鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

第1回PASSAGEどうぶつ会議が終わりました!  

🐤鳥の事務所PASSAGE店通信🐤

第1回PASSAGEどうぶつ会議が終わりました!

 

皆さん、今日は。「鳥の事務所」です。

去る、6月25日(土)、26日(日)の終日で「PASSAGEどうぶつ会議」と題し、フェア台にて展開致しました。

 今回、PASSAGE棚主の「たぬきの本棚」さん、「BOOKSみつばち」さんの呼びかけで、棚名に動物(生き物)が入っている棚主を中心に「PASSAGEどうぶつ会議」を開くことになりました。

 今回のテーマは

「誰がライオンの首に鈴をつけるのか?」

 ではなく、

「子供たちのために!」

でした。

 参加した動物たち(棚主さんたち)は、

たぬきの本棚さん

BOOKSみつばちさん

青羊舎さん

人鳥書店さん

羊葉文庫さん

青熊書店さん

ますく堂なまけもの叢書発行人さん

さるうさぎブックスさん

書肆斑猫さん

 だったと思います。

 皆様お疲れ様でした。また、この驚異的な暑さの中、ご来店いただきお買い上げ頂いたお客様、誠に有難う御座いました。今後とも宜しくお願いいたします。

 

 さて、当・鳥の事務所としては、「子供たちのために!」というテーマからかなり逸脱するかと思いますが、先年、お亡くなりになった詩人・評論家の吉本隆明さんの最晩年の著作

『フランシス子へ』と、

これまた先年、お亡くなりになった臨床心理学者の河合隼雄さんの中期の名著

『子どもの宇宙』を出品させていただき、両方とも暖かくお客様にお迎え頂いたようで、心から感謝の意を表したいと思います。

『フランシス子へ』については前回ご紹介いたしました。

『子どもの宇宙』はここでご紹介する前に旅立っていきましたが、せっかくなので、ご紹介させてください。

本書は、河合隼雄さんの中期の代表作と言っても過言ではありません。たった200ページ足らずのこの小著にどれだけの「宇宙」が込められているかを読むたびに驚嘆いたします。バーネットの『秘密の花園』や、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』、リヒター『あのころはフリードリヒがいた』など数冊のよく知られた児童文学の名作を通じて、子どもの持つ豊かな内面の宇宙を読み解いていくものです。臨床心理学者としての、症例や治癒例の実体験に裏打ちされた重みと発見と驚きに満ちた言葉が固い心で覆われた大人の心を打つと思います。

 

吉本さんと河合さんについてはひと棚丸ごと特集でいっぱいにしたいぐらいですが、著書があまりにも多過ぎるので、切り口を考えないといけません。機会を見て着手致します。その折はまた宜しくお願いいたします。

 

PASSAGE by ALL REVIEWS

https://passage.allreviews.jp/

東京都千代田区神田神保町1-15-3

サンサイド神保町ビル1F

 

本店(?)の方の、当面の特集は

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」ということで、ジョイス関係の本になります。

 

詳細は以下をごらん下さい。

鳥の事務所 | PASSAGE by ALL REVIEWS

 

皆さま、どうか宜しくお願いいたします。

🐤

20220626 2237

PASSAGEどうぶつ会議に出品します!

🐤鳥の事務所PASSAGE店通信🐤

 

PASSAGEどうぶつ会議に出品します!

 

皆さん、今日は。「鳥の事務所」です。

来る、6月25日(土)、26日(日)の終日で「PASSAGEどうぶつ会議」と題し、フェア台にて展開致します。

『どうぶつ会議』とは、ドイツの作家エーリヒ・ケストナーが1949年に出版した子どものための本『動物会議(Die Konferenz der Tiere)』で、ケストナー第二次世界大戦後にはじめて手がけた本作は、彼の友人で「子どもの本で世界を平和にする」ことを願い、後にIBBY国際児童図書評議会)、ミュンヘン国際児童図書館を創設したイエラ・レップマンのアイディアが元になったものでした。

 今回、PASSAGE棚主の「たぬきの本棚」さん、「BOOKSみつばち」さんの呼びかけで、棚名に動物(生き物)が入っている棚主を中心に「PASSAGEどうぶつ会議」を開くことになりました。

 今回のテーマは

「誰がはちみつを食べたか?」

 ではなく、原作のテーマを活かし

「子供たちのために!」

となっています。

 参加する動物たち(棚主さんたち)は今のところ、

たぬきの本棚さん

BOOKSみつばちさん

青羊舎さん

人鳥書店さん

羊葉文庫さん

青熊書店さん

ますく堂なまけもの叢書発行人さん

さるうさぎブックスさん

書肆斑猫さん

 とのことです。

 どうか皆さんのご来店を心よりお待ちしております。

 わたくし、鳥の事務所は、両日とも、世を忍ぶ仮の姿で会社に行くため((´;ω;`))、在店できませんが( ノД`)、たぬきの本棚さんとBOOKSみつばちさんが一日店長として采配を振るっていただけるようです。

さて、当・鳥の事務所としては、「子供たちのために!」というテーマからかなり逸脱するかと思いますが、先年、お亡くなりになった詩人・評論家の吉本隆明さんの最晩年の著作

『フランシス子へ』を出品致します。

 


「フランシス子」とは、吉本さんと相思相愛の仲だったと言われる猫さんの名前ですが、その猫さんの死に際して、思いつくままに、生と死のことや、親鸞のことなどを平易な言葉で綴ったものです。恐らく、吉本さんの著作の中でも最も美しい本の一冊だと思います。表紙には吉本邸の庭の写真と吉本さんの書斎の写真があしらわれています。カヴァーにはフランシス子の足跡も。

インタヴューによる聞き書きですが、或る種の散文詩にもなっていると思います。根柢にあるのはフランシス子という猫さんを通しての、生きとし生けるものへの温かい視線、あるいは手触りです。

ほぼ新品です。是非、PASSAGEにてお手に取って御覧ください。

 

 

 

PASSAGE by ALL REVIEWS

https://passage.allreviews.jp/

東京都千代田区神田神保町1-15-3

サンサイド神保町ビル1F

 

本店(?)の方の、当面の特集は

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」ということで、ジョイス関係の本になります。

 

詳細は以下をごらん下さい。

鳥の事務所 | PASSAGE by ALL REVIEWS

 

皆さま、どうか宜しくお願いいたします。

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20220624 1055

 

 

気が付けば、突如、四冊、お買い上げ有難う御座いました!

🐤鳥の事務所PASSAGE店通信🐤

◎総特集=ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」

気が付けば、突如、四冊、お買い上げ有難う御座いました! 

 

 

皆さん、今日は。「鳥の事務所」です。どういう訳か、ここ一週間でなんと4冊もお買い上げ頂きました。これで開棚以来8冊お買い上げいただいたことになります。誠に有難う御座いました。値段を下げようかとも思っていたし、そもそも、この時代にあと重量級の単行本は売れないのかなと思っていたのですが、まー、それは今後の問題として、有難く思っております。

大体、「『ユリシーズ』100年」とか言っておきながら、『ユリシーズ』以外の本を置き過ぎたのも、我ながらいかがなものかとも思っております。

お買い上げ頂いたのは

① ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳・新潮文庫ジョイス唯一の短篇連作集。かの翻訳不可能と言われた『フィネガンズ・ウェイク』の完訳を成し遂げ、惜しくも『ユリシーズ』は途中までの翻訳で鬼籍に入られた、まさに天才翻訳家の奇跡の名訳。旧新潮文庫版『ダブリン市民』の新訳版となる。

② ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』安藤一郎訳・新潮文庫

ジョイス唯一の短篇連作集。往年の読者はこの安藤一郎訳でまずジョイスの洗礼を受けた。新潮文庫は今柳瀬訳に改版されているので新刊では手に入らない。それにしてもこのリアリズムで書かれた瀟洒な短篇集から、誰が一体あの『ユリシーズ』を想像できたであろう。いや『ユリシーズ』を読むとよく、この『ダブリン市民』の情景が浮ぶのだ。

③ ジェイムズ・ジョイス『ダブリンの人びと』米本義孝訳・ちくま文庫ジョイス唯一の短篇連作集。『言葉の芸術家ジェイムズ・ジョイス――『ダブリンの人びと』研究』(2003年・南雲堂)、『読解『ユリシーズ』』(上下・2004年・研究社)で高名なジョイス学者による翻訳。

という訳で、ここまでは、Dubliners の異訳の三冊でした。そして最後は、

④ ジェイムズ・ジョイス『若い藝術家の肖像』丸谷才一訳・集英社文庫ヘリテージシリーズ。ジェイムズ・ジョイス第一長篇小説。大作『ユリシーズ』の主人公の一人スティーヴン・ディーダラスを主人公に据えて、ジョイス自身の若き日も目に浮かぶ半自伝的小説。小説家にして、『ユリシーズ』鼎訳者の一人である丸谷才一の新訳、決定版。詳細な註解を附載。結城英雄解説。これによって讀賣文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。2冊置いておいた新品の方が売れました。

以上のようなラインナップでした。

 

そして、まだ旅立つ日を心待ちにしているのが、ジョイス『ダブリンの市民』結城英雄訳・岩波文庫、です。

ジョイス唯一の短篇連作集。集英社版『ユリシーズ』の鼎訳(丸谷・永松・高松)の解説者にして、サントリー学芸賞(社会・風俗部門)受賞作『「ユリシーズ」の謎を歩く』(1999年・集英社)で名高いジョイス学者(前・日本ジェイムズ・ジョイス協会会長)による希少の翻訳。各章扉に付されたダブリンの写真が楽しい。420円。ぜひ、こちらも宜しくお願いいたします。

 

という訳で、いよいよ6月が近づいてきました。『ユリシーズ』を読むなら今しかありません(そんなことはないか?)!

是非、『ユリシーズ』をお手に取ってみてください。

それでも、開巻1ページ目から挫折してしまった方には、とても優秀な水先(チチェ)案内人(ローネ)がいらっしゃいます。それも複数。かく言うわたしもこの方々がいなければ、とっくのとうに読むのをやめていたことでしょう。つまり、なんらかの縛りは必要だということです。あとは無理に全部読もうとせず、各挿話を比較的念入りに読むということですね。以下敬称略です。

①「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」全22回開催・2022年2月2日から12月16日までon lineにて実施・発起人:田多良俊樹、河原真也、桃尾美佳、小野瀬宗一郎、南谷奉良、小林広直、田中恵理、平繁佳織、永嶋友、今関裕太、宮原駿、湯田かよこ、新井智也。

②「2022年の『ユリシーズティーヴンズの読書会」全18回(?)開催・2019年6月16日から・現在はon lineにて実施・主催者: 南谷奉良・小林広直・平繁佳織。

On lineによる読書会ですが、どちらかというと公開講義に近いのですが、毎回、驚天動地の講義と、そして質問を通じて、専門家、素人、合い交えて、相当熱い論戦が繰り広げられています。是非アクセスしてみてください。

①は月に2回、隔週の金曜日の20時から22時まで、は隔月の日曜日の13時半から17時半まで開講されます(と言っても、はあと1回しかありませんが)。次回の予定は以下の通りです。

① 6月3日(金)20:00~22:00 第8挿話を扱います。こちらをご覧ください。 出版100周年特別企画:2022年×全22回のオンラインイベント - 日本ジェイムズ・ジョイス協会 (joyce-society-japan.com)

② 6月26日〔? 多分そうだったと思う。事前に予告があります〕(日)13:30~17:30 第18挿話を扱います。こちらをご覧ください。☛ ジェイムズ・ジョイス研究 - STEPHENS WORKSHOP (stephens-workshop.com)

 

 

 

 

 

 

 

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東京都千代田区神田神保町1-15-3

サンサイド神保町ビル1F

 

当面の特集は

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」ということで、ジョイス関係の本になります。

 

詳細は以下をごらん下さい。

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皆さま、どうか宜しくお願いいたします。

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20220523 0009

「世界」を知ろうとすること――「世界」への異和、「世界」への絶望 山本芳久『アリストテレス 二コマコス倫理学』

「世界」を知ろうとすること――「世界」への異和、「世界」への絶望

 

山本芳久『アリストテレス 二コマコス倫理学

 



 

 

■山本芳久『アリストテレス 二コマコス倫理学』2022年5月1日・100分de名著(NHK出版)。

有隣堂町田店・ ¥600にて購入。

■テキスト・長篇評論・入門書。

■2022年4月30日読了。

■採点 ★☆☆☆☆。

 

 

【目次】

1 「素読(すどく)」ノスゝメ.. 2

2 これは自己啓発本か?.. 5

3 「想像上」のアリストテレスについての感想... 7

3-1 プラトンとの切断... 7

3-2 体系性・網羅性の罠... 10

3-3 根を喪うこと/世界との和解... 12

3-4 『進撃の巨人』における、「世界異和」と「絶望」. 13

3-5 結語(のようなもの). 14

【主要参考文献】... 15

 

 

 

1 「素読(すどく)」ノスゝメ

 例のごとく、例によって、素人の戯言なので聞き流して欲しい。哲学史の「て」の字も、アリストテレスの「ア」の字もさっぱり分かってない。

 にも、関わらず、何故、書き、また何故にそれを公表するかというと、――無論、誰も読みやしないが、それはまた別の問題であるが、何も大真面目に学問的に考察しようと思っている訳では全くなく、哲学や科学や政治思想や社会現象すらも、文芸批評の対象になり得ると思っているからである。いや、むしろ、それが幸か不幸か判断できぬが、哲学も現代科学も、言葉で表現されるものは多かれ少なかれ、文芸批評の影響下にあると言って過言ではない。それは、結局のところ、その対象となるもの・ことを、「この」「わたし」は「どう」「読んだ」のか、という「解釈」の問題に帰結するからだ。 かつて、そう述べたのは文芸評論家の三浦雅士である*[1]

 こう思ったのは、他でもない。偶々、奇縁? 機縁? により、ついこの春からジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』*[2]刊行100年とのことで、コンピュータ・ネットワークによる読書会*[3]、というよりも講義に近いとは思うが、それ(ら)に参加することで、――これらは主催者側が素人を広く受け入れるという姿勢が強く出ているのだが、素人が素人なりに素人の思い付きの考えや意見を述べるというのは楽しいことだと気付いたからだ。

ユリシーズ』と言えば、難解というよりも、難読というのか、多くの読書好きと自認する者たちでも挫折を余儀なくされた高く立ち塞がる文学的高峰ではある。そういう点からすれば主催者側の姿勢も理解できる気がする。

 それはともかく、実はその読書会で流行しているのが、ジョイスを如何に読むかという方法を簡単に示した、一連の「〇読」という言葉、方法論である。いわく、徹底的に調べて読む=「調読」*[4]、原文に索引を掛けて読む=「索読」*[5]。なるほど、ジョイスほど徹底的に自らの作品とその言葉にこだわった作家であれば、確かに有効な、というよりも、一回通読しただけでは、当然のことながら、理解出来得るものさえ、理解出来なくなってしまうに違いない。その意味では、ジョイス、取り分け『ユリシーズ』というテキストは、否応なく学問的な、学者的な読解を要求していることは間違いないと思う。

 いや、いや、しかし、しかし、わたしはこうも思う。――繰り返し言うが、あくまでも素人の戯言である。

それでいいのか? と。

無論、結局のところはインターネットで調べたり、辞書や事典を引いたり*[6]、原文に当たったり、検索を掛けたりするのではあるが、これから言うことは相当当たり前のことなのだが、実は文学作品の読解がその典型なのかも知れぬが、最初に、そのテキストを読むときの姿勢、というか第一印象こそが最も大切なのではないだろうか。

これをして、わたしは「素読」と名付けた。「そどく」ではなく「すどく」と読んで頂きたい。したがって、これ以降は常時「素読(すどく)」とルビを振ることになる。素読(そどく)と違うのか、というと無論、違う。素読(そどく)は昔の寺子屋などで行われていた漢文の学習法で、意味が分かろうか、何だろうが、暗記するぐらいにその原文を読んでいると、やがて意味が実感として理解できるようになるというもので、これはこれで、現代でも価値のある学習法だとは思う*[7]。時間がかかるので、学習者は嫌がるであろうが。

わたしがここで言おうとしているのは分ろうが分かるまいが、とにかく、最初に読んだときの感触、印象、異和感をよく覚えておいて、それを元にして、調べたり、検索を掛けたりしないといけないのではなかろうかという訳だ。この問題は別稿にて触れたい。

 

2 これは自己啓発本か?

 

こう述べたものの、自らの不勉強ぶりについては潔く認めたいとは思う。

 さて、前置きが長くなった。いずれにしても、「実際」? の、「真実」? のアリストテレスの姿については、わたしには分らない。その前提の上で、以下の感想、というか印象を書き連ねたい。

 正直、このテキストは、少なくとわたしには面白くなかった。それが単にわたしの理解力不足や予備知識のなさの故であるのか(まー、そうなんだろうな)、アリストテレス自身の哲学そのものに理由があるのか、あるいは筆者・山本芳久に起因するのか、それはわたしには判断できない。そもそも、放送用に事前に執筆されたテキストなのだから、放送を視聴して、その内容とも合わせて検討すべきものなのであろう。しかし、いささかならず不満が残ったのは事実だ。

つまり、漠然と予想していたアリストレス像とはかなりかけ離れているものだったのだ。それは、例えば、山本の本来の専門がヨーロッパ中世の神学者トマス・アクィナスである、というところにあったかというとそうでもない。恐らく山本は一般の視聴者・読者にはこの内容でよいと判断したのか、あるいは、実際、山本には、アリストテレスはこう映っているのであろう。

 要は、余りにも自己啓発本寄りなアリストテレス像になっているような気がしたのだ。いや、実際にこうなのかも知れない。だからこそ、2000年以上も時が経っても、その価値が失われることなく読み継がれているのだろうから。

 また、自己啓発本の類いを否定している訳ではない。それはそれで充分意味はあるのだと思う。ただ、その種の書物は、例外もあるであろうが、「現実といかに折り合いをつけるか」というところに焦点が当たっていて、言うなれば、世界を変えることよりも自分を変えることに焦点が当たっている気がする。自分を変えることによって、世界を変える、と言えば聞こえはいいが、わたしに言わせれば、自分を変えて、一体どうするのか、とさえ言いたい。

 無論、哲学や思想の位相はそこにはない、はずだ。

 したがって誰も悪くない。むしろ、皮肉交じりに文句を言うわたしがおかしな客だということになろう。

以上のような次第で、本書についての感想、印象は以上になる。

 

3 「想像上」のアリストテレスについての感想

 

3-1 プラトンとの切断

 

以下は、本書とは別の、わたしの「想像上」のアリストテレスについての感想のメモのようなものである。

1 なぜ、アリストテレスは哲学を志したのだろうか?

2 なぜ、アリストテレスは万学を志したのだろうか?

3 なぜ、アリストテレスの哲学は体系的なのだろうか?

4 なぜ、アリストテレスの哲学は2000年もの間に渡って、強い影響力を持ちえたのだろうか?

 というのは、プラトンの著作がいいか悪いかは一旦措いておいて、それらとアリストテレスの哲学、著作との間には重大な溝、切断があるように思うからである。

 多くの人びと、若者が、道に迷い、その答えを哲学や宗教や、あるいは文学に求めようとする。加藤周一が日本においては文学作品が、哲学の代行をしていたと、確か『日本文学史序説』*[8]で述べていたと記憶しているが、それは、無論それなりの理由があるとは思うが、あるいは洋の東西を問わず、多かれ少なかれ、言える事実ではないかとも思う。

 つまり、悩んだ挙句、何とか道を開こうと、哲学の門を敲いたとしても、その悩みとは雲泥の差とも言うべき高い壁が聳え立ち、悩む者の心を折り伏せる。苦しんでいるのに、何をさらに好き好んで、訳の分からない文章を読む必要があろうか。投げ出して当然である。

 その意味で言えば、哲学の文章の難度を上げたそもそもの始まりがアリストレスにあるとするのは無理があるだろうか。

 それに比べれば、実際に理解できたかどうかは別としてその師プラトンの著作は、特別な訓練や、特殊な知識がなくとも、読み通すことはできる。場合によっては中学生でも読めるぐらいだ。

 それは、対話体で読みやすいということもさることながら、文学的とも言うべき面白さ、味わい深さを持っていると思われるが、ところが、アリストテレスに始まる、いわゆる哲学の文章は、とにもかくにも、難解で、まずもって、読書の喜びが味わえない、ということに尽きるかと思う。無論、そこを耐えて、じっくりと時間をかけ、予備知識を補給しつつ、読み・解くことで、哲学の文章の面白さを味わうこともできるのであるが、そもそもの目的がそこにはない(と感じられる)ので、あえなく挫折、ということになるのである。

 なぜ、そうなってしまうのか。

 明治以来の流れで言えば、訳文の問題、つまり、誤訳、文章の稚拙さ、翻訳者の理解不足なども、その理由に挙げられるかも知れぬ。言い換えれば原文は悪くない、という考えだが、無論、そういう面も全く否定できないが、それだけではないだろう。

 やはり、専門用語の使用、文章の晦渋さによるものという側面は否定できない。哲学の文章はかくあるべしとの規範を、意図せずして、作ったのが(作ることになってしまったのが)、アリストテレスに他ならないという訳である。

 無論、我々が現在読むことができるのは、公刊を企図していたものではなくて、彼の遺した、自身のための講義ノートだということなので、この問題をアリストテレスに帰するのは見当違いだという意見もあるだろう。

 しかし、結果論的にであれ、後世に与えた影響を考えると、講義ノートであろうと、いや、むしろ、講義ノート故に、彼の本音、本心が吐露されてもいるはずだ。

 

3-2 体系性・網羅性の罠

 

 とりわけ、ここでわたしが問題にしたいのが、その「体系性」と、「網羅性」である。要は「世界」を網羅的に、つまり、その全てを、体系的に説明し尽そうという意図の表われである。

 それの何が問題なのか。

 世界を全て知りたいというのは、一旦理解できるが、それを「体系的」に説明しようとする、その瞬間に世界はその言葉からすり抜けていくのではないか。つまりは体系の中に所属しないもの、所属できないものは、この世界に存在しないことになる。

 あるいは、我々の思考が、またその社会が、またその倫理や、政治すらも体系的であって、それ以外ではないことになる。そのような世界を作ったのが、アリストテレスの哲学の体系性、あるいは、その文章、言葉だったのだ、と言ったら言い過ぎであろうか。

 しかし、体系性を持たない、例えばヴィトゲンシュタインの哲学が平易なのかというと、全くそんなことない。この世界で、従来存在しないとされてきた思考を顕在化、言語化しようとすれば、――本人自身が理解できていないことのそれなので、必然的に難解になってしまうのは言うまでもない。 そもそも近現代の哲学の文章と比較すれば、アリストテレスの文章は、むしろ平易な方である。

しかしながら、我々はやはり、プラトンアリストテレスの切断、――認識論的切断*[9]ならぬ、方法論的切断に思考を至らしむる必要があるかと思うのだ。

無論、ここにはより精密な議論が必要とされるのは言うまでもない。イスラームの受容と、そこからのヨーロッパへの回帰、キリスト教神学との合流、そして、近現代の哲学、あるいは文学への重大な影響など議論すべきことは山とある。

 

3-3 根を喪うこと/世界との和解

 

さらに言及しておきたいのが、アリストテレスの網羅性と、彼が哲学を志した理由についてである。この問題は表裏をなしているように思う。彼の伝記的な事実は正確なところは余り知られていない。しかし、彼が若年の折、両親を亡くし、故郷を追われた/捨てた/後にした、言うなれば「故郷喪失者」、言うなれば「根拠を失った者」、「根無し草(デラシネ)」であったことは、間違いない。その祖師、あるいは師である、ソクラテスプラトンアテナイに所属して、アテナイの中で、その位置を確立し、そこで一生を過ごしたことを考えると、まさに雲泥の差があると思われれる。

その彼が、――彼と同じような状況に置かれたものの全てのものがそうなる訳ではないのは言うまでもないが、その彼が、世界に異和を覚え、その世界に対する異和の理由を徹底的に理解/理会したいと思ったのも分かる気がする。

つまり、アリストテレスの哲学とは、世界と和解しようという全的な試みではなかったのか、と勝手に推測する。

 

3-4 『進撃の巨人』における、「世界異和」と「絶望」

 

全く文脈を逸脱することになるが、諌山創による長篇漫画/アニメイション作品である『進撃の巨人』*[10]について一言触れておきたい。

100年前、突如謎の巨人に襲われた人類はその居住地を高層な壁で囲い、そこに閉じこもったが、再び巨人に襲われることになった。人類の世界はその壁の中にしかない。言い換えればすべての人類はその壁の中にしかいないことになっている。

主人公エレン・イェーガーの幼馴染であるアルミンは亡父が残した書籍から、世界がその壁の外にも存在し、そこには砂漠も海も広がっていることを知り、いつか巨人を倒したら、壁の外へ出て、世界を見ることを夢見、それをエレンたちに語る。やがて、苦渋の経験の後に、壁の外に出て、海を見たアルミンたちは感動するが、何故か、一人エレンだけは浮かない顔をしている。その後、彼は一人暴走するような形で、彼らの住むパラディ島の人々以外の人類を滅亡に追い込もうとする。

世界の真実を知りたいと思う、純粋な希求と、それに向かって行動し、その果てに、世界の真実を知ってしまった後の絶望的とも言える決断。

 

3-5 結語(のようなもの)

 

 無論、アリストテレスと同じだとは言えない。全く次元の異なる話だ。

 しかしながら、彼が故郷を離れてざるを得なかったときの、世界の秘密を知りたいと思ったときの何らかの世界への異和感、はたまた、最晩年に長く慣れ親しんだアテナイを放逐されたときの絶望に我々は思いを馳せる。

 そして、そこにアリストテレスの2000年にも及ぶ影響とも言えるけれども、まさに「呪縛」のようなものを、少なくともわたしは感じずにはいられないのである。

 

【主要参考文献】

ウィキペディアWikipedia)』. (2022年4月3日 (日) 17:46 最終更新). 「ルイ・アルチュセール」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

アリストテレス, 渡辺邦夫(訳), 立花幸司(訳). (2015年ー16年). 『二コマコス倫理学』上下. 光文社古典新訳文庫.

ジョイス ジェイムズ, 丸谷(訳)才一, 永川(訳)玲二, 高松(訳)雄一. (1922年/1996年-97年). 『ユリシーズ』. 集英社.

加藤周一. (1975年ー80年). 『日本文学史序説』上下. 筑摩書房.

監督 荒木哲郎(第1期)肥塚正史(第2期-第3期) 林祐一郎(第4期). (2013年-2022年). 『進撃の巨人』. WIT STUDIO(第1期 - 第3期) MAPPA(第4期).

諌山創. (2009年9月9日 - 2021年4月9日). 『進撃の巨人』全34巻. マガジンKC(講談社).

三浦雅士. (2002年). 「読書と年齢」. 著: 岩波文庫編集部編, 『読書のたのしみ』. 岩波文庫.

三浦雅士. (2012年). 「木田元はなぜ面白いか」. 著: 木田元, 『ハイデガー拾い読み』. 新潮文庫.

山本芳久. (2022年). 『アリストテレス 二コマコス倫理学』. 100分de名著(NHK出版).

田村 章. (2022年4月1日). 「レオポルド・ブルームの地理学――『ユリシーズ』第4挿話について」. 『22 Ulysses―ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待』第5回.

田多良俊樹. (2022年3月4日). 「第2挿話―階級、教育、植民地性」. 『22 Ulysses―ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待』第3回.

柄谷行人. (1983年). 『隠喩としての建築』. 講談社.

 

 

 

6735字(17枚)

 

🐦

20220510 1151

 

 

📓ノート

  • 悪は、善の観点のもとにでなければ愛されることはない。すなわち、ある点において善いものであり、そして端的に善いものと捉えられるかぎりにおいてでなければ愛されることはない。 (中略)そして、不正によって、何らかの善――たとえば快楽や金銭やそういった類のもの――が獲得されるかぎりにおいて、 人はこのような仕方で不正を愛するのである。 (トマス・アクィナス神学大全』・本書p.41-42)
  • カントの立場はシンプルです。幸福につながるか否かにかかわらず、人間として果たす義務があり、また、人間としてやってはならないことがある。そういうことを考えるのが倫理学だというわけです。そのような仕方でカントは、自らの義務的倫理学を展開していきます。(本書44)⇔アリストテレスの目的論的倫理学(p.15)
  • 徳は生まれながらのものではない(61) 🖊そうなのか?
  • ものにはそれ自身の「固有の場所」がある(62)
  • 徳は技術のように修練で習得できる(63) 🖊①であれば、敢えて徳と呼ぶ必要はない。技術で充分ではないか? ②なぜ、同じような活動が反復できるのか? 強制なのか?
  • 倫理は共同体の問題(p.71) 🖊倫理は文化・共同体による強制によるものだ(p.74)。
  • 徳(アレテー)の解釈は合っているのか?

 

*[1] [三浦, 2012年]

*[2] [ジョイス, 丸谷(訳), 永川(訳), 高松(訳), 1922年/1996年-97年]

*[3] ①「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」全22回開催・2022年2月2日から12月16日までon lineにて実施・発起人:田多良俊樹、河原真也、桃尾美佳、小野瀬宗一郎、南谷奉良、小林広直、田中恵理、平繁佳織、永嶋友、今関裕太、宮原駿、湯田かよこ、新井智也。

②「2022年の『ユリシーズ』―スティーヴンズの読書会」全18回(?)開催・2019年6月16日から・現在はon lineにて実施・主催者: 南谷奉良・小林広直・平繁佳織。

*[4] [田多良, 2022年3月4日]

*[5] [田村, 2022年4月1日]

*[6] と、書きながら、今手元には一冊の辞書も辞典もないことに気づいた。10数冊あるはずの辞書や10数巻の事典は全て実家に置きっぱなしである。何ということであろう! 辞書・事典の類いは旧宅のわたしの机の真横に設置していてすぐさま手に取れるようにしていたが、そもそも、この種の原稿のようなものすら、もはや机では書かない。今は、台所のテイブルの上で、コンピュータ上に書いているのだから。時代は変わった? のか。

*[7] 素読(そどく)の重要性については、多くの論者が語っているが、例えば三浦雅士はとりわけ「十代の読書は暗誦にある」 [三浦, 「読書と年齢」, 2002年]として素読(そどく)の重要性を述べている。

*[8] [加藤, 1975年ー80年]

*[9] 「マルクス主義ヒューマニズムには、若きマルクスの疎外された主体性の奪還というテーマですべてを語ろうとするきらいがあった。そうではない。マルクスのもっと重大な発見は、別なところにある。若きマルクスはその時代の学問的風潮に未だ捉われていたのであり、『ドイツ・イデオロギー』を境目として、真に彼独自の思想が展開されるのだ。アルチュセールはそう考えた。これが、「認識論的切断」のテーゼである。」( [『ウィキペディアWikipedia)』, 2022年4月3日 (日) 17:46 最終更新])。ルイ・アルチュセールマルクスのために』1965年/1994年・平凡社参照。

*[10] [諌山, 2009年9月9日 - 2021年4月9日]、 [監督 荒木哲郎(第1期)肥塚正史(第2期-第3期) 林祐一郎(第4期), 2013年-2022年]

ジェイムズ・ジョイス(高松雄一訳)『ダブリンの市民』、お買い上げ有難う御座いました! 

🐤鳥の事務所PASSAGE店通信🐤

◎総特集=ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」

ジェイムズ・ジョイス高松雄一訳)『ダブリンの市民』、お買い上げ有難う御座いました! 

 

皆さん、今日は。「鳥の事務所」です。ついに4(!)冊目お買い上げ頂きました。誠に有難う御座いました。開棚後2ヶ月にして、まだ4冊なので、価格設定も含めて要検討なのですが、まあ、とにかく頑張ります。3月まではやたらと暇だったのですが、4月に入って時間的制約が加わって、なかなか動きが取れなくなってしまったのですが、まあ、気長にやっていきます。売上優先ではなくて、あくまでも「布教活動」の一環なのですが、読まれなければ意味がないので、要改善ではありますね。たは。

お買い上げ頂いたのはジェイムズ・ジョイス高松雄一訳)『ダブリンの市民』(福武文庫)でした。有難う御座いました。

 

 

ジョイス唯一の短篇連作集です。畢生の大作『ユリシーズ』の鼎訳(丸谷・永松・高松)で知られる高松雄一の名訳。『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』で「挫折」した方は、通常のモダニズムの小説の枠で書かれた本書がお勧めです。今は亡き「福武文庫」の、さらに今は亡き(( ノД`))菊地信義の手になる瀟洒なブック・デザインが目を引きます。美しいですね。

ジョイスと言えば奇を衒った(と思われている)『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』で知られていますが、よくよく読むとそれらの作品の根柢には、いわゆる文学的な抒情性、ポエジーが潜められています。『ダブリンの市民』を読むと、もともとジョイスもそのような詩的/私的・世界から自身の文学活動/文学制作を始めたのだなあと、いささか感慨に浸ります。

『ダブリンの市民』つまり、Dubliners は複数の翻訳が出ています。当棚でも以下の書目をご用意しておりますので是非お手に取って御覧下さい。

 

① ジョイス『ダブリンの市民』結城英雄訳・岩波文庫

ジョイス唯一の短篇連作集。集英社版『ユリシーズ』の鼎訳(丸谷・永松・高松)の解説者にして、サントリー学芸賞(社会・風俗部門)受賞作『「ユリシーズ」の謎を歩く』(1999年・集英社)で名高いジョイス学者(前・日本ジェイムズ・ジョイス協会会長)による希少の翻訳。各章扉に付されたダブリンの写真が楽しい。420円。

 

② ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳・新潮文庫ジョイス唯一の短篇連作集。かの翻訳不可能と言われた『フィネガンズ・ウェイク』の完訳を成し遂げ、惜しくも『ユリシーズ』は途中までの翻訳で鬼籍に入られた、まさに天才翻訳家の奇跡の名訳。旧新潮文庫版『ダブリン市民』の新訳版となる。360円。

 

③ ジェイムズ・ジョイス『ダブリンの人びと』米本義孝訳・ちくま文庫ジョイス唯一の短篇連作集。『言葉の芸術家ジェイムズ・ジョイス――『ダブリンの人びと』研究』(2003年・南雲堂)、『読解『ユリシーズ』』(上下・2004年・研究社)で高名なジョイス学者による翻訳。ビニルカヴァー貼り付け、謹呈箋も内側に貼り付け。中身は綺麗。720円。

 

④ ジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』安藤一郎訳・新潮文庫ジョイス唯一の短篇連作集。往年の読者はこの安藤一郎訳でまずジョイスの洗礼を受けた。新潮文庫は今柳瀬訳に改版されているので新刊では手に入らない。それにしてもこのリアリズムで書かれた瀟洒な短篇集から、誰が一体あの『ユリシーズ』を想像できたであろう。いや『ユリシーズ』を読むとよく、この『ダブリン市民』の情景が浮ぶのだ。520円。

 

という訳で、いよいよ6月が近づいてきました。『ユリシーズ』を読むなら今しかありません(そんなことはないか?)!

是非、『ユリシーズ』をお手に取ってみてください。

それでも、開巻1ページ目から挫折してしまった方には、とても優秀な水先(チチェ)案内人(ローネ)がいらっしゃいます。それも複数。かく言うわたしもこの方々がいなければ、とっくのとうに読むのをやめていたことでしょう。つまり、なんらかの縛りは必要だということです。あとは無理に全部読もうとせず、各挿話を比較的念入りに読むということですね。以下敬称略です。

①「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」全22回開催・2022年2月2日から12月16日までon lineにて実施・発起人:田多良俊樹、河原真也、桃尾美佳、小野瀬宗一郎、南谷奉良、小林広直、田中恵理、平繁佳織、永嶋友、今関裕太、宮原駿、湯田かよこ、新井智也。

②「2022年の『ユリシーズティーヴンズの読書会」全18回(?)開催・2019年6月16日から・現在はon lineにて実施・主催者: 南谷奉良・小林広直・平繁佳織。

On lineによる読書会ですが、どちらかというと公開講義に近いのですが、毎回、驚天動地の講義と、そして質問を通じて、専門家、素人、合い交えて、相当熱い論戦が繰り広げられています。是非アクセスしてみてください。

①は月に2回、隔週の金曜日の20時から22時まで、は隔月の日曜日の13時半から17時半まで開講されます(と言っても、はあと1回しかありませんが)。次回の予定は以下の通りです。

① 5月20日(金)20:00~22:00 第7挿話を扱います。こちらをご覧ください。 出版100周年特別企画:2022年×全22回のオンラインイベント - 日本ジェイムズ・ジョイス協会 (joyce-society-japan.com)

② 6月26日〔? 多分そうだったと思う。事前に予告があります〕(日)13:30~17:30 第18挿話を扱います。こちらをご覧ください。☛ ジェイムズ・ジョイス研究 - STEPHENS WORKSHOP (stephens-workshop.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、最近、今更、凝っているのが、あるイギリス貴族とその従者(?)たちの人間ドラマを描いた『ダウントン・アビー』です。イギリスの文化や習俗の勉強になります。英語の勉強にもちょっとなります。ちょっとだけですが。

かなり無理槍感のあるストーリー展開ですが、ここ2週間ぐらいでシーズン1~3までけっこうぶっ通しで見てきました。芸術的にどうこうということはないのでしょうが、ついつい見てしまうのは日本のNHK大河ドラマと同じなんでしょうね。

と、思ってたんですが、これは単なる推測ですが、大河ドラマというよりも、かの橋田壽賀子描くところの『渡る世間は鬼ばかり』と、物語の展開は同じなのではないか、と思った次第です。推測というのは『渡鬼』を見たことがないからです(笑)。

恐らく、様々な事件が起こるにも関わらず、結局何も変わらず、時は過ぎていく、という「歴史不変」観が現れている気がしますが、庶民の歴史感覚は洋の東西が違えども、普遍性があるのでしょうか?

すいません。適当なことを書きました。

 

 

PASSAGE by ALL REVIEWS

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東京都千代田区神田神保町1-15-3

サンサイド神保町ビル1F

 

当面の特集は

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」ということで、ジョイス関係の本になります。

皆さま、どうか宜しくお願いいたします。

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人間存在の日常的苦悩を抉る 戸谷洋志『ハイデガー 存在と時間』

人間存在の日常的苦悩を抉る

 

戸谷(とや)洋志(ひろし)『ハイデガー 存在と時間

 



 

■戸谷洋志『ハイデガー 存在と時間』2022年4月1日・100分de名著(NHK出版)。

くまざわ書店八王子本店・ ¥600にて購入。

■テキスト・長篇評論・入門書。

■2022年4月9日読了。

■採点 ★★★☆☆。

 

 全くもって、ハイデガーの「ハ」の字も分かってないので、とてもまともなことが言えそうもないが、とても面白かったとは言える。

当然のことながら、ハイデガーの哲学、思想がたったの100分で、書物で言えば100ペイジ強で、語り尽くせるような内容ではないことは、素人にも何となくは分かる。したがって、相当に内容、論点を絞り込み、レヴェルも、わたしのような一般視聴者にも理解可能なものになっている、と思うが、それにしても、とても面白かった。言ってみれば、大変腑に落ちたというところだ。

 というのは、一般に難解な書、取り分け20世紀最大の哲学書にして、三大難解哲学書の一つとされてはいる*[1]し、引用されている文章の断片を読む、というか眺めただけでも、到底瞬時に理解できるものではないが、ハイデガー自身は、できるだけ、日常的な言葉づかいで、我々人間が遭遇する、日常的な問題を考えようとしていたようなのである*[2]。それは何かといえば、今、我々が、ここに存在することの漠然とした不安である。極端に言えば、その種の問題は、ことさらに哲学をやろうと思わなくても、物心ついた子供ですら、その種の不安は感じ取ることができる。

 うろ覚えで書くが、漱石の「硝子戸の中」*[3]に、彼の幼年時代の回想が語られる*[4]。池の中の鯉だかに引っ張り込まれる恐怖を語ったものではあるが、まさにこれこそ、ここにいうところの「存在的不安」に他ならない。仮に、幼年時代にそのような経験がなくても、思春期や、中年期、あるいは老年期と言った人生の要所で、人は、確(しか)とした理由もなく、「存在的不安」の沼に引きづり込まれる思いをするのではなかろうか。要は、いま、何故、ここに、わたしは存在するのか、存在していいのか、という漠たる不安である。無論、これには具体的な理由は、本来的にはない。

 ハイデガーは、この「存在的不安」を徹底的に分析をした。それは、いわゆる哲学的な方法というよりも、むしろ、主題的には、文学的な世界に近接している気がする。

以前、文芸評論家の三浦雅士は、哲学者・木田元の仕事を介して、ハイデガーは文芸評論家なのだと述べた*[5]が、まさに宜(むべ)なるかな、と言うべきだ。

 さて、多くの人々は、この不安から逃れるために、「世人(ひと)」の中に埋没してしまい、自らの「本来性」を喪う。いわゆる世間に流される、「空気を読む」。これまた、日常でよく見かける事例だ。

 では、人はいかにして、自らの「本来性」を取り戻すことができるのか。

 それは、誰人にも必ず襲い掛かる「死」に他ならない。この死こそが、自分自身が、他人とは交換ができず、自らの「本来性」を生きるように仕向けるものである。仮に死によって、肉体が消滅するにしても、「本来性」を生きるという価値が、それを超えさせていくのであろう*[6]

 さて、20世紀後半から21世紀を生きる我々にとって、ハイデガーと言えば、ナチズムへの加担という問題が存在する。それはそれで大変重要な問題ではあるし、まさに今日的なテーマとも言える。筆者・戸谷自身の関心は、むしろ、この問題をハイデガーの後続者であるハンナ・アーレントやハンス・ヨナスの思想を通じて批判的に受け止め、再解釈をする方向にあるのであろうが*[7]、それはそれとして、大変意味があるとは思うし、取り分けアーレントという思想的高峰には極めて、否定し難い魅力があるのは事実だ。

 しかしながら、――ハイデガー自身がどう考えていたのか、現段階では、――、つまり、わたしの不勉強故に、残念ながらわたしには分らぬが、彼を、あるいは人間を捉える存在論的な不安、苦悩、恐怖、といったものは、そういった現実的である政治的な判断をもや易々と越えてしまう程の広さと深さを持っていたのではないだろうか。彼が最終的には書かれざる、『存在と時間』の下巻において、そのような人間の「存在」という問題を超えて、文字通り「存在」という存在を論究しようとしていたということからも、そのような類推が許されるような気がする。

 いささか文脈が逸れるかも知れないが、わたしがここで想起するのはドストエフスキーの作品に登場する、悪魔的人物たち、言うなれば或る種のニヒリストたち、取り分け『罪と罰』の裏主人公たるスヴィドリガイロフの思想? とその言動である。ご存知のようにスヴィドリガイロフはラスコーリニコフやその妹アーニャたちにつき纏い、精神的な嫌がらせとも言うべき数々の振る舞いをした上で、易々と「新世界=アメリカ」、つまり「死の世界」へと旅立っていく。彼にとっては、生きることも死ぬことも、単なる紙の裏と表であって、大差ないのかも知れないが、実は、そうでもなくて、もしかしたら、死出の旅路を決断することによって、生を荘厳しようとしていたのかも知れない。つまりは、それほど彼にとっての生は苦痛に満ちていたとも考えられる。彼の性への慾望もそこに由来すると思われる。

 その事情は、ドストエフスキー自身がそうであったように、まさにハイデガー自身にも通底すると言えば牽強付会に過ぎるであろうか。

 言うなれば、ここにある事情とは、かつて柄谷行人が「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」*[8]で見事に剔抉して見せたように、「倫理的な問題」と「存在論的な問題」との乖離である。シェイクスピアの「ハムレット」*[9]がそうであるように、漱石の長篇小説の多くは構造的に分裂している。それは小説の結構の問題もさることながら、本来は主人公たちは「存在論的」に苦悩しているにも関わらず、「倫理的」な問題に拘泥しているような気になり、彼らの言動が、或る意味支離滅裂なものとなり、文学作品としては破綻しているとの批判を呼ぶのではあるが、実は、そこにこそ意味があるのであると柄谷は述べた。

 同時代、あるいは後世に、功罪共に重大な影響を与えた高名な哲学者の人生を、文学作品と同じであるとするのは、いささか無理があるとご批判があるかも知れぬ。しかしながら、人はある時点から、文学作品のように生きるようになったのである*[10]ハイデガーが、あたかも自身の全集を編む心算で、生きていなかったとは、誰にも言えないのではないだろうか。

 

【主要参考文献】

 

エリオット・スターンズ,トーマス. (1920). 「ハムレットとその問題」 Hamlet and His Problems. 著: 『聖なる森』 The Sacred Wood.

シェイクスピア ウィリアム. (1601?). 『ハムレット』.

ドストエフスキー ミハイロヴィチ フョードル. (1866年). 『罪と罰』. (亀山郁夫, 訳) 2008年-2009年: 光文社古典新訳文庫.

夏目漱石. (1915年). 『硝子戸の中』.

戸谷洋志. (2022年). 『ハイデガー 存在と時間』. 100分de名著(NHKテキスト・NHK出版).

三浦雅士. (2010). 『人生という作品』. 東京: NTT出版.

三浦雅士. (2012年). 「木田元はなぜ面白いか」. 著: 木田元, 『ハイデガー拾い読み』. 新潮文庫.

柄谷行人. (1969年/2017年). 「漱石試論――意識と自然」. 著: 柄谷行人, 『新版 漱石論集成』. 東京: 『群像』1969年6月号(講談社)/岩波現代文庫岩波書店).

 

 

 

3107字(8枚)

 

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📓ノート

  • 三大難解哲学書 ①カント『純粋理性批判』・②ヘーゲル精神現象学』・③ハイデガー存在と時間』 4
  • 人はなぜ不安になるのか、自分らしい生き方とは何か、なぜ人は世間の目を気にしてしまうのか 5
  • 書かれた本がその著者を裏切っている 11
  • 意図的に伝統的な哲学の語彙を一掃し、日常的なドイツ語で用語を考案 13
  • 〇〇がある  〇〇=存在者ザイエント がある=存在ザイン 25
  • 人間=現存在ダーザイン 27
  • 存在についての暗黙の理解=存在了解 29
  • 実存=現存在が関わり合うことになる自分の存在 30
  • 本来性=自分本来のあり方から自分を理解している
  • 非本来性=自分自身ではないものから自分を理解している
  • 可能性=別様でもあり得る 
  • 人間はほとんどの場合に非本来的に生きている    以上35
  • 現象学=どこにでもある、何でもない日常のなかで、現存在がどのように生き、存在しているかを、ありのままに描き出し、そこから分析を深めていく方法 37
  • 世界=人間が置かれている環境のこと 37
  • 現存在=世界内存在=人間はどんなときでも環境のなかで生きている 38
  • 現存在は自分を「自分でないもの」によって理解し、非本来的に生きている。こうした「自分でないもの」=「世人(ひと/せじん)」das Man p.41
  • 「日常的な現存在であるのは誰なのかという問いには、それは世人(ひと)であると答えられる。この世人(ひと)とは誰でもないひとであり、この誰でもないひとに、すべての現存在は、〈たがいに(ウンター)重なりあう(アイン)よう(アン)に(ダー)存在(ザイン)〉しながら、みずからをつねにすでに引き渡してしまっているのである。」 41
  • 世人=世間=空気 41
  • 「わたしたちは、ひとが楽しむように楽しみ、興じる。わたしたちが文学や芸術作品を読み、鑑賞し、批評するのは、ひとが鑑賞し、批評するようにである。わたしたちか「群衆」から身を引くのも、ひとが身を引くようにである。わたしたちが「憤慨する」のも、ひとが憤慨するようにである。この世人(ひと)とは特定のひとではなく、総計としてではないとしてもすべてのひとであり、これが日常性の存在様式を定めているのである。」 43
  • 「頽落」  私たちは日常において穴に落ちるように世人の中に呑み込まれて、そこから抜け出すことができず、どんどんその深みにはまっていく。これが現存在の最も日常的な姿である。 48
  • ハイデガーはコンスタンツの町の「お坊ちゃん学校」に通って強い違和感を感じた。 p.49 ジョイス
  • どちらを選んでも苦しみに苛まれることになる。 61
  • この意味において、自分が死ぬということは、誰とも交換することができません。ここからハイデガーは自分の死こそが、現存在にとってもっとも固有な可能性であると考えました。 //死とは、それが死で「ある」かぎり、その本質からしてつねにそのつど〈わたしのもの〉としてある。しかも死とは、各人に固有の現存在の存在が端的に問われるという特別な存在可能性を意味する。 //死によって「各人に固有の現存在の存在が端的に問われる」とは、 つまり私たち人間は、自分の死と向き合うことを通じて、初めて自分を「唯一無二の存在」として理解することになる、ということです。自分の死の可能性を前にしたとき、私たちはもはや、自分が他者と交換可能な存在であるとは思えなくなります。ここにハイデガーは現存在が本来性を取り戻していくための一つの手がかりを見出すのです。 p.66-67
  • 現存在の終わりとしての死はみずからにもっとも固有で、〔他者との〕関係を喪失し確実でありしかも無規定な追い越すことのできない可能性である。  68
  • 死の可能性に向き合うとき、「私」は、世人とは違った生き方が自分にあること、別の可能性が自分にあることに気づく  70
  • 「良心の呼び声」   良心が、 「私には別のこともできたはずだ」、と「私」に迫る p.73
  • しかし、 ハイデガーがドイツ語で「決意性」と呼んでいる概念は、まったく反対のニュアンスを持っています。原語の「エントシュロッセンハイト(Entschlossenheit)」は、ドイツ語的に分解して考えていくと、 「鎖を断ち切る」あるいは「鎖から解放される」という意味合いを含んでいます。 つまり、 ハイデガーの言う「決意性」は、 狭まっていた視野を解き放ち、それまで「これしかない」と思っていたもの以外の、様々な選択肢や可能性が見えてくる、ということを示しているのです。 81
  • 全体主義に支配されるとき、人々は同じイデオロギーに染まり、 一人ひとりの個性は失われてしまいます。それに対して、この脅威に抵抗するためにアーレントが主著『人間の条件』 のなかで擁護したのが、人間の「複数性」でした。/複数性とは、 一言で表すなら、この世界で生きる人々の間に、 一人として同じ人間は存在しない、という性格のことです。そのため「私」は、それまで生まれてきた、今生きている、そしてこれから生まれてくるだろうどんな人間とも違った、かけがえのない個性を持った存在である、と考えることができます。   104
  • ハイデガーの「良心」は「それは間違っている」と語りかけることしかない。人間の本来性を「とにかく決定すること」としか捉えなかったが故にハイデガーは誤った(ハンス・ヨナス)   108
  • 「責任」  自分自身に向かうものではなくて、他者に対して引き受けるもの(ヨナス)  109

 

*[1] 三大難解哲学書 ①カント『純粋理性批判』・②ヘーゲル精神現象学』・③ハイデガー存在と時間』 ( [戸谷, 2022年]・p.4より)

*[2] [戸谷, 2022年]p.p.12-13.

*[3] [夏目, 1915年]

*[4] どうも探しきれない。わたしの記憶違いか?

*[5] [三浦, 2012年]

*[6] 以上3段落分は [戸谷, 2022年]の内容を要約した。

*[7] 戸谷自身は、ハイデガー論よりもむしろ、その弟子筋に当たるハンス・ヨンスやハンナ・アーレントに関する、というよりも、ほとんどハンス・ヨナスについての一連の論著で脚光を浴びた。①『ハンス・ヨナスを読む』堀之内出版・2018年、②百木漠との共著『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』2020年・慶應義塾大学出版会、③『ハンス・ヨナス 未来への責任――やがて来たる子どもたちのための倫理学』2021年・慶應義塾大学出版会、④『ハンス・ヨナスの哲学』2022年・角川ソフィア文庫

*[8] [柄谷, 1969年/2017年]

*[9] [シェイクスピア, 1601?]

*[10] [三浦, 『人生という作品』, 2010]

追悼・見田宗介=真木悠介先生   苦の倫理学 そのⅠ・Ⅲ

追悼・見田宗介真木悠介先生

 

2022年4月1日、社会学者、思想家の見田宗介真木悠介先生がお亡くなりました。享年84歳とのことです。

ここに謹んで哀悼の意を表し、先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。 

前稿の続きとなります。旧稿で恐縮ですが、見田=真木先生関連のものを2本、再掲載させて頂きます。例のごとく、レポートの域を出ないものですが、わたし自身の能力の限界なので、致し方ありません。

 

Ⅰ 

 

苦の倫理学  そのⅠ  自らのこころを食べる 

 

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 ひとは苦しいときや辛いとき、どうするのだろうか? わたしは苦しみを恒常化することで心を麻痺させるという技を編み出して15年ぐらいやってきた*。 

 

*幼少時から若年に至るまでは必ずしもそうではなかった。よく学校をサボったり、バイトをぶっち切ったり、果ては、或る巨大組織から逃亡した。生まれてから30代までは逃走の歴史と言っても過言ではない。 

  

 つまり、どういうことかというと会社に行きたくない。とりわけ長期休暇の後がまずい。自殺したくなるほど辛いのだ。だから、それを避けるためにはできるだけ会社に行き続けるのだ。できるだけ休まない*。土日出勤は当たり前。長期休暇もときどき出勤して間が開かないようにする。一時期は半年ぐらい休みがないのもざらだった。 

 

*無論、休日に休まない、という意味だ。 

 

 しかし、年齢の進行とともに、この技の根本的な問題点が浮上してきた。それは身体的、あるいは精神的疲弊を伴うということだ。当たり前か。 

 さらに言えば、ひとは苦しみと向き合い続けることで本当に強くなれるのか、とも思う。もう帰天された、『置かれた場所で咲きなさい』で有名な渡辺和子シスターは「学歴や職歴よりもたいせつなのは、「苦歴」。」と仰っているらしい*。すいません、それ、本当ですか? 

 

 *渡辺和子『どんな時でも人は笑顔になれる』2017年・PHP研究所、の新聞広告(『朝日新聞』2017年3月22日・朝刊)より。 

 

 ひとは恒常的な苦しみのなかで、やがては何かが壊れるのではないか? 少なくともわたしは壊れ始めている。危ない。一連の「悪の倫理学」はその軋む音だ。 

 

 ひとはなぜ愉しさとともに生を享受できないのだろうか?  わたしには謎である。 

 

 たまたま、今日の夕刊に見田宗介さんの著名な永山則夫論「まなざしの地獄」*を振り返るインタヴュウが掲載されていた**。 

 

見田宗介「まなざしの地獄――尽きなく生きることの社会学」/原題「まなざしの地獄――都市社会学への試論」・『展望』1973年5月号・筑摩書房/2008年・河出書房新社/『定本 見田宗介著作集Ⅵ』2011年・岩波書店。 

 

**見田宗介・聞き手 塩倉裕「差別社会 若者を絶望させた――見田宗介さん「まなざしの地獄」」/『朝日新聞』2017年3月22日・夕刊・「時代のしるし」欄。以下、「見田・2017」と略記。 

 

 以前、『著作集』*が刊行されたときに、たまたま目を通したが、正直、さほどのものとも思えなかった。こちらの理解度が追い付いていなかったのであろう。 

 

*前掲。 

 

 

 

 

 

 今回、眼を開かれたのは論文中で紹介されている永山の「精神の鯨」という断片である。 

 鯨の背中に乗って大海を漂流している「ぼく」は餓えて、鯨に食べていいか、と尋くと「仕方無いよ」と鯨は答える。少しずつ、少しずつ鯨を食べ続け、3分のⅠまで食べてしまい、酷いことをしたと鯨に謝るのだが、鯨はもう死んでいた。そのとき「ぼく」は、その鯨は自分自身の精神だと気づくという話だ。 

 見田は、昨年自殺した大手広告代理店の女性社員の事例を挙げつつ、これを敷衍する形で次のように述べている。 

 

 現代の情報産業、知的産業、営業部門などで働く若い人たちが、やむをえない必要に追われる中で「仕方無いよ」とつぶやきながら、自分の初心や夢や志をちょっとずつちょっとずつすり減らし、食いつぶしている。そしていつか、自分が何のために生きているのか分からなくなってしまっている。(見田・2017) 

 

 そして、最終的に自殺までいかぬまでも、精神的に、擬似的な「自殺体」となり、ゾンビーのように仮死的な生を送ることになる。 

 

 われわれは、自らの精神、こころを喰い殺す、この地獄、それは「まなざしの地獄」というよりも、この文脈では、自分で自分を吊し上げる、際限のない、自己拷問の地獄、というべきか、ここから如何にして脱出することができるのか。 

 

 【付記】 

 本稿はたまたま成った。本来は日記『遍歴』の一部であった。 

 表題も「苦の倫理学」でよいのか判断に迷う。倫理学、というよりも苦しみについての臨床哲学的雑記、というべきだろう。「苦しみ本線 日本海」とかでもいいかも知れぬ。したがってタイトルは変わるやも知れぬし、仮に「Ⅰ」としたが、そもそも続かないかも知れない。酷い話だ。

 (初出webサイト『鳥――批評と創造の試み』2017年3月23日更新・鳥の事務所)

 

 

Ⅲ  

 

苦の倫理学 そのⅢ そのⅠの補遺  見田宗介=真木悠介さんについて  

 

 

見田宗介=真木悠介先生の一日も早い恢復をお祈りしております。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前々回(そのⅠ)の補遺である。 

 前々回紹介した新聞記事の肖像写真を見て、見田先生*もお歳を召されたなという印象を持ったが、同時に、その写真のキャプション(説明)には「静岡県河津町」と記されてあった。引っ越しをされたのかなと軽く思っていた。 

 

*もちろん、わたしは直接見田さんの指導を受けたわけではない。 

 

 ところがたまたまネットで検索してみると、ご病気で療養されているようなのだ。「緑内障」とのことだ*。少し驚きながらも、なるほどそうだったのか、という納得する思いも持った。 

 

*以下、真木悠介 樹の塾のホウムペイジより。 

 

【樹の塾の休塾について】(2017.2.1) 

1. 近年進行した視神経の磨滅(緑内障)が最終段階(失明)に近づいたので、樹の塾をしばらく休塾とします。 

 

iPS細胞による視神経の再生技術は、近年急速に可能性を開きつつあるようですが、専門家の話では「あと5年はかかる」ということなので、例によってよい方に解釈をして、「5年+α」が、休塾期間の見通しです。(眼以外の部分はすべて健康です) 

 

(中略) 

 

5. それでは、「5年+α」の間、よい人生と、よいお仕事を!! 

 

わたしの方は、海鳴りの音と陽射しの感触と森のにおいにつつまれて、思考を深め断片を蓄積しながら、再会の時を待ちます。 

 

 

 先年『定本・著作集』*を完結されたあとも対談**や、雑誌特集***などが出て、あるいは今回のように新聞などのインタビュウもこなされてもいた。 

 

*『定本 見田宗介著作集』全10巻・2011年ー2012年・岩波書店。『定本 真木悠介著作集』全4巻・2012年ー2013年・岩波書店。 

 

**見田宗介大澤真幸『二千年紀の社会と思想』2012年・太田出版。 

 

***『現代思想 2015年1月号 臨時増刊号=見田宗介真木悠介』2015年・青土社。 

 

  

 今回、ほぼ同時期に愛弟子の一人大澤真幸との対談がメインの雑誌*も刊行されていて、さらに次号も見田=真木の特集を組むという**。これは一体何だろう、と思っていたら、そういうわけだったのだ。 

 

*『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学――THINKING O』2017年3月・左右社。 

 

**大澤真幸オフィシャルホームページより(2017年3月31日確認)。 

 

 

 さて、要するにわたしがいいたいことは、見田宗介=真木悠介先生の一日も早い恢復をお祈りすることに尽きる。 

 

 そのためにも、単に祈る、ということだけではなく、見田=真木の思想をきちんと受け止め直し、それをわれわれの仕事へと展開、散開することが大切なのだろう。 

(初出webサイト『鳥――批評と創造の試み』2017年4月1日更新・鳥の事務所)

 

 

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