一筋縄ではいかない ガブリエル・ガルシア゠マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』
一筋縄ではいかない
ガブリエル・ガルシア゠マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』
■Gabriel José de la Concordia García Márquez, Memoria de mis putas tristes,2004/ガブリエル・ガルシア゠マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』2004年/『ガルシア゠マルケス全小説』木村榮一訳・2006年9月30日・新潮社。
■中篇小説。
■全5章・141頁。
■2024年6月25日読了。
■採点 不可。
この度、『百年の孤独』が文庫化される*[1]とのことで、初めてガルシア=マルケスの作品を手に取った。
無論、『百年の孤独』の単行本は所持しているし、なんとなれば、「文学のノボ・ムンド(新世界)」とのキャッチフレーズで知られる集英社の伝説的なシリーズ『ラテンアメリカの文学』の一冊『族長の秋』も刊行当時入手している。しかしながら、どういう訳か全く食指が動かず、どうしても読み始めることができなった。
そのような次第でやっとのことでマルケスを手に取ることができたのである。
さて、生前に発表された小説としては最後の作品に当たる本作は、先に述べた『百年の孤独』や『族長の秋』と言った、いわゆるマジック・リアリズム的な作風とは違って、一見リアリズムの骨法を取っている。
が、なかなか食えない作品である。
そもそも、題名がよく分からない。『わが悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)の「娼婦たち」(putas)だが、何故、複数形なのだろうか?
物語の大筋は、確かに売春窟で知り合い、そして愛することになった少女デルガディーナ[2]との或る種〝純愛〟*[3]とも言うべきもののはずだ。しかしながら、少女デルガディーナは(物語の中で)実在するのかどうかも疑わしい。なんとなれば、主人公「私」は、彼女が眠っている状況でしか接することはないのだから。何れにして、冒頭の「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」*[4]との堂々たる宣言とは裏腹に、恐らく、彼らは性関係を結んでいないと考えられる。その意味で、少女デルガディーナを「娼婦」と言ってよいのか。
では、何故、複数形なのか? そうすると、むしろ、ほんの少し顔を出すに過ぎない、主人公の周辺に登場する「娼婦たち」がメインなのだろうか?
あるいは、もっと穿った見方で、女は全て娼婦である、とでもいいたいのであろうか。
はたまた、「悲しき」(tristes)だが、何故、「悲しい」のだろうか。確かに、途中、幾つかの波乱万丈はあったけれども、ラストは目出度し目出度しで終わっている。老衰と病気に罹って「処置」すら検討された愛猫も元気になったし*[5]、心臓に疾患の恐れを抱いた主人公も結局は無事だった。売春窟の女将ローサ・カバルカスとの間にも財産についての契約ができ、最後的にはそれらが少女デルガディーナに渡るようである。
心臓は何事もなかったし、これで本当の私の人生がはじまった。私は百歳を迎えたあと、いつの日かこの上ない愛に恵まれて幸せな死を迎えることになるだろう。*[6]
というのが物語の結末である。何が「悲しい」のであろうか。我が人生は「幸せな死を迎える」だろうが、振り返って見ると、「娼婦たちとの思い出」は「悲しい」というのであろうか。
さらに言えば「思い出」(memoria)にも引っかかる。残念ながら、スペイン語の語法がわたしには分からぬが、「思い出」とは、過ぎたこと、過ぎ去ったことに他ならない。だからこその「過去」なのである。何人か登場する「娼婦たち」との「思い出」が本作のコアであれば、何の問題はない。それは全て過ぎ去ったことなのだ。
しかし、少女デルガディーナとの恋愛は今まさに進行していることではないのか。それを「思い出」とするのであれば、この物語の外部に立つ視点が想定されもするが、どうも、そういう節は見受けられない。今まさに、主人公は少女との恋に苦しんでいるように読める。
以上のような次第で、マルケスのことだから、そう簡単には底は明かさないというのか、一読した限りでは、あるいは、本作だけを読んで、何かが分かる、というような簡単な仕掛けではないような気がする。
謎は深まるばかりである。
因みに、全くの余談ではあるが、本作が収録されている『ガルシア゠マルケス全小説』の装丁がとても良い。本体の表紙が、特殊な用紙を使用しているのであろうが、チョコレートを思わせる色合いと手触りでとても心地よい。
参照文献
ガルシア=マルケス ガブリエル. (1967年/1972年/1999年/2024年). 『百年の孤独』(Cien años de soledad). (鼓直, 訳) 原著/新潮社/改訳版・新潮社/新潮文庫.
ガルシア=マルケス ガブリエル. (1975年/1983年/1994年/2011年). 『族長の秋』(El otoño del patriarca). (鼓直, 訳) 原著/集英社/集英社文庫/改版・集英社文庫.
ガルシア=マルケス ガブリエル. (2004年/2006年). 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』). (木村榮一, 訳) 原著/新潮社.
2894字(8枚)
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20240625 2111
*[1] 2024年6月26日・新潮文庫より刊行。
*[2] 因みに、少女の真の名前は明らかにされない。「デルガディーナ」は、主人公が『デルガディーナのベッドのまわりは天使で一杯』(これがどういうものなのか訳注がないので不明)との歌の歌詞から付けた愛称である。売春窟の女将ローサ・カバルカスはその名を聞いて「なんだか利尿剤みたいな名前だね。」( [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]78頁)と言っている。これは何か意味があるのだろうか?
*[3] 本作のエピグラムに川端康成の『眠れる美女』の一節が引かれている( [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]11頁)。無論、川端の小説は極めてエロチックであるが、本作は題名と裏腹に全くそれを感じさせない。マルケスがいかように川端の作品を換骨奪胎したかについては十分検討も余地があるだろう。
*[4] [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]12頁。
*[5] [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]126頁。
*[6] [ガルシア=マルケス , 『我が悲しき娼婦たちの思い出』(Memoria de mis putas tristes)(『ガルシア=マルケス全小説』), 2004年/2006年]127頁。
セゾングループは何故崩壊したのか? 辻井喬・上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』
6
沈める城
セゾングループは何故崩壊したのか?
■辻井喬・上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』2008年5月20日。
■対談(流通産業・消費社会・現代史・現代文学)。
■全4章・324頁。
■2024年5月31日読了。
■採点 ★★★★★。
- 「セゾングループ」なる名称は1990年から使用されている。したがって、それ以前については「西武百貨店」なり、「西武流通グループ」なりと、時代ごとに、名称を使い分けねばならないが、本稿では、煩瑣を避けるために、通時的にも一貫して「セゾングループ」という企業群体に仮称させることをご了承頂きたい。
- 傍線部は断りがない限り、全て引用者による。
目次
セゾングループ失敗の原因 第二:グループ内の一部の失敗が波及した... 16
セゾングループ失敗の原因 第三:堤清二の経営責任... 19
セゾングループ失敗の原因 第四:堤清二のパーソナリティ... 21
1 かつて、百貨店というものがあった。。。。。。
今となっては、昔のことですが、かつて、百貨店、デパートメント・ストアは夢の国でした。家族の憩いの場であり、子どもたちにとっても月に一度ぐらい訪れる至福の場所でした。仮に買い物をしなくても、夢のような商品を見て回る、屋上の遊園地で遊ぶ、その下にあったであろう食堂で昼食を取る。丸一日いても飽きない、まさに魔法のような空間でした。
しかしながら、ご存知のように、今や百貨店は長期的な凋落の中にあり、次々と閉店、経営縮小の途を取らざる得なくなっています。
言うなれば、かつて百貨店が、その名の通り、100パーセント引き受けていた、ありとあらゆるアミューズメントが分散し、今や誰も百貨店にその目的を要求しなくなったのだと思います*[1]。
単に商品を購入するという面でも、格安のスーパー・マーケットがあり、値段は少々張るかも知れませんが、24時間営業していて、日常的に必要なものはおよそ何でも手に入るコンヴィニエンス・ストアがあり、更には、送料は掛かるかも知れませんが、必要だと思う商品をピン・ポイントで必要な分だけ購入できるネット・ストアが隆盛を誇る今となっては、個人的には残念ですが、百貨店にその存在価値を見出すことは極めて困難ではないかと思います。
時間の問題だとは思いますが、恐らく百貨店という小売形態は滅亡するか、極めて少数の大百貨店だけが残るのではないでしょうか。
本書は、その百貨店の凋落を文字通り、身を以て体験した、西武百貨店、というよりもそれを包含するセゾングループの経営者であった堤清二さん、――いや、ここではその詩人・小説家としての辻井喬さんが「代理」として登場されていますが*[2]――と、社会学者の上野千鶴子さんの対談です。
一言でいうと、辻井さんには大変申し訳ないですが、本書は尋常ならざる面白さでした。
要は、時代の最先端を行き、あれほどの隆盛を誇ったセゾングループが、バブル経済の崩壊があったにせよ、何故、ああも簡単に
崩壊してしまったのだろうか、という問いに相当緻密に答えようとしていることです。その執念の主たる部分は上野さんの側にありますが、こんなにも、自らに分の悪い対談、――というか、見方によっては「取り調べ」のような企画――など断ってもよかったはずなのに、これに真摯に応えようとしている辻井さんの方がその辛さから言って、言わば精神力の勁さのようなものが要求されたのではないでしょうか。
実は同じような企画*[3]が先行していましたが、それに関しては、辻井さんは生前、刊行を禁じていました。この間に、何か心境の変化でもあったのでしょうか?
元々、堤さんは、自らの仕事を客観化しようという意思がありました。全6巻となるセゾングループ社史である『Série SAISON』です。「社史」であるにも関わらず外部の専門家たちに委託し、第三者の視点からセゾンという企業を捉えようとしました。本書についても、そのような思いがあったのかも知れません。セゾングループの社史『Série SAISON』全6巻の内訳は以下の通りです。いずれもリブロポートから1991年から92年にかけて刊行されたものです。
巻末に、目次についてもご紹介いたしましたが、一企業の社史を編纂するに際して、外部の各専門家に委託し、学問の対象として一企業の歴史とその活動を分析、研究する、という、極めて前代未聞の形が取られました。当然、それは「社史」という枠を大幅に超えて、資本制経済史、社会史、もっと言えば文明史の中に、セゾンという企業群体の意味と、その位置づけを探ろうとする試みだったのです。
それを提案、リードしたのが、事実上のグループ創業者であった堤清二さんその人に他なりません。
この社史の企画が出された1980年代末には、自己の経営する会社群への客観的な視座を堤さんが持っていたことを意味しています。
『Série SAISON』が、セゾングループの最盛期における分析ですから、言ってみれば、セゾンの「成功」について書かれている訳ですが、本書は、むしろ、その逆で、セゾンにおける「失敗」の研究と言ってもよいでしょう。
高名な共同研究に『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』*[4]がありますが、まさに、本書は『失敗の本質――セゾングループの社会学的研究』の予備対談のような趣があるという気がします。
2 資本制経済システムとセゾングループの興亡
さて、1940年に池袋に誕生した「武蔵野デパート」は、戦後49年に、現行の「西武百貨店」と名称を変え、その後、店長に堤清二さんを迎えると、着実にその業績を伸ばしていきました。1982年には池袋本店が百貨店売上高全国1位を、87年には西武百貨店全体として百貨店売上高全国1位を成し遂げました。言うなれば、「全国制覇」を成し遂げた、ということになります。
1985年には、従来「西武流通グループ」といった名称を「西武セゾングループ」と変更し、更には90年にはそれをまた「セゾングループ」と変えました。
しかしながら、その後、バブル経済の崩壊とともに、グループ企業の「東京シティファイナンス」、及び「西洋環境開発」の経営破綻の影響がグループ企業全体へと及び、ついに2000年にグループは解体への道を歩んだのでした。
今でも、まだ西武百貨店は「西武」と名称を変えて残っていますし、グループ企業であった「PARCO」や「西友」あるいは「無印良品」などは、バラバラにはなっていますが、それぞれ独自の路線で生き残ってはいます。
とは言うものの、往時のセゾングループの隆盛を知るものからすれば、まさに隔世の感、とはこのことでしょう。
一体全体、このセゾングループの勃興と滅亡は、単に一企業の問題なのか、いや、そうではなく、20世紀後半の消費社会、資本制経済システムの広がりと深化という現象の典型例だったのか、仮に
後者だとすれば、まさにセゾングループを考えることは資本制経済システムについて考えることに等しいという訳です。
本対談(というよりもインタヴューという方が妥当かも知れませんが)の対談者の一人、上野千鶴子さんは、「まえがき」としてこう書かれています。
セゾンについては、つねにシニフィエよりもシニフィアンの方が過剰である。それは商品よりも貨幣の方がつねに多い慢性インフレ状態の資本主義市場と似ている。そして信用を先送りしながら貨幣を発行し続ける資本主義同様、セゾンもまた、この運動をやめるわけにはいかないのだ。セゾンという一企業集団について語ることは限りなく資本主義について語ることと似ている*[5]
要は、セゾングループは極めて「資本主義」的だった、ということに尽きるということです。まさにおっしゃる通りだと、わたしも思います。
実をいうと、この引用文は、直截、本書『ポスト消費社会のゆくえ』のために書かれたのではなく、以前書かれた論文の一節からの自己引用でした。それは、先に述べたセゾングループ社史である『Série SAISON』の中の一冊『セゾンの発想』*[6]に書き下ろされた「イメージの市場――大衆社会の「神殿」とその危機」という論文からのものでした。この段階では、まだセゾングループは崩壊の芽すら全く出ておらず、最盛期の真っただ中のことでした。
3 セゾングループは何故崩壊したのか?
一体、セゾンの栄光と没落は何を意味していたのでしょうか。
おそらく、今となってはそのことに関心を持つ方々は極めて少ないと思います。
「セゾン」というネイム・ヴァリューも急落して、あるいは企業の固有名詞としては死語に近い状態になっているのではないでしょうか。
本書は、全4章の構成を持ち、セゾングループの前史から、その興隆期、さらにはその解体期までを歴史的に順を追って考察を進めていきます。
セゾンという企業のコアとなるべきものついては、恐らくその隆盛期における様々な活動についても検討せねばなりませんし、本書でも興味深い逸話が多く語られています。そこまでが本書の半分のページが割かれていますが、問題は、後半の半分のページのさらに半分の「第三章」にあります。先にも触れましたが、「失敗の研究」ということになります。
上野さんは、セゾングループの失敗による解体の理由について4つの仮説を立てて、順を追って検討していきます。
4つの仮説とは以下の通りです。
上野さんは、この4つの原因を上げる前提として、そもそも、堤清二の経営責任を問えるのか、という疑問から発している、ということを述べています。
(【引用者註】上野さんがNHKの『わが挫折を語る 日本企業への教訓』*[7]という番組に出演したのは)世間は「セゾングループの失敗は総帥・堤清二の失敗だ」と言うけれども、一体どの企業がバブル崩壊を予測して、そのダメージを避けることができたのか、という疑問があったからです。(中略)つまり時代の抗いようのない変化にのまれたとき、堤清二を責める権利は誰にあるのかという疑問があって、私はこの番組に出演しました。*[8]
その意味では、本書も、広い意味での「堤清二擁護説」*[9]を取っているとも言えます。
4 セゾングループ失敗の原因
では、順を追って確認していきましょう。
セゾングループ失敗の原因 第一:グループの体質
1960年代に勃興し、80年代には覇権を手中に収めた西武百貨店を基幹企業とするセゾングループですが、旧来の伝統的な百貨店の経営者たちや、あるいはその顧客たちから見ると、あるいは白眼視されていたかも知れません。言ってみれば、虚飾に彩られて、実質が伴わない、砂上の楼閣のように見えていたかも擦れません。
ここにはいろいろな意味があるのだと思いますが、一つには、セゾンが創業の当初から「借金体質」*[10]だったということもあります。上野さんはこう述べます。
セゾンの成長期は「リスクをとって拡大する」という成長型DNAが埋め込まれていました。このDNAがあったから、バブルの崩壊で躓いたときのセゾングループのつんのめり方が大きかったというのが、私の解釈ですが。*[11]
つまり、この「リスク」というのが「借金体質」だったということになります。
しかし、本書では、この項では述べられていませんが、セゾンのDNAとは何かを考えると、情報発信が先行する形での小売り業だったのではないでしょうか。
80年代に最も先鋭的な広告宣伝を行っていた企業の一つがセゾングループでした。まさに、これこそ、上野さんがいみじくも述べる「つねにシニフィエよりもシニフィアン(*[12])の方が過剰である。」*[13]という発言と符合するところでしょう。つまり、実態よりも過剰な情報が付加されて、それが合金(アマルガム)として、価格が吊り上げられた商品として、販売されるのです。いわゆるブランド物の商法とはそういうものですが、それを牽引したのが西武百貨店だったのです。西武百貨店は多くのブランドとライセンス契約を結び、それらを日本に紹介したことで知られています*[14]。つまり、ブランドというラベルは単なる情報にしか過ぎません。しかし、消費者は、その情報に高いお金を払っていたのです。「情報の商品化」*[15]という訳です。わたしたち消費者は「商品ではなく、情報を買っているわけです。」*[16]
つまり、このイメージ戦略による「情報の商品化」こそがセゾンの、よく言えばDNA、平たく言えば体質ということにならないでしょうか。
「バブルの経済」については、また別途触れねばなりませんが、言ってみれば、セゾンは、期せずして、この「バブルの経済」の波に乗ったのです*[17]。そして、波が去ったあとは、見事に泡となって消えた、ということになります。まさにセゾンこそバブルの経済を象徴する企業ではなかったではないでしょうか。
無論、そのことは辻井さん自身も百も承知だったはずです。
ブランド物を売り続けることの罪の意識からなのかは分かりませんが、1980年には、今に連綿と続く、ノンブランド商品である「無印良品」の販売が始まっています。これは今や世界に広がっている、大変なヒット商品群だったのです。
また、借金の問題についても、各グループ企業のトップには注意を促したことを辻井さんは述べています。
金融機関の言いなりになって、ほいほいお金を借りては絶対いけない」、「土地転がしは絶対するな」と注意を促した記憶があります。ところが、グループの幹部はこの注意を見事に守らなかった。*[18]
すなわち、これが、第二の原因となります。
セゾングループ失敗の原因 第二:グループ内の一部の失敗が波及した
一般的には、セゾンの崩壊の直接的な理由として挙げられるのが、不動産会社(?)「西洋環境開発」の失敗が余りにも大きく、グループ本体にまで波及した、ということになっているようです。
上野 セゾングループは、西洋環境開発と東京シティファイナンスの多額の負債が引き金となって、小売業でも不良債権を抱えた部門の清算や売却を迫られ、グループ全体が解体という道を辿っていくことになります。一番の命取りは、やはり西洋環境開発でしょうか?
辻井 両方いい勝負じゃないでしょうかね。でも損害の額からいったら東京シティファイナンスのほうが大きいですよ。(中略)しかし、この二つの会社でグループは解体せざるを得なくなった。*[19]
意外に東京シティファイナンスの損害が大きかったようですが、いずれにしても辻井さんがおっしゃっているように、この二社の波及が相当に大きいものだったということになります。
本書ではグループ内企業の失敗例を5つ挙げて説明しています。
いずれも本業たる百貨店、あるいは小売業という流通産業から離れた、土地、建物に付随するサーヴィスを商品とする、広い意味での「不動産業」、あるいは「金融業」での失敗、ということになりますが、まさに「バブルの経済」に竿を差した企業展開だったと言えます。言うなれば、転ぶべくして転んだ、とも言えますが、それぞれの企業トップの経営手腕がかなりお粗末だったということと、それを見破ることができなかった辻井さんの経営責任も当然あったのだと思います。
セゾングループ失敗の原因 第三:堤清二の経営責任
堤さんに経営責任がないはずはないので、当然と言えば当然なのですが、この問題は、原因の第四にあたる「堤清二のパーソナリティ」とも連動する問題だろうとは思います。言ってみれば、これもセゾンの体質、と言っても過言ではないかも知れません。
例えば、先の原因の第二の中に上げた「西洋環境開発グループ」の失敗は、それらの各企業体のトップの失敗ですが、それは、彼らが、或る種、堤さんの体質を忖度した結果とも言いうるかも知れません。「長期滞在型休暇」を前提としてデザインされた「サホロリゾート」など、誇大妄想としか言いようがない――現在も、その当時も日本においてそのようなライフスタイルが可能な層がどれくらいいたというのでしょうか? ――ですが、堤清二の構想の基底にあるものは、まさにこの「誇大妄想」ではなかったでしょうか? 街を新たに作ろうとした「つかしん」然り、「タラサ志摩」の「巨大な殿堂」*[20]のような建造物然り。
上野さんはこれについて、こう述べています。
辻井さんは、採算を度外視して投資をなさる方だという考え方が、社員に定着していたのではないでしょうか。(中略)権力の追随者というものは、権力者の意向を過剰にくみ取って、権力者の意向以上に突出しがちなものです。*[21]
それに対し、辻井さんはこう述べます。
彼ら(*[22])は、私の企業理念をまったく理解しないで、私への思い込みだけで過剰に反応していたんだと思います。だから「立派にしないとご機嫌が悪いよ」という話になってしまうんです。*[23]
要は、上野さんがいみじくも語るように「辻井さんのお考えに、経済合理性があると思われていなかったのではないでしょうか?」*[24]ということだったのかも知れません。
辻井さんの、多角的に経営の手を拡げる、それも流通業とは異なる異分野への拡大、――とりわけ美術館や劇場などの文化的な施設への投資を見れば、あたかも、辻井さんが趣味的に金を使っていると見られてもおかしくはなかったのではないかと思います。
セゾングループ失敗の原因 第四:堤清二のパーソナリティ
そもそも、辻井さんは経営者として適格だったのでしょうか? それについてはわたしには分かりません。たまたま偶然のように、百貨店の店長となり、後発故の不利を挽回するために、辻井さんの独自の感性と理念を活かして急成長しましたが、それはまさに、当時の日本の置かれていた経済状況の好調と符合していた訳です。その波が去ってしまえば、当然経営的にも苦戦に追い込まれるのは必然だったかもしれません。それは多くの日本企業が軌を一にして経験したことですが、セゾングループはとりわけそのプラスとマイナスが極端な形で出たということになります。
しかしながら、それにしても、セゾングループの急落はいささか腑に落ちません。一体、何が他社と違っていたのでしょうか?
本稿は「沈める城――辻井喬/堤清二」という通しタイトルを持ちます。いうまでもなく、「沈める城」とは、1982年に刊行された詩集であるとともに、1998年に同題で刊行された長篇小説のことです。
かつて、わたしは、辻井さんにとっての、この「沈める城」のイメージについて次のように書いたことがあります。
80年代、と言えば、1980年に「無印良品」が誕生します。翌81年にコンヴィニエンス・ストア「ファミリー・マート」が設立され、更にその翌年82年には西武百貨店池袋本店が百貨店の年間売り上げ第一位を獲得します。言うなれば、全国制覇、天下を取ったにも等しい業績です。/全く以て素晴らしい、と言いたいところですが、その同じ82年に、詩集『沈める城』が刊行されているのです。/堤さんは、天下を統一した自らの城が、安土城のように焼け落ちるのではなく、密かに、水の中に沈んでいくヴィジョンを目にしていた、ということになります。/ 穿った見方をすれば、堤清二は、水中に沈めることこそが目的で、営々と自らの城を築いてきたのではないか、というのは、部外者であるわたしの単なる妄想であるに違いありません。*[25]
つまり、辻井さんは自らの破滅のイメージに無意識に合わせる形で、起業家としても、そのように行動してしまったのではないか、ということです。そんな馬鹿な、と思うところですが、何しろ無意識ですから、ご本人の責任をどれくらい問えるかは難しいところです。
実はこの問題を、既に指摘されていた方がいます。辻井さんとも対談されている三浦展(みうらあつし)さんです。上野さんはその三浦さんとの対談集『消費社会から格差社会へ』*[26]を上梓されています。
本書では上野さんによって、こう紹介されています。「セゾングループはなぜ失敗したのか」という問題について、
彼は、堤さんの「破滅への願望が、こういう事態を招いたというか、意図的に惹き起こしたというか」と述べています。これは彼の卓見だと思います(。)(中略)三浦さんはその対談で、いくつか印象的なキーワードを述べています。辻井さんのあの失敗は「確信犯だ」。それから辻井さんには「死への衝動」があると。*[27]
辻井さん、本人も、半分冗談だとしても、「なるほど。それはいいこと言ってる。」*[28]と言ってるぐらいですから、多少なりとも正鵠を射る点があったのかも知れません。
会社経営者としてはとんでもない、はた迷惑な話ですが、芸術家として考えれば全くあり得ない話でもありません。すなわち、堤清二がセゾングループの経営をしていた訳ではなく、その上位パーソナルであるところの辻井喬が、芸術創造として、その作品として企業の経営をしていたのだと考えれば得心がいきます。
陶芸家が納得のいかない作品を惜しげもなく破壊するように、辻井さんも、自らの企業理念から逸脱した企業群を破壊した、ということなのでしょうか?
①11,645字(30枚)
【参考資料】
③『セゾンの発想――マーケットへの訴求』目次
1 イメージの市場 大衆社会の「神殿」とその危機(上野千鶴子)
池袋店9期と「イメージ戦略」
成熟消費社会と百貨店の文化化
パルコ 西武よりも西武的な
八〇年代グループ拡張とCI戦略
結論
2 研ぎすまされたドン・キホーテ 生活者への提案(中村達也)
消費社会の現在
セゾングループからのメッセージ
3 「カベ」への挑戦 地域への対応(田村明)
地域と企業
セゾングループの地域へのかかわり
街づくりへの挑戦
可能性と限界
都市の時代の街づくりとその担い手
4 無戦略の漂流から 多角化の論理(橋本寿朗)
セゾンの経営と時間の観念 序にかえて
西友ストアーの創設
クレジットカードビジネスの開拓
外食産業の新生
企図の慎重な実現 一つの総括
5 生ける逆説 文化・芸術戦略批判(三浦雅士)
変化
スーパーマーケット
キャッシュ・レジスター
アメリカ
物語
大衆の変容
文化戦略批判
批判と反批判
イロニー
ミダース王の手
クリエーター一覧
④『零の修辞学――歴史の現在』目次
吉見俊哉「シミュラークルの楽園──都市としてのディズニーランド」
大島洋「Fax NUDE 東京1992」
片木篤「個室のユートピア」
森下みさ子「占いのディスクール」
生井英考「デザイン、消費文化の上演」
山田登世子「誘惑ゲーム──性とモードの現在」
伊藤俊治「記憶装置の変容──美術館革命とマルチメディア動向を中心に」
多木浩二「デザインの社会」
松田行正「CONTAINER」
森下みさ子「作動する「教育」装置──空なる記号の場」
多木浩二「スポーツという症候群」
多木浩二「あとがき」
目次 1 近代性の構造
機械
自然の機械化
宇宙模型としての機械
身体の機械化
自動装置
精神の機械化
精神という実験
感性の機械化
機械の美学
社会の機械化
機械状組織
トランスモダンの作法1
ファルマコン装置
「ロゴス」のメタモルフォーゼ
〈私〉の戦争機械
崇高1
顔
眼と永遠
2 近代性の構造
方法
知の方法
発見的知性
支配の方法
主人と奴隷
方法のエチカ
自律の空間
方法と術
アルス変容
方法の外部
漂流の技法
トランスモダンの作法2
反方法
追憶と追悼
〈純粋〉というレトリック
雑種の精神
エチカ・ネガティーヴァ
軟体構築
夢見る力
3 近代性の構造
交通
装置の体系
分割の装置
分身たちの共同体
訓練の装置
時間の牢獄
統合の装置
飼いならされた自然
加速する装置
次元の消滅
トランスモダンの作法3
群衆
間
内なる異者へ
「声の風」あるいは書物の解体
homo viator
貨幣について
嗅覚の政治学
4 近代性の構造
労働
労働と倫理
労働社会の到来
労働と技術
労働と消費
流通する身体
労働と自己
資本主義的人間
労働と蓄積
記憶の外部化
トランスモダンの作法4技術時代と遊戯の精神
Ontopoietik
崇高2
人生の日曜日
不幸計算
ニヒリズムとシュールユマン
宇宙の美学
5 近代性の構造
時間
創造と時間
新しい時を求めて
直進する時間
時計仕掛けの進歩
時間の先取
企てる精神
モードの時間
〈いま〉の専制
時間の組織化
発明される発明
トランスモダンの作法5
未熟
物語・断章
空間の再発見
未来の廃墟
歴史の終焉
反歴史哲学
詳細目次
参照文献
セゾングループ史編纂委員会 (編). (1991年). 『セゾンの活動――年表・資料集』. リブロポート.
戸部良一, 寺本義也, 鎌田伸一, 杉之尾孝生, 村井友秀, 野中郁次郎. (1984年/1991年). 『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』. ダイアモンド社/中公文庫.
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*[1] 言うなれば、個人の欲望が個々に受容される形になりつつある気がします。テレ-ヴィジョンの地上波の放送は衰退し、ネットで好きな番組を好きな時間見ることが可能になりました。他の業種についても同様な現象が生じているのではないでしょうか? 例えば教育。学力や個々のニーズが全く異なる多人数の生徒を一ヵ所に集めて、蜿蜒と授業をする、という形態は徐々に崩れ始め、ネットで、自分の能力や、自分の知りたいことを、自分のスピード、自分のタイミングで学べるようになっていくのだと思います。これについては別稿を立てて論ずる必要があろうかと思います。
*[2] 恐らく、堤清二さんの上位パーソナルが辻井喬さんなのです。
*[3] [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]。
*[4] [戸部, ほか, 1984年/1991年]。
*[5] 上野「イメージの市場――大衆社会の「神殿」とその危機」/ [上野, 中村, 田村, 橋本, 三浦, 1991年]136頁/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]11頁-12頁より援引。
*[6] [上野, 中村, 田村, 橋本, 三浦, 1991年]。
*[7] 2003年・NHK・「ETVスペシャル」。堤清二さんも出演していたそうです。
*[8] [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]172頁。
*[9]上野さんの発言/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]172頁。
*[10] 上野さんの発言「セゾングループの場合の「リスク」とは、何といってもその借金体質だったんですね。」/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]177頁。
*[11] [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]175頁。
*[12] 【引用者註】「シニフィアン(仏: signifiant)とシニフィエ(仏: signifié)は、フェルディナン・ド・ソシュールによってはじめて定義された言語学の用語。また、それらの対のことを、シーニュ(仏: signe)と呼ぶ。/概要/シニフィアンは、フランス語で動詞 signifier の現在分詞形で、「指すもの」「意味するもの」「表すもの」という意味を持つ。/それに対して、シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「指されるもの」「意味されているもの」「表されているもの」という意味を持つ。[フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』]。
*[13] 上野「まえがき」/[辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]11頁。
*[14] 辻井さんの発言「海外ブランドはほとんど私のところが導入しましたね。」/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]164頁。
*[15]上野さんの発言/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]167頁。
*[16]上野さんの発言/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]167頁。
*[17] 上野さんはこう述べています。「時代に乗っかった者は、必ず時代に追い越される、つまりマーケットから飽きられるときが、必ず来ます。」/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]106頁。
*[18]辻井さんの発言/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]176頁。
*[19] [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]193頁-194頁。
*[20] [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]183頁。
*[21] [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]184頁。
*[22] 【引用者註】セゾングループ内の各企業のトップ。
*[23] [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]185頁。
*[24] [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]185頁。
*[26] [上野 三浦, 『消費社会から格差社会へ』, 2007年]。
まさに「沈める城」ではないか――辻井喬ではなく、堤清二を追い詰める 御厨貴・橋本寿朗・鷲田清一編『わが記憶、わが記録――堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』
※これ以後、辻井喬=堤清二に関する一連の文章の通しタイトルを「沈める城――辻井喬/堤清二」と致します。
まさに「沈める城」ではないか――辻井喬ではなく、堤清二を追い詰める
御厨貴・橋本寿朗・鷲田清一編『わが記憶、わが記録――堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』
■御厨貴・橋本寿朗・鷲田清一編『わが記憶、わが記録――堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』2015年11月25日。中央公論新社。
■インタヴュー・座談(流通産業・消費社会・現代史・現代文学)。
■全13回・327頁。
■2024年5月25日読了。
■採点 ★★★★☆。
目次
5 「あれ、私がやっていることは、いったい何だろう。」... 13
1 書籍化を前提としないインタヴュー
本書は、今は亡き、セゾン・グループ代表にして、詩人、小説家である堤清二=辻井喬さんへの、いわば「幻」のインタヴュー集(「オーラルヒストリー」*[1]とされています)の書籍化です。
本企画は、政治学者・御厨(みくりや)貴(たかし)さんを中心として、経済学者・橋本(はしもと)寿(じゅ)朗(ろう)さん、哲学者・鷲田(わしだ)清一(きよかず)さんによるものです。
御厨さんの「あとがき」*[2]をまとめると、次のような経緯があったようです。
- 1990年代頃、オーラルヒストリーの依頼
- 1990年代末、諒承。ただし「記録はとるが整理はせず冊子化しないという厳しい条件つき」*[3]。
- 2000年4月~8月、オーラルヒストリー第1期(第1回から第7回)実施。
- 2000年11月~2001年10月、オーラルヒストリー第2期(第8回~第13回。堤、第2期の整理を拒む*[4]。したがって第2期は堤の手が入っていない*[5])実施。
- 2002年1月、インタヴュワーの一人、橋本寿朗、急逝。
- 2005年1月、第1期分を報告書スタイルとして公にされる*[6]。
- 2015年11月、未定稿であった第2期分も含めて整理し、『わが記憶、わが記録』として公刊。
以上のような次第ですので、あるいは泉下の堤=辻井さんはこの出版を諒とされなかったかも知れませんが、個人的には極めて面白かった、と言わざるを得ません。元々が書籍化を前提にしていないインタヴューだった*[7]こともあり、――到底本人が文章にすることはないだろうと思われる、無尽蔵に裏話の数々が披露されます。
例えば、堤さんの手引きで、首相候補者たち*[8]が密談(?)を、旧堤邸*[9]にて、数回行われたこととか、戦後史の驚くべき事実が明かされたりもします*[10]。
2 辻井喬ではなく、堤清二を追い詰める
無論、そういう側面もありますが、わたしとして興味深かった点は、インタヴュワーの方々のご努力の賜物だと思いますが、類書*[11]に比べて、辻井喬ではなく、堤清二の側面、すなわち、経営面、取り分け西武流通グループに始まり、セゾン・グループの絶頂期と、そしてその急激な凋落の背後を入念に聞き出していることです。
20世紀日本における、流通産業の文化の問題、あるいは、一企業の枠を越えたセゾンという企業群体の意味を考えるに当たって、これは極めて重要かつ、他に替え難い試みであったというべきでしょう。
御厨さんはこう述べています。
月一回という約束で開始。当初は堤さんは硬い表情を崩さず、こちらの質問にメモをとる形で、ゆっくりと考えながら話す趣きであった。だから意外におしゃべりじゃないとの印象をもった。/しかし語り手と聞き手の緊張感は、ツッコミの橋本、ボケの鷲田との応酬の中で、急速になくなっていった。場所はいつも堤さんのフランチャイズで、ホテル西洋銀座、日比谷中日ビル・シーボ二アメンズクラブ、果てはホテルメゾン軽井沢、軽井沢セゾン現代美術館に及んだ。一回二時間が三時間に延長され、夜の時間帯に設定されると酒食も件にするようになった。/これらはすべて普通のオーラル・ヒストリーではご法度(はっと)のことばかりである。しかし我々はツキモノがついたかのようにお互いの距離感をつめていき、二〇〇〇年八月には軽井沢で合宿形式で行うに至った(第五回—第七回)。今冷静に本書を読み返してみると、 オーラル・ヒストリー変じて大シンポジオンの趣きが明らかである。我々三者による切り苛むような質問に、堤さんが受け太刀になりながら、懸命に返り討つさまが、見てとれる。特に文化論ではなく、経営論に絞ったため、〝敗者〟堤清二は、何かに抗うかのように、自らの複層的な思いが、いかにグループ内に浸透しなかったかを、くり返し熱をこめて語った。
(中略)
「辻井喬」 として逃げきろうとする堤さんを、 我々三人は示し合わせたわけではないのに、「堤清二」 に引き戻して追いつめたのである。 その結果、堤さんはこの七回で打ち切りを宣し、速記の整理も活字化もしないとの当初の条件よりは歩み寄ってもらったものの、我々は手入れの後の冊子化で手を打たざるをえなかった。 これが、軽井沢夏の宴でのぎりぎりの妥協であった。*[12]
すなわち、辻井喬が本体であって、堤清二は仮の姿であった、とでも言うかのように、辻井さんは、引退後、辻井喬の名前で旺盛な執筆活動に勤しみます。
無論、文学者としての辻井喬の意味や価値は独立したものとして現代日本文学の屹立することは言うまでもありません。しかしながら、あれほど一世を風靡した、というよりも、まさに、時代を変えた、世界を変えた、とでもいうしかない、堤清二のセゾンでの活動は、――本人は言下に否定するでしょうが、あるいは文学者・辻井喬の存在を圧倒的に超えているのではないか、あるいはそれを包含しているのではないかと思うのです*[13]。
その意味で、御厨さんたちが、執拗な執念とでも言いたい、尋常ならざる強い思いで辻井喬ではなく、堤清二の立場での言葉を引き出したのは特筆に値すると思われます。
本書はその意味でも、堤清二という稀代な実業家、というよりも、途轍もなく巨大な楼閣と、それを囲繞する街や村を創造しようとした人間の、或る種の実像のようなものに限りなく迫った作品であると言えます。
3 存在論的自己否定
三浦雅士さんは、辻井喬さんの代表作は、二つの『沈める城』*[14]であるとおっしゃっています*[15]。二つというのは詩集と長篇小説で同名の作品があるからです。
それにしても「沈める城」とは、なんと予見的な作品名でしょうか。セゾン・グループの最盛期に、既に、自らが創造した企業群体が沈んでしまうことを予想していたのでしょうか?
あるいは、自らの内的イメージに符合させんがために、無意識に会社崩壊の引鉄を引いたとでも言うのでしょうか。無論、そんなことがあろうはずはあり得ません。しかしながら、強迫観念、と言っても無意識、と言ってもいいのですが、総じて、人をして、その行動を暗黙の裡に縛るものとは、得てしてそういうものなのかも知れません。
セゾングループには外部の専門家に委託した、大部の社史のシリーズがあります*[16]。
その中で、三浦雅士さんが、「セゾンとはニヒリズムの企業である」*[17]と述べているそうです。この三浦さんの発言に対して、堤さんは、それを「もっともなことだ」とした上で、こう述べています。
つまり会社のなかでの私の発言は、「自分が損するようなことをやったら、だいたい成功する時代だよ」ということだったのです。*[18]
この言い方は、あたかも「損して得取れ」や、「情けは人の為ならず」的な、卑近とも言える日常の道徳を述べているようにも思えますが、――無論、堤さんの行動の基幹には「人のためになる」*[19]という倫理観が存在していることは言うまでもありませんが、そのような、言ってみれば道徳的な「自己否定」ではなく、存在論的な「自己否定」があるような気もするのです。
先の堤さんの発言を受けて、橋本さんは「この時代の堤さんの戦略は終始一貫して自己否定です。」と指摘します。
すなわち、セゾングループは、というよりも堤清二という企業人は、徹底的に、それまでの自身の仕事を否定し、その上に新たな課題を発見し、それを解決する形で、次の仕事が構築されてきた、とも言えます。
具体的に言えば、「西武百貨店」を否定する形で、量販店(スーパーマーケット)「西友」や、「ファッション・ビル」つまりは場所を提供するテナント・ショップである「PARCO」を生み出し、あるいは、それらを否定する形でコンヴィニエンス・ストア「ファミリー・マート」を生み出します。そして、最終的にはブランドを否定する、ノン・ブランド商品の開発と販売を手掛ける「無印良品」にまで辿り着きます。
4 資本制システムとセゾンの無限拡張運動
これをして、鷲田さんはこう述べます。
しかし自己否定という概念はものすごく徴妙です。企業精神のフィロソフィー (哲学)としては自らを模倣したらもう終わりでしょう。 ただ、多くの画家やファッションデザイナーは、 一つ当たると自分のスタイルを模倣して数年間しのぐところがある。けれど、自己模倣は、創造にとってはいちばん危ない。だからこそ、自己否定はフィロソフィーになりうる /それはフィロソフィーであると当時に、モードの論理でもある。つまり前のシーズンと違うことを絶えずしつづける。止まったら終わり。だからセゾン・カルチャーは自己否定のフィロソフィー、モードの論理で、あるいはその背後にある資本主義の論理、つまり絶えず拡張しなければならない論理で動くのか、いずれにせよ、そういうもののなかにいやがおうにも呑み込まれる。その非常に徴妙なところで、 堤さんは舵取りをせざるをえなかったと思うのです。*[20]
堤さんが、最後に手がけた事業の一つがノンブランドたる「無印良品」でした。彼は、それを「反体制商品」*[21]だと言っていますが、「結果的にノーブランドというブランドになってしまった。」*[22]と堤さん本人が言うように、自己否定の運動に組み込まれた「反体制」は、それすらも「体制」、というよりも或るシステムと組み込まれていったのではないでしょうか。
鷲田さんがおっしゃっていることと同じことになりますが、社会学者の上野千鶴子さんも同様のことを述べています。
セゾンについては、つねにシニフィエよりもシニフィアンの方が過剰である。それは商品よりも貨幣の方がつねに多い慢性インフレ状態の資本主義市場と似ている。そして信用を先送りしながら貨幣を発行し続ける資本主義同様、セゾンもまた、この運動をやめるわけにはいかないのだ。セゾンという一企業集団について語ることは限りなく資本主義について語ることと似ている*[23]
5 「あれ、私がやっていることは、いったい何だろう。」
恐らく、堤さん自身が本来的に持っている「自己否定」感とでも言うべきものが、まさに20世紀後半の大衆消費社会のシステム、それすなわち資本制経済のシステムとマッチしたことにより、セゾンという、未曽有のイメージの帝国が誕生し、短期間で、敢え無く崩壊していったのでしょう。この崩壊の根元にもやはり「自己否定」の運動の時限装置が埋め込まれていたのではないかと思うのです。
堤さんは、こうも述懐しています。
「あれ、私がやっていることは、いったい何だろう。本当にいいことをやっているのか、どうなんだ」という疑問を持ちだしたのは、八〇年代に入ってからです。*[24]
80年代、と言えば、1980年に「無印良品」が誕生します。翌81年にコンヴィニエンス・ストア「ファミリー・マート」が設立され、更にその翌年82年には西武百貨店池袋本店が百貨店の年間売り上げ第一位を獲得します。言うなれば、全国制覇、天下を取ったにも等しい業績です。
全く以て素晴らしい、と言いたいところですが、その同じ82年に、詩集『沈める城』*[25]が刊行されているのです。
堤さんは、天下を統一した自らの城が、安土城のように焼け落ちるのではなく、密かに、水の中に沈んでいくヴィジョンを目にしていた、ということになります。
穿った見方をすれば、堤清二は、水中に沈めることこそが目的で、営々と自らの城を築いてきたのではないか、というのは、部外者であるわたしの単なる妄想であるに違いありません。
参照文献
セゾングループ史編纂委員会 (編). (1991年). 『セゾンの活動――年表・資料集』. リブロポート.
三浦雅士. (2016年). 「二つの名前を持つこと」. 著: 菅野昭正 (編), 『辻井喬=堤清二――文化を創造する文学者』. 平凡社。
三浦展. (2004年). 『ファスト風土化する日本――郊外化とその病理』. 洋泉社新書y.
三浦展. (2005年). 『下流社会――新たな階層集団の出現』. 光文社新書.
上野千鶴子, 中村達也, 田村明, 橋本寿朗, 三浦雅士. (1991年). 『セゾンの発想――マーケットへの訴求』. (セゾングループ史編纂委員会, 編)
村上春樹. (1996年). 「トニー滝谷」. 著: 村上春樹, 『レキシントンの幽霊』. 文藝春秋.
辻井喬. (1969年). 『彷徨の季節の中で』. 新潮社.
辻井喬. (1982年). 『沈める城』(詩集). 思潮社.
辻井喬. (1998年). 『沈める城』(長篇小説). 文藝春秋.
辻井喬. (2009年). 『叙情と闘争――辻井喬+堤清二回顧録』. 中央公論新社.
辻井喬, 上野千鶴子. (2008年). 『ポスト消費社会のゆくえ』. 文春新書.
堤清二. (1985年). 『変革の透視図――脱流通産業論』. トレヴィル.
堤清二, 三浦展. (2009年). 『無印ニッポン――20世紀消費社会の終焉』. 中公新書.
堤清二, 辻井喬. (2015年). 『わが記憶、わが記録――堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』. (御厨貴, 橋本寿朗, 鷲田清一, 共同編集) 中央公論新社.
不明. (2024年). 「無印良品について」. 参照日: 2024年5月19日閲覧, 参照先: 無印良品: https://www.muji.com/jp/about/?area=footer
由井常彦, セゾングループ史編纂委員会 (共同編集). (1991年). 『セゾンの歴史――変革のダイナミズム』上下. リブロポート.
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*[1] 「オーラル・ヒストリー (oral history) あるいは口述(こうじゅつ)歴史(れきし)とは、歴史研究のために関係者から直接話を聞き取り、記録としてまとめること。政治史・労働史・地域史などのように、歴史研究の方法としてフィールドワークの伝統が根づいているところや、学際的な交流がなされてきた研究領域で発展してきた。出自は1920年代の都市社会学におけるシカゴ学派のライフストーリーの方法論にたどることができる。」(Wikipedia)。
*[2] 御厨「堤清二が辻井喬か、辻井喬が堤清二か、謎解きに迫る」/ [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]。
*[3] [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]303頁。
*[4] [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]305頁。
*[5] [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]305頁。
*[6] 「政策研究大学院大学のオーラル・ヒストリープロジェクトの報告書」/ [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]299頁。
*[7]「記録はとるが整理はせず冊子化しないという厳しい条件つきだった。」御厨「堤清二が辻井喬か、辻井喬が堤清二か、謎解きに迫る」/ [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]303頁。
*[9] 「米荘閣」。この時はセゾングループの迎賓館の役割を果たしていましたが、グループ崩壊時に売却。現在は高級マンションが建っています。
*[10] [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]264頁-269頁。
*[11] [辻井, 『本のある自伝』, 1998年]、 [辻井, 『叙情と闘争――辻井喬+堤清二回顧録』, 2009年]などでは、このビジネスの側面が巧妙に隠蔽、あるいは忌避されているような気がします。まあ、それは当然と言えば当然ですね。
*[12] 御厨「堤清二が辻井喬か、辻井喬が堤清二か、謎解きに迫る」/[堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]304頁。傍線引用者。
*[13] そのような観点からも辻井喬の作品群を検討すべきではないかと考えています。
*[14] [辻井, 『沈める城』(詩集), 1982年]、 [辻井, 『沈める城』(長篇小説), 1998年]。
*[16] [由井 セゾングループ史編纂委員会, 1991年]、 [上野, 中村, 田村, 橋本, 三浦, 1991年]、 [セゾングループ史編纂委員会, 1991年]。
*[17]三浦「生ける逆説――文化・芸術戦略批判」/ [上野, 中村, 田村, 橋本, 三浦, 1991年]/ [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]130頁から援引。
*[18] [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]131頁。
*[19]辻井の発言/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]43頁。
*[20]鷲田の発言/ [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]131頁。
*[21] [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]133頁。
*[22] [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]133頁。
*[23] 上野「イメージの市場――大衆社会の「神殿」とその危機」/ [上野, 中村, 田村, 橋本, 三浦, 1991年]136頁/ [辻井 上野, 『ポスト消費社会のゆくえ』, 2008年]11頁-12頁より援引。
三浦雅士――人間の遠い彼方へ その5 第4章 起源の方へ㊤
三浦雅士――人間の遠い彼方へ その5
鳥の事務所
第4章 起源の方へ
1 「自分が死ぬということ」――中島敦「狼疾記」
皆さん、こんにちは。今回も宜しくお願いします。中島敦って皆さん、ご存じですか。教科書で読みませんでしたか。
中島 敦(1909年~1942年)は、例の、虎に変身する話「山月記」が高校の教科書に載ってて、超有名な小説家ですが、33歳であっけなく死んでしまいました。喘息だそうです。中島敦と言えば、どうしても中国古典もので有名ですが、三浦さんは『出生の秘密』で念入りに中島の知られざる作品、「北方行」や「南島譚」などを紹介し、再評価を促しました。現在、ウェブサイト『青空文庫』やほとんどの文庫で中島の作品は読めます。全部というなら、ちくま文庫版『中島敦全集』(全3巻・1993年)があります。
で、その中島敦に「狼疾記」なる短篇小説があります。
小学校の四年の時だったろうか。肺病やみのように痩(や)せた・髪の長い・受持の教師が、或日何かの拍子で、地球の運命というものについて話したことがあった。如何(いか)にして地球が冷却し、人類が絶滅するか、我々の存在が如何に無意味であるかを、その教師は、意地の悪い執拗さを以て繰返し繰返し、幼い三造たちに説いたのだ。後(のち)に考えて見ても、それは明らかに、幼い心に恐怖を与えようとする嗜虐(しぎゃく)症(しょう)的な目的で、その毒液を、その後に何らの抵抗素も緩和剤をも補給することなしに、注射したものであった。三造は怖かった。恐らく蒼(あお)くなって聞いていたに違いない。地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。ところが、そのあとでは太陽までも消えてしまうという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分たちは何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙はこのままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、何のために自分は生れて来たんだ? それからしばらく、彼は――十一歳の三造は、神経衰弱のようになってしまった。(中島敦「狼疾記」/ウェブ・サイト「青空文庫」より援引*)
*底本:「山月記・李陵 他9篇」岩波文庫、岩波書店、1994(平成6)年7月18日第1刷発行。底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房、1976(昭和51)年3月15日。初出:「南島譚」今日の問題社、1942(昭和17)年11月。入力:川向直樹、校正:浅原庸子、2004年8月10日作成。
三浦さんはこの箇所に触れて、中島の持った「恐怖の眼目」*は「人類の滅亡にあった」*とし、「人類とともに人類の言語もまた消滅する」*ことであり、それすなわち、自分の「死を浮かべる文脈そのものが失われるという恐怖」*、「永遠に再生できないことへの恐怖だ」*としています。
つまり、それは「自分が死ぬという恐怖」*とは「違う」*のだ、と述べているということです。
*三浦「孤独の発明」本篇・16・p.p.330-332。
もちろん、中島の文意を取る限り、そうだと思います。この後にも「彼にとって、これは自分一人の生死の問題ではなかった。人間や宇宙に対する信頼の問題だった。だから、何万年後のことだからとて、笑ってはいられなかったのだ。」*という下りが確かにありますからね。
しかしながら、個人的な感想めいたものを差し挟めば、太陽すらも焼亡したあと、「真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう」*様子を見ているのは一体誰でしょうか。そして、この暗黒の宇宙空間の想像・妄想から「それでは自分たちは何のために生きているんだ。」*という疑問に移りますが、ここで言う「自分たち」とは一旦は「人間たち」のことでしょうが、この疑問は再度繰り返されます。もしもやがて人類も滅亡して、太陽も燃え尽きてしまうとするならば、「自分たちの生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、何のために自分は生れて来たんだ?」*
礼儀正しく(?)最初こそ「自分たち」の存在の意味を問うているのですが、最後は「自分」の意味を声高に尋ねています。つまり何もない宇宙空間で暗黒の様子を見ているのは、まさに「自分」自身以外の何者でもないのではないでしょうか。
三浦さんは、中島の原文の文脈的に、あるいは引用分を挿入した三浦さんの分の文脈的に「この恐怖が自分が死ぬという恐怖と違う」*と述べてはいますが、そもそもの根源的な恐怖は、三浦さん自身が何度も繰り返し言及する「自分が死ぬということ」**ではないのでしょうか。
*三浦「孤独の発明 16 再生すること」/『群像』2011年4月号 ・p.p.331-332。
**三浦『自分が死ぬということ――読書ノート1978~1984』1985年・筑摩書房、所収の、とりわけ「序――自分が死ぬということ――」、及び「私という観念――ボルヘスと小島信夫」参照。
そもそも、この暗黒の宇宙空間のイメージからしてそこに帰着する気がするのですが。
後に詳細に論じる予定の、現段階で未刊行の「孤独の発明」本篇、及びその続篇に当たる『孤独の発明 または言語の政治学』は無論、表題通り「孤独」をこそテーマとしていますが、果たしてどうでしょうか。
2 〈私〉意識の解体――『限りなく透明に近いブルー』文庫解説
三浦雅士の批評家として、その名を密かに知らしめたのは村上龍『限りなく透明に近いブルー』(1976年)の講談社文庫版の解説です。と言ってもこの段階では、三浦さんはまだ「今井裕康」なる筆名を使用していました。村上龍の同作は1976年上半期の芥川賞を受賞し、文庫化されたのはその2年後、78年の12月のことです。セックスとドラッグと
【図 4 村上龍『限りなく透明に近いブルー』旧文庫版書影】
暴力に明け暮れるアメリカ駐留軍基地のある町、福生(ふっさ)を舞台に若者たちの無為と徒労の青春を描いた(とされる)この作品を、三浦さんは「徹底」*した「没主体の文学」*、つまり「意味づけ」*を排し「ただ、見ること見つづけることへの異様な情熱だけ」*がそこに存在するとしました。すなわち、
私、 および私の行為はどのようにも意味づけられていない。私とは一個の眼であり、 また感覚の塊にすぎないからである。ただ、 全的に見ること全的に感じることによってのみ私は根拠づけられている。 この、感覚を全開にした受動性は、近代から現代へいたる日本文学のもっとも中心的な主題である〈私〉意識の解体を、文体そのものにおいて、 みごとに定着してみせたのである。(*三浦「『限りなく透明に近いブルー』について」/『主体の変容』p.164)
*三浦「『限りなく透明に近いブルー』について」/『主体の変容』p.164。
ここで論じられているのが、「〈私〉意識の解体」、いわゆる「近代的自我の解体」、すなわち「主体の変容」ということになります。既にして村上龍自身がこの事態を朧気ながらでも把握してたと考えられるのが、この題名です。村上さんによれば、もともとこの小説の題名は「クリトリスにバターを」という、言うなれば即物的かつスキャンダラスなものだったのを現行の書題に変えたといいます(村上龍「年譜」/『限りなく透明に近いブルー』1976年/1978年・講談社文庫・p.161)。
無論、この「限りなく透明に近いブルー」とは小説ラストで主人公の見る真っ青な空のことなのだが、当然のことながら、小説全般を浸している主人公「私」そのものがスカスカに、あるいはペラペラに透明になって見えている事態を意味しています。
あるいはこうとも言えます。この「〈私〉意識の解体」とは如何なる事態かと言えば「主人公の眼と主人公の行為が密着していない」*ということです。例えばこういうシーン。
ソファーから立ち上がってリリーが言う。その声が曇っている。古い映画を見ているような、遠くにいるリリーが長い筒でも使って声を送ってきているような感じだ。今ここにいるのは、口だけを動かす精巧なリリーの人形で、ずっと以前に録音されたテープが回っているようなそんな感じだ。(村上龍『限りなく透明に近いブルー』講談社文庫・p.132)
言うまでもなく、これこそ後に「孤独の発明」本篇で究明することになる「幽霊の問題」*に他なりません。
*「幽霊の問題」とは、近現代の日本文学の代表的な作家や批評家、詩人は作品の中に何がしかの「冥界下降譚」になっている/を持っているというもの。それは言語の構造がもたらすものということです。
もちろん文庫解説という特殊な磁場の作用も当然あるが、少なくともこの文庫解説以降、この三浦さんの読み取りと異なる読み取りはかなり難しいものとなったとも言えます。とりわけ若年の読者ほどそうであったでしょう。一体、この「今井裕康」なる論者は一体、何者なのだという謎が読書界を密かに震撼させました。
わたくしごとになりますが、1980年代初頭に大学生となり東京に出てきたが、『限りなく……』について驚異的な読解で煙に巻いた先輩たちがいました。どうしてそんなことが分かるんだろうと驚くしかなかったのですが、その後、よくよく考えてみると、その先輩たちは単に今井さんの、つまり三浦さんの解説の「祖述」をしていただけということに気づいて、逆に三浦さんの偉大さを思い知ったわけです。
この解説は以前まで講談社文庫版で読むことができたが*、まさにこの解説のテーマを象徴する書題を附した、三浦さんの単著『主体の変容――現代文学ノート』(1982年・中央公論社)に収録されました。この『主体の変容』にはやはり同時期にデビューし、ひと頃は「W村上」とも称せられた村上春樹についての評論「村上春樹とこの時代の倫理」が収録されています。極端に言えば、この論考一篇のみでも三浦雅士という批評家は後世に残る、と断言したいものです。これについては後に詳論します。
*ちなみに、この講談社文庫版は2009年に「新装版」として装丁と組版が変わったのに合わせて、解説も変更されました。解説者は2003年に『蹴りたい背中』(2003年・河出書房新社)で19歳という史上最年少で芥川賞を受賞して今を時めいていた(いる?)綿矢りささん。時代の流れというものですね。ついでに新装版『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年・講談社)の解説者は綿矢さんと同時に芥川賞を受賞した金原ひとみさん。当時20歳だった。作品は『蛇にピアス』(2003年・集英社)。村上龍自身は24歳のときに芥川賞受賞。
この『限りなく透明に近いブルー』の文庫解説以降、村上龍の諸作品を始め、複数の著作家の文庫の解説を担当することとなります。
先にも述べたように文庫の解説は重大な「任務」とも言えます。
そもそも文庫に限らず、何らかの作品に「解説」が本当に必要なのかという問題はありますね。例えば、アメリカ文学の翻訳家としても地歩を成している小説家の村上春樹さんは、自らが翻訳したJ.D.サリンジャーの作品に、「訳者が本に一切の解説をつけてはならない」* とのサリンジャー自身の指示によって解説が付けられなかったことを嘆いていますが、そういう村上さん自身の作品の文庫版には一切の解説が付けられていません。
* 村上春樹「ライ麦畑の翻訳者たち――まえがきにかえて」/村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2――サリンジャー戦記』2003年・文春新書・p.6。
そのことに関する「お断り」めいた文言はどこにも書かれていませんが、もちろんこれは、あるいはこれも村上さん自身の強い意志、強い判断に拠るものと思われます。
しかしながら、こと翻訳については、村上さんに言わせればそう簡単には引き下がれないところでしょう。
「翻訳書には、解説と訳注はどうしても不可欠なものなんです。文化的背景が違うんだから、 一般読者にはそういうものが必要なんです。気持ちはわかりますが、そのへんをなんとか理解してください」と、僕としてはサリンジャー氏に声を大にして言いたいのだが、おそらく彼の耳には届くまい。(村上「ライ麦畑の翻訳者たち――まえがきにかえて」/『翻訳夜話2――サリンジャー戦記』p.6)
と述べていますが、「文化的背景」が同一であるなら、できるだけ虚心に、自身の眼で、作品そのものを味わって欲しい、ということでしょう。これはこれで理解できますね。というか、文学作品の読解は本来そうあるべきでありましょう。
ちなみに、収録することができなかった「幻の訳者解説」は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(1945年/2003年・白水社)については前掲の『翻訳夜話2』に目出度く掲載されています。
後に村上はやはり同じサリンジャーの『フラニーとズーイー』(1961年/2014年・新潮文庫)も翻訳していますが、同じ憂き目に遭っています。今回は解説(「〈村上春樹特別エッセイ〉 こんなに面白い話だったんだ!」)のショート・ヴァージョンを別刷りの小冊子の形で挟み込むと同時に、そのロング・ヴァージョンを新潮社のホウム・ペイジ上に発表しています。
最近では、そんな風潮のせいなのか分かりませんが、いわゆる解説ではなくて軽いエッセイを巻末に付す、というのも一つのかたちになっていますね。『フラニーとズーイー』は別媒体ではあるが、やはり「解説」である。「エッセイ」と称されているのは原著者側の追求をかわすためでしょう。
解説代わりのエッセイと言うことで言えば、村上さん自身が、俳優の杏さんのエッセイ集『杏のふむふむ』(2012年/2015年・ちくま文庫)に「ふむふむ感」という文章を寄稿していますがこれは紛うことなきエッセイでしょう。
話が逸れました。
そんな訳で文庫の解説は初読者や若年者の読解を根底から左右、あるいは支配してしまうが故にとても重要なのです。まさに徒あだや疎おろそかには書けない代物なのです。
さて、三浦さんも文芸評論家として、枚挙に暇がないほど数多の文庫に解説を寄せています。評論家としては当然の行いではある。別に珍しいことではない。例えば柄谷行人さんは新潮文庫に収録されている夏目漱石の作品のそのほとんどに解説を寄せています*。一つの文庫のある特定の作者の解説が同一の論者であるというのは、あるいはいかがなものかという疑問に捉える向きもありましょうが、なにせ、漱石です。他の文庫や、あるいはネットなどでも容易に読むことが可能であることを勘案すれば、むしろ新潮文庫編集者の、あるいは柄谷さん本人のある一定の見識を表しているとも考えられます。
*柄谷『新版 漱石論集成』(1992年/2017年・岩波現代文庫)でまとめて読むことができます。
ところで、あくまでも文庫の解説なわけですから、仮に自説を盛り込むとしても、ごく一般的な最大公約数に当たる見解を紹介したうえで、そのうえで自説を、場合によっては遠慮がちに展開する、と言うのが常道かもしれません。
三浦さんの場合、既に評価が一定定まっている古典的な作品と、比較的最新の現代の著作家による作品を論ずる場合は自ずから異なってくるのは言うまでもありませんが、個人的な見解では、それらはさほど違いはないと思います。言うなれば文庫の解説だからと言って、妙に力を抜くということでもありません。
恐らく叙述の原型は書評にあるのだと思います。
つまり眼前の一書を子細に読解する。それがたまたま、発表の媒体が文庫であれば、それは「文庫解説」になるし、それが長くなり、複数の論著にまたがるのであれば、それは評論ということになる。また、それらが、何らかのテーマで何本かまとめられれば、それは一冊の書物になるだけなのです。
だから、三浦さんの場合、基本的な論述の原型は「書評」なのではないでしょうか。
無論、三浦さん自身の実際の経験が根底にあるのは言うまでないですね。あくまでも、その上で、書物との対話の中で自らの思想を練る、これが三浦雅士の批評なのです。
これが書物ではなくて対話や座談でも同じことです。人に表れた/現れた書物を、すなわち「言葉」を、その言葉の「文字」をこそ人に読み取るのですから。
三浦さんは、岩波書店が毎年実施していた販売促進用の読書啓蒙の文庫版の小冊子『読書のすすめ』の2001年版に「読書と年齢」というエッセイを寄稿しています。要は読書が重要なのは言うまでもないですが、それぞれの年齢に応じて読書の質・内容も違いがあるべきだと言います。「十代の読書の基本が暗誦にあるとすれば、二十代の読書の基本は競争にある」。*そして「三十代の読書の基本」**は「味読、熟読」**にあるとしているが、文章の眼目は「十代の読書は暗誦にあるということ」***に尽きるのですが、その前提としてこう述べています。
四十代もなかば近くになってはじめて、研究とは読書のことだということに気づいた。それまでは、考えること、書くことのほうが大切だと思っていたのである。(中略)勉強するということ、研究するということは、要するに読書するということである。誤解を招く恐れがあっても、いまはそう言い切りたい気がする。(三浦「読書と年齢」/岩波文庫編集部編『読書のすすめ』2001年(非売品)・岩波書店/岩波文庫編集部編『読書のたのしみ』2002年・岩波文庫・p.177)
* 三浦「読書と年齢」/前掲・p.182。
** 三浦「読書と年齢」/前掲・p.183。
*** 三浦「読書と年齢」/前掲・p.184。
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~三浦さんの受賞歴など~
文芸評論家として受賞が多いのかどうかという問題は「政治的」な問題などとも絡んでくるので、考えても仕方がないのもかも知れぬが、三浦さんの受賞は日本の批評家のトップレヴェルに並ぶのではないでしょうか。受勲は除きます。 ① 1984年、第6回サントリー学芸賞(『メランコリーの水脈』) ② 1991年、第29回藤村記念歴程賞(『小説という植民地』) ④⑤ 2002年、芸術選奨文部科学大臣賞・第13回伊藤整文学賞(『青春の終焉』)。
参考のために書けば、小林秀雄4回(①日本芸術院賞(1951年)②読売文学賞(1953年)③野間文芸賞(1958年)④日本文学大賞(1978年))、江藤淳5回( ①新潮社文学賞(1962年)②菊池寛賞(1970年)③野間文芸賞(1970年)④日本芸術院賞(1976年)⑤正論大賞(1997年))、柄谷行人4回(①1969年 -「〈意識〉と〈自然〉 漱石試論」で第12回群像新人文学賞②1978年 -「マルクスその可能性の中心」で第10回亀井勝一郎賞③1996年 -「坂口安吾と中上健次」で第7回伊藤整文学賞④2013年 -「哲学の起源」で第3回紀伊國屋じんぶん大賞。)、蓮實重彦、評論としては2回①読売文学賞 評論・伝記賞 『反=日本語論』(1978年)②芸術選奨 文部大臣賞 『凡庸な芸術家の肖像』(1989年)(番外)三島由紀夫賞『伯爵夫人』(2016年)、加藤典洋3回(①新潮学芸賞(1997年)②伊藤整文学賞(1998年)③桑原武夫学芸賞(2004年))、などとなります。 📓
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「研究」とありますが、無論、専門的な学問のことを言っているわけではなく、広く一般に本を読んで、何事かを考えるということでしょう。だから「考えること」、「書くこと」よりも「読むこと」が大切なのだというのは市井に生きるわれわれにも、いや、われわれにこそ該当することです。
「四十代もなかば」と言えば、三浦さんに限らず多くの人々にとって、公私ともに油が乗りきって、充実した時期に当たるでしょう。
三浦さん自筆の「年譜――三浦雅士」*によれば、1990年12月、44歳、新書館の編集主幹に就任する。2012年に退任するまで、バレエ誌『ダンスマガジン』(1991年から1998年まで編集長、2012年まで同誌顧問)、思想誌『大航海』(1994年~2009年)、芸術誌『Art Express』(1993年~1995年)を編集長として創刊し、そこから、対談・複数を中心とした複数の論著を刊行しています。
*三浦雅士さんの「履歴」を語るものは少ない。年譜の類はわたしの知るところでは2003年刊行された、講談社文芸文庫版『メランコリーの水脈』巻末の、著者自身の手になる「年譜」しかありません。それも青年期に至る幼少期の記述はたかだか10行足らず、そして当然のことながら2002年の5月で記述は潰えています。以下「年譜」からの引用は講談社文芸文庫版『メランコリーの水脈』からです。この年譜によれば、三浦さんは12月17日生まれである(三浦「年譜」/『メランコリーの水脈』p.331) 。したがって「年譜」上、機械的に年齢が割り振ってあるが※、一旦、この論考では分かる範囲で、一応の「正確さ」を期すことにします。
※例えば1962年には「年譜」では「一六歳」とありますが、当然1962年の12月16日までは「15歳」で、12月17日以降の事跡については「16歳」となるでしょう。煩瑣を嫌ったのでしょうか。
この事跡が物語っているのは、三浦さんの軸足が従来の文学、思想という場から舞踊へと変わったということを、ある面では意味しています。
これは後に触れますが、1982年1月、三浦さん36歳の時に『現代思想』編集長を辞し、同時に青土社も退社し、フリーの評論家になっています。翌1983年10月に渡米して以来、少なくとも年譜上では2000年まで再三に渡り外遊しています。基本、舞踊を見るためでしょう。
したがって、40代なかばの三浦さんの著作もこれらと連動したものになります。1994年11月、三浦さん48歳、『身体の零度』を刊行。1995年12月、三浦さん49歳、『バレエの現代』刊行。1999年12月、三浦さん53歳、『考える身体』刊行。バレエ、舞踊の根源への考察が類まれな「身体論」へと結実したのは言うまでもありません。三浦さんは『身体の零度』で1996年、第47回讀賣文学賞を受賞しています。
恐らく、30代半ばから40代半ばに至るまで、世界の多くの舞踊、芸術を見聞するに際し、白熱した思考を重ねていたのだろうと思います。脳裏を過るのはそれまでに読んできた万巻の書だったろうし、更に多くの書物を手に取ったに相違ないのです。
第2章でもお話ししましたが、『ユリイカ』、『現代思想』で特集主義を取ったことは編集者側からすると莫大な読書という準備の負担がかかることになりますが、それをものともしなかった三浦さんが、40代半ばになって、やはり「読書」が大切だ、ものを考えるということは、実は本を読むことなのだ、と言っているのです。どれくらいの重さがあることか、ご理解いただけるでしょうか。
詩人、劇作家・寺山修司に「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉、書物があるが、恐らく三浦さんは36歳のときに一旦、「書を捨て」て、「町」、ニューヨークという町へ、「世界」という町へ出たのです。
恐らく、そこで見たのは具体的には舞踊という芸術の、人間の、あるいは文明の根源的な形だったのでしょう。
そして、恐らくそれは「書物」の形をしていたのです。「文字」で書かれていたのです。
しかし、先を急ぐのは止めましょう。この問題は後に詳論すると思います。
文庫の解説に話を戻します。
現段階では、一体何篇の文庫の解説を三浦さんが書いているのか不明ではあるが、かなり多くの文庫に解説を寄せていると考えらます。書店とかインターネットで何気なくパラパラと本を見ていると、解説者として三浦さんの名を発見して驚くことがしばしばあります。
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~文庫解説の自立性~
全く完全なる余談ではありますが、文庫の解説の自立性、つまり解説の題号、筆者の署名の問題です。例えば、最近の例では解説の文章の前に、解説の筆者の名前と、解説の題名が記されていますね。そもそも、かつての文庫の解説には、ただ「解説」とあるだけで、題名などなかったはずです。そして、解説の筆者名も申し訳程度に文章の末尾に付されていたはずです。一体いつごろからこの変化は生じたのでしょうか。また、この解説の自立性、つまりは作品に対する添え物扱いからの自立は何かを意味しているのでしょうか。 と、同時に大変に困るのが、解説者を検索するのが困難だという事態です。恐らく現今の状況下では多くの読者がインターネットを通じて様々な調べものをしているはずです。事典、辞典の類はともかくとして、よもや未だに各出版社、各文庫の解説目録*を座右に置き、書誌情報などを繙いている方はまれではないかと思います。
*この場合の解説は目録に記載されている書目の簡単な案内のようなもの。通常は100字程度。
かつての文庫の解説目録には解説者が明記されていたはずです。ところがインターネットだとネット販売の大手サイトはもとより、各出版社のホウム・ペイジにも掲載されている方が少ない、というか皆無に近いのです。一体どうなっているのか。改善を望む、とここで話しても仕方ないですか。 さらに、全く文脈を無視するが、文庫の解説に焦点を絞って論じたものに斎藤美奈子さんの『文庫解説ワンダーランド』(2017年・岩波新書)という快著があります。 📓
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例えば、丸谷才一『樹影譚』(1991年・文春文庫/原著・1988年)や辻井喬の『彷徨の季節の中で』 (1989年・新潮文庫/原著・1969年)や、『父の肖像』(上下・2007年・新潮文庫/原著1巻・2004年)などは三浦さんの人間関係から理解できます。川上弘美『真鶴((まなづる))』(2009年・文春文庫/原著・2006年)も本来の文芸批評の仕事であるがゆえに納得できます。むしろこの解説は「孤独の発明」本篇の根幹の着想、「幽霊の問題」を明確に示しているのですが。
そんなことを言ったら丸谷さんの『樹影譚』にしても、後に書かれる『出生の秘密』の重要なモチーフになっています。
同じパターンとしては角川文庫版、折口信夫の『日本文学の発生 序説』(新版・2017年・角川ソフィア文庫)の新版の解説はその名も「凝視と放心」と名づけられています。後述するように、この「凝視と放心」も「孤独の発明」本篇の中心的概念ではありますが、折口については主として『言語の政治学』で触れられています。
意外なところでは『自動車絶望工場』(1973年/1983年・講談社文庫)などで著名なノン・フィクション作家・鎌田慧さとしさんの『津軽・斜陽の家』(2003年・講談社文庫/原著2000年)に「解説 眼の位置――鎌田慧の手法」を寄稿しています。「斜陽」という題号が明示しているように、一種の太宰治論なのですが、むしろ太宰そのものよりも彼の生家、あるいは生家周辺の人物、歴史、地理を描くことで、つまり太宰本人について書かないことでそのことで何事かを語らしめる、そういう鎌田さんの手法を絶賛しています。ちなみに鎌田さんは三浦さんと同じ弘前高校の1957年度卒業生。三浦さんは1965年卒業だから先輩に当たります。無論、太宰治も同校の卒業生(1930年卒業)。他に同じ弘前高校の先輩として作家の石坂洋次郎がいます(1918年卒業)。三浦さんは石坂について『石坂洋次郎の逆襲』という評論を上梓しています。
あるいは三浦さんは漫画、少女漫画の解説まで書いています。萩尾望都『感謝知らずの男』(2000年・小学館文庫/原著1996年)です。三浦さんの少女漫画への造詣の深さについては、あるいは意外ではないのかもしれません。そしてそもそもこれはバレエ漫画なのです。これは第2章で論じた対談集『この本がいい』(1993年)においてフランス文学者・巌谷國士さん(「芸術の未来を予感する――少女漫画そとから」)、そして萩尾さん本人とも対話をしています(「創作の最前線――少女漫画うちから」)。
ところで、そんな三浦さんの文庫解説だが、極め付け、というか超破格というべきなのか、ある一つの臨界点を示したものが木田元『ハイデガー拾い読み』(2012年・新潮文庫/原著2004年)に寄せられた解説「木田元はなぜ面白いのか」です。題名だけを見るとあたかも普通の文庫解説です。
しかしながら、一読するや、人々は驚倒するでしょう。単に文庫本の解説の閾を越えて、つまりは木田元の『ハイデガー拾い読み』の解説でもなければ、木田元論でもハイデガー論でもない、より広く木田元やハイデガーの置かれている、あるいは20世紀の思想的状況を論ずる、一篇の作品としての文芸評論になっているのです。
冒頭は何と、サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」*から始まります。これだけでも哲学書の解説としては相当型破りだが、サリンジャーから始まり、当然のことながら村上春樹に言及され、リルケへと至り、解説が始まり6ぺージになって、やっとハイデガーが登場するというものです。これは一体何を意味しているのでしょうか。
*J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』1953年/野崎孝訳・1974年・新潮文庫。
すなわちこのような20世紀の精神史を通して、哲学と文学の相関関係性、相似性、ひいてはその同根性を論じ、究極のところでハイデガー以降の哲学は「文芸批評」なのだと断定するに至るのです。
なぜ哲学と文学は同根なのでしょうか。
デカルトの「我思うゆえに我あり」の「思う」というのは「感じる」という要素と「考える」という要素を含むとした上で、ということはすなわち、カントの「超越論的観念論」とは、「文学と哲学という視点から見れば、超越論的というのは実際には言語論的ということである。言語こそ超越論的なもの、人間を超越論的な存在にするものなのだ。」*とした上で、「ハイデガー自身がまず何よりも文芸批評家だったのではないか」**と言うのです。つまり、ここで言われているのは、ひたすら科学的であろうとしてきた「ヨーロッパの諸学」は「文学」だったのだ***、ということです。なぜか? それは言語を介しての解釈を根幹に持つからです。このことは第2章でも触れましたね。
*木田『ハイデガー拾い読み』・269頁。
** 木田『ハイデガー拾い読み』・270頁。
*** その意味では、アメリカ認識論哲学の一派からは、ハイデガーに限らずニーチェに始まり、ヴィトゲンシュタイン、そしてジャック・デリダに至るまで、「哲学」ではなく「文学」扱いされていることが「彼岸の論理」では論じられています。「分析哲学においてはいまなお理想は数学にあるのであり、現象学や解釈学や脱構築主義など文学の変容にすぎないからである。アメリカにおいては、哲学とはプラグマティズムと分析哲学のことであり、 ニーチェやハイデガーやデリダを論じることは比較文学、あるいはせいぜいドイツ文化研究、フランス文化研究といった領域研究のひとつにすぎない。」(三浦「孤独の発明」本篇・15・p.281)
驚きの結論です*。そしてなんと驚異に満ちた文庫解説でありましょうか。
*しかしながら、この考えは今にいたって突然思い付きのように書き付けられたものではありません。詳細は第2章参照。
思えば三浦さんは、自身が主宰する詩誌『ユリイカ』、思想誌『現代思想』(いずれも青土社)の編集後記で、一篇の散文詩を思わせるような、編集後記にあらざる編集後記を書いていました*。 全くもって宜なるかな、です。
*これは後に単行本としてまとめられた(三浦雅士『夢の明るい鏡――三浦雅士 編集後記集1970.7~1981.12』1984年)。編集後記だけで一冊の本が作られるなんて通常ではあり得ないことです。
4 「編集後記」――「批評的散文詩」の「発明」
本章第2項の冒頭で「三浦雅士の批評家として、その名を密かに知らしめたのは村上龍『限りなく透明に近いブルー』(1976年)の講談社文庫版の解説です」と述べました。そして、とは言うものの「この段階では、三浦さんはまだ今井裕康なる筆名を使用していました」とも述べました。しかしながら、1970年代初頭から、本名の三浦雅士の名前を密かに知らしめていたのが先ほど述べた二つの雑誌の掲載されていた「編集後記」に他ならないのです。まさにこの「編集後記」こそ知る人ぞ知る、恐るべき「編集後期」だったのです。
「年譜」によれば1969年、三浦さん23歳の時に「清水康雄設立の青土社に入り詩誌『ユリイカ(第二次)』創刊にかかわる。二人だけの会社だった。」(三浦「年譜」/『メランコリーの水脈』p.331)
同年、「七月、『ユリイカ』創刊。」*ところが「売れ行き振るわず。」*。1970年、三浦さん24歳。「一月、雑誌廃刊もありうる状況になる。」*。そこで「特集を組むことにし、那珂太郎に二月号萩原朔太郎特集を、入沢康夫と天沢退二郎に七月臨時増刊号宮沢賢治特集を依頼する。ともによく売れ、臨時増刊は売り切れ。雑誌も会社も持ち直す。この号より編集後記を書く。以後、毎号特集形式にする。」*とあります。この編集後記のことです。
1972年、三浦さん25歳、「一月、『ユリイカ』編集長になる。」*。ついで、1975年、三浦さん28歳、「一月、『現代思想』編集長に転じる。」*。
*三浦「年譜」/『メランコリーの水脈』p.332。
先にも述べたように、10余年に渡って書き継がれてきたこの「編集後記」は一冊の書物に纏められています。それはなぜでしょうか。
文庫解説の節で木田元『ハイデガー拾い読み』の解説が「超破格」だと述べたが、まさにこれこそ、あり得ない「編集後記」だったのです。
恐らくこの編集後記にこそ初期から中期にかけての三浦さんの思考の方法論とそのあり方がまざまざと示されていると言っても過言ではありません。
何がありえないのか。『現代思想』1976年11月号、「特集=死――その総合的研究」、編集後記全文です。
もしもこの生がわけのわからない理不尽なものであるとすれば、生きつづけることは逃避であり誤魔化しである。自己の生に誠実であろうとするならば死をこそ選ばねばならない。若い頃このような奇妙な理屈にとりつかれていたことがあった。もとより笑い話にもなりはしない。ところで、この奇妙な理屈には同様に奇妙な弱点があって、それは、そのように考えるならばどうぞあなたは自殺なさいという論法である。このように対応されると、そうですかそれではお先に失礼とでも言って即座に自殺する以外にないかに思える。これには考えさせられた。そこで思いついたのが次のような理屈である。死をこそ選ばねばならないと人が言うとき、それは、ただ単に自己が死を選ばねばならないというだけではなく、全人類に死刑宣告を発しているのである。考えるということはそういうことなのであって厳密には個人的に考えるということなどありえない、という理屈である。これは間違っていないように思えた。もしも先の理屈によって制することができないならば、制することのできない人間もまた死を選ばねばならないはずだ、と。しかし、この理屈を思いついた後に胸を衝かれる思いがした。すべての自殺者は、したがって、自己自身のみならず全人類に向って死刑宣告を発して死んでいったのではないかと思えたのである。自殺者の数は夥しく死刑宣告の数もまた夥しい。明らかに人類は、死刑宣告の吹雪のなかを辛うじて生き延びてきたのである、と。
語られる死はすべて生の側にある。選びとられた死も、やはり、生の側にある。 (三浦「(死)」*/『夢の明るい鏡』pp.133-134)
これで652字、400字詰め原稿用紙に換算して、およそ1.5枚です。そもそも、これは「編集後記」なのでしょうか。雑誌の編集者としての、編集や執筆者たちの状況報告、執筆者、編集協力者への謝意、あるいは事務的な連絡、次号予告といったものが、いわゆる「編集後記」ではないのですか。ここにはそのようなものは皆無です**。
*この『夢の明るい鏡』に集められた小文はその出自から、無論題名を持ちません。が、煩瑣を避けるために一旦、「特集」として組まれたものを仮の題号として与えることとします。内容的にみてもほとんど問題はないと思われます。小かっこ=( )が付されているのはそういう意味です。
**無論、『ユリイカ』の当初の頃はそれらも少なからず見られます。例えば最初に書かれた「宮沢賢治」ではおよそ2/3はいわゆる編集後記だが、残り1/3はそうではありません。 その次の号からは次号予告などがたった1行。以下同じような形式が続き、1974年10月号総特集「小林秀雄――批評とは何か」からはほぼ消滅します。
これは一体何でしょうか?
もし仮に「編集後記」と呼ぶのであれば、何らかの編著の監修者などが寄せる「巻頭の辞」などに相当するのかも知れないが、やはり違います。
いずれにしても、このような短文、原稿用紙1、2枚という制約の中で、恐らくその特集のために莫大な書籍に目を通し、その上で編集会議に掛け、白熱の議論をし、執筆者を説得し、執筆に導き、原稿を集め、雑誌として組む。その過程から絞り出されてきた言葉、言葉のエッセンスなのです。もちろん短い紙数だから学問的な根拠などはここにはありません。だが、三浦が若年の頃から考えてきた様々なことが、複数の異なる知性と衝突して浮かび上がってきた言葉のエッセンスなんです。
小林秀雄に「考へるヒント」というエッセイのシリーズがあるが、あれを読んで、自らの思考に対して何らかの「ヒント」になった人がいれば、ぜひ伺いたいものです。小林にとっての「考えるヒント」にはなっているとは思いますが。
言うなれば、初期から中期にかけての三浦さんの文章、特に短い文章、先に触れた文庫解説、この編集後記と、更には次に論じる書評の文章こそ、読者にとっての「考えるヒント」になっているのです。とりわけ、今論じた編集後記、というよりも「編集後記」として書かれた文章群こそ「考えるヒント」、「新・考えるヒント」と言っても差し支えないと思います。論理の流れを綿密に追う訳にはいかぬが、いくつかの論点がおかれる。それらは飛躍がある。だが、論点と論点をつなぐと何かが浮かび上がってくる。論理的に飛躍があるが故に読者は考える、考えるように仕向けられるのだ、それも自然に。
論点と論点はそれぞれの山の頂、山頂からの報告でしょう。何年何月何日何時、何々山、登攀。山頂は快晴、南の空には太平洋と思しき海原が見える。或る山から別の山に如何にして辿り着くのか、それが読者の仕事であり、また楽しみになっているのです。
つまり、三浦さんのこれらの文章は散文詩なのです。「批評的散文詩」なのです。
三浦さんは図らずも、文字数に著しい制限のある「編集後記」を書くことで、この「批評的散文詩」というメディアを手に入れました、いや「発明」したと言ってよいでしょう。恐らくそれは、あるいは論理的な展開上では飛躍や破綻があるかも知れません。だが対象の急所を電撃的に急襲するのです。
それは「編集後記」と同時に文庫の解説、そして書評の形で熟成されていくのです。
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16,142字(41枚)
202405261534
三浦雅士――人間の遠い彼方へ その4 第3章 生命の方へ――三浦雅士『身体の零度』を読む
三浦雅士――人間の遠い彼方へ その4
鳥の事務所
第3章 生命の方へ――三浦雅士『身体の零度』を読む
さて、今回も前回と同様に、以前書いた文章を読ませていただきます。恐縮ですがよろしくお願いします。1994年に刊行された『身体の零度』についてお話しいたします。
2 生命の方へ――三浦雅士試論Ⅱ
【コラム 10 『身体の零度』】
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~『身体の零度』~
■三浦雅士『身体の零度──何が近代を成立させたか』1994年11月10日・講談社選書メチエ。 ■書き下ろし長篇評論(社会史・現代思想・舞踊・身体) 。 ■1,500円(税込み・発売当時)。 ■284ペイジ。 ■装幀 山岸義明・中津川稔、カバー図版:TADA Kayoko。 ■編集担当 鷲尾賢也・横山建城。 📓 |
1 身体と舞踊
「レオタード」、という身体に密着した薄手の衣装がある。ダンサーあるいは、体操の選手が着用しているあれである。三浦雅士によれば、本書の主題〈身体の零度〉を《これほど具現する衣装はほかにない》というのである。──〈身体の零度〉。一体その〈身体の零度〉とは何なのか? 〈身体の零度〉とは《裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体》のことであり、レオタードは《ダンサー個人の肉体の特徴をも消去することによって、裸体以上に裸体であるといってよい。つまり裸体の抽象である》というのだ(本書257‐8頁)。 三浦雅士は70年代において詩誌『ユリイカ』、思想誌『現代思想』の編集長を務め、80年代初頭のニュー・アカデミズム・ムーヴメントを準備した一人としてつとに高名だが、その後、フリーの文芸評論家として着実にその文名を高らしめていた。しかし、1991年、突然、『ダンスマガジン』の編集長に就任して人々の耳目を驚かせたのである。何が三浦雅士をして文学・思想の領域から突如として舞踊というある意味ではマイナーなジャンルへの参加を駆り立てたのであろうか。本人の言によれば《一九八四年から八六年まで、コロンビア大学の客員研究員としてニューヨークに滞在しているあいだに、すっかりダンスの魅力に取り憑かれてしまった》というのである(「ダンスに魅せられて」)。これは一体どういうわけか? そもそも、今、何故、舞踊なのか?
いま、なぜ舞踊か。二つの答えが考えられる。/一つは、舞踊が始源的かつ根源的な芸術であるということ。舞踊は、人類とともに古い芸術であり、音楽も美術も演劇もそこから発生した。にもかかわらず、近代に入ってから長く貶められてきたのは、近代の人間観に歪みがあったからであり、いまその歪みが正されようとしているということ。/もう一つは、同時に、舞踊は芸術的な表現としてきわめて新しいということ。表現としての舞踊の中心にあるバレエもモダンダンスも、二十世紀に入って成立したにすぎない。たとえば「白鳥の湖」が広く上演されるようになったのは半世紀前にすぎない。そういう意味では、舞踊は若く初々しい芸術なのだ。それは成長期の魅力を漲らせている。/舞踊は古くかつ新しい。現代を考える手がかりとして舞踊ほど格好の主題はない。(「いま、なぜ舞踊か」)
無論この考えは後に整理されたものだ。三浦雅士がアメリカで遭遇したものは、一体何だったのだろうか? 三浦雅士によって書かれた、ダンスに関する文章を私が最初に目にしたのは、私の記憶が間違いでなければ、1986年、『早稲田文学』に発表された「ダンスと語学学習」というエッセイである。彼自身にとってもダンスについての文章の最初期のものだと思う。恐らくそれは8月のことであった。とても蒸し暑い夜、書店でそれを立ち読みしながら背筋がひんやりと凍りついたのを覚えている。何か一つの強烈な思考が巨大な杭のように打ち込まれる思いがした。何故かそれは単行本に収録されていないので、以下記憶に頼って書く*。
* もし将来『三浦雅士舞踊論集』なるものが編集されるのであれば、「ダンスと語学学習」は是非収録してもらいたい。
【コラム 11 『身体の零度』目次】
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~『身体の零度』目次~ まえがき 第一章 亀裂 1 子どもの数だけの世界 2 悪夢が人間を人間にした 3 人間は身体をつくりなおす 第二章 加工 1 纏足とコルセット 2 文明化とは何か 3 身体加工を意味づける視線 第三章 表情 1 どこまで自分でどこから他人か 2 社会的な泣きかたと個人的な泣きかた 3 笑いにおける近代 第四章 動作 1 日本人の歩き方は違っていた 2 農耕的身体と遊牧的身体 3 運動会の悲哀 第五章 軍隊 1 見せ物としての軍隊 2 その見せ物が身体の工場になる 3 産業的身体の成立 第六章 体育 1 舞踊から体育へ 2 「未開人」の体育 3 オリンピックの時間 第七章 舞踊 1 体育からふたたび舞踊へ 2 身体の新しい地平 ブックガイド、あるいは引用文献および典拠文献について あとがき 索引 📓 |
ダンスと語学学習はよく似ている、というのがその主題だ。アメリカに渡った三浦は語学学習に勤しむ傍ら、ダンスをたくさん見たというのだが、やがて両者の共通点に気づく。よくもまあ、こんなふうに舌がまわるものだ、という感慨と、よくもまあ、あんなふうに身体が曲がったり、動いたりするものだ、という感慨はどこか相似形をなしているというのである。ダンスにおいて我々が発見するのはいかなる動きをもなし得る身体の可能性だ。それは言語で云えば、まだ言葉になりきらない、赤ん坊のうわごとに似ている。それはこれからフランス語にも英語にも日本語にもなり得る可能性のるつぼなのである。まさにダンスこそ、身体があらゆる動きの、そしてあらゆる表現の可能性のるつぼであることを示しているのだ。そしてさらにダンスにおいて我々が逆説的に確認するのは、日常的身体が極めて限定された姿なのだということである。 ──誤読や誤解をしているかも知れないが、恐らくこのような内容であった。今要約してみると、決して目新しい考えではない。しかし、これを目にした当時、私が驚いたのにはそれなりの理由があったのである。
2 無力感あるいは相対的有り様との戦い
私が三浦雅士を読み始めたのは1983年、『國文學』に発表された大江健三郎論「無力感について」がきっかけであった。それを手に取ったのは大江に関心があったことは言うまでもないが、むしろ論中言及されている小林秀雄への関心の方が強かったように思う。いずれにしても、誰が書いているかということよりも、誰について書かれているかという点で呼んだわけだ。しかし、一読驚倒、深い感銘を受けた。こんな批評家がいたのかと本当に驚いた。ギョッとしたといってもいい。早速三浦雅士の全ての著作を手に入れ、多くのことを学んだ。それ以降愛読する著作家の一人として新刊を心待ちにしているのである。 ──自覚的であろうとすることは必然的に自覚しきれなさを照射し、人は〈無力感〉に陥る。《無力感の根源は、人間は人間の主人であるという幻想にあるということになるだろう。いうまでもなくこれこそまさに近代の問題にほかならないのである。》(「無力感について」/『メランコリーの水脈』202‐6頁)三浦は、大江健三郎をそのような〈無力感〉と堂々巡りのようにひたすら戦い続ける小説家として描き出す。これは要するに大雑把に云ってしまえば、意味の問題であり、そしてまた価値の問題だ。意味や価値の根拠をどこに置くのかという問題なのだ。近代の人間は前近代における〈神〉にではなく、自身にその根拠を置く。だが、それは正しいと言えるのであろうか。
「私は気違いではありません」と人は述べることができる。だが、そう述べたからといってその人間が気違いでないとは限らない。本人がそう信じ込んでいることを示しているにすぎないからである。気違いでないことを証明するには第三者の証言が必要なのだ。(……)しかしこの第三者の証言もまた真であるか偽であるかにわかには決定しがたい。(……)かくして第四者が、さらに第五者が要請されるわけであり、この連鎖は論理的には無限に続くことになる。 (「無力感について」/『メランコリーの水脈』202‐6頁)
言うまでもなく「気違い」の代わりに「私は正しい」と置いても同じ事態に立ち至るはずだ。やはり、正しさの証明も無限に続いていくのである。だから、《連鎖を断ち切るには何らか絶対的な判定者、すなわち神のごときものが必要とされるのだ。》(「神の不安」/『メランコリーの水脈』63頁)
だが、もし〈神〉が存在しないとすれば、どうなるか。近代におけるあらゆる領域において、独自に成し遂げられた仕事は、この「神の不在」、「意味の無根拠」、すなわち〈相対〉的な有り様を巡って繰り広げられた戦いであったといっても過言ではない。無論、これは三浦雅士にとっても戦わねばならぬ重大な問題であった。だが、もし本当に我々の存在に根拠がないというのであれば、──1985年当時、私はその時点までに刊行されていた三浦の6冊の著作を読み終わり、書棚に収めながら、こう思ったのだ。──何故三浦雅士は書き続けるのであろうか、と。そしてこの問題は私自身の問題でもあり、さらにそれは近代に生きる人間自身の問題にも接続するのである。──生きるに値する人生が解体しているにも関わらず、何故、人間は生き続けるのか、という問いかけに。
3 絶対への問いあるいは人間の方へ
私がその翌年、「ダンスと語学学習」を手に取って驚いたのは、ある意味ではその問いかけに応えていたような気がしたからだと思う。近代において人間が人間の主人になり得たのはひとえに、その理性によってであった。だが三浦は、ダンスにおける〈身体〉というテラ・インコグニタによって人間は人間を再発見できることを衝撃をもって受け止めたのではなかったか。 後に三浦は批評の基準について《批評は絶対を狙わねばならない》として、種々検討を加えた上で、次のように述べる。
おそらく、これまでのところ、批評が絶対を狙う過程で導き出した最大の基準は自己意識である。作者の、あるいは作品の自己意識の強度が作品の価値を形成するという考え方だ。/(……)これを要するに文学作品は人間ということにかかわることによって読者を感動させるといって誤りではない。あたりまえのことだ。だが、あたりまえだからこそ重要なのだ。/作品の善し悪しを決めるのは、その作品がどれだけ深く、また強く人間ということにかかわっているかである。(『死の視線』10‐12頁)
やはり、三浦雅士は人間に帰ったのだ。舞踊を通じて人間というまさに絶対的なものに帰っていったのである。
4 過剰なる身体あるいは身体の零度
本書『身体の零度』は、「いま、なぜ、舞踊なのか」という問いへの前提である身体の問題について、文学作品や歴史的な事例も紹介しながら展開されたものである。 我々は、例えば、今世紀の初頭にまで残っていた、中国における纏足や欧米におけるコルセットといった〈身体加工〉をどう考えるだろう。批判されるべき野蛮な風習と考えるのではないか。──だが、むしろ事態は逆だ。その中に入ってしまえば、それをしていないことこそ野蛮な行為であり、それらこそが文化だったのである。卑近な例をあげてみよう。《頭と足ははっきりと差別され、右手と左手も同じように差別された。左利きは矯正された。火鉢はまたいではいけなかったし、本をまたいでもいけなかった。人の枕元にたってはいけなかったし、足で襖や障子を開けてはならなかった。立ちかた、座りかた、歩きかた、笑いかたから目つきにいたるまで、人はまず身体をしつけられた。》身体は《過剰な意味の場所》だったのだ。無論、このような意味、タブーは次第に喪われつつあり、《人間はただ純粋にその身体に向きあっているように見える。人間は、あらゆる虚飾を剥ぎとって、自分自身の裸の身体、「身体の零度」に立ちあっているように見える。》(本書2-3頁)
〈身体の零度〉とは、──三浦はアメリカの文明批評家ルイス・マンフォードを引用して次のように定義づける。それは《裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体》のことであり、マンフォードはそれをして《きわめて後世の、一般的でない文化的成果》だとしている(マンフォード『機械の神話』。本書31頁から援引)。つまり、三浦は《この物いいの背後に、人類の歴史において現代文明はきわめて特殊なものなのだというマンフォードの認識が潜んでいる》のだという(本書31頁)。
すなわち、前近代における身体は過剰な意味に彩られていた。しかし、近代以降、身体はその意味を喪っていったということになる。そしてそのことは人類史のなかでも極めて特異なことだったのである。ではなぜ、そのような事態が出来したのであろうか。そのことを考えるために、三浦は舞踊を、武智鉄二の説に基づき二つの類型に分類して考察を進める。「舞い」と「踊り」の二者がそれである。
《舞いの特徴は、摺り足にナンバ(*)、腰をしっかりと据えてゆっくり動くこと。踊りの特徴は、跳ぶこと、跳ねること、回ること、である。》《舞いの典型は能であり、踊りの典型はバレエである。》さらに、この二つの舞踊類型はそのまま、世界の《二つの舞踊文化圏》として線をひくことができる。そして、《それはそのまま農耕民の文化圏と遊牧民の文化圏》にもなるという**。なぜならば《生産の様式が、身体所作の様式を規定し、舞踊の様式を規定するからである。》(本書143頁)
* ナンバとは《右足が前に出るときは、右肩が前に出、極端に言えば、右半身全部が前へ出る》歩き方(武智鉄二『舞踊の芸』。本書134頁から援引)。《たとえば相撲の押しの体勢、張り手の体勢を思い浮かべて見るがいい。明らかにナンバの体勢になっている》(本書133頁)。昔の日本人はみなナンバで歩いたのだ。言うまでもなく農耕という生産様式がそのような身体所作を生んだのである。
** 三浦はガーナの民族舞踊の見聞から、これら二つの舞踊文化以前に「狩猟採集民の舞踊文化」が存在したのではないかと推測している(本書145頁)。
5 軍隊・学校・工場あるいは産業民的身体
では、我々が現代のダンスにおいて見る〈零度の身体〉はいかなる生産様式によって作り出されたものだろうか。それは近代的な産業ということになるのだが、準備をしたのはいずれも近代的な意味における軍隊と学校である。軍隊・学校・そして工場が近代的な身体を作り上げたのだ。逆に言えば、前近代的な、意味に満ちた身体を根絶やしにしたのはそれらの社会装置ということになる。
軍隊・学校・工場が行ったことはひとことで言えば〈規格化〉ということだ。言い換えれば、それ以前の身体がいかに〈規格外〉的であったかということを意味し、それは同時に現在の我々の身体がいかに〈規格化〉されているかということをも示す。歩き方ひとつから、前近代の人々は、我々とは全く異なっていたのである。三浦は内外の文学作品、様々な記録、史料、社会史的研究を例示・解説した上で、次のようにまとめる。
《ここで重要なのは、日本においてだけではない、ヨーロッパにおいてもまた、集団的、組織的に歩くこと、走ることは、学習しなければならなかったということだ。そしてその場は、何よりもまず軍隊であるほかになかったのである。/比喩としていえば、身体は、軍隊という工場で鋳直され、それから本物の工場へと送られたのである。やがて、軍隊に変わって、学校が、身体の工場としての機能を果たすことになる。だが、そのようにして成立した身体は、農耕民的でなかったどころか、遊牧民的でもなかったというべきだろう。あえていえば、それは産業民的だったのである。》(本書193頁)
踊るのは女で、男はそれを見るだけだという構図がある。いまでこそ多少なりとも変化がみられるようになってきたが、このパターンは昔からそうであったのであろうか。──無論そうではない、前近代においては男女ともに踊ったのだ。《産業革命が、男性を職場に、女性を家庭に、という図式を作ってしまった》のである。そして、《見るのは男であり、見られるのは女であるという図式》が同時に形成された。そして、さらに、舞踊を奪われた男性には〈体育・体操〉が課せられたのである。無論それは農耕民的身体あるいは遊牧民的身体を〈産業民的身体〉へと鋳直すためである(本書209‐215頁)。 いくつかの紆余曲折こそあったが、そのような経緯をたどって、文字通り〈制服〉のごときものとして、背広とシャツが全世界のビジネスマンを征服したように、規格化され、意味を喪った〈零度の身体〉はヨーロッパから全世界へと〈輸出〉されていったのである。
6 精神と身体のすべてあるいは生命の方へ
さて、このようにして、我々は振り出しに戻る。「いま、なぜ、舞踊なのか?」と。──〈身体の零度〉。──規格化されているというのであれば、逆にいえば普遍性が高いことを意味する。規格化は流通度を増すからだ。意味を喪失したというのであれば、逆にいえば自由で可能性に満ちていることを意味する。意味は限定に他ならないからだ。三浦雅士がアメリカで襲ったダンスの衝撃とはその自由度を意味したのではないか。三浦は本書を次のように結論づける。
《いま、私は、二十世紀に入ってバレエが爆発的に花開いたその秘密が、わかりかけてきたような気がする。舞踊は長く原初生産性のもとにあった。それは、農耕民の舞踊であり、遊牧民の舞踊であった。だが、いまそれは、近代によってもたらされた身体の零度に根差す総合芸術、いや、芸術以上のものになってきたのである。そのなかに、農耕民の舞踊も遊牧民の舞踊も取りこみながら、それらのすべて、精神と身体のすべてを考える場に変容したのである。》(本書268頁)
舞踊は《精神と身体のすべてを考える場》なのだというのである。《精神と身体のすべて》とは一体何だろうか? 「身体」だけでなく、何故その上に「精神」が加えられているのであろうか? 我田引水の謗りを恐れずに暴論を付け加えれば、私にはこの箇所、すなわち《精神と身体のすべて》とは〈生命〉──そう読めてしまうのだ。──舞踊とは〈生命〉を考える場になったのだ、〈生命〉そのものを精神的にも、身体的にも考える場になったのだ、と。私は先に《三浦雅士は人間に帰った》と述べた。《舞踊を通じて人間というまさに絶対的なものに帰っていった》のだとした。だが、むしろそれはこういうべきではなかったか。──三浦雅士は舞踊を通じて〈生命〉というまさに絶対的なものに帰っていったのだ、と。
7 生命それ自身あるいは根拠関係
しかしながら、それでは〈生命〉とは一体何なのだろうか。いまここでそれを説明し尽くすことは私には能力的に不可能であるし、また、そのような場でもない。ただ、たまたま本書とほぼ同時期に刊行された新刊に木村敏の『心の病理を考える』があり、私のおぼろげな思考に形を与えてくれた。三浦雅士が木村敏を読んでないはずがないが、だからといって恣意的に結び付けるのはまさに牽強付会と言うべきだ。しかしながら私にはどうしてもここで〈生命〉について語るべきなのだという気がしてならない。三浦の所論とは大きく外れてしまうかも知れぬが、しばしの寄り道をお恕し願いたい。
精神病理学者・木村敏は『心の病理を考える』第Ⅱ章「精神病理学の歩み」において、フロイト、ヤスパースから始まったそれは二つの系統、すなわち《主観重視の立場》と《客観重視の立場》を合わせ持つという(同書49-54頁)。そして《この二つの立場を超えた第三の可能性》としての《現象学的精神病理学》に強い影響を与えたのがドイツの神経内科医ヴァイツゼッカーの医学的人間学だった(同書54-55頁)。
《生命それ自身はけっして死なない、死ぬのはただ個々の生き物だけである。》と彼は主著『ゲシュタルトクライス』の中で述べている。──どういうことだろうか。木村は「生命」という概念には二つの意味があるという。一つには《有機的個体が一定の期間だけ生きている》、言い換えれば《その個体が死ねば消滅する》という意味であり、もう一つは《具体的には生殖といういとなみを通じて個体から個体へ、世代から世代へと引き継がれていく、それ自身はけっして死なない連続的な「何か」》を意味する。
《この「生命それ自身」、生物を生物たらしめている根拠(グルント)としての「生命」は、絶対に客観的な対象とならないが、生命体はいついかなるときもこの根拠との関わりを保つことによってしか生きることはできない。この生命の根拠との関係のことをヴァイツゼッカーは「根拠関係(グルントフェアヘルトニス)」と呼び、この根拠関係こそ主体を主体たらしめている「主体性(ズプィエクティヴィテート)」なのだと言う。》(同書60-61頁*)
* ヴァイツゼッカー言うところの〈主体性〉とは極めて独特の概念である。彼の考えによれば、有機体の感覚・知覚(つまり、受入系)と運動・行動(つまり送出系)とは通来の生理学で区別されていたような二つの独立した系ではなく、《たがいにからみ合って単一の機能(……)を形成している》ものだという。この機能をヴァイツゼッカーは〈ゲシュタルトクライス〉と呼び、それによって《有機体は、そのつど変化する環境とのあいだに、彼が「コヘレンツ」(相即)と呼ぶ機能を保持している。》そしてこの有機体と環境との関係は《外界の変化にも有機体内部の変化にも絶えず即応していて、それまでの関係が解体されたときにはすでにそのつど新たな関係が生成しているという仕方で維持されている。》《この絶えず生成と解体を繰り返す相即関係の原理、有機体と環境のあいだにあって両者の出会いを維持している原理のこと
を、ヴァイツゼッカーは有機体の「主体(ズプィエクト)」と呼ぶ》のだ。したがって《主
体とか主観といわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない。個体が個体として存続するために当の個体の主体はつねに個体の「外部」で、個体を取り巻く「非自己」的な環境との「あいだ」に成立していなくてはならない》。《このような主体/主観概念を導入することによって、ヴァイツゼッカーは従来の医学が精神と身体を分けて考えていた心身二元論を激しく批判する。(……)医学は──身体医学も精神医学も──すべて人間が「生きている」ということに関わらねばならぬ。(……)これがヴァイツゼッカーの主張であった。》(同書56-61頁)
8 存在の根拠あるいは生命の運動
私はこの箇所を読んだ時、これまた脈略を全く無視することになるであろうが、新約聖書学者・荒井献の所説を想起した。その著『イエスとその時代』は小冊ながら、社会史的方法(本人は《文学社会学》といっている。同書19頁)と最新の(無論刊行時における)新約学によって、いわゆる「史的イエス」*の実像を探ろうとした労作である。
*史的イエスというのは、ドイツの代表的聖書学者ルドルフ・ブルトマンの掲げたテーゼ、《原始キリスト教団の信仰にとって本質的な事柄は、彼らによって宣教されたキリスト、いわゆる「宣教のキリスト」であって、「史実のイエス」では必ずしもない》というものに基づいている(同書6頁)。つまり、『聖書』のテクストに表出されているのは歴史的事実としてのイエスというよりも、原始キリスト教団を形成していた人々の願望だったというのである。
さて、それによれば、『聖書』の中でイエスの神についての発言で信頼できるものは次の2箇所しかないという。
《天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ(正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らしてくださ)る》(「マタイによる福音書」5・45。( )の中はマタイの加筆)
《何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思い患うな。……空の鳥を見るがよい。蒔くことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのにあなたがたの天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかに優れた者ではないのか。……また、なぜ着物のことを思い患うのか。野の花がどう育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。……今日生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上してくださらないはずがあろうか。……だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って思い患うな。……明日のことを思い患うな。明日のことは、明日自身が思い患うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である》(「マタイによる福音書」6・25-34。同書184-5頁から援引)
ことさらに引用、提示されてみると、何の気もなしに読み飛ばしていた箇所が生き生きと蘇るのに驚く。これがもし〈神〉だとすれば、いわゆる一神教的な絶対者の風貌とは相当異なっている。むしろ〈自然〉に近いというべきなのか、あるいは仏教的だといえば叱責を被るであろうか。荒井献は次のように注解する。
《ここでイエスはまず神を、「善人」「悪人」のごとき人間の倫理的価値判断に基づく格づけを止揚する、いわば「相対化の視座」として捉えている。この視座を失うとき、人間は自己を神として立てるであろう。しかし、もしそれが、相対化の視座にとどまるならば、人間を底なしのニヒリズムに沈みこませるであろう。それは、人間のすべてを相対化するとともに、人間を、現実の苛酷さのただ中にある人間を、根元的に支える「存在の根拠」なのである。それは、「空の鳥」「野の花」のごとく、否、それにもまして、人間の一人一人を育てはぐくむ。》(同書185頁)
荒井自身の考えを大きく踏み外すことになろうが、やはり、この《存在の根拠》をも私は〈生命〉と呼びたい誘惑に駆られる。 我々は日常的な生活を普通に送る限り、取り立てて自分が〈生きている〉のだということを意識しない。しかし、ときにその日常の被膜が破れて、この〈生命〉がわずかながらでも露出する瞬間がある。恋愛をしている時、死と直面した時、なんでもいい、人は確かに、人生の中で、目から鱗が落ちるとしかいいようがない瞬間や、何物かに駆り立てられる(ドライヴされる)時を経験する。それは要するに〈生命の運動〉が生起している時ではないか。宗教や芸術、音楽でも、文学でも、そしてダンスでも、あるいはそれに類するものは、意識的にしろ無意識的にしろ、この〈生命の運動〉を起こそうとするものである。この〈生命〉が〈運動〉を起こす時に、レヴェルの高低は無論あるにせよ、我々は〈生命そのもの〉の素顔をかいま見る、人はその〈生命の運動〉を「神」と言ったり、「仏」と呼んだのではないか。私にはそう思える*。
*余談ついでに、私はこの事態を〈宗教的超躍〉と呼んでいる。と、自ら誤解を招くようなことを書きながら、しかし、と断り書きを付け加えて置けば、私の意図としては安易な神秘主義や低俗な新宗教(運動)とは一線を画している心算である。実体としての「神」・「仏」を私は一切認めない。私の稚拙な筆力の為にその意図が伝わらないことをひどく恐れている。
さて、寄り道が過ぎたようだ。本道に戻ろう。
9 三浦雅士あるいは文明への問いかけ
先にまとめたのが本書の大雑把な内容であるが、図式的に過ぎる論理の展開に辟易とされる方がいるかも知れない。恣意的に他の研究を繋ぎ合わせただけだという批判もあるに違いない。一介の文芸評論家が手を出すべき領域ではないと冷笑する人もいるだろう。確かに三浦は純粋な意味での研究者ではない。だが、三浦としては、ではなぜこのような研究が歴史家や社会学者によってなされないのか、という苛立ちを感じていたのだと思う。三浦はマンフォードについて次のようなコメントを記している。《スペシャリストは起源論になど取り組まない。ジェネラリストが取り組むのだ。そして、スペシャリストの仕事を意味づけることができるのは、ただジェネラリストだけなのだ》と(本書270頁)。ここに三浦自身の密かな自負を見て取るのは深読みに過ぎるであろうか。
三浦雅士の仕事はいつも根源的だった。編集者として活躍していた時から今に至るまで一貫して、文学や芸術を、それらが置かれている文明の問題として捉えてきた。そうでなければ、誰が小説と植民地の関係など問おうとするだろうか(「小説という植民地」)。そうでなければ、誰が打楽器を思想史の中に位置づけようとするだろうか(「思想としての打楽器」)。出世作『メランコリーの水脈』の意匠には《literature in civilization》、つまり「文明の中の文学」と副題のようにプリントされている。装丁者・菊地信義の三浦に対する鋭い批評になっているわけだ。そういえば、美術家の荒川修作は三浦との対談において、期待を込めて、三浦のことを《文明批評家》と呼んでいる(「建築、哲学そしてダンス」)。成程……、もしそうだとすれば、我々は今、21世紀初頭の日本を代表する「文明批評家」の誕生に立ちあっているのかも知れない。 とは言うものの、本書は全くの前提に過ぎない。問題はここからだ。現代の舞踊が〈身体の零度〉に拠っているというのであれば、それをより具体的に示して欲しいし、さらにその明と暗をもより深く追求していただきたい。次の主題はずばり、「いま、なぜ、舞踊か」。是非、それは新書として刊行するべきだ。当然のことながら読者層が格段に拡がる。柳田國男『遠野物語』から言葉を借りて応援のエールを送れば、それをもって、日本中の読書人をダンスの衝撃で《戦慄せしめよ》! とまでいいたい。
【引用文献】
(1)三浦雅士「ダンスに魅せられて」/『毎日新聞』1991年5月17日夕刊。
(2)三浦雅士「いま、なぜ舞踊か」1993年11月13日、朝日カルチャーセンター横浜における公開講座のためのパンフレット。
(3)ルイス・マンフォード『機械の神話』1966年/樋口清訳・1971年・河出書房新社。
(4)武智鉄二『舞踊の芸』1985年・東京書籍。
(6)ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』1940年/木村敏・浜中淑彦訳・1974年・みすず書房。
(8)三浦雅士「思想としての打楽器」/『小説という植民地』。
(9)荒川修作「建築、哲学そしてダンス」三浦雅士によるインタヴュー/『Art EXPRESS』No.1・1993年12月・新書館。
※傍線は引用文も含めて全て評者による。
(初出『鳥』1995年1月号・鳥の事務所)
12,513字(32枚)
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2024051800
三浦雅士――人間の遠い彼方へ その4 第3章 生命の方へ――三浦雅士『身体の零度』を読む
三浦雅士――人間の遠い彼方へ その4
鳥の事務所
第3章 生命の方へ――三浦雅士『身体の零度』を読む
さて、今回も前回と同様に、以前書いた文章を読ませていただきます。恐縮ですがよろしくお願いします。1994年に刊行された『身体の零度』についてお話しいたします。
2 生命の方へ――三浦雅士試論Ⅱ
【コラム 10 『身体の零度』】
コラム ☕tea for one |
~『身体の零度』~
■三浦雅士『身体の零度──何が近代を成立させたか』1994年11月10日・講談社選書メチエ。 ■書き下ろし長篇評論(社会史・現代思想・舞踊・身体) 。 ■1,500円(税込み・発売当時)。 ■284ペイジ。 ■装幀 山岸義明・中津川稔、カバー図版:TADA Kayoko。 ■編集担当 鷲尾賢也・横山建城。 📓 |
1 身体と舞踊
「レオタード」、という身体に密着した薄手の衣装がある。ダンサーあるいは、体操の選手が着用しているあれである。三浦雅士によれば、本書の主題〈身体の零度〉を《これほど具現する衣装はほかにない》というのである。──〈身体の零度〉。一体その〈身体の零度〉とは何なのか? 〈身体の零度〉とは《裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体》のことであり、レオタードは《ダンサー個人の肉体の特徴をも消去することによって、裸体以上に裸体であるといってよい。つまり裸体の抽象である》というのだ(本書257‐8頁)。 三浦雅士は70年代において詩誌『ユリイカ』、思想誌『現代思想』の編集長を務め、80年代初頭のニュー・アカデミズム・ムーヴメントを準備した一人としてつとに高名だが、その後、フリーの文芸評論家として着実にその文名を高らしめていた。しかし、1991年、突然、『ダンスマガジン』の編集長に就任して人々の耳目を驚かせたのである。何が三浦雅士をして文学・思想の領域から突如として舞踊というある意味ではマイナーなジャンルへの参加を駆り立てたのであろうか。本人の言によれば《一九八四年から八六年まで、コロンビア大学の客員研究員としてニューヨークに滞在しているあいだに、すっかりダンスの魅力に取り憑かれてしまった》というのである(「ダンスに魅せられて」)。これは一体どういうわけか? そもそも、今、何故、舞踊なのか?
いま、なぜ舞踊か。二つの答えが考えられる。/一つは、舞踊が始源的かつ根源的な芸術であるということ。舞踊は、人類とともに古い芸術であり、音楽も美術も演劇もそこから発生した。にもかかわらず、近代に入ってから長く貶められてきたのは、近代の人間観に歪みがあったからであり、いまその歪みが正されようとしているということ。/もう一つは、同時に、舞踊は芸術的な表現としてきわめて新しいということ。表現としての舞踊の中心にあるバレエもモダンダンスも、二十世紀に入って成立したにすぎない。たとえば「白鳥の湖」が広く上演されるようになったのは半世紀前にすぎない。そういう意味では、舞踊は若く初々しい芸術なのだ。それは成長期の魅力を漲らせている。/舞踊は古くかつ新しい。現代を考える手がかりとして舞踊ほど格好の主題はない。(「いま、なぜ舞踊か」)
無論この考えは後に整理されたものだ。三浦雅士がアメリカで遭遇したものは、一体何だったのだろうか? 三浦雅士によって書かれた、ダンスに関する文章を私が最初に目にしたのは、私の記憶が間違いでなければ、1986年、『早稲田文学』に発表された「ダンスと語学学習」というエッセイである。彼自身にとってもダンスについての文章の最初期のものだと思う。恐らくそれは8月のことであった。とても蒸し暑い夜、書店でそれを立ち読みしながら背筋がひんやりと凍りついたのを覚えている。何か一つの強烈な思考が巨大な杭のように打ち込まれる思いがした。何故かそれは単行本に収録されていないので、以下記憶に頼って書く*。
* もし将来『三浦雅士舞踊論集』なるものが編集されるのであれば、「ダンスと語学学習」は是非収録してもらいたい。
【コラム 11 『身体の零度』目次】
コラム ☕tea for one |
~『身体の零度』目次~ まえがき 第一章 亀裂 1 子どもの数だけの世界 2 悪夢が人間を人間にした 3 人間は身体をつくりなおす 第二章 加工 1 纏足とコルセット 2 文明化とは何か 3 身体加工を意味づける視線 第三章 表情 1 どこまで自分でどこから他人か 2 社会的な泣きかたと個人的な泣きかた 3 笑いにおける近代 第四章 動作 1 日本人の歩き方は違っていた 2 農耕的身体と遊牧的身体 3 運動会の悲哀 第五章 軍隊 1 見せ物としての軍隊 2 その見せ物が身体の工場になる 3 産業的身体の成立 第六章 体育 1 舞踊から体育へ 2 「未開人」の体育 3 オリンピックの時間 第七章 舞踊 1 体育からふたたび舞踊へ 2 身体の新しい地平 ブックガイド、あるいは引用文献および典拠文献について あとがき 索引 📓 |
ダンスと語学学習はよく似ている、というのがその主題だ。アメリカに渡った三浦は語学学習に勤しむ傍ら、ダンスをたくさん見たというのだが、やがて両者の共通点に気づく。よくもまあ、こんなふうに舌がまわるものだ、という感慨と、よくもまあ、あんなふうに身体が曲がったり、動いたりするものだ、という感慨はどこか相似形をなしているというのである。ダンスにおいて我々が発見するのはいかなる動きをもなし得る身体の可能性だ。それは言語で云えば、まだ言葉になりきらない、赤ん坊のうわごとに似ている。それはこれからフランス語にも英語にも日本語にもなり得る可能性のるつぼなのである。まさにダンスこそ、身体があらゆる動きの、そしてあらゆる表現の可能性のるつぼであることを示しているのだ。そしてさらにダンスにおいて我々が逆説的に確認するのは、日常的身体が極めて限定された姿なのだということである。 ──誤読や誤解をしているかも知れないが、恐らくこのような内容であった。今要約してみると、決して目新しい考えではない。しかし、これを目にした当時、私が驚いたのにはそれなりの理由があったのである。
2 無力感あるいは相対的有り様との戦い
私が三浦雅士を読み始めたのは1983年、『國文學』に発表された大江健三郎論「無力感について」がきっかけであった。それを手に取ったのは大江に関心があったことは言うまでもないが、むしろ論中言及されている小林秀雄への関心の方が強かったように思う。いずれにしても、誰が書いているかということよりも、誰について書かれているかという点で呼んだわけだ。しかし、一読驚倒、深い感銘を受けた。こんな批評家がいたのかと本当に驚いた。ギョッとしたといってもいい。早速三浦雅士の全ての著作を手に入れ、多くのことを学んだ。それ以降愛読する著作家の一人として新刊を心待ちにしているのである。 ──自覚的であろうとすることは必然的に自覚しきれなさを照射し、人は〈無力感〉に陥る。《無力感の根源は、人間は人間の主人であるという幻想にあるということになるだろう。いうまでもなくこれこそまさに近代の問題にほかならないのである。》(「無力感について」/『メランコリーの水脈』202‐6頁)三浦は、大江健三郎をそのような〈無力感〉と堂々巡りのようにひたすら戦い続ける小説家として描き出す。これは要するに大雑把に云ってしまえば、意味の問題であり、そしてまた価値の問題だ。意味や価値の根拠をどこに置くのかという問題なのだ。近代の人間は前近代における〈神〉にではなく、自身にその根拠を置く。だが、それは正しいと言えるのであろうか。
「私は気違いではありません」と人は述べることができる。だが、そう述べたからといってその人間が気違いでないとは限らない。本人がそう信じ込んでいることを示しているにすぎないからである。気違いでないことを証明するには第三者の証言が必要なのだ。(……)しかしこの第三者の証言もまた真であるか偽であるかにわかには決定しがたい。(……)かくして第四者が、さらに第五者が要請されるわけであり、この連鎖は論理的には無限に続くことになる。 (「無力感について」/『メランコリーの水脈』202‐6頁)
言うまでもなく「気違い」の代わりに「私は正しい」と置いても同じ事態に立ち至るはずだ。やはり、正しさの証明も無限に続いていくのである。だから、《連鎖を断ち切るには何らか絶対的な判定者、すなわち神のごときものが必要とされるのだ。》(「神の不安」/『メランコリーの水脈』63頁)
だが、もし〈神〉が存在しないとすれば、どうなるか。近代におけるあらゆる領域において、独自に成し遂げられた仕事は、この「神の不在」、「意味の無根拠」、すなわち〈相対〉的な有り様を巡って繰り広げられた戦いであったといっても過言ではない。無論、これは三浦雅士にとっても戦わねばならぬ重大な問題であった。だが、もし本当に我々の存在に根拠がないというのであれば、──1985年当時、私はその時点までに刊行されていた三浦の6冊の著作を読み終わり、書棚に収めながら、こう思ったのだ。──何故三浦雅士は書き続けるのであろうか、と。そしてこの問題は私自身の問題でもあり、さらにそれは近代に生きる人間自身の問題にも接続するのである。──生きるに値する人生が解体しているにも関わらず、何故、人間は生き続けるのか、という問いかけに。
3 絶対への問いあるいは人間の方へ
私がその翌年、「ダンスと語学学習」を手に取って驚いたのは、ある意味ではその問いかけに応えていたような気がしたからだと思う。近代において人間が人間の主人になり得たのはひとえに、その理性によってであった。だが三浦は、ダンスにおける〈身体〉というテラ・インコグニタによって人間は人間を再発見できることを衝撃をもって受け止めたのではなかったか。 後に三浦は批評の基準について《批評は絶対を狙わねばならない》として、種々検討を加えた上で、次のように述べる。
おそらく、これまでのところ、批評が絶対を狙う過程で導き出した最大の基準は自己意識である。作者の、あるいは作品の自己意識の強度が作品の価値を形成するという考え方だ。/(……)これを要するに文学作品は人間ということにかかわることによって読者を感動させるといって誤りではない。あたりまえのことだ。だが、あたりまえだからこそ重要なのだ。/作品の善し悪しを決めるのは、その作品がどれだけ深く、また強く人間ということにかかわっているかである。(『死の視線』10‐12頁)
やはり、三浦雅士は人間に帰ったのだ。舞踊を通じて人間というまさに絶対的なものに帰っていったのである。
4 過剰なる身体あるいは身体の零度
本書『身体の零度』は、「いま、なぜ、舞踊なのか」という問いへの前提である身体の問題について、文学作品や歴史的な事例も紹介しながら展開されたものである。 我々は、例えば、今世紀の初頭にまで残っていた、中国における纏足や欧米におけるコルセットといった〈身体加工〉をどう考えるだろう。批判されるべき野蛮な風習と考えるのではないか。──だが、むしろ事態は逆だ。その中に入ってしまえば、それをしていないことこそ野蛮な行為であり、それらこそが文化だったのである。卑近な例をあげてみよう。《頭と足ははっきりと差別され、右手と左手も同じように差別された。左利きは矯正された。火鉢はまたいではいけなかったし、本をまたいでもいけなかった。人の枕元にたってはいけなかったし、足で襖や障子を開けてはならなかった。立ちかた、座りかた、歩きかた、笑いかたから目つきにいたるまで、人はまず身体をしつけられた。》身体は《過剰な意味の場所》だったのだ。無論、このような意味、タブーは次第に喪われつつあり、《人間はただ純粋にその身体に向きあっているように見える。人間は、あらゆる虚飾を剥ぎとって、自分自身の裸の身体、「身体の零度」に立ちあっているように見える。》(本書2-3頁)
〈身体の零度〉とは、──三浦はアメリカの文明批評家ルイス・マンフォードを引用して次のように定義づける。それは《裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体》のことであり、マンフォードはそれをして《きわめて後世の、一般的でない文化的成果》だとしている(マンフォード『機械の神話』。本書31頁から援引)。つまり、三浦は《この物いいの背後に、人類の歴史において現代文明はきわめて特殊なものなのだというマンフォードの認識が潜んでいる》のだという(本書31頁)。
すなわち、前近代における身体は過剰な意味に彩られていた。しかし、近代以降、身体はその意味を喪っていったということになる。そしてそのことは人類史のなかでも極めて特異なことだったのである。ではなぜ、そのような事態が出来したのであろうか。そのことを考えるために、三浦は舞踊を、武智鉄二の説に基づき二つの類型に分類して考察を進める。「舞い」と「踊り」の二者がそれである。
《舞いの特徴は、摺り足にナンバ(*)、腰をしっかりと据えてゆっくり動くこと。踊りの特徴は、跳ぶこと、跳ねること、回ること、である。》《舞いの典型は能であり、踊りの典型はバレエである。》さらに、この二つの舞踊類型はそのまま、世界の《二つの舞踊文化圏》として線をひくことができる。そして、《それはそのまま農耕民の文化圏と遊牧民の文化圏》にもなるという**。なぜならば《生産の様式が、身体所作の様式を規定し、舞踊の様式を規定するからである。》(本書143頁)
* ナンバとは《右足が前に出るときは、右肩が前に出、極端に言えば、右半身全部が前へ出る》歩き方(武智鉄二『舞踊の芸』。本書134頁から援引)。《たとえば相撲の押しの体勢、張り手の体勢を思い浮かべて見るがいい。明らかにナンバの体勢になっている》(本書133頁)。昔の日本人はみなナンバで歩いたのだ。言うまでもなく農耕という生産様式がそのような身体所作を生んだのである。
** 三浦はガーナの民族舞踊の見聞から、これら二つの舞踊文化以前に「狩猟採集民の舞踊文化」が存在したのではないかと推測している(本書145頁)。
5 軍隊・学校・工場あるいは産業民的身体
では、我々が現代のダンスにおいて見る〈零度の身体〉はいかなる生産様式によって作り出されたものだろうか。それは近代的な産業ということになるのだが、準備をしたのはいずれも近代的な意味における軍隊と学校である。軍隊・学校・そして工場が近代的な身体を作り上げたのだ。逆に言えば、前近代的な、意味に満ちた身体を根絶やしにしたのはそれらの社会装置ということになる。
軍隊・学校・工場が行ったことはひとことで言えば〈規格化〉ということだ。言い換えれば、それ以前の身体がいかに〈規格外〉的であったかということを意味し、それは同時に現在の我々の身体がいかに〈規格化〉されているかということをも示す。歩き方ひとつから、前近代の人々は、我々とは全く異なっていたのである。三浦は内外の文学作品、様々な記録、史料、社会史的研究を例示・解説した上で、次のようにまとめる。
《ここで重要なのは、日本においてだけではない、ヨーロッパにおいてもまた、集団的、組織的に歩くこと、走ることは、学習しなければならなかったということだ。そしてその場は、何よりもまず軍隊であるほかになかったのである。/比喩としていえば、身体は、軍隊という工場で鋳直され、それから本物の工場へと送られたのである。やがて、軍隊に変わって、学校が、身体の工場としての機能を果たすことになる。だが、そのようにして成立した身体は、農耕民的でなかったどころか、遊牧民的でもなかったというべきだろう。あえていえば、それは産業民的だったのである。》(本書193頁)
踊るのは女で、男はそれを見るだけだという構図がある。いまでこそ多少なりとも変化がみられるようになってきたが、このパターンは昔からそうであったのであろうか。──無論そうではない、前近代においては男女ともに踊ったのだ。《産業革命が、男性を職場に、女性を家庭に、という図式を作ってしまった》のである。そして、《見るのは男であり、見られるのは女であるという図式》が同時に形成された。そして、さらに、舞踊を奪われた男性には〈体育・体操〉が課せられたのである。無論それは農耕民的身体あるいは遊牧民的身体を〈産業民的身体〉へと鋳直すためである(本書209‐215頁)。 いくつかの紆余曲折こそあったが、そのような経緯をたどって、文字通り〈制服〉のごときものとして、背広とシャツが全世界のビジネスマンを征服したように、規格化され、意味を喪った〈零度の身体〉はヨーロッパから全世界へと〈輸出〉されていったのである。
6 精神と身体のすべてあるいは生命の方へ
さて、このようにして、我々は振り出しに戻る。「いま、なぜ、舞踊なのか?」と。──〈身体の零度〉。──規格化されているというのであれば、逆にいえば普遍性が高いことを意味する。規格化は流通度を増すからだ。意味を喪失したというのであれば、逆にいえば自由で可能性に満ちていることを意味する。意味は限定に他ならないからだ。三浦雅士がアメリカで襲ったダンスの衝撃とはその自由度を意味したのではないか。三浦は本書を次のように結論づける。
《いま、私は、二十世紀に入ってバレエが爆発的に花開いたその秘密が、わかりかけてきたような気がする。舞踊は長く原初生産性のもとにあった。それは、農耕民の舞踊であり、遊牧民の舞踊であった。だが、いまそれは、近代によってもたらされた身体の零度に根差す総合芸術、いや、芸術以上のものになってきたのである。そのなかに、農耕民の舞踊も遊牧民の舞踊も取りこみながら、それらのすべて、精神と身体のすべてを考える場に変容したのである。》(本書268頁)
舞踊は《精神と身体のすべてを考える場》なのだというのである。《精神と身体のすべて》とは一体何だろうか? 「身体」だけでなく、何故その上に「精神」が加えられているのであろうか? 我田引水の謗りを恐れずに暴論を付け加えれば、私にはこの箇所、すなわち《精神と身体のすべて》とは〈生命〉──そう読めてしまうのだ。──舞踊とは〈生命〉を考える場になったのだ、〈生命〉そのものを精神的にも、身体的にも考える場になったのだ、と。私は先に《三浦雅士は人間に帰った》と述べた。《舞踊を通じて人間というまさに絶対的なものに帰っていった》のだとした。だが、むしろそれはこういうべきではなかったか。──三浦雅士は舞踊を通じて〈生命〉というまさに絶対的なものに帰っていったのだ、と。
7 生命それ自身あるいは根拠関係
しかしながら、それでは〈生命〉とは一体何なのだろうか。いまここでそれを説明し尽くすことは私には能力的に不可能であるし、また、そのような場でもない。ただ、たまたま本書とほぼ同時期に刊行された新刊に木村敏の『心の病理を考える』があり、私のおぼろげな思考に形を与えてくれた。三浦雅士が木村敏を読んでないはずがないが、だからといって恣意的に結び付けるのはまさに牽強付会と言うべきだ。しかしながら私にはどうしてもここで〈生命〉について語るべきなのだという気がしてならない。三浦の所論とは大きく外れてしまうかも知れぬが、しばしの寄り道をお恕し願いたい。
精神病理学者・木村敏は『心の病理を考える』第Ⅱ章「精神病理学の歩み」において、フロイト、ヤスパースから始まったそれは二つの系統、すなわち《主観重視の立場》と《客観重視の立場》を合わせ持つという(同書49-54頁)。そして《この二つの立場を超えた第三の可能性》としての《現象学的精神病理学》に強い影響を与えたのがドイツの神経内科医ヴァイツゼッカーの医学的人間学だった(同書54-55頁)。
《生命それ自身はけっして死なない、死ぬのはただ個々の生き物だけである。》と彼は主著『ゲシュタルトクライス』の中で述べている。──どういうことだろうか。木村は「生命」という概念には二つの意味があるという。一つには《有機的個体が一定の期間だけ生きている》、言い換えれば《その個体が死ねば消滅する》という意味であり、もう一つは《具体的には生殖といういとなみを通じて個体から個体へ、世代から世代へと引き継がれていく、それ自身はけっして死なない連続的な「何か」》を意味する。
《この「生命それ自身」、生物を生物たらしめている根拠(グルント)としての「生命」は、絶対に客観的な対象とならないが、生命体はいついかなるときもこの根拠との関わりを保つことによってしか生きることはできない。この生命の根拠との関係のことをヴァイツゼッカーは「根拠関係(グルントフェアヘルトニス)」と呼び、この根拠関係こそ主体を主体たらしめている「主体性(ズプィエクティヴィテート)」なのだと言う。》(同書60-61頁*)
* ヴァイツゼッカー言うところの〈主体性〉とは極めて独特の概念である。彼の考えによれば、有機体の感覚・知覚(つまり、受入系)と運動・行動(つまり送出系)とは通来の生理学で区別されていたような二つの独立した系ではなく、《たがいにからみ合って単一の機能(……)を形成している》ものだという。この機能をヴァイツゼッカーは〈ゲシュタルトクライス〉と呼び、それによって《有機体は、そのつど変化する環境とのあいだに、彼が「コヘレンツ」(相即)と呼ぶ機能を保持している。》そしてこの有機体と環境との関係は《外界の変化にも有機体内部の変化にも絶えず即応していて、それまでの関係が解体されたときにはすでにそのつど新たな関係が生成しているという仕方で維持されている。》《この絶えず生成と解体を繰り返す相即関係の原理、有機体と環境のあいだにあって両者の出会いを維持している原理のこと
を、ヴァイツゼッカーは有機体の「主体(ズプィエクト)」と呼ぶ》のだ。したがって《主
体とか主観といわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない。個体が個体として存続するために当の個体の主体はつねに個体の「外部」で、個体を取り巻く「非自己」的な環境との「あいだ」に成立していなくてはならない》。《このような主体/主観概念を導入することによって、ヴァイツゼッカーは従来の医学が精神と身体を分けて考えていた心身二元論を激しく批判する。(……)医学は──身体医学も精神医学も──すべて人間が「生きている」ということに関わらねばならぬ。(……)これがヴァイツゼッカーの主張であった。》(同書56-61頁)
8 存在の根拠あるいは生命の運動
私はこの箇所を読んだ時、これまた脈略を全く無視することになるであろうが、新約聖書学者・荒井献の所説を想起した。その著『イエスとその時代』は小冊ながら、社会史的方法(本人は《文学社会学》といっている。同書19頁)と最新の(無論刊行時における)新約学によって、いわゆる「史的イエス」*の実像を探ろうとした労作である。
*史的イエスというのは、ドイツの代表的聖書学者ルドルフ・ブルトマンの掲げたテーゼ、《原始キリスト教団の信仰にとって本質的な事柄は、彼らによって宣教されたキリスト、いわゆる「宣教のキリスト」であって、「史実のイエス」では必ずしもない》というものに基づいている(同書6頁)。つまり、『聖書』のテクストに表出されているのは歴史的事実としてのイエスというよりも、原始キリスト教団を形成していた人々の願望だったというのである。
さて、それによれば、『聖書』の中でイエスの神についての発言で信頼できるものは次の2箇所しかないという。
《天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ(正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らしてくださ)る》(「マタイによる福音書」5・45。( )の中はマタイの加筆)
《何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思い患うな。……空の鳥を見るがよい。蒔くことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのにあなたがたの天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかに優れた者ではないのか。……また、なぜ着物のことを思い患うのか。野の花がどう育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。……今日生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上してくださらないはずがあろうか。……だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って思い患うな。……明日のことを思い患うな。明日のことは、明日自身が思い患うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である》(「マタイによる福音書」6・25-34。同書184-5頁から援引)
ことさらに引用、提示されてみると、何の気もなしに読み飛ばしていた箇所が生き生きと蘇るのに驚く。これがもし〈神〉だとすれば、いわゆる一神教的な絶対者の風貌とは相当異なっている。むしろ〈自然〉に近いというべきなのか、あるいは仏教的だといえば叱責を被るであろうか。荒井献は次のように注解する。
《ここでイエスはまず神を、「善人」「悪人」のごとき人間の倫理的価値判断に基づく格づけを止揚する、いわば「相対化の視座」として捉えている。この視座を失うとき、人間は自己を神として立てるであろう。しかし、もしそれが、相対化の視座にとどまるならば、人間を底なしのニヒリズムに沈みこませるであろう。それは、人間のすべてを相対化するとともに、人間を、現実の苛酷さのただ中にある人間を、根元的に支える「存在の根拠」なのである。それは、「空の鳥」「野の花」のごとく、否、それにもまして、人間の一人一人を育てはぐくむ。》(同書185頁)
荒井自身の考えを大きく踏み外すことになろうが、やはり、この《存在の根拠》をも私は〈生命〉と呼びたい誘惑に駆られる。 我々は日常的な生活を普通に送る限り、取り立てて自分が〈生きている〉のだということを意識しない。しかし、ときにその日常の被膜が破れて、この〈生命〉がわずかながらでも露出する瞬間がある。恋愛をしている時、死と直面した時、なんでもいい、人は確かに、人生の中で、目から鱗が落ちるとしかいいようがない瞬間や、何物かに駆り立てられる(ドライヴされる)時を経験する。それは要するに〈生命の運動〉が生起している時ではないか。宗教や芸術、音楽でも、文学でも、そしてダンスでも、あるいはそれに類するものは、意識的にしろ無意識的にしろ、この〈生命の運動〉を起こそうとするものである。この〈生命〉が〈運動〉を起こす時に、レヴェルの高低は無論あるにせよ、我々は〈生命そのもの〉の素顔をかいま見る、人はその〈生命の運動〉を「神」と言ったり、「仏」と呼んだのではないか。私にはそう思える*。
*余談ついでに、私はこの事態を〈宗教的超躍〉と呼んでいる。と、自ら誤解を招くようなことを書きながら、しかし、と断り書きを付け加えて置けば、私の意図としては安易な神秘主義や低俗な新宗教(運動)とは一線を画している心算である。実体としての「神」・「仏」を私は一切認めない。私の稚拙な筆力の為にその意図が伝わらないことをひどく恐れている。
さて、寄り道が過ぎたようだ。本道に戻ろう。
9 三浦雅士あるいは文明への問いかけ
先にまとめたのが本書の大雑把な内容であるが、図式的に過ぎる論理の展開に辟易とされる方がいるかも知れない。恣意的に他の研究を繋ぎ合わせただけだという批判もあるに違いない。一介の文芸評論家が手を出すべき領域ではないと冷笑する人もいるだろう。確かに三浦は純粋な意味での研究者ではない。だが、三浦としては、ではなぜこのような研究が歴史家や社会学者によってなされないのか、という苛立ちを感じていたのだと思う。三浦はマンフォードについて次のようなコメントを記している。《スペシャリストは起源論になど取り組まない。ジェネラリストが取り組むのだ。そして、スペシャリストの仕事を意味づけることができるのは、ただジェネラリストだけなのだ》と(本書270頁)。ここに三浦自身の密かな自負を見て取るのは深読みに過ぎるであろうか。
三浦雅士の仕事はいつも根源的だった。編集者として活躍していた時から今に至るまで一貫して、文学や芸術を、それらが置かれている文明の問題として捉えてきた。そうでなければ、誰が小説と植民地の関係など問おうとするだろうか(「小説という植民地」)。そうでなければ、誰が打楽器を思想史の中に位置づけようとするだろうか(「思想としての打楽器」)。出世作『メランコリーの水脈』の意匠には《literature in civilization》、つまり「文明の中の文学」と副題のようにプリントされている。装丁者・菊地信義の三浦に対する鋭い批評になっているわけだ。そういえば、美術家の荒川修作は三浦との対談において、期待を込めて、三浦のことを《文明批評家》と呼んでいる(「建築、哲学そしてダンス」)。成程……、もしそうだとすれば、我々は今、21世紀初頭の日本を代表する「文明批評家」の誕生に立ちあっているのかも知れない。 とは言うものの、本書は全くの前提に過ぎない。問題はここからだ。現代の舞踊が〈身体の零度〉に拠っているというのであれば、それをより具体的に示して欲しいし、さらにその明と暗をもより深く追求していただきたい。次の主題はずばり、「いま、なぜ、舞踊か」。是非、それは新書として刊行するべきだ。当然のことながら読者層が格段に拡がる。柳田國男『遠野物語』から言葉を借りて応援のエールを送れば、それをもって、日本中の読書人をダンスの衝撃で《戦慄せしめよ》! とまでいいたい。
【引用文献】
(1)三浦雅士「ダンスに魅せられて」/『毎日新聞』1991年5月17日夕刊。
(2)三浦雅士「いま、なぜ舞踊か」1993年11月13日、朝日カルチャーセンター横浜における公開講座のためのパンフレット。
(3)ルイス・マンフォード『機械の神話』1966年/樋口清訳・1971年・河出書房新社。
(4)武智鉄二『舞踊の芸』1985年・東京書籍。
(6)ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』1940年/木村敏・浜中淑彦訳・1974年・みすず書房。
(8)三浦雅士「思想としての打楽器」/『小説という植民地』。
(9)荒川修作「建築、哲学そしてダンス」三浦雅士によるインタヴュー/『Art EXPRESS』No.1・1993年12月・新書館。
※傍線は引用文も含めて全て評者による。
(初出『鳥』1995年1月号・鳥の事務所)
12,513字(32枚)
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「無印良品」は消費社会打開の切り札になり得るか? 堤清二・三浦展『無印ニッポン』
「無印良品」は消費社会打開の切り札になり得るか?
■堤清二・三浦展『無印ニッポン――20世紀消費社会の終焉』2009年7月25日・中公新書。
■対談(消費社会・現代史)。
■210頁。
■2024年5月15日読了。
■採点 ★★★☆☆。
目次
1 「無印良品」の思想
『下流社会』*[1]で洛陽の紙価を高めた三浦展(あつし)さんと、彼の元・上司(?)*[2]であった堤清二さんとの対談です。
基本的には、堤さんの年来の主張であるところの「消費社会の終焉」がそのテーマとなっています。
簡単に言えば、ブランド物などに見られるように、過剰にプラス・アルファの価値が付随された商品を高価に売買するといった消費中心の経済を考え直すべきだ、という主張のようです。
そして、堤さんのビジネスマンとしての、その反・消費社会の具体的な実践の具現化こそが、その実業家としての晩年に手がけた「無印良品」に他ならない訳です。本書の書題はそこに由来しています。
「無印良品」の思想とは何でしょうか?
対談者である三浦さんの発言によれば、以下のようになります。
堤清二最大の功績である「無印良品」のコンセプトは、シンプルな暮らしであり、「これがいい」ではなく、「これでいい」という一種無欲な商品を作ることですね。*[3]
確かに、現行の「無印良品」のホウム・ペイジを見ても、以下のように述べられています。
無印良品は衣服、生活雑貨、食品という幅広い品ぞろえからなる品質の良い商品として、1980年に日本で生まれました。無印良品とは「しるしの無い良い品」という意味です。
(中略)
たとえば、紙の原料であるパルプを漂白するプロセスを省略すると、紙はうすいベージュ色になります。
無印良品はそれをパッケージ素材やラベルなどに用いました。結果として非常にピュアで新鮮な商品群が現れたのです。
演出過剰ぎみだった一般商品と好対照をなす商品群は、日本のみならず世界に衝撃を与え、大きな共感とともに受け入れられました。
それは「これがいい」「これでなくてはいけない」というような強い嗜好性を誘う商品づくりではありません。
無印良品が目指しているのは「これがいい」ではなく「これでいい」という理性的な満足感をお客さまに持っていただくことです。
「これがいい」には微かなエゴイズムや不協和が含まれますが「これでいい」には抑制や譲歩を含んだ理性が働いています。
(中略)
無印良品の店舗は現在、全世界で1000を超え、商品アイテムも、衣服や生活雑貨、食品、そして家まで、7000アイテムを超えました。
しかしその思想の根幹は誕生当時と変わらず、北をさす方位磁石のように、生活の「基本」と「普遍」を指し続けています。*[4]
引用が長くなってしまいましたが、恐らく、この「無印」の思想の根幹に、ここにもある「誕生当時と変わらず」というように、堤さんの思想が息づいているのだと思います。
本書の中で堤さんは、「無印良品」について、幾つか散発的に述べられています。
例えば「これは反体制商品です」*[5]とか、あるいは、「無印良品は何を訴求したいかと思っていたかと言うと、それはただ一点、消費者主権なんです。(中略)ここまでは用意します。あとはあなたがご自分で好きなように使ってください、という、そういう意味での消費者主権。」*[6]という具合です。
なるほど、確かに、それは大変望ましい社会像である、と一旦は言えます。
本書冒頭に「自動車の世紀が一〇〇年で終わる」*[7]という小見出しの下に、すなわち、それは、言うなればアメリカ型の「二〇世紀の大量生産の社会が、ついに大きな転換を余儀なくされる時代にいま入った。」*[8]のだと、三浦さんは述べています。それは、企業の消費の論理に踊らされ、無駄な製品を、大量に消費し、場合によっては、大量に廃棄もする、という社会を離脱し、消費者自らが、自らの欲求や、自らの身の丈に合わせた生活や生き方を模索する時代に入った、ということを意味するかも知れません。
まさに、それこそが「無印」の思想だとも言えます。
「無印良品」の思想はともかくとして、その製品は、今や26カ国に拡がっているそうです。或る意味で、今後の世界全体の消費の考え方を占うものとなるかも知れません。
2 「ファスト風土化」
ところで、わたしは、この著で、三浦展さんを堤さんが「一読して、ここには新しい才能があると思った。」*[9]と誉めていることから、三浦さんを注目するようになりました。
『下流社会』はもとより、個人的に気になる、三浦さんの主張は「ファスト風土化」*[10]という概念です。本書から、著者自身の定義を引用するとこうなります。
ロードサイドに、大型ショッピングセンターやコンビニ、ファミレス、ファストフード店、レンタルビデオ店、カラオケボックス、パチンコ店などが建ち並び、地方から固有の地域性が消滅していることを言う。*[11]
確かに、これは、わたしたちが日常的に目にする光景です。恐らく、このままいけば、遅かれ早かれ、日本全体は、脱色化され、どこに行っても、同じような風景を眺め、同じような経験をすることになるでしょう。それは、日本全体が都会化する、というよりも*[12]、なにか人工的な模造された商空間によって占拠されることのようにも思えます。便利にはなった、でも、どこに行っても同じ、そういう日本です。
しかしながら、それは、比較的都市部に住居する者の偏った見方かも知れません。しばしば、都会に暮らす者が、田舎に行き、コンビニもないのか、とぼやきますが、田舎に暮らす方からすれば、1店のコンビニエンス・ストア、1店のスーパー・マーケットがあるだけでも、大変有難いことかも知れず、そうそう、簡単に日本全体が隅から隅へと完全に同色に塗り潰される、というのも、あるいは現実離れした、単なる妄想かも知れません。
さて、問題は何か、というと、郊外のショッピング・モールでほとんど間違いなく出店しているのが、ユニクロ、場合によっては、その下位ブランドのGUと、そして無印良品ではないでしょうか? そこにどこかの100円ショップが入る、というパターンかと思います。無印が地域の色を単色化することを助長していないでしょうか? このままだと、日本中はユニクロと無印の国になってしまうかも知れません。それは堤さんが望んだことでしょうか?
3 ノン・ブランドというブランド化
あるいは、こうも言えるかも知れません。
無印良品の最初期のキャッチコピーは「わけあって、安い。」*[13]でした。しかし、正直に言って、「無印」の製品は安いでしょうか? わたし個人はなかなか無印の製品に手が出ませんでした。安かろう、悪かろう、ということが分かっていても100円ショップの商品で済ませてしまうことが圧倒的に多かったと思います。それは結局のところ、わたしが製品に対するブランドを求めていないからだと思います。
つまり、逆に言えば、これは、しばしば言われることかも知れませんが、無印の製品を求めて買う人々は、ノン・ブランドたる無印のブランド、すなわち、ノンブランドのブランドを求めているのだと思います。つまり、今や、無印の商品は「これでいい」のではなく、無印という「これがいい」という商品になっているのではないでしょうか? だからこそ、世界的に需要があるのです。この側面はユニクロにも通底することかと思いますが、いずれにしても、これまた、そもそも堤さんが求めていたことなのでしょうか。
4 「消費」という闇
さらに、申し述べれば、堤さんや三浦さんは消費社会を批判する、と言います。確かに堤さんにはその主旨の論著もあります*[14]。
しかしながら、消費、とは何でしょうか? 門外漢のわたしには簡単には言えませんが、浪費、蕩尽も含めて、或る種の娯楽なのではないでしょうか?
個人的なことを言うと、仕事が忙しく、掃除や炊事といった生活の基本的な行動が封鎖され、生活に喜びが感じられれなくなると、食べたり飲んだりすることしか自由が利かなくなります。すると、到底、一人では飲食不可能だな、と思うぐらいの食料(主にスーパーマーケットのお惣菜であるが)を爆買いして、相方に怒られます(´;ω;`)ウッ…。
あるいは、同様に読書をする時間も無くなると、その代償行為として、古書をあり得ないぐらい買ってしまいます。恐らく、もう死ぬまで、頑張って読んでも、絶対に読み切れないぐらいの古書を買ってしまいました。自分でも「病気」ではないのか、と思うぐらいに歯止めが効きません。
これは仕事のストレス発散という側面もありますが、消費、取り分け、「過剰な消費」には、人類が抱え込んだ、或る種の闇の部分が照らし出されているのではないでしょうか。
村上春樹さんの著名な短篇小説に「トニー滝谷」*[15]という名品があります。わたしはこの作品がとても好きです。ネタバレになってしまうので詳しくは書けませんが、ミュージシャンであるトニー滝谷のパートナーの女性は、大変よくできた方だったのですが、唯一欠点がありました。それは、一生かかっても着ることのできないぐらい、片っ端から洋服を買い集めることだったのです。この場合はストレスでもなんでもなく、或る種の心の病が、彼女をして過剰な買い物に走らせていたのでしょうが、何か、ここには「消費」という人類特有の現象の、そう簡単には否定し去ることのできない、人類と消費の間の不可離性のようなものが潜んでいるような気もします。
このように様々考えてくると、堤清二さんはこの「消費」という謎に実践的な行為を通じて肉薄しようとした稀有な経営者であったのだとも言えるかも知れません。
参照文献
三浦展. (2004年). 『ファスト風土化する日本――郊外化とその病理』. 洋泉社新書y.
三浦展. (2005年). 『下流社会――新たな階層集団の出現』. 光文社新書.
村上春樹. (1996年). 「トニー滝谷」. 著: 村上春樹, 『レキシントンの幽霊』. 文藝春秋.
辻井喬. (1969年). 『彷徨の季節の中で』. 新潮社.
辻井喬. (2009年). 『叙情と闘争――辻井喬+堤清二回顧録』. 中央公論新社.
堤清二. (1985年). 『変革の透視図――脱流通産業論』. トレヴィル.
堤清二, 三浦展. (2009年). 『無印ニッポン――20世紀消費社会の終焉』. 中公新書.
堤清二, 辻井喬. (2015年). 『わが記憶、わが記録――堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』. (御厨貴, 橋本寿朗, 鷲田清一, 共同編集) 中央公論新社.
不明. (2024年). 「無印良品について」. 参照日: 2024年5月19日閲覧, 参照先: 無印良品: https://www.muji.com/jp/about/?area=footer
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*[2] 三浦さんは、西武セゾン・グループのパルコの社員でした。
*[3] [堤 三浦, 『無印ニッポン』, 2009年]11頁。傍線引用者。
*[5] 堤の発言[堤 三浦, 『無印ニッポン』, 2009年]97頁。傍線引用者。
*[6]堤の発言 [堤 三浦, 『無印ニッポン』, 2009年]100頁。傍線引用者。
*[7] [堤 三浦, 『無印ニッポン』, 2009年]4頁。
*[8] [堤 三浦, 『無印ニッポン』, 2009年]4頁。
*[9]堤「あとがき――楽しき対談」/ [堤 三浦, 『無印ニッポン』, 2009年]208頁。
*[10] [三浦, 『ファスト風土化する日本――郊外化とその病理』, 2004年]。
*[11] [堤 三浦, 『無印ニッポン』, 2009年]61頁。傍線引用者。
*[12] 本書でも述べられている(三浦さんの発言「東京の下町や商店街が独特の雰囲気を残している。(中略)京都でも大阪でもいいんですが、都市には風土性がやっと残っているが、地方には消えているという、不思議な状況になってる。」 [堤 三浦, 『無印ニッポン』, 2009年]70頁)ように、むしろ東京などの都心の方が、従来の伝統的な文化が残っているかも知れません。
*[13] [堤 辻井, 『わが記憶、わが記録』, 2015年]135頁。