鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

カズオ・イシグロ、羊文学、ヒグチアイなど

遍 歴

カズオ・イシグロ、羊文学、ヒグチアイなど

2023年11月19日(日曜日) 晴れ 休み 

イスラエル軍ガザ地区への攻撃の停止を心より祈ります。 

 

 本日休み。

先月の終わりぐらいから、SGで妙なPJを任されて、なおかつ我が意に染まず苦しい局面になって来た。そもそも時間がないのに、更に謎のSGが増えて困る。

SGが間に合わないので、出社時間も大体2時間ぐらい早く行くが、全くどうにもこうにもだ。

そのためか、疲労が蓄積して、休みはとにかく眠い。とりあえず朝起きるのだが、椅子に座ると意識が跳ぶという有様だ。

そんな訳で、今日も、夕方近くになって、やっとのことで、調子が出て来たようだ。なんとかしなければ。時間の浪費だ。

 

現在の状況。

 

という訳で、カズオ・イシグロ論「過渡期の人間」だが、なかなか進まない。正直、最初の2作については、何が言いたいのか、いささか分かりかねるところもあった。そもそも、よくイギリスの読書界で評価されたものだと思う。3作目になって、やっと、何となく言いたいことと小説の面白さが混然一体となって現れ、5作目では俄然面白くなってきたところだ。4作目は未入手(元家にはあるが)。

 それにしても、小説の構成や文体や題材については手を変え品を変えといった塩梅だが、テーマとしてイシグロが追及しようとしていることは一貫していると言ってよい。まさにそれこそ「過渡期における人間」の価値や生き方の問題であろう。そこには価値の分裂があり、そこから人格の分裂や、人間関係における分裂や、ひいては世代の分裂、民族の分裂、文化・文明の分裂まで派生することになる。

 それを止揚、と言ってよいのか、あるいは切断とでも言うべき人間像こそ、現代の「白痴」=「おばかさん」であるところの、アンドロイド・クララなのだと思う。これについて別稿で触れた。

 いずれにしても、無い時間をなんとか搔き集めて、なんとかまとめたいものである。幸いなことにTK時間が比較的長いので(往復で3時間半から4時間)、読書の時間を確保できる。寝ないように頑張ろう。

 ところで、話は変わるが、寝る前や、家事の時にYouTubeで音楽を聴く。便利な世の中になったものだ。

 最近のベスト・ヒットUSAは以下の通り。

  • 川崎鷹也・歌唱による、大瀧詠一松本隆君は天然色」……川崎の、意外に枯れた味わいが原曲の魅力を引き出している。
  • 中原めいこ「君たちキウィ・パパイヤ・マンゴーだね」……往年のヒット曲で、無論リアルタイムで知ってはいたが、ブラス・セッションを活かした編曲もさるものながら、意味不明な歌詞と共に中原の曲が素晴らしい。他に替え難い魅力である。
  • 羊文学「more than words」、「光るとき」……前者は連続アニメイション『呪術廻戦』のエンディングテーマ。後者もやはり、連続アニメイション『平家物語』のテーマ曲。前者で注目したが、個人的には後者「光るとき」の歌詞と曲想に心惹かれた。

 

「光るとき」

あの花が咲いたのは、そこに種が落ちたからで

いつかまた枯れた後で種になって続いてく

 

君たちの足跡は、進むたび変わってゆくのに

永遠に見えるものに苦しんでばかりだね

 

荒野を駆ける この両足で

ゴーイング ゴーイング それだけなんだ

明日へ旅立つ準備はいいかい

 

そこで戸惑う でも運命が

コーリング コーリング 呼んでいる

ならば、全てを生きてやれ

 

何回だって言うよ、世界は美しいよ

君がそれを諦めないからだよ

最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても

今だけはここにあるよ 君のまま光ってゆけよ

 

あの花が落ちるとき、その役目を知らなくても

側にいた人はきっと分かっているはずだから

 

海風を切る 胸いっぱいに

ゴーイング ゴーイング 息をするんだ

今日を旅立つ準備はいいかい

 

ときに戸惑う 繰り返すんだ

コーリング コーリング 聞こえてる

ならば、全てを生きてやる

 

何回だって言うよ、世界は美しいよ

君がそれを諦めないからだよ

混沌の時代に、泥だらけの君のままで輝きを見つめていて

悲しみに向かう夜も、揺るがずに光っていてよ

 

いつか巡ってまた会おうよ

最終回のその後も

誰かが君と生きた記憶を語り継ぐでしょう

 

いつか笑ってまた会おうよ

永遠なんてないとしたら

この最悪な時代もきっと続かないでしょう

 

君たちはありあまる奇跡を

駆け抜けて今をゆく

https://lyricstranslate.com

 

 羊文学、今後、大注目のユニットである。

  • cinemastaff「Name of Love」……連続アニメイション『進撃の巨人』の、いつかのシーズンのエンディング・テーマ。バックに流れていた映像が訓練兵時代のエレンたちで、まさに青春ドラマのテーマに相応しい。いい歌だ😢

 

さよなら世界

並ぶ影 伸びて交わらない

願い 光

まだ知らない景色 探していたんだ

ただ1つ約束交わそう

僕らだけの名前を呼びあって

僕らだけの喜び分かちあった

僕らだけの言葉で確かめて

僕らだけの痛みを抱きしめた

この世界のどこか 未来で会えるなら

忘れないでいて 僕のこと 本当のこと

 

おやすみ世界

僕ら以外誰も知らなくていい

時よ止まれ

冷たくなった手を握り返した

終わらない夢 青い影

晴れた日には小さな旅をして

雨の日には傘の中寄り添った

零れ落ちた泪は掬えばいい

傷だらけのままで歩いていく

胸の中にある僕らの誓いよ

色褪せぬように

風の声 この地図の向こう

 

僕らだけの名前を呼びあって

僕らだけの喜び分かちあった

僕らだけの言葉で確かめて

僕らだけの痛みを抱きしめた

始まりの鐘

僕らを朝がもう迎えに来る

In the truth name of love

怖くない  行ける

この世界のどこか 未来で会えるなら

少しだって忘れないでいて

胸の中の未来 僕らだけの誓い

忘れないでいて

僕のこと  本当のこと

 

  • ヒグチアイ「いってらっしゃい」……連続アニメイション『進撃の巨人』のfinal season 完結編・各話版のエンディング・テーマ。これは涙なくして聞くことができない。前作「悪魔の子」よりも素晴らしいかも知れない。

 

ずっと探してた 捧げた心臓の在処

本当の想いを教えて 夢物語でいいから

最後になにがしたい? どこに行きたい?

わたしはね 帰りたいよ

一緒の家に帰ろうよ

もしも明日がくるのなら

あなたと花を育てたい

もしも明日がくるのなら

あなたと愛を語りたい

走って 笑って 転んで

迷って 庇って 抱いて

また会えるよね おやすみ

ずっと気付いてた 強がりだらけのあなたが

たどり着いた答えの先に 大人になっていたこと

掴んだ手を振り払って 強さと孤独を手に取った

大きく羽ばたき空の向こう やっと今手が届いた

わたしの胸に耳を当てて あなたはずっとここにいる

ほらね 鼓動が聞こえる

もしも明日がくるのなら

あなたと花を育てたい

もしも明日がくるのなら

あなたと愛を語りたい

走って 笑って 転んで

迷って 庇って 抱いて

また会えるよね おやすみ

ずっと探してた 捧げた心臓の在処

こんなところにあったんだ あなたの心臓のそばに

 

進撃の巨人』についてはいつか、どこかで論じなければならないが、いつになることやら。

🐤

20231119 2154

「死の家の記録」――『ダブリナーズ』「エヴリン」を読む

Jジェイムズ・ジョイスを読むJ

Eveline

 

謎々『ダブリナーズ』その4

死の家の記録」――『ダブリナーズ』「エヴリン」を読む



【凡例】

・『ダブリナーズ』からの引用は原則として新潮文庫版を使用し、適宜他の訳書も参考にした。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』(Dubliners by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

目次

謎々『ダブリナーズ』その4.. 1

「死の家の記録」――『ダブリナーズ』「エヴリン」を読む... 1

はじめに... 2

1 優れた短篇小説とは?... 2

2 “a ghost story”. 6

3 日々の営みの苦しみ... 7

4 何故ブエノスアイレスなのか?... 12

5 「人形の家」... 13

6 究極の選択... 14

7 母の呪い?... 16

8 結語――「死の家の記録」... 18

参照文献... 18

 

 

 

はじめに

 本稿は、小林広直さん(東洋学園大学准教授)主宰によるon lineの読書会及び公開講義『Deep Dubliners』Deep Dubliners ――ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』オンライン読書会 - STEPHENS WORKSHOP (stephens-workshop.com)に際して起こしたメモが元になっています。基本的な内容は読書会の前に書かれたもので、その後修正をしております。

 

1 優れた短篇小説とは?

 言うまでもなく、小説は何をどう書いてもよい文学的形式です。登場人物がいて、何らかのストーリーがあり、それなりの読後感が与えられれば、それでよし、とすべきですが、極端に言えば、人物が登場しなくても、ストーリーがなくても、いわんや、何らかの読後感めいたものが残らなくても、作者が「これは小説なのだ」と言うのであれば、それはやはり小説と遇するべきです。しかしながら、そのような作品は、作者がそれなりの立場にいないと、なかなか受け入れてもらえないでしょう。したがって、或る一定の枠内での文学的技量を競うことになりますが、それが正解だと、言いたい訳ではありません。

その前提の下にいわゆる「優れた短篇小説」とは何か、と言った場合、やはり、キーワードになり得るものが「予想外」とか「想定外」ということにならないでしょうか。

 文学作品ですから、そもそも文章として、「文芸」=文の芸能・文の芸術になっていなければなりませんが、その意味では、その文章の在り方が、読者の「予想」を外れている、超えている必要があります。さらに、予想外なキャラクター、予想外な状況設定、予想外なストーリー展開なども重要なファクターではないでしょうか。

しかしながら、取り分け短篇小説として重要だと思われるのが予想外なストーリー展開、極端な言い方をすれば、それは、いわゆる「落ち」ということになるのでしょうが、言い換えれば、それは結末の付け方、と言ってもよいでしょう。

漢詩の形式に沿って言えば、長篇小説であれば、きちんと「起承転結」と揃っているところが、短篇では「結」を書かずに「転」で終わる、「起承転」という形になるのではないかと思います。これを「小説的切断」*[1]、あるいは単に「切断」と呼ぶことにします。

 さて、本作『ダブリナーズ』*[2]は短篇連作となっていますが、それぞれの作品を一つの、つまり単独の短篇小説として見た場合、いかがでしょうか? 個々の作品については、また個々に論ずることとして、少なくとも、本作”Eveline”/「エヴリン」はいかがでしょうか?

 個人的な感想ですが、最初の印象としては、これはいただけないな、と思っていました。家の束縛というテーマ、そこからの離脱願望、そしてさらに、その挫折という訳ですから、まー、言葉はよくないですが、ありきたりな展開です。とりわけ、結末について言えば、エヴリンが思考停止、行動不可能な状態に陥り、ダブリンを、自らの家を、恐らく離れられない、というオチになるのは容易に想像できてしまいます。これは流石に面白くない。

 『ユリシーズ』*[3]の共訳者でもある丸谷才一さんはあるところで、長篇小説の評価の基準のようなものということで3点挙げていらっしゃいます。それは「①作中人物、②文章、③筋(ストーリー)の三つ」*[4]だそうです。短篇と長篇では、無論、基準も違うでしょうが、本作の評価に多少参考に出来そうです。

 

  • 作中人物……全員、陰鬱で、どうも好感が持てない。とりわけ主人公たるエヴリンの決断力のなさ、優柔不断さが読者の苛立ちを呼ぶかも。
  • 文章……一読した限りでは、極めて平易な文章で、取り立ててどうこういう文章ではない。
  • 筋(ストーリー)……先程、言った通り、よくある話のような気がする。

 

 以上のような次第で、どうも旗色が芳しくないようです。

しかしながら、もう一度考え直してみましょう。

 

2 “a ghost story”

病気で寝込んだエヴリンに、父親は「怪談」(柳瀬訳)*[5]、「幽霊話」*[6](結城訳)を読んで聞かせますが(“he had read her out a ghost story”*[7])、これは何故でしょうか。病人、と言っても病気の重さにもよるのだと思いますが、ことさらに病人を怖がらせる「怪談」などを、何故読んで聞かせたのでしょうか? この当時、アイルランドでは、日常的に気晴らし、退屈しのぎにこの種の話をする習慣でもあったのでしょうか? それとも、特に意味はないのでしょうか?

高松さんや柳瀬さんのように「怪談」と訳してしまうと、いささか子供じみた話になってしまいますが、原文は ”a ghost story“ なので、結城訳のように「幽霊話」とするか、あるいは「幽霊の話」、もう少し突っ込んで「死者の話」と考えれば、要は、父親は病身の娘に「死んだ者たちの話」を聞かせていたのではないかと取れます。

無論、この「幽霊=死者」という等号は、最終章「死者たち」/”The Dead“からの遡行に依るものですが、本章「エヴリン」に限らず、本作『ダブリナーズ』は要所要所において、何らかの形で「死者」の臭いが立ち込めている気がします。つまりは「死臭」が漂う気がするのです。

そもそもエヴリンの置かれている状況とはいかなるものだったのでしょうか?

 

3 日々の営みの苦しみ

母親が亡くなった後、若い娘エヴリン・ヒルは百貨店の店員の安い給金で父親と弟妹たちを支えながら、家事を一手に引き受ける存在です。店員の仕事は給料が安い割には、仕事もきつく、生活は決して楽ではありません。「土曜の夜には、必ずお金のことで口げんかになり、彼女はつくづくうんざりしていた。」*[8]/“Besides(*[9], the invariable(*[10]  squabble(*[11]  for money on Saturday nights had begun to weary(*[12]  her unspeakably .” *[13]とあるように、恐らく週給日の支払日だったと思われる土曜日には親子で口論になったことでしょう。それというのも父親が娘の給料を当てにしているところに起因しているようです。

そもそもそのエヴリンの給与も必ずしも高いものではなかったようです。彼女の(恐らく)週給が「七シリング」*[14]とありますが、仮に1シリング=2000円ぐらいだとすると、週給14,000円ぐらい。月当たりにすると56,000円ほどになります。そう言えば、『ユリシーズ』の第2挿話で代用教員スティーヴンが貰った給与は「3ポンド12シリング」でした*[15]。1ポンド=20シリングですから、72シリングで144,000円。金井嘉彦さん(一橋大学大学院教授)によれば「£1(1ポンド*[16])あると家族で一週間暮らせる額なので」*[17]、スティーヴンはかなりの給与をもらっていることになります。スティーヴンの給与が週給なのか月給なのか分かりませんが(多分月給?)、それと比べると、デパートメント・ストア店員であるエヴリンの給与は相当かつかつなのかなとも思います。つまり、エヴリンは経済的にも相当追い詰められていたのではないでしょうか?*[18] そして店では、他の店員たちからは辛く当たられているようでした*[19]

更には、家庭では父親から、言葉の暴力や、あるいは場合によっては性的な虐待、あるいはその未遂を受けていたかも知れません。本文

コラム tea for one

 

~父親は何を言うようになったのか?~

本文では、父親はエヴリンに性的な要求をしたのではないかとしていますが、この解釈はあくまでも柳瀬訳に基いたものです。原文の“he had begun to threaten her and say what he would do to her only for her dead mother’s sake”を直訳すれば、「彼(父)は、脅すようになり、死んだ母親のために、彼女のためだけに、彼女にしようとしたことを言うようになった」(引用者訳)とか「彼は彼女を脅し始め、死んだ母親のためなら何をしてもいいと言い始めた。」(DeepL訳)、「彼は彼女を脅迫し、死んだ母親のためだけに何をするだろうと言い始めた。」(Google翻訳)という具合に何を言いたいのかよく分かりません。

ここはいささか難所です。念のために、同じ箇所の訳を挙げておきます。「だが、この頃の父は脅すようになった。死んだ母さんの手前さえなけりゃただではすまさんところだ、なんて言うようになった。」(高松訳 [ジョイス , 『ダブリンの市民』, 1914年/1972年/1987年/1999年]p.61)、「でも近頃、父さんはわたしを脅すようになった。母さんが死なないでいてくれたら、目にものを見せてやるのだが、などと言い出した。」(結城訳 [ジョイス , 『ダブリンの市民』, 1914年/2004年]p.64)、「でも最近父親は、死んだ母さんのためを思っていまは勘弁してるんだぞ、などと脅したりした。」(柴田訳 [ジョイス ジ. , 2022年]p.29)。

つまりは、母親に免じて、殴らないでいるんだぞ、というようなことでしょうが、しかしながら、恐らくはその母親も、また他の家族も殴られていたことを考えれば、得心が行きません。何故、年頃の女の子になれば、殴らず、その代わりに、何かを脅し要求する、という文脈で捉えるべきでしょう。ここは柳瀬訳に分があるような気がします。                     📖

にはこうあります。

 

(結婚すれば*[20])母が受けてきたような扱いを受けることはないだろう。十九歳になったいまでも、父が暴力をふるう恐れを感じるときがある。胸がどきどきするのは、その恐れのせいだと気がついていた。子供たちが大きくなると、ハリーやアーネスト(*[21]にするようには、彼女には手をあげることはなくなった。女の子だからだしかし、最近では、彼女を脅すようになり、死んだ母の手前言わなかったことを言うようになってきた。*[22]

She would not be treated as her mother had been. Even now, though she was over nineteen, she sometimes felt herself in danger of her father’s violence. She knew it was that that had given her the palpitations. When they were growing up he had never gone for her like he used to go for Harry and Ernest, because she was a girl; but latterly(*[23] he had begun to threaten*[24] her and say what he would do to her only for her dead mothers sake.*[25]

 

「彼女を脅すようになり」とありますが、一体何を脅すというのでしょうか? 金を出せ、というのであれば、エヴリンは既に「給料を全部――七シリング――差し出し」*[26]ていたのです。さらには「死んだ母の手前言わなかったことを言うようになってきた」とあります。「死んだ母の手前言わなかったこと」とは一体どういうことでしょうか? その直前にある「彼女には手をあげることはなくなった。女の子だからだ。」というところからすると、エヴリンは女の子だから手をあげないが、その代わり、「女の子だから」こその要求をしたということでしょうか。深読みをし過ぎかも知れませんが、これは「性的な」要求をするようになった、ということではないでしょうか。

あれほど、強く、家を出たいとエヴリンが望むのも、その辺りに背景があるのかも知れません。

 

4 何故ブエノスアイレスなのか?

そこに、船乗りのフランクが登場し、エヴリンを誘惑し、結婚まで同意させられることになります。しかしながら、彼が言うには、はるか遠く南米のブエノスアイレスに新居があり、そこで一緒に住もうというのです。ちょっと感覚が分かりませんが、この当時のアイルランドの人達がどのように感じていたのか、明確には述べるのは難しいですが、これは流石に超遠距離なのではないかとも、思います。そもそも、彼は船乗りなのですから(と言っても自称「船乗り」ですが)、ずっとその家で暮らすという訳にはいかないのでしょう。

そもそも、何故、ブエノスアイレスなのでしょうか? 高松訳注には「「ブエノスアイレスへ行く」は、「売春婦になる」という意味でも使われた」*[27]とTerence Brownの註*[28]を紹介していますが、何となくそんな感じも否定できないような気がします。つまりは、ブエノスアイレスか、場所はどうでもよく、適当なところで、エヴリンは売り飛ばされてしまうのではないでしょうか? 仮に売春婦まで行かなくても、恐らく、ブエノスアイレスに行ったエヴリンの人生航路はさほど明るくはないだろうと、容易に予想できる気もします。

 

5 「人形の家」

あるいは、こういうことも言えるかも知れません。フランクはエヴリンのことを「ふざけて(中略)ポペンズと呼んだ。」*[29]/“He used to call her Poppens out of fun.”*[30]とありますが、「ポペンズ」とは一体何でしょうか? 高松訳注には「人形、小さな美女の意か。」*[31]とあり、結城訳ではそのまま「お人形さん」*[32]とあります。これを素直に「可愛い人」と取って間違いではないのでしょうが、例えば、「人形」ということで、容易に想起されるのが、ヘンリック・イプセンの『人形の家』*[33]です。ジョイスイプセンの多大な影響を受け、更には「イプセンの新しい劇」*[34]という評論までものしているほどです。

さて、この場合の「人形」とは、単に「可愛らしい存在」ということではなく、無論、自らの意思を持たない「操り人形」のことです。エヴリンもフランクにとっては、「俺の意志に従うべき、操り人形」のような存在ではなかったでしょうか? あるいは、もっと言えば、エヴリンは、他の人達にとっても、つまり父親や、デパートメント・ストアの同僚たち、もしかしたら、彼女の兄弟妹達にとっても、自身の意志を発揮することのできない「操り人形」だったかも知れません。

 

 

6 究極の選択

となると、エヴリンは、今や死神の様相、つまり、エヴリンの生きる力、意慾を吸い取る存在としての死神の姿を呈している実の父親――だからこそ、彼は「死者の物語」を病の床に臥せる娘に話して聞かせたのです――に絡み取られて、死者(のような者)として、「生きる」(あるいは死ぬ?)のか、南米の最果ての地で「売春婦」として「生き生きとして(?)」「生きる」のか、いずれにしても、エヴリンにとっては、相当辛い選択になるような気もします。

その究極の選択の前に彼女は、まだ物理的には生きているにも関わらず、精神的には、あるいは生命的には、「停止」状態、つまり、生きながら「死者」であることを余儀なくされたのではないでしょうか。

最後のシーンのエヴリンの様子はまさにそれを物語っているようです。

 

彼女は、無力な動物のように、感情なく、蒼白な顔を彼に向けた。その目は彼に、愛のしるしも、分かれを惜しむしるしも、別れを告げるしるしも送らなかった。*[35]

/She set her white face to him, passive, like a helpless animal. Her eyes gave him no sign of love or farewell or recognition. *[36]

 

それは、あたかも、機械が、あるいは人工知能が容量オーヴァーでフリーズ(凍結)してしまったかのようです。言うなれば、死神たる父親の死の霊力が、娘が国外逃亡する、すんでのところで、やっと娘に追いついた、というところでしょうか? 

 

 

7 母の呪い?

エヴリンを最後的に押し留めたものは、あるいは父親の力ではないのかも知れません。それは、「家」の霊力、生きる力を奪い去り、家に縛り付けようとする力のようなものが働いていたのかもしれません。その根幹には「母親」の呪い、呪文があったのではないかと思います。

 

まさにこの夜にそのアリアを聴いて、母との約束を思い出すことになるとは思いもよらなかった。できるかぎりの間は家の面倒をみるという約束を。彼女は、母が病床にあった最後の夜、廊下の向いの締め切った暗い部屋にいた。家の外からイタリアのもの悲しいアリアが聞えてきた。*[37]

Strange that it should come that very night to remind her of the promise to her mother, her promise to keep the home together as long as she could. She remembered the last night of her mother’s illness; she was again in the close dark room at the other side of the hall and outside she heard a melancholy air of Italy.*[38]

 

「母が病床にあった最後の夜」とありますから、この後、母は死者へとなり替わるのです。その死者たる母との約束――この家を守れという約束――を不意にエヴリンは思い出した、というのです。これをして母の呪いと言わずに何と言えばいいでしょうか? 確かに母は「デレヴォーン、セローン! デレヴォーン、セローン!」*[39] /“Derevaun Seraun! Derevaun Seraun!”*[40] と、謎の言葉を呪文さながらに呟いていたではないですか。

 

 

8 結語――「死の家の記録

その意味では、これは「人形の家」ならぬ、「死の家の記録」とでも呼ぶべきものかも知れません。『死の家の記録』*[41]と言えば、かのヒョードルドストエフスキーの、自身の収監中の回想を小説にした名作ですが、その名に反して、登場する囚人たちは極めてユニークで、生きる気力、慾望に満ちています。これはこれで反語的な真実ではあるでしょうが、本作エヴリンにとって、ヒル家という家は、まさに文字通り「死の家」というべきものだったでしょう。つまり、本作の本質は「死の家の記録」というべきではないでしょうか?

 

参照文献

Joice James. (1914年/2001年). Dubliners. 参照先: 『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』: https://dev.gutenberg.org/ebooks/2814

Joice James. (1923年/?). Ulysses. 参照先: 『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』.

アルチュセール ルイ. (1965年/1994年). 『マルクスのために』. 原著/平凡社ライブラリ―.

イプセン ヘンリック. (1879年/1996年). 『人形の家』. (原千代海, 訳) Gyldendal社、コペンハーゲン岩波文庫.

ジョイス ジェイムズ. (1899年/2012年). 「イプセンの新しい劇」. 著: 吉川信 (編), 『ジェイムズ・ジョイス全評論』. 原著/筑摩書房.

ジョイス ジェイムズ. (1914年/1972年/1987年/1999年). 『ダブリンの市民』. (高松雄一, 訳) グラント・リチャーズ/中央公論社/福武文庫(福武書店)/集英社.

ジョイス ジェイムズ. (1914年/2004年). 『ダブリンの市民』. (結城英雄, 訳) グラント・リチャーズ/岩波文庫.

ジョイス ジェイムズ. (1914年/2009年). 『ダブリナーズ』. (柳瀬尚紀, 訳) グラント・リチャーズ/新潮文庫.

ジョイス ジェイムズ. (1922年/1964年/1996年-97年/2003年). 『ユリシーズ』全4巻(集英社文庫版). (丸谷才一, 永川玲二, 高松雄一, 訳) シェイクスピア&カンパニー書店/河出書房/集英社集英社文庫ヘリテージシリーズ.

ジョイス ジェームズ. (2022年). 「対訳と自注 ジェームズ・ジョイス「エヴリン」をどう訳したか」. 著: 『MONKEY』vol.26. Switchi Publishing.

ドストエフスキー ミハイロヴィッチヒョードル. (1862年/1973年). 『死の家の記録』. (工藤精一郎, 訳) 原著/新潮文庫.

丸谷才一, 湯川豊. (2010年). 『文学のレッスン』. 新潮社.

金井嘉彦. (2022年3月4日). (コメント). 「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」第3回.

 

 

 

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②10,618字(23枚) 20231103 2042

 

*[1] これは、言うまでもなくルイ・アルチュセールの「認識論的切断」(『マルクスのために』 [アルチュセール , 1965年/1994年])のパクリです。

*[2] [Joice , Dubliners, 1914年/2001年] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]。

*[3] [Joice , Ulysses, 1923年/?]

*[4] [丸谷 湯川, 2010年]p.46。

*[5] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.62。

*[6] [ジョイス  ジ. , 『ダブリンの市民』, 1914年/2004年]p.66。

*[7] [Joice , Dubliners, 1914年/2001年]。

*[8] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.59。

*[9] 【引用者註】そのうえ。

*[10] 【引用者註】変えられない、変化しない、一定不変の、一定の、常数の(weblio)。

*[11] 【引用者註】(つまらない事での)けんか、口論(weblio)。

*[12] 【引用者註】疲れた、疲労した、(…で)疲れて、退屈な、あきさせる、うんざりする、(…に)あきあきして、うんざりして(weblio)。

*[13] [Joice , Dubliners, 1914年/2001年]。

*[14] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.59。

*[15] [ジョイス  ジ. , 『ユリシーズ』全4巻(集英社文庫版), 1922年/1964年/1996年-97年/2003年]Ⅰ・p.79。

*[16] 【引用者註】。

*[17]  on line読書会『22 ULYSSES』2022年3月4日]でのコメント。

*[18] あるいは、やはり『ユリシーズ』第4挿話でブルームの15歳の娘ミリーの週給が「12シリング6ペンス」とありますが、こんなに差が生じるものでしょうか? あまり実態に沿っていないのか、デパートの店員が安過ぎるのか、あるいは写真館の看板娘の方が高過ぎるのか? どうなんでしょうか?

*[19] 「――ヒルさん、ほら、ご婦人方がお待ちでしょ?」/「ぼさっとしないでよ、ヒルさん。」( [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.59)したがって、エヴリンはこう思います。「デパートをやめたところで、涙はあまり流れまい。」( [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.59)。

*[20] 【引用者註】。

*[21] 【引用者註】ハリーやアーネストはエヴリンの兄弟。

*[22] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.59。

*[23] 【引用者註】近ごろ、このごろ、最近、後期に、末期に(weblio)。

*[24] 【引用者註】脅す、脅迫する、(…で)脅す、するぞと脅す、(…の)恐れがある、(…し)そうである、(…に)迫っている、脅威を与える(weblio)。

*[25] [Joice , Dubliners, 1914年/2001年]。

*[26] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.59。

*[27] [ジョイス  ジ. , 『ダブリンの市民』, 1914年/2004年]p.62脚注。

*[28] Terence Brown, ed. , Dubliners, Penguin Books,1992。

*[29] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.61。

*[30] [Joice , Dubliners, 1914年/2001年]。

*[31] [ジョイス  ジ. , 『ダブリンの市民』, 1914年/1972年/1987年/1999年]p.63脚注。

*[32] [ジョイス  ジ. , 『ダブリンの市民』, 1914年/2004年]p.65。

*[33] [イプセン , 1879年/1996年]。

*[34] [ジョイス  ジ. , 「イプセンの新しい劇」, 1899年/2012年]。

*[35] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.64。

[36] [Joice , Dubliners, 1914年/2001年]

*[37] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.62。

*[38] [Joice , Dubliners, 1914年/2001年]。

*[39] [ジョイス  ジ. , 『ダブリナーズ』, 1914年/2009年]p.63。

*[40] [Joice , Dubliners, 1914年/2001年]。

*[41] [ドストエフスキー , 1862年/1973年]。

現代の「白痴」――献身と姥捨て――カズオ・イシグロ『クララとお日さま』

~~過渡期の人間――カズオ・イシグロを読む そのⅨ~~

現代の「白痴」――献身と姥捨て――カズオ・イシグロ『クララとお日さま』





■Kazuo Ishiguro, Klara And The Sun,2021, Faber & Faber, Knopf, Hayakawa Publishing/カズオ・イシグロ『クララとお日さま』2021年3月15日・英Faber & Faber社、米Knopf社、土屋政雄訳・早川書房

■長篇小説。

■2023年10月8日読了。

■採点 ★★★☆☆。

🖊ここがPOINTS!

  • イシグロの『クララとお日さま』に登場するアンドロイドは、或る意味で人間に置き換えられる。
  • 主人公・クララは、その献身的な行動の果て、最後的に姥捨てされるが、まさにそれこそ究極的な愛の形である。
  • 他者を疑うことを知らぬ無垢なる存在・クララは、まさに現代の「白痴」とも言える。

【目次】

現代の「白痴」――献身と姥捨て――カズオ・イシグロ『クララとお日さま』... 1

1 はじめに... 2

2 梗概(ネタバレ注意!)... 3

3 姥捨て... 8

4 プロット、結末の問題... 10

5 献身... 12

6 現代の「白痴」あるいは「おばかさん」... 17

7 附記 残された問題... 18

【主要参考文献・音楽資料・映像資料】... 25

 

 

はじめに

 元々、本作『クララとお日さま』[1]は、「機械の倫理学」という小論の中で扱う予定でした*[2]。それは、人工知能を与えられた擬似人間(サイボーグ、アンドロイド、クローン人間等)と「心」、「精神的実在」との問題から、「人間性」、「人間であること」とは一体どういうことなのかを考えようとするものです。同様にイアン・マキューアンの『恋するアダム』[3]もその対象作品の一つでした。

 しかしながら、少なくともこの2作品について言えば、元々の作者の興味、関心がそうであるからなのかどうかは分かりませんが、「機械」、「AI」、「人造人間」などといったサイエンス・フィクション的な要素は、あくまでも単に設定として使われているだけで、実はさほど重きを置いていないのでは、とわたしは思うようになったのです。

 つまり、問題になっているのは、まさに人間そのものであって、ここに登場するアンドロイドは簡単に人間に置き換え可能なものなのではないか、と思うように、少なくともわたしはなりました。

 したがって、『恋するアダム』については「機械の倫理学」の「付論」扱いとするか、あるいはこの文脈では論じないこととします。

 また、本作『クララとお日さま』については仮称「過渡期の人間――カズオ・イシグロを読む」の一項として扱うことと致します。

 

1 梗概(ネタバレ注意!)

 「AF」とされるクララは街の雑貨屋(?)のようなところで売られていました。AFは“artificial friend” 、つまり「人工的な友達」、という意味だと思いますが、本文には一切その説明はありません。要するにアンドロイド、ロボットということです。クララは太陽光線をエネルギーとして稼働しているようです。

 やがて、クララは、重い病気を患うジョジーの家に買われて行きます。ジョジーは、恐らく「向上処理」/”lifted”[4]と呼ばれる何らかの遺伝子操作のような処置を受けたためなのか、病に陥っているようです。クララはそのジョジーの「お相手役」を務めることになります。しかしながら、ジョジーの母親クリシーは、ジョジーに万が一のことをあった時を想定して、その身代わりのアンドロイドを、既に発注していました。実は、ジョジーの実の姉サラーも同じ病に冒されて、既に亡くなっています。その時も、クリシーはサラーの身代わりのアンドロイドを発注し、実際に「使用」し始めたらしいのですが、どうも、クリシーとしては納得がいかなかったようでした。つまり、それは、肉体をいくら精巧に模造しても、何らかの精神的実在感のようなもの、その人が、まさにその人であり得るようなそれがなければ、その人らしさが感じられない、ということのようです。そこで、クリシーは、まず、ジョジーの持つ「何らかの精神的実在感のようなもの」をコピーするために、アンドロイド・クララを使って、記録させます。最終的に、ジョジーが亡くなった後に、ジョジーそっくりに作られたアンドロイドの、クララの持つメモリーを移植させることで、可能な限り本物そっくりなジョジーを作り上げる、という計画が進行していたのです。

 無論、クララとしては、その立場上、否も応もありません。しかしながら、クララとしては、唯々諾々(いいだくだく)と、その運命を受け入れる訳にはいかなかったのです。必ずジョジーが治癒することを頑なに信じようとしています。或る種、その信じ方、――そもそもロボット、人工知能が論理的な推論による判断ではなく、そうあって欲しいという願望のみで何かをbelieve、信じる(強く思う)ということがあるでしょうか? ――その信じ方は信仰のそれに酷似している気もします。

それはともかくとして、そこでクララは考えました。自らが太陽の光にエネルギーを受けているというところからなのかも知れませんが、彼女にとっては太陽がまさに「神」だったのですが、どういう訳か、その太陽が沈む時に、彼女たちの家から見える、マクベインさんの納屋のところに、太陽が一旦休憩をするのだと、彼女は考えたのです。その休憩してるところ、つまり太陽が寝る前ですけれども、クララはそこに訪問をして、直接、ジョジーの治癒を太陽にお願いをする、もっと言ってしまえば祈りを捧げることにしたのです。そこで、クララはある啓示を受けます、というか、勝手に受けたと考えます。太陽が嫌っている「空気の汚染」、これを排除するということが、ジョジーの治癒に結びつくと彼女を考えたのです。一旦太陽に自らの祈りが捧げられた、受け取られたと信じ込んだクララは、或るチャンスをうかがって、彼女が以前見たことのある、空気を汚染する(と、クララが勝手に思い込んでいる)機械、――道路工事の機械だと思いますが、――「クーティングズ・マシン」/“the Cootings Machine”*[5]というものを、自らの「体液」(?)である「P・E・G9溶液」を注ぐことによって、破壊することに成功します。しかし、残念ながら、ジョジーは治ることはありません。病が悪化する一歩です。さらにしばらく時が経ち、再度、マクベインさんの納屋を訪問し、クララはお日様に最後の祈りを捧げます。すると、しばらくして、ジョジーは快癒しました。このあたりは難しいところですけれども、当然のことながら、因果関係というものは成立しません。まさに偶然というしかないのですが、クララにとっては、まさに太陽がジョジーを助けてくれた、という解釈になります。

さて、その後さらにしばらく時が経ち、通常の健康と体力を回復したジョジーはすくすくと成長し、大学に入るまでになりました。途中でもう、お相手役の仕事がなくなってしまったクララは、ひっそりと物置に引き下がります。

最後にジョジーが大学に行くために家を出るところで、呆気なくクララとお別れするのですけれども、そこで話が一旦切れます。

最後のところは、おそらく、ゴミ捨て場、機械などの故障したものの廃棄所のようなところでクララが余生を過ごす、というところで終わっています。彼女はその余生を過ごしながら今までの記憶を再整理しているというようなことになっています。

まぁ、したがってこの話全体は、まあ、そう考えてくると、最後の廃棄所のところで、クララの人生というものを振り返っている、そういう流れになっているのかな、と思われます。

 

2 姥捨て

言うなれば、これはかつての「姥捨て山」、つまり仕事がなくなって、役割がなくなってしまった老人というのは、山に棄てられる。そういう姥捨て山の状況というものを想起させます。

どういうわけか、クララが引退する、――「引退」/”fade”[6]という言葉が本文に出てくるんですけれども、ロボット、つまり機械が引退するというのであれば、例えばスイッチを切る、とかそういったことは、恐らく、ほぼ人間扱いだったクララに対しては、「人道的」にできなかったのかもしれませんけれども、人工的な処理というか、その出荷工場に戻して、初期化するというようなことがされるべきなんだと思いますし、現実的にはそうなんだと思うんですけれども、この話のまあ一つの、悲しみというか、非常に苦しいところというのがそこの最後、とても「献身」的に自らの命も賭けて、ジョジーを守ろうとしたクララというのが、最後、「姥捨て山」に廃棄されてしまう、というところに、まあ一つのポイントがあるのかなと、と思います。わたしはそういった意味でこの一文に「献身と姥捨て」という風にサブタイトルをつけました。

 それにしても、どうしてクララには、あるいは同種のAFには「安楽死」という方法が採られなかったのでしょうか? 何故、このような惨い扱いをされねばならなかったのでしょうか?

 クララは、ジョジーの病が癒えると、何となく居場所がなくなり、自ら物置を見つけ出し、そこに棲みつくことになります。そのことをジョジーはおかしいとも思わないようですし、母親のクリシーは、もうクララにはほとんど関心がないようです。つまり、物置送りのあとに、廃棄所に送られても、別におかしなことではないのかも知れません。

このような扱いを受けるものとは一体何でしょうか。子どもの頃は一心同体のように寝食を共にしてきた(ように思い込んでるだけですが)にも関わらず、子どもが成長すると、顧みられなくなり、廃棄されてしまうもの。――、そうですね、おもちゃ、玩具ですね。つまり、クララは、ジョジーたちにとって高級玩具であったと考えれば、話は通じます。そもそも、クララたちは、どういう訳か、専門のAFショップで販売されている訳ではなく、恐らく、お洒落な雑貨屋のようなところで販売されていましたからね。であれば、何も「姥捨て」などと騒ぐ必要もなく、万事解決、ということになるのかもしれません。ただ、おもちゃを棄てただけなのですから。

しかし、果たして、そうなのでしょうか?

 

3 プロット、結末の問題

 ところで、この話の結末の付け方はいかにも、涙を誘いますが、そもそも、話の展開はこれでよかったのでしょうか。2回目のクララの祈りのあと、ジョジーが快癒するのは、ジョジーには申し訳ないですが、いささか拍子抜けでした。え、ここで治っちゃうの? という感じではなかったでしょうか。

 わたしの予想ではこうでした。

 〈わたしの予想①〉 やはり、母親が危惧していたようにジョジーは死んでしまうか、あるいは意識不明の寝たきりになる。そこで、計画通り、クララが身代わりになるが、――と言っても、見た目はジョジーですが、いつまで経っても外見上成長しないジョジー=クララに母は怒って破壊してしまう、というものです。成長しないアンドロイドに怒るという設定は、例の『鉄腕アトム』のパクリですが。まー、もともと母親のクリシーは情緒不安定で、怒りっぽかったですからね。これの難点はクララの文字通りの「献身」というテーマが、結果的には、何も実を結ばない、ということと、「お日さま」の存在が、やはり意味のないものになってしまう、ということです。

〈わたしの予想②〉 2回目の「祈り」のあと、お日さまとの誓約を果たすために、再度、クーティングズ・マシンを破壊する目的でクララは自身の脳内にある「P・E・G9溶液」を全て使い果たしてします。その結果、マシンは壊れますが、それと同時にクララも機能不全を起こし、その場で息絶えてしまいます。しかし、当然のことながら、ジョジークリシーにとっては突然、クララが行方不明になったということになります。いずれにしても、その結果、というよりも、偶然、ジョジーは全快するのです。これだと、クララの献身とお日さまの加護、恩寵が美味い具合いに生きているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 しかし、イシグロさんは、そうはしませんでした。確かに、クララは献身的に働きましたが、必ずしも、結果的に自らの命を落とした訳ではありません。クララの強い祈りがお日さまを動かし、ジョジーの快癒に向かわせた、と読めなくもないですが、実際には、単なる偶然ですから、読者としては、あれ? そうなの? という感が否めないでしょう。

というように考えて来ると、イシグロさんは、比較的、無難な結末、誰も傷つかないような、安全な道を選んだのでしょうか? つまり月面への降下で言えば(何故、月面なんだ?)、軟着陸、ソフト・ランディングを敢行したと言えるのでしょうか?

そもそも、何故、ジョジーは治るのか、この謎が残されます。お日さまの光 え? そんなことがあるでしょうか?

 

4 献身

例の如く、話が逸れますが「献身」と言えば、東野圭吾さん原作による映画『容疑者Xの献身』*[7]を想起します。御覧になりましたか? もう、例としては古いですね(笑)。それはともかく、その主題歌「最愛」*[8]を主演したお二人が歌っています。いい歌ですよね。

 

ちょっと、YouTubeで聴いてみましょう。

 

夢のような人だから

夢のように消えるのです

 

その定めを知りながら

捲られてきた季節のページ

 

落ちては溶ける粉雪みたい

止まらない想い

 

愛さなくていいから

遠くで見守ってて

強がってるんだよ

でも繋がってたいんだよ

あなたが まだ好きだから

(以下略)

 

うーん、いい歌ですね。

それはともかく、クララは文字通り、場合によっては自らの死をも予想された献身的な働きをして、最後は姥捨て山に追いやられる。ということは、こういうことでしょうか?

愛の本質とは結局、相互に確認し合うものではなくて、一方的に捧げるものが愛なのではないか。答えがあろうが、無かろうが、相手に認識されようが、されまいが、一方的に強く信じられるものが愛なのではないか。と、すれば、その究極の形は、神に捧げられるものであり、それが、偶々クララにとっては太陽だったのではないでしょうか? ジョジーは言うなれば、その太陽の光を反射する月のような存在だったのかも知れません。

しかし、その見返りが姥捨てとは、なんということでしょうか。

だが、究極的に愛する人にとっては、見返りは問わない、というか全くそんなことは問題にならないのでしょう。仮に相手から殺されても、それが相手の意志、つまりは遡って、それが神の意志であるとすれば、――言うなれば、それが運命ということになるのでしょうが、それに従うのが献身ということなのではないでしょうか。

したがって、献身の結果が姥捨てであることは何ら問題にならないばかりか、むしろ、献身の意味をか輝かせるものになったのかもしれません。

 

5 現代の「白痴」

さて、そこまで考えて、何故、イシグロさんは、この小説にサイエンス・フィクションの設定を「借りた」のでしょうか? あえて、「借りた」と表現しておきます。

つまり、その問いは、何故、クララはアンドロイド、人工人間、人造人間でなければならなかったのか、という問いに接続します。

かつて、そのような、目の前の相手や、周囲の人達を全く疑わない、無垢なる人物を、フョードル・ドストエフスキーは『白痴(おばかさん)』*[9]の中でムイシュキン公爵という造形で提示して見せました。無論、ドストエフスキーの頭にあった、その原型はイエス=キリスト、その人に他なりません。もっとも、『聖書』からうかがえるイエスは必ずしも、疑うことをしない、全き純粋なる無垢の人、とは言えないとは思いますが。

いずれにしても、イシグロさんは、現在では、恐らく、そのような無垢なる人物は、実際の、現実的な人間として提示して見せるのは困難だと判断したのではないでしょうか?

 つまり、今や、究極の愛の姿とは、現実世界では既に絶滅してしまい、今や、古典文学や、サイエンス・フィクション的な想像力の中でしか生きることができない、ということなのでしょうか。

 

附記 残された問題

 わたしの能力と努力不足と、時間切れのため、本文に反映することの出来なかった幾つかの問題が残されています。以下、一旦箇条書きで、書き残しておくことと致します。とりわけ、重要だと思われるものに★を付けておきます。

 

  • クララが最後に会うのが店長さんでよいのでしょうか? 例えば、それがジョジー、あるいはクリシーではなかったのは何故でしょうか?
  • 本書『クララとお日さま』は何故、「母・静子」に捧げられているのでしょうか? 
  • ★ 本書で太陽の持つ意味は何でしょうか? 太陽の比喩の意味とは何でしょうか? そもそも太陽とは一体何でしょうか?
  • AF、つまり人工的な友達は使用者の意志の如何により、奴隷とも、 ペットにもなり得ます。場合によっては性慾の処理にも使えます。この作品では、そのような人造人間の暗部、というよりも、人造人間に対する人間の持つ暗部が、意図的になのか書かれていません。これは一体どういう意味があるのでしょうか?
  • 本作は、人工知能を持つ、人造人間クララの一人称で書かれています。とすると、本作の文体はこうあるべきでしょうか? 
  • 何故、AFには個体差が生じるのでしょうか? 学習機能があるにせよ、店頭で陳列されている時から、クララとローザは第三者(店長、客)から見ても明らかな差が生じていました。何故こんなことが生じるのでしょうか? つまり、最初からゼロ・ベイスで稼働している訳ではなく、何らかのモデルとなる人間のキャラクターが存在するのではないでしょうか。さて、ここからは逸脱も甚だしいですが、もし仮にそのモデルが死者だとしたら、どうでしょうか? 記憶は削除して、――そんなことが可能だとしての話ですが、純粋に性格、キャラクター、人格のみを移植した、そういう存在なのではないでしょうか?
  • ジョジーというのは女児という含意があるのでしょうか?
  • ★ クララは通常“Clara”と表記されます。“Klara”とはどういうことでしょうか?→クララ(Clara, Klara)は欧米の女性名・地名、ドイツ語圏(主にイタリアの南チロル地方等)の家族名。「光り輝く、著明な、立派な」という意味のラテン語の形容詞クラールス(Clarus)の女性形クラーラ(Clara)に由来し、各言語でも概ねクラーラと発音されるが(アメリカ英語ではクレァラやクララ)、日本ではいずれも慣例的にクララと表記される事が殆どである。同じ系統の名前にクレア、クレール、クラリッサ、クラリスなどがある。/古来より女性名として用いられてきたが、13世紀の西方教会の聖女、アッシジのキァーラ(Chiara は伊語形の一つ)により一般化した。キァーラは徹底した清貧を旨とする修道会を設立し一生を祈りと奉仕に捧げた修道女で、主に眼病を患う人と眼を酷使する職人(金属細工師や刺繍職人など)の守護聖人として死後間もなくから崇敬されてきたが、現在ではブラウニー(ガールスカウトの小学生低学年部)や遠隔通信(テレビや電信・電話)の守護聖人としても崇敬を集めている。
  • クララの下見に来ていたとき、帰りがけに母親がジョジーに伸ばされた手がためらうのは何故でしょうか? (24)
  • 屋外にAFがあまりいないのは何故でしょうか? (25)
  • ジョジーのキャラクターをクララに記憶させて、人造のジョジーに移植する計画は、かなり周到に準備されているようですが、肝心のクララをカバルディの工房で作らず、どうして市販されているクララを買ったのでしょうか? かなり、計画の根本に関わる問題だと思いますが。
  • 「クーティングズ・マシン」とは一体何なのでしょうか? (46)
  • 母親は何故、クララの向こうを見ていたのでしょうか? (67)
  • ★ クララが一貫して、クリシーのことを「母親」/“the Mother”と呼んでいるのは何故でしょうか? “the Mother”とはどういうことでしょうか?
  • クララを買うときに、母親が「やつれて張りつめ」ていたのは分かるにしても「ショルダーバッグをのぞき、中を探っている」のは何故でしょうか? 中に何が入っていたのでしょうか? 財布? そんなことがあるでしょうか? (68)
  • 「いまこうしてあの日々のことを思い出していると」(まさに「日々の名残」ですね)、ということは、この話はクララが廃棄処分にあって、廃棄所で記憶の整理をしている時に叙述された、ということでしょうか? (74)
  • クララは母親が怒りだすことを異様に恐れています。(80)懸命にその「サイン」「緊張感」「話題の背後にある何か」を事前に察知しようとしています。(p.p.132-133) これは何を意味しているのでしょうか?
  • ジョジーのボーイフレンドのリックの一家は「イギリス人」のようです。何やら、そのことを他人に悟られることを異様に気にしています。これは何故でしょうか? 何かイギリスに不吉なことでも生じたのでしょうか? あるいはイギリスは滅んだのでしょうか? そして、とすれば、ここはアメリカなのでしょうか? (91)
  • 家政婦のメラニアは何人なのでしょうか? 何故、彼女は英語が片言なのでしょうか? (91) 何故、家政婦が存在しているのでしょうか? ロボットでは駄目なのでしょうか?
  • 「向上処置」(119)とは何でしょうか?
  • クララの視覚認識は複数の「ボックス」で捉えられるようだが、現実問題として、コンピュータの視覚認識の問題として、そんなことあるのでしょうか? (118の辺り)
  • ★ クララに感情があります。さらには観察するほど感情が多くなるといいます。(142)人工知能が感情を持つ、というのはどういうことでしょうか? そもそも感情とは一体なのでしょうか? それは、電気的な信号に変えられるものでしょうか?
  • ジョジーの父は「置き換えられた」と言います。 何に置き換えられたのでしょうか? 文脈的にはロボットにその仕事を奪われたとも取れますが、いかがでしょうか? (144)
  • 何故、彼らの使用する自動車は、文字通り自動運転自動車ではないのでしょうか? まさにいたるところに人工知能を持つ、つまりは自己制御可能な機械的構築物が氾濫していて然るべきかと思います。あるいはクーティングズ・マシンすらもロボットであるべきだったような気もします。(144)
  • ★ クララはモーガンの滝に行く途中で遭遇した雄牛を忌み嫌います。それをして「怒りと破壊のサイン」だとしますが、これは一体何を意味するのでしょうか?(145)本来クララが敵対視するのは、環境を汚染する、すなわち、太陽光線を遮る、例えばクーティングズ・マシンのような存在です。雄牛は環境を汚染するのでしょうか? あるいは、雄牛は何故「怒りと破壊」を象徴するものだとされているのでしょうか?
  • 何故、家政婦メラニアはクララを敵視するのでしょうか? 
  • 何故、クララは不用意に思い出を想起するのでしょうか? 雄牛や、ローザのことを想起しています。そこで、ローザは苦しんでいますが、何故ローザは苦しんでいるのでしょうか? クララには遠隔的共感能力があるのでしょうか? 単なる想像力なのでしょうか? 共感覚、共体験ということでしょうか? (237)
  • 「あれの真っ最中」とは、「あれ」のことですか? (252)
  • ★ クララは一体誰に向かって話しているのでしょうか? 

 

以上で御座います。本日はお疲れ様でした。御機嫌よう。

 

 

主要参考文献・音楽資料・映像資料】

IshiguroKazuo. (2021). Klara And The Sun. Faber & Faber.

KOH+, 柴咲コウ, 福山雅治. (2008年). 「最愛」. NAYUTAWAVE RECORDS/ユニバーサルミュージック.

イシグロカズオ. (2021年). 『クララとお日様』. (土屋政雄, 訳) Faber & Faber, Knopf,早川書房.

ドストエフスキーフョードル. (1868年/2004年). 『白痴』上下. (木村浩, 訳) 『ロシア報知』/新潮文庫.

マキューアン イアン. (2019年/2021年). 『恋するアダム』. (村松潔, 訳) Nan A. Talese/新潮クレストブックス(新潮社).

手塚治虫. (1956年-60年). 『鉄腕アトム』全8巻. 光文社.

手塚治虫, 浦沢直樹, 長崎尚志. (2003年ー2009年). 『PLUTO』全8巻. ビッグコミックス小学館).

西谷弘. (2008年). 『容疑者Xの献身』. 東宝.

石森章太郎. (1972年ー1974年). 『人造人間キカイダー』全6巻. サンデー・コミックス(秋田書店).

 

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第2稿 10,739字(27枚) 20231022 1953

 

*[1] [Ishiguro, 2021] [イシグロ, 2021年]。

*[2] この問題は、手塚治虫の代表作『鉄腕アトム』 [手塚, 『鉄腕アトム』全8巻, 1956年-60年]の中の1挿話である「地上最大のロボット」の、浦沢直樹によるリメイク版『PLUTO』 [手塚, 浦沢, 長崎, 『PLUTO』全8巻, 2003年ー2009年]に触発されたものです。機械が「自我」、「自意識」を持つとはどういうことなのか、ということですね。それを言うなら、石森章太郎の『人造人間キカイダー』 [石森, 1972年ー1974年]はどうなのか、とか、あるいはこれは実話になってしまいますが、JAXAの惑星探査衛星「ハヤブサ」の事績をどう考えたらいいのか、とか、話は尽きることはありません。

*[3] [マキューアン , 2019年/2021年]。

*[4] [イシグロ, 2021年]p.119/ [Ishiguro, 2021]p.93

*[5] [イシグロ, 2021年]p.43他/ [Ishiguro, 2021]p.31他。

*[6] [イシグロ, 2021年]p.420/ [Ishiguro, 2021]p.329。原文の“fade”は「消え去る」ことでしょうから、ジョジーの母親は、用済みとなったクララには消えて無くなって欲しいと思っているのだと思います。土屋訳の「引退」とはいささか異なります。「引退」というのは、そこで死ぬわけではなく、その後の比較的悠々自適な生活が保障されている印象が残りますが、クララの場合は、本来的に、それはきっとないのでしょう。

*[7] [西谷, 2008年]。

*[8] [KOH, 柴咲, 福山, 2008年]。歌唱:KOU+(柴咲コウ福山雅治)・作詞:福山 雅治・作曲:福山 雅治・発売:2009-06-26 10:52:39。

*[9] [ドストエフスキー, 1868年/2004年]。

「過渡期の人間――カズオ・イシグロを読む」進行表 20231021

「過渡期の人間――カズオ・イシグロを読む」進行表
タイトル 文字数 一次稿
1   過渡期の人間    
2   その作品    
  遠い山なみの光    
  浮世の画家    
  日の名残り    
  充たされざる者    
  わたしたちが孤児だったころ    
  『わたしを離さないで』    
  ノクターン    
  忘れられた巨人    
  現代の「白痴」――献身と姥捨て――『クララとお日さま』 10,739
  単行本未収録短篇小説、その他台本、エッセイ、講演など    
  結語    
資料 年譜    
  著作一覧    
  主要参考文献    
    合計 10,739  
    400字詰め原稿用紙枚数 27  
         
      🐤  
      20231021 2010

現在の状況

遍 歴

現在の状況

半野良のブーコです。よろしくね♡



2023年10月20日(金曜日) 晴れ 休み 

イスラエルパレスティナ紛争の早期停戦を心より祈ります。 

 

  本日休み。

矢鱈とSGが忙しくなってきた。困ったものだ。面白いからいいんだけど。

 

現在の状況。

 

  • トルーマン・カポーティ――叶えられなかった祈り」……中断中、早期の再開を期す。
  • 『恋するアダム』感想……途中
  • 『ダブリナーズ』「イーヴリン」感想……途中
  • 『クララとお日さま』感想……途中
  • 遠い山なみの光』感想……未着手

 

というような状況である。

普段は書けても一日1時間足らずなので、金、日に頑張らないと何も終わらない。

普段はこういう日程。

 

9時 起床→家事

10時 落書き

11時 弁当作り・昼食準備

11時半 昼食

12時 準備

12時半 出発

14時~23時 SG

24時 帰宅→風呂→夕食準備

0時半 夕食

1時半 TV

2時 就寝

どこかに時間を短縮できるところはないものか?

 

読書はイシグロの『浮世の画家』。

 

🐤

202310201513

ハンス・ガブラー氏講演に成城大学に行く

遍 歴

ハンス・ガブラー氏講演に成城大学に行く

 

2023年10月15日(日曜日) 雨後曇り 休み 

イスラエルパレスティナ紛争の早期停戦を祈る。 

 

  本日休み。

13時から、成城大学国際編集文献学研究センター主催による、ハンス・ヴァルター・ガブラー氏講演「愛の復活、そのゆくえ―今、ガブラー版『ユリシーズ』の意義を語る」に参加するために、成城学園前まで行く。早めに行って蕎麦でも食べようと思ったら、ハイソな街なので、そんなものはなかった。仕方なく、何も食わずに、会場に行く。

客席にギリシア哲学の納富信留さんがいてビビった。

前段で横内一雄さん、南谷奉良さんが、そもそもガブラー版『ユリシーズ』とは何ぞや、との解説があった。要は徹底した本文(ほんもん)校訂(こうてい)に、詳細な注釈を付けたもの、ということになるだろうか。

On line によるガブラー氏の講演は英語だったせいもあって、十分理解できたとは言えないが、その後の質問の応酬などにより、決定的なテキストを提示している訳ではなく、こうも書いているし、ああも書いているし、という具合に揺れ動く複数のテキストを文字の形で提示しようとしているのが分かった、気がする。司会(主催)の明星聖子さんの話も分かり易く、とてもよかった。

After talk もあったが、専門家が多いのと、恥ずかしがりやファミリーなのと、疲れていたので足早に帰路に就く。裏道を通ったら、マイカリー食堂(松屋)があったので、カツカレーを辛口で食う。美味かった。

SSの ODKOXで買い物。

帰宅。今に至る。

何故か疲労感。

明日はKSのPJTの初回Mgなので、今からもう心配だ。

どうなることやら。

 

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20231015 2024

何だか疲労→『クララとお日さま』読了→忙しくなる予感

遍 歴

何だか疲労→『クララとお日さま』読了→忙しくなる予感

 

2023年10月13日(金曜日) 晴れ 休み 

イスラエルパレスティナ戦争? 紛争? に心を痛める。経緯を考えると部外者が口を挟むべきではないのであろうが、一刻も早く戦いを終結するように心より祈る。 

 

何もしていないのに、何だか、疲れているようだ。往復の通勤で疲労しているのか。仕事は大したことはしていないのに。相方も調子がよくないようだ。困った。

そんな訳で、休みの金・日に頑張らなければいけないのに、なかなか調子が出ず、大体途中で寝てしまうのだ。どうなっているのか?

あれから、読書会絡みで『恋するアダム』、「イーヴリン」、『クララとお日さま』の感想文を、いずれも途中まで書いて、続きを書く時間がないので、そのまま放置状態になっている。


『クララとお日さま』は必ずしも手放しで賞賛はできないが、イシグロという稀有な作家に興味を持った。そんな訳で、一旦「カポーティ」論を中断して、イシグロの『遠い山なみの光』を読み始めた。やはり、「子ども」と「母」がキー・モチーフになっている。面白い。それにしても、よくデビュー作で、こんな枯れた作品を書き上げたものだし、必ずしも新しいとは言えない、この作品を、よく、イギリス文壇が評価したものだ。その意味ではイギリス人から見ると、やはり、日本文学の一種に見られているのだろうか。

『クララとお日さま』は、いささか、土屋さんの訳文が気になったので、已む無く、原書を相方に注文してもらった。とても平明な英文である。これを達意の日本語で翻訳するのは難しいことだろうな。

そんな訳で『クララ』の感想文の続きを書いているところ。

ところが、鼠族の方々が食料を漁りに来るので、鼠返しのために、食料は、蓋がきっちり閉まるプラスチックの箱に入れることにしたが、入りきらないもののために追加を買いに100円ショップDSに。

箱は二つ買った。

スーパーLで鶏肉などを買う。

その前にSSのBOに。

  • スタインベック『ハツカネズミと人間』新潮文庫……自分の無知さに呆れるばかりだが、ま、仕方ない。
  • K.ディック『模造記憶』新潮文庫……やっとディックが手に入った。どこにも売ってなかった。
  • アンディー・ウィアー『火星の人』上下・ハヤカワ文庫SF……SFつながりで。
  • 堀田善衞『ミシェル 城館の人 ⁂ 精神の祝祭集英社……持っていたかも。
  • 集英社ギャラリー[世界の文学]17 アメリカⅡ』(フィッツジェラルド・フォークナー・ヘミングウェイ・ミラー・ロス 等収録)・集英社……これは内容よりも装丁・造本が美しくて欲しかった。やっとゲット。

 

今年の8月の半ばに急に今のKSにTSした。余りにも温度差があるので、言いたいことを提案書として送ったら、どういう訳か採用された。SCがいうにはだれも提案なんかしないのだ、と。

 そんな訳で、還暦を前に、急なことだが、なんだか忙しくなりそうだ。しかし、そうは言っても、そんなに世の中簡単ではない。必殺技などあるはずがないのだ。どうなることやら。結果が出なかったら、またTSだが、もう次はバイトしかない。この年でバイトは辛いものがある。なんとか数字を出したいものだ。

 そんな訳で、唐突にドラッカーの『マネジメント』とかパラパラ見ている(笑)。

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20231013 2236