには『浮動性不安』、 つまり漠然とした不安があるとどの精神科医も言っている。実際にそれをもってみないと、どんなものかとうてい理解できない。普通の不安とそれとの関係は普通の頭痛と偏頭痛との関係と同じだ。ばくはつねにそれと一緒に暮している。それから解放されたことは一度もない」ホリー・ゴライトリー(*[57]はその極度の不安に「いやな赤」という名前をつけていた。「怖いのよ、そして汗をびっしょりかくの」と彼女は説明した。「だけど何が怖いのかわからない。何か悪いことが起こりそうだという以外は。ただそれが何かわからないの」*[58]

 

 あまり多くの言葉を費やす必要もないでしょうが、してみると、この作品のあちらこちらに登場する恐怖の根源というものが、彼が言うように、或る「部屋」に閉じ込められて、そのまま捨てられえしまうのではないか、という恐怖に淵源を持つようです。

その意味では、一見矛盾するようですが、「最後のドア」、すなわち母と子を結ぶ「究極のドア」を閉めよう、閉ざそうとする、――母親の意思をも遮断するような、何らかの力に対して、むしろ、「最後のドアを閉めないで」、「最後のドアを開けて」と、「語り手」は言いたかったかもしれません。

 

6-6-5 邦訳題の問題

と考えて来ると、邦訳題はどう考えればいいでしょうか。“Shut a final door”、直訳すれば、まさに、村上訳の「最後のドアを閉めろ」となります。川本訳は「最後の扉を閉めて」となり、旧新潮文庫版の龍口直太郎さんの訳題は「最後の扉を閉めよう」というものでした。

「ドア」か「扉」かは趣味の問題かと思います。

恐らく、本来的な主旨は、ウォルター自身が危機を感じて、最後のドアを閉めなければならない、ということでしょうから、“I will shut a final door”か、あるいは“I must shut a final door” というところかと思いますので、「最後のドアを閉めよう」という龍口訳が、或る意味における「正解」ではないかと思います。

しかしながら、この段階ですでにウォルターは相当弱っていて、死出の道に吸い寄せられようとしているようです。なにしろ、「もうなにひとつなにも考えるまい」*[59](村上訳)と思うぐらいですから。

と考えて来ると、先程申し上げたように、電話を掛け、ドアを叩こうとする「軍団(レギオン)」、すなわち「悪霊」、あるいは「悪魔」と拡張していいのでしょうか、この「軍団」こそが、ソクラテスのダイモンのように、ウォルターに対して危機を警告する働きをしたのではないでしょうか。

すなわち、ウォルターよ、扇風機の羽根のように始終回転して、倦むことを知らない、この悪意の連鎖、この悪意のネットワークである最後のドアをこそ閉めよ、と命令しているのではないでしょうか。

と、考えれば、川本訳の「最後の扉を閉めて」だと曖昧かつ弱すぎる気がします。その意味では、――深読みをすると、ここは村上訳の「最後のドアを閉めろ」ということになりませんか。

 

6-6-6 think of nothing things, think of wind

 さて、ここで大変な難問がわたしたちの前に立ち塞がります。若き日の村上春樹さんにショックを与えて、そのデビュー作『風の歌を聴け』にも影響を与えた*[60]、本作の末尾の文“think of nothing things, think of wind”をどう取るか、どう訳すのか、という問題です。

 ぶっちゃけて言うとですね、ここは単に、「語り手」は韻を踏むことだけを重視して、結末を付けたと思うので、特に意味なんかないんだよ、とも言えます。内容的には主人公の内面を考えると、“think of nothing”までは分かります。「何も思うな」と。その後に、筆が滑って、無くてもよい、というか文法的には間違っている“things”を付けたし、更に滑ったのか、“think of wind”を書き入れています。「何も思うな」、じゃあ、その代わりに何を思うのか、と言うと“in”で韻を踏んでますから、――もう一回言いますよ、“in”で韻を踏んでますから、――ここ笑うところです(笑)、要するに“wind”じゃなくてもよかったのではないか、“in”が入っていればいいのではないか、と考えれば“think of India”とか“think of fin”でもいいわけです。

 と言うのは、この「風」は一体全体どっから来たのだろうか、と考えると、余りにも唐突過ぎませんか。何故、「風を思う」のか? え? 「風」って何? てなりませんか?

 「風」というと、草原を吹き過ぎる颯々とした風、をなんとなく想起します。しかし、この場合は、そんな爽やかな風ではなくて、例の回転し続ける扇風機の風ではないでしょうか? この始めもなく終わりもない回転し続ける扇風機の風こそ、彼が、円環の如く循環し続ける、自らの運命、悪意のネットワークと合わせて思いを致さねばならぬものだったということでしょうか。あるいはもう何も考えず、運命の変転に身を任せようということでしょうか。

 

6-7 付論 村上訳の訳語の問題

さて、ここからは、更に些末な問題になりますが、村上春樹さんが雑誌『MONKEY』に訳出された「最後のドアを閉めろ」の翻訳、というよりも訳語の問題について、いささかお時間を頂き検討していきます。というのは翻訳家としても優れた業績を上げていらっしゃる村上さんの翻訳は時として首を捻らざるを得ないことがあります。その一つが英語をそのままカタカナ表記にされていることや、英語と日本語のカッコ書き表記をされていることなどです。前者の典型例はフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』*[61]に頻出する「オールド・スポート」*[62]です。これは古い学生言葉らしいのですが、「君」とか「わが友」とかいう意味なのでしょうが、これはいくら何でもないだろうな、と、少なくともわたしは思いました。

後者の典型例は書題ですが、ポール・セローの『ワールズ・エンド(世界の果て)』*[63]です。もちろん、一流の文学者が熟考の上に選択されたことでしょうから、一読者がどうこう言うことではないのですが、そのような例が幾つもあります。

今回の場合はいささか状況が違います。なんとなく訳語の選択が古いのではないか、何か意図的なものがあるのだろうかと勘繰ってしまいます。

例えばこうです。

主人公ウォルターがマーガレットを口説く際に、彼女がアーヴィングと結婚してもいいと思っているとの発言に、こう言います。

 

「そいつは愚かしいことじゃないかな」*[64]

 

「愚かしい」? いかに時代が違うとは言え、若者がガール・フレンドに「愚かしい」などと言うでしょうか。川本訳は「そんな馬鹿なこと」*[65]になっていて、原文は“A damn fool thing to do,”*[66]となっています。“damn”というのは、元々は「罵る」とかいう意味の動詞でしょうが、ここは形容詞の俗語で「とんでもない,ひどい」とかいう意味でしょう。したがって、確かに、直訳すれば「そんなことをするのはとんでもなく愚かなことだ」ということになる訳ですが、それを若者言葉にすれば「そんなの超バカじゃん」とか「そんなのはすっげーバカじゃないの」ぐらいのような気もします。

同じような例を挙げてみましょう。

原文

川本訳

村上訳

コメント

That evening (p.138)

そのは(p.94)

そのに(p.141)

「宵」か。うーん、どうなんでしょうか?

A party in honor of Kurt Kuhnhardt(p.138)

クルト・クーンハルト(中略)のための(p.94)

カート・クーンハート(中略)を祝するパーティ(p.141)

確かに“in honor of~”には「~を祝して」という意味はありますが、やはり古めかしい印象を与えます。「~を祝って」ぐらいが妥当のような気もします。

the protégé(p.139):被保護者,子分(weblio

お気に入りの部下(p.96)

愛顧を与えてくれる(p.142)

意味合いとしては川本訳で正解だと思いますが、原文がフランス語由来の一種の婉曲的な表現になっているところを村上訳では「愛顧」としたのだと思いますが、言ってしまえば、ここは同性愛的な「保護」ということでしょうから、「可愛がられた」ぐらいではないでしょうか。

“You’re an idiot.” (p.140)

 

「馬鹿よ、あなた」(p.97)

愚かな人ね」(p.142)

マーガレットのウォルターに対する発言です。これも原文が“idiot”なので、分らぬではありませんが、――“idiot”はドストエフスキー『白痴』の英訳題ということもあり、そういう含みを感じさせなくもありませが、であれば、「あなた、「白痴」ね」となるでしょうし、やはりそもそも若い女性が「愚か」などという言葉を会話で使うはずがないと思います。

Later, in the Saratoga station(p.147)

そのあとサラトガ駅で(p.110)

後刻サラトガ駅で(p.149)

“later”で「後刻」だから、一体どうしたんですか、とか思います。「後刻」と言えば、やはり村上訳、グレイス・ペイリーの『その日の後刻に』(Later the Same Day)を想起しますが、まー、あれは題名ですしね。

 

👉 ここからは古いというのではなく、ちょっと変かな、というものです。

Four Roses (p.137)

“フォア・ローゼズ”(p.92)

フォア・ローゼス・ウィスキー(p.140)

うーん、「ウィスキー」要りますかね。

A nightcap (p.138)

ナイトキャップ(p.94)

ナイトキャップ(p.141)

ナイトキャップ」は言うまでもなく「寝酒」、「寝る前に飲む酒」なんですが、普通の日本語として定着しているでしょうか。

A queer fat lady with diamond eyes (p.146)

ダイアモンドの目をした奇妙な太った女性(p.110)

ダイアモンド目を持った気味の悪い太った女(p.149)

「ダイアモンド目」ってどうなんでしょう。そんな言い方ありますか。昔、『月光仮面』で著名な川内康範原作の『ダイアモンド・アイ』(1973年-74年・NET)という特撮ドラマがありましたが、まー、関係ないですね。ぶっちゃけ、目がダイヤモンドというのは怖いです。

 

さて、以上のような次第で、今回のこの翻訳については、いささか古めかしい表現が訳語として使われています。恐らく、意図的な判断ではないか、とは思いますが、その理由については今のところ分かりません。

 

さて、以上のような次第で、この「最後のドアを閉めろ」については一語一語詳細に考え、調べ、論じなければならないとは思います。もし、わたしに機会が残されていれば、本文を全て丹念に読み込む「精読「最後のドアを閉めろ」」なる小文を草したいとも思いますが、どうなることやら。

それでは、本日はここまででございます。お粗末様でした。

 

【主要参考文献】

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カポーティトルーマン . (1951年/1971年). 『草の竪琴』. (小林薫, 訳) ランダムハウス/新潮社.

カポーティトルーマン. (1945年~1995年/2002年/2009年). 『誕生日の子どもたち』. (村上春樹, 編, 村上春樹, 訳) 原書/文藝春秋/文春文庫.

カポーティトルーマン. (1948年/1971年). 『遠い声 遠い部屋』. (河野一郎, 訳) ランダム・ハウス社/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1949年/1994年). 『夜の樹』. (川本三郎, 訳) Random House/新潮文庫.

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カポーティトルーマン. (1951年ー1973年/2006年). 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』. (小田島雄志, 訳) Rondom House・/ハヤカワepi文庫.

カポーティトルーマン. (1956年/1990年). 『クリスマスの思い出』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

カポーティトルーマン. (1956年/2006年). 「お山の大将」. 著: 『犬は吠えるⅡ――詩神の声聞こゆ』 (小田島雄志, 訳). 原著/ハヤカワepi文庫.

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カポーティトルーマン. (1966年/2006年). 『冷血』. (佐々田雅子, 訳) Random House/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1982年/1989年). 『あるクリスマス』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

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クラーク ジェラルド. (1988年/1999年). 『カポーティ』. (中野圭二, 訳) Linden Pub/文藝春秋.

シュワルツUアラン. (2006年/2006年). 「失われた処女作の軌跡」. 著: カポーティトルーマン, 『真夏の航海』 (ランダムハウス講談社編集部, 訳). Random House/ランダムハウス講談社.

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加藤典洋. (2007年/2019年). 『完本――太宰と井伏――ふたつの戦後』. 講談社講談社文芸文庫.

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村上春樹. (1985年). 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』. 純文学書下ろし特別作品(新潮社).

村上春樹. (1986年/1989年). 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」. 著: 『パン屋再襲撃』. 文藝春秋/文春文庫.

村上春樹. (1994年-1995年). 『ねじまき鳥クロニクル』全3巻. 新潮社.

村上春樹. (2020年). 『一人称単数』. 文藝春秋.

村上春樹. (2023年summer/hall). 「カポーティ・ショック」. 著: 『MONKEY』vol.30. Switch Publishing.

村上春樹, 柴田元幸. (2023年summer/fall). 「村上春樹インタビュー――カポーティは僕にとってとても大事な作家――『遠い声、遠い部屋』と「最後のドアを閉めろ」」. 著: 『MONKEY』vol.30. Switch Publishing.

 

 

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⑩34,733字(87枚) 20230918 2052

 

*[1] オリジナルの短篇集はこれしかありません。日本で発売された河野一郎訳『カポーティ短篇集』 [カポーティ ト. , 『カポーティ短篇集』, 1997年]や村上春樹訳『誕生日の子どもたち』 [カポーティ ト. , 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]は後の編集です。

*[2] [村上 柴田, 「村上春樹インタビュー――カポーティは僕にとってとても大事な作家――『遠い声、遠い部屋』と「最後のドアを閉めろ」」, 2023年summer/fall]p.155。

*[3] [カポーティ ト. , 『クリスマスの思い出』, 1956年/1990年]。

*[4] [カポーティ ト. , 『おじいさんの思い出』, 1985年/1988年]。

*[5] 【引用者註】少女ミリアムのこと。

*[6] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.12。下線引用者。

*[7] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.p.36-37。下線引用者。

*[8] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.50。

*[9] 1990年・ワーナーブラザーズ。

*[10] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.68。

*[11] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.60。

*[12] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.61。下線引用者。

*[13] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.62。

*[14] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.66。

*[15] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.67。

*[16] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.p.78-79。

*[17] いささか、話が逸れますが、この夢を集めてファイルに納める、というのは村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 [村上, 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』, 1985年]の「世界の終り」のパートに登場する、夢を内包する一角獣の頭骨を無数に収めた図書館を想起しますね。

*[18] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.88。

*[19] ここで使用した「生の底板を踏み破る」という表現は、加藤典洋さんの『完本――太宰と井伏――ふたつの戦後』 [加藤, 2007年/2019年]の「太宰治、底板にふれる――『太宰と井伏』再説」から借用しました。

*[20] その意味でも、「誕生日の子どもたち」は南部ものの典型とは言い難いものです。南部ものの典型というのであれば、「クリスマスの思い出」とか、「感謝祭のお客」ということになるでしょうか。

*[21] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.90。

*[22] というのは、あるいは大した問題ではないのかかも知れないが、あるいは後に検討することになるのかも知れませんが、こういう下りがあります。「アンナは彼を愛しただろうか?」という地の文を受けて、「「あら」アンナはいった。(中略)わたしがあなたを愛しているかどうか知りたい? しっかりしてよ、ウォルター、わたしたち友だちでさえないわ……」( [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.103)とありますので、地の文だと思われた「アンナは彼を愛しただろうか?」というのは、そういう内容のことをウォルターが呟いたのかも知れませんし、それとなく、アンナがウォルターの言いたいことを読み取ったとも考えられます。いずれにしても、「友だちでさえない」二人の間で「愛情」の有無が議論されるということは、性関係があったと見るべきではないでしょうか。仮にそうであるなら、そもそもアンナは、ウォルターの「恋人」とも目されるローザの親友だった訳で、あるある、と言えばそうなのですが、ウォルターや、彼の周囲の何人かの女性はいささか何かの箍(たが)が外れているようでもあります。それが普通のことだったのでしょうか? まあ、他人のことですから別にいいんですけどね。あるいは、アンナの年齢は不明ですが、それ相応の年長者、すなわち、「二度結婚してい」て「十四歳になる男の子がいた」ということから考えると、若く見積もって30歳ぐらいとなります。その意味では、ウォルターにとっては、あるいは擬似的な「母」のような存在であったかも知れません。

[23] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.92。

*[24] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.92。

*[25] この下りは、全くの余談ですが、村上春樹さんの「クリーム」の「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」( [村上, 『一人称単数』, 2020年]p.41)というのを思い起こさせます。ま、ただそれだけですが。

*[26] [村上, 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」, 1986年/1989年]。

*[27] 因みに、全くの余談の、更なる余談ですが、この短篇小説は、後に『ねじまき鳥クロニクル』 [村上, 『ねじまき鳥クロニクル』全3巻, 1994年-1995年]という長篇小説に発展します。そこでは、その謎の電話は、失踪した妻・クミコからのものだと主人公は気付くことになっていますが、いささか、納得のいかないところです。そのことも含めて、個人的には、短篇版の方は評価しますが、長篇版の方はいささか首を傾げざるを得ないところです。

*[28] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.p.108-109。

*[29] [Capote, 1951/1993]p.146。

*[30] [カポーティ ト. , 「最後のドアを閉めろ」, 2023年SUMMER/FALL]p.149。

*[31] 【引用者註】脚の悪い女性との会話。

*[32] 【引用者註】脚の悪い女性。

*[33] 【引用者註】メイドである、その女性がベイビーシッターをしている子供の名前。

*[34] 【引用者註】ラニーはウォルターのファミリー・ネイム。

*[35] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.114。

*[36] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]  p.p.107-108。

[37] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.p.114-115。

[38] [Capote, 1951/1993]p.146,p.149。

*[39] [カポーティ ト. , 「最後のドアを閉めろ」, 2023年SUMMER/FALL]p.p.148-149。

*[40] [カポーティ ト. , 「最後のドアを閉めろ」, 2023年SUMMER/FALL]p.151。

*[41] [プラトン, 1975年]。

*[42] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.103。

*[43] [村上 柴田, 「村上春樹インタビュー――カポーティは僕にとってとても大事な作家――『遠い声、遠い部屋』と「最後のドアを閉めろ」」, 2023年summer/fall]p.165。

*[44] [村上 柴田, 「村上春樹インタビュー――カポーティは僕にとってとても大事な作家――『遠い声、遠い部屋』と「最後のドアを閉めろ」」, 2023年summer/fall]p.165。

*[45] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.115。

*[46] 【引用者註】amputate :(手術で)切断する(weblio)。

 

*[47] 【引用者註】目に見える方法で(weblio)。

*[48] [Capote, 1951/1993]p.149。

*[49] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.116。

*[50] [カポーティ ト. , 「最後のドアを閉めろ」, 2023年SUMMER/FALL]p.152。

*[51] 『新約聖書』新共同訳https://www.bible.com/ja/bible/1819/MRK.5.%E6%96%B0%E5%85%B1%E5%90%8C%E8%A8%B3

*[52] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.p.91-92。

[53] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.p.99-100。

*[54] 別の箇所ではこう述べられています。「それから愛の問題が彼の関心事になった。それは主として、彼がそれを問題と考えていなかったからだ。」 [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.103。

*[55] [クラーク , 1988年/1999年]。

*[56] 【引用者註】カポーティの母親の名前。

*[57] 【引用者註】言うまでもなく『ティファニーで朝食を』を主人公。

*[58] [クラーク , 1988年/1999年]p.488。

*[59] [カポーティ ト. , 「最後のドアを閉めろ」, 2023年SUMMER/FALL]p.152。

*[60] [村上, 「カポーティ・ショック」, 2023年summer/hall]。

*[61] [フィッツジェラルド, 1925年/2006年]。

*[62] [フィッツジェラルド, 1925年/2006年]村上春樹 翻訳ライブラリー・p.p.353-355参照。

*[63] [セロー , 1980年/1987年]。

*[64] [カポーティ ト. , 「最後のドアを閉めろ」, 2023年SUMMER/FALL]p.140。

*[65] [カポーティ ト. , 『夜の樹』, 1949年/1994年]p.93。

*[66] [Capote, 1951/1993]p.138.