鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

2023年 謹賀新年 ――兎の病死→再就職決まる→ジョイスに嵌る→柄谷行人『力と交換様式』批判→引越し決まる

2023年 謹賀新年

 

――兎の病死→再就職決まる→ジョイスに嵌る→柄谷行人『力と交換様式』批判→引越し決まる

 





 

 

2023年1月1日(日曜日) 晴れ☀

 

 

 

新年明けましておめでとうございます。

 

旧年中は誠にお世話になりました。

 

本年も宜しくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 ウーーン、なんだかよく分からない一年だったな、と言うのが正直な感想ですね。

2021年の春に長年勤めた会社を突如辞め、その後、就職活動をするも、全く以て鳴かず飛ばずでした。同時並行で兎が病に陥り、秋以降はほぼ毎日通院するという状況でした。昨年の正月段階では、まだ頑張っていたのですが、一月も半ばを過ぎると急に容態が悪化して、1月22日に亡くなりました。言葉が出ないというのは、全くこういうことです。

4月になると、どういう訳か、友人の紹介で、呆気なく再就職も決まり、就活をしている時は、管理職のような立場での雇用は難しいのであろうな、と思っていたのですが、どういう訳か、責任者の立場にもなり、比較的好き勝手にやっているという感じです。有難いことです。

それに先立つこと、3月のことですが、ツイッタージェイムズ・ジョイスユリシーズ』のon lineでの読書会(「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」)があるとのことで参加したところ、これに嵌ってしまい、他の読書が全くできない羽目に陥りました。隔週で行われたのですが、予習が全く追いつかず、閉口しましたが、テキストの細部を徹底的に読み込む(と言う程までは全く辿り着けなかったのですが)ことの面白さを堪能しました。やはり、問題は全く他の読書やらが全く進まないということで、読書会そのものは12月まで続いたのですが、10月半ば以降はほぼリタイア状態になってしまったのは残念でした。しかしながら、発起人の若手の研究者の皆さんの優しい心遣いに励まされて、何とか、『ユリシーズ』を一応読み切ったことはありがたいことでした。

そのジョイス沼の余波で、夏には日本ジェイムズ・ジョイス協会の定例総会にも参加したり、神保町の一棚書店「PASSAGE by ALL REVIEWS」に出棚して、ほぼ一年間「総特集=ジェイムズ・ジョイス」として本の販売などもしました。

10月には柄谷行人さんの新著『力と交換様式』が刊行されたものの、内容、主題に納得ができず、批判文を書き始め、まだ、それを書き続けているところです。完成するのかどうか怪しい限りですが、今のところ75,000字ぐらいになってます(笑)。

年の瀬に入り、突如AKが引越すと言い出し、1月の終わりには、K県のH市(田舎です)の、賃貸の一軒家に引っ越すことになりました。本が多いので、床が抜けてしまうのが心配です。会社には近くなるので、それはいいことですが、駅から徒歩で17分というのは、ちょっときついかな。自転車に乗るにしても、雨や雪の日は歩かざるを得ないということになります。ま、なるようになるかな。

で、執筆状況は、というと、年初の辺りはドストエフスキー関係を中心に読んだり、書いたりしていました。「『罪と罰』に関する予備的考察」が未完に終わったのは残念です。死ぬまでにドストに戻れるのでしょうか?

夏明けには「吾輩は犬ではない。名前はまだない。「誰でもない」からだ。――柳瀬尚紀ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』を読む」という柳瀬さんへの批判文を書きました。どうも悪口を書くのは精神的によくない気がします。

そうこうしているうちに、一年が終わってしまったのです。

秋以降(正確な日付不明)、AKがDTを始めたのと、もともと不調だった自身の胃腸の調子をよくするために、納豆+めかぶ+ネギ+生卵+豆腐という食事を続けています。効果のほどは定かではないですが、多分、以前よりは快調なのかな、と思います。

ところで、昨夜、10時ぐらいから、急激に体調が思わしくなくなり、頭痛や節々の痛みなどを覚えたのですが、熱はないようでしたが、眠気を覚え、酒も飲まずに11時には床に就きました。断続的にトイレに立ちましたが、結局12月31日の午前11時ぐらいまで寝てしまいました。起床するとなんとか、持ち直したようでしたが、依然としてくらくらする気もします。原因不明です。何かのアレルギーかも知れません。

話は変わりますが、最近は坂本龍一さんの旧作「blu」(2014年・https://youtu.be/pWI5aVKvkCg

という作品を好んで視聴しています。例の如くYouTubeで聴けます。元々は洋服の青山のCM曲だったようですが(という訳で、「blu」はイタリア語で「青」)、音楽学的なことは全く分かりませんが、全体のリズム感や曲調はモーリス・ラヴェルの「ボレロ」に似ているような感じもします。単一のメロディー・ラインを坂本演奏するところのピアノと、彼が指揮するオーケストラが何度も繰り返していきます。仄かな明るさを湛えながら、何やらそこに悲しみの一滴が波紋のように広がっていきます。ここに何らかの芸術的な達成があるのか、と言うと、ほとんど無に等しいと言わざるを得ないのかも知れませんが、耳に残るメロディーだけではなく、何らかの余韻のような、呼吸のようなものを作品の形で残した坂本龍一という稀有な音楽的存在は否定できないでしょう。

現在、坂本さんは、癌で闘病中とのことですが、是非、乗り切って一日でも長く生きられることを心よりお祈りしております。

という訳で、そんなこんなの年のはじめです。

🐤

 

2022年12月31日 22:16

 

鳥の事務所

ハムレット、遂に旅立つ  

🐤鳥の事務所PASSAGE店通信🐤

◎総特集=ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」

ハムレット、遂に旅立つ

 

皆さん、今日は。鳥の事務所です。

やっと、例の彼が旅立っていきました。成仏しなっせ。心の奥で密かに手を合わせました。

これで開棚以来28冊お買い上げいただいたことになります。誠に有難う御座いました。

お買い上げ頂いたのは霊の、あ、違った、例の彼です。

 

ウィリアム・シェイクスピアハムレット福田恆存訳・新潮文庫

 

イギリス文学、アイルランド文学を問わず、後世の文学、文化、様々な領域に強力な影響を与えたシェイクスピアハムレット』。T.S.エリオットはそこに「客観的相関物」が欠けているが故に失敗とした*[1]が、柄谷行人は、漱石を通してそこに内的「分裂」を見た*[2]。恐らくその意味でも『ユリシーズ』は積極的な意味で「分裂」しているのである。スティーヴンは「やつはシェイクスピアの亡霊がハムレットの祖父であるってのを代数で証明するのさ」と妄想しながら、生徒の補習をみる。定評ある福田恆存訳。

 

 

というわけで、そろそろ2022年、『ユリシーズ』100年祭りも終わりに近づいているようです。残りなんと2冊です。

 

ジェイムズ・ジョイス『さまよえる人たち』近藤耕人訳・彩流社

¥1,360税込・送料別

商品の状態

 

商品の説明

姦通と嫉妬、 同性愛、 サド= マゾの四角関係、愛と自由の背反などのテーマを、アイルランドとイギリスの確執や第一次大戦前夜のヨーロッパの時代状況を背景に描かれたジョイス唯一の戯曲にして、イプセン劇につづくケルトの近代劇と言われるものです。表紙凹みあり。中身綺麗。

ジェイムズ・ジョイス室内楽――ジョイス抒情詩集』出口泰生訳・白鳳社

¥3,000税込・送料別

商品の状態

商品の説明

ジョイス二冊の詩集『室内楽』、『ポームズ・ペニーチ』を合本、全詩を収録。原詩と訳詩を二分冊にて収録。一読すると、これがあの『ユリシーズ』の作者の手になる詩なのかと驚くであろう。平易にして過度にロマンティック。しかし、そこに20世紀を代表する小説家の秘密があるのかも知れない。経年劣化。中身は綺麗。

 

是非よろしくお願いします。

 

さて、『ユリシーズ』の舞台となったブルームズ・デイ=6月16日も過ぎてしまいましたし、『ユリシーズ』刊行100年イヤーも後少しで終わりです。『ユリシーズ』を読むなら今しかありません(そんなことはないか?)!

是非、『ユリシーズ』をお手に取ってみてください。

それでも、開巻1ページ目から挫折してしまった方には、とても素晴らしい水先(チチェ)案内人(ローネ)がいらっしゃいます。それも複数。かく言うわたしもこの方々がいなければ、とっくのとうに読むのをやめていたことでしょう。つまり、なんらかの縛りは必要だということです。あとは無理に全部読もうとせず、各挿話を比較的念入りに読むということですね。

以下敬称略です。

  • 「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」全22回開催・2022年2月2日から12月16日までon lineにて実施・発起人:田多良俊樹、河原真也、桃尾美佳、小野瀬宗一郎、南谷奉良、小林広直、田中恵理、平繁佳織、永嶋友、今関裕太、宮原駿、湯田かよこ、新井智也。

On lineによる読書会ですが、どちらかというと公開講義に近いのです。毎回、驚天動地の講義と、そして質問を通じて、専門家、素人、合い交えて、相当熱い論戦が繰り広げられています。是非アクセスしてみてください。

月に2回、第1・第3金曜日の20時から22時まで開講されます。次回の予定は以下の通りです。いよいよ最終回です。

「1ヶ月に2回、年間22回開催するというおよそクレイジーな企画でしたが、次回はいよいよ最終回となります。第22回はイベント発起人が大集合し、下記ポスターの要領で開催致します。」(主催者)とのことです。

12月16日(金)20:00~22:00 こちらをご覧ください。 出版100周年特別企画:2022年×全22回のオンラインイベント - 日本ジェイムズ・ジョイス協会 (joyce-society-japan.com)

 

 ところで、最近はどうかと言うと、不調であった。10月以降、仕事が忙しくなったり、柄谷さんの『力と交換様式』のメモを取っていたりしたが、突然、やる気が亡くなった。何も読む気も起きないし、何も書く気力も起きない。理由は不明である。

 したがって、PASSAGEの手当も何もせず、荒れるに任せる? 状態で、どうにもこうにも前に進めない。

 理由は不明、と書いたが、一つには悪口を書き続けるのはよろしくないということか? 

夏に、柳瀬尚紀ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』の批判文を書いた。秋に柄谷行人の『力と交換様式』の批判文を書いているうちに、なんだかいやになってしまったのだ。本当はこれは素晴らしい、何故、これは優れているのか、という喜びと共に、文章を書きたいのに、そうならなかったのが、よくなかったのか?

そんな訳で、現在迷走中で、PASSAGEの次の特集はおろか、今後どうするかも、考えあぐねている。困った。

正直、何も浮かばない。

とりあえず、今はリハビリのために、家に放置してある本を手当たり次第に読んでいる。ただ、スピードが上がらない( ノД`)シクシク…。

全く、何の脈絡もなく、城山三郎の『勇者は語らず』を読み、また悪口を書いてしまった(´;ω;`)。根性が曲がっているのだろうか?

お蔵入り(もっと詳細に書こうと思っていた)にしていた村上春樹の『図書館奇譚』考を、投げやりでアップした。

今は、これも何故か、加賀乙彦の『雲の都』の第二部「時計台」を細々と読んでいる。

ま、そんなところだ。

 

 

PASSAGE by ALL REVIEWS

https://passage.allreviews.jp/

東京都千代田区神田神保町1-15-3

サンサイド神保町ビル1F

 

今年いっぱいの特集は

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」ということで、ジョイス関係の本になります。そろそろ終了が近づいてきました。次は何の特集にしようかな?

 

詳細は以下をごらん下さい。

鳥の事務所 | PASSAGE by ALL REVIEWS

 

皆さま、どうか宜しくお願いいたします。

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20221108 0027

主要参考文献

エリオット・スターンズ,トーマス. (1920). 「ハムレットとその問題」 Hamlet and His Problems. 著: 『聖なる森』 The Sacred Wood.

シェイクスピア ウィリアム. (1601?). 『ハムレット』.

柄谷行人. (1969年/2017年). 「漱石試論――意識と自然」. 著: 柄谷行人, 『新版 漱石論集成』. 東京: 『群像』1969年6月号(講談社)/岩波現代文庫岩波書店).

 

 

*[1] [エリオット, 1920]。

*[2] [柄谷, 1969年/2017年]

あるべきものがない場所    村上春樹『ふしぎな図書館』・『図書館奇譚』

あるべきものがない場所

村上春樹『ふしぎな図書館』・『図書館奇譚』

 



 

 

村上春樹佐々木マキ 絵『ふしぎな図書館』・2005年・講談社

村上春樹・カット・メンシック イラストレーション『図書館奇譚』2014年・新潮社。

■絵本・短篇小説。

■前者20221120読了 後者20221116頃?読了。

■採点 ★★☆☆☆。

目次

1 4つのヴァージョン... 2

2 単純な話なのだが…….. 3

3 蔵書の不在... 5

4 地下は通過儀礼になったか?... 5

5 結論 母のいない場所... 7

主要参考文献... 8

 

 

 

 

 

1 4つのヴァージョン

 村上春樹の比較的長めの短篇小説「図書館奇譚」は、どういう訳か幾度かの転生をなしている。

 その書誌的な履歴を簡単に記すと以下の通りとなる。村上自身による本文の異同*[1]を「ヴァージョン」の違いとして示す。

ヴァージョン1

①雑誌『トレフル』に6回連載(1981年4月号~83年3月号)。

②短篇小説集『カンガルー日和』(1983年・平凡社)に収録。

③ ②文庫化(1986年・講談社文庫)。

ヴァージョン2

④作品集『村上春樹全作品1979~1989 ⑤ 短篇集2』(1991年・講談社)。

ヴァージョン3

⑤文庫サイズの上製絵本『ふしぎな図書館』(佐々木マキ絵・2005年・講談社)と改題され、刊行。

⑥ ⑤文庫化(2008年・講談社文庫)。

ヴァージョン4

⑦上製絵本『図書館奇譚』(カット・メンシック イラストレーション・2014年・新潮社)として刊行。

 

 ここでは、必ずしもそのような書誌的な研究めいたことがしたい訳ではないので、本文校訂まで踏み込む気はないし、そもそも、④が、現在手元にない(´;ω;`)。

 一旦、ここでは、⑥を基本として、それに関連する内容を③と⑤について参照することとする。

 

2 単純な話なのだが……

 正直な感想を言うと、わたし自身は、初読の時から、さほどこの話が面白いとは思えなかった。

 ストーリー的には、或る意味単純で、市の図書館に本を探しに行った少年が、地下に棲みついている老人によって、そこの牢屋に幽閉され、読書を強要され、脳を吸い取られようとする。そこを、謎の「美少女」と「羊男」の活躍によって、辛くも虎口を脱出する、という、取り立ててどうこう言うものではない。なんというか、即興ですらすらと書いてみました、というぐらいの印象である。

 ところが、無論、他からの要請があったということではあろうが、何故に4度も書き直しをしたのか。何か、村上自身の心のどこかに引っかかるものがあったのではないのか。

 というのは、この作品の「最終形態」*[2](? ヴァージョン4)はドイツの画家・カット・メンシックの手になるイラストレイションによる絵本、と言うよりもアート・ブックとでも言うべきなのか、そのシリーズの一冊になっている。そのラインナップは『ねむり』、『パン屋を襲う』、『バースデイ・ガール』となっており、もちろんそれを選んだのはドイツのデュモン社の編集者、あるいはそれと、イラストレイションを担当したカット・メンシックなのだろうが、この3作品は、村上自身の短篇小説の中でも指折りの佳品だと、少なくともわたしには思える。逆に言えば、この『図書館奇譚』だけが、その意味、価値をわたしが理解できていなくて、首を傾げたということになる。

 一体全体、この話『図書館奇譚』にはいかなる意味があるのであろうか。正直に申し上げて、未だにそれを理解したとは思えないが、以下、感想の一端を書いてみようと思う。

 

3 蔵書の不在

 まず、「図書館」と言う割には、いわゆる図書館の書棚に納められた人を圧倒する数多の書籍という情景が描かれない。主人公が借りる3冊の本は辛うじて存在するが、いずれにしてもさほど多くの本が登場する訳ではない。

 つまり、ここには在るべき本が存在しないのである。

 入口こそ図書館であったかもしれないが、そこは図書館ではなかったかも知れない。

 

4 地下は通過儀礼になったか?

 無論、蔵書が存在しないのは、主要な舞台が地下だからということもあるかもしれない。村上の図書館好きは広く知られるところであるが、それを圧倒(圧殺)するかのように、彼の無意識の「筆先」が、物語を地下へと誘引したのではないのか。村上の地下好きについても多言を要するまでもない。

 村上作品における「地下」的場所=井戸=穴=地下については、既に多く論じられていることであるが、基本的に、その「地下」経験を通じて、中心人物は何らかの内的な変化、変化を遂げる。言うなれば「通過儀礼」的な意味合いを持っているのである。

 ところが、本作の、自主性のない主人公*[3]は変わったか? 変わってない。この「冒険」を通じて、彼は何も変わらず、他者からの示唆を受け、他者の助けを借り、他者の力によって救われる。そして結局は全てを喪うのだ。それが成長ということなのだろうか?

幼少のころ、少年を噛んだ犬が何故、老人の配下となって、再び少年を噛み殺そうとするのか? この犬に噛まれることで、少年は内向的になり、母親も変わったとされる。  

普通に考えれば、これは単なる夢であろう。犬が襲い掛かるのも、反復的な強迫が夢に生じていたと思われる。彼は夢を見ていた、と考えれば、図書館からの帰宅後、母親の無反応も得心がいく。現実だから、母親の「影が濃い」*[4]のだ。ただし後者は「悲しそうに見えた」*[5]となっている。そして前者では不在のむくどりも後者では生きている。つまりなくなった(とされる)のは革靴だけなのだ。

 

5 結論 母のいない場所

つまりはこういうことか? 最終シーンで突然母親が死んだことを告げられるが、母の死後、「午前二時の暗やみの中で、ひとりで、あの図書館のことを考えている」*[6]その内容が、この話なのである。とすれば、夢?=回想?=想像? の中で、彼を支配し続けて、そして勝手に病気で死んだ母親=老人=犬を自らの意志によって、圧殺する物語なのではないだろうか?

もっと言えば、実際には、彼が母親を「何らかの手段」で「殺した」とも考えられる、と言うのは言い過ぎだろうか?

 すなわち、息子を犬に噛まれた母親は、その後過剰に我が子を囲い込むように保護する。その圧力に耐えかねた息子は、その母親を実際に? 比喩的に? 殺害し、誰もいなくなった家で、その顛末を「図書館奇譚」として回想として? 夢の中で? 再構成、再話するというストーリーではないか。

 したがって、本がない図書館、あるべきものがない場所、とは正に彼がおかれている場所なのだ。あるべき何がないのか。無論、母がいないのだ。愛情を持って接してくれる母親が存在しない、そういう場所に彼は生きているのだ*[7]

 

 

主要参考文献

加藤典洋. (2020年). 「第二部の深淵――村上春樹における「建て増し」の問題」. 著: 加藤典洋, 『村上春樹の世界』. 講談社文芸文庫.

村上春樹. (2002年). 『海辺のカフカ』上下. 新潮社.

村上春樹, カット・メンシック イラストレーション. (2014年). 「図書館奇譚」. 新潮社.

村上春樹, カット・メンシック イラストレーション. (2914年). 『図書館奇譚』. 新潮社.

 

 

 

 

3000字(8枚)

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20221211 1904

 

*[1] 村上「あとがき」/[村上 カット・メンシック イラストレーション, 2914年]p.72。

*[2] 恐らく、この「最終形態」という言い方は間違いであろう。読者(評者)の立場では、いささか困ることではあるが、村上の中では、複数のヴァージョンが併存する、いわばパラレル・ワールドの状況になっていると思われる。これでとりわけ困るのが、村上が自作の翻訳を出版する際にも加筆・修正を加えている、という事実である。この問題はかつて加藤典洋が「第二部の深淵――村上春樹における「建て増し」の問題」 [加藤, 2020年]として論究した。

*[3] 本作の主人公の少年は一貫して、その受動性が指摘されている。以下引用ページは [村上 佐々木マキ絵, 『ふしぎな図書館』, 2005年]による。「ぼくは日にちや時間の約束はきちんとまもる。母にいつもそうするように言われているからだ。」(p.4)、「なにかわからないことがあったら、すぐに図書館に行って調べるようにと、小さいころからしつけられてきたのだ。」(p.10)、「ぼくはなにかをきっぱりことわるのがにがてなのだ。」(p.16)。他多数。

*[4] [村上 佐々木マキ絵, 『ふしぎな図書館』, 2005年]p.90。

*[5] [村上 カット・メンシック イラストレーション, 『図書館奇譚』, 2914年] p.69。

*[6] [村上 佐々木マキ絵, 『ふしぎな図書館』, 2005年] p.91。

*[7] 母親、母親的な存在、母なるものと図書館の類縁性については『海辺のカフカ』に登場する、高松の私設図書館・館長の佐伯という50代の女性の存在が想起される。主人公は、何故か、この女性を自身の母親かも知れないと思う。

勇者と言う勿れ 城山三郎『勇者は語らず』

勇者と言う勿れ

城山三郎『勇者は語らず』



城山三郎『勇者は語らず』1982年12月20日・純文学書下ろし特別作品(新潮社)。

■長篇小説。

■2022年12月5日読了。

■採点 ★★☆☆☆。

城山三郎



 経済小説*[1]、その、言うなれば「創業経営者」たる城山三郎の「純文学」という看板を掲げた、と言うよりも「純文学」*[2]という看板に真っ向から挑んだ、あるいは挑まされた*[3](?)書下ろしの一冊である。

 日本の企業には自動車の製作は不可能だと言われた時代から、日米経済摩擦を経て、「敵地」である自動車王国・アメリカでの現地生産に乗り出す、大手自動車会社の重役・冬木とその下請け会社の社長・山岡の苦闘に満ちた人生の歩みを描く。二人はかつての戦友同士ではあったが、今は親会社と子会社という厳しい利害関係に縛られている。とは言うものの、一貫してクールな冬木と、熱い人情家である山岡の好対照が物語を駆動させる。

 

 いずれにしても、テレ‐ヴィジョン・ドラマのような意味合いで、「ドラマ」としては面白かった。実際に、この小説はテレ‐ヴィジョン・ドラマとして日本放送協会の総合チャンネルにおいて放送された*[4]ようではあるが、そういう、一晩の夢の一駒としては、面白い作品ではあったと思う。

 とは、言うものの、小説としての造りは、流石に経済小説の雄とも言うべき城山の手になるものだから、手堅いものであることは論を俟たない。この点について強いて言えば、いささか、短過ぎて、物足らないぐらいで、もっと長尺で、話を膨らませても良かったようにも思う。

 ただ、問題は、書題、テーマともなっている「勇者は語らず」という点である。この物語は日米経済摩擦下におけるジャパン・バッシングの嵐の最中、日本の大手自動車製造会社の一つであるカワナ*[5]アメリカでの現地生産に乗り出す、というところが大きな背景となっているが、この書題は、主人公の一人である、大手会社の役員・冬木が、アメリカ人たちに日本車を叩かれ、実際に破壊されても、「勇者は語らず、さ」*[6]と、切り返すシーンによる。つまり、省エネ時代に大型車を作り続けたアメリカ人に対して、いち早く小型車を作り、自動車生産台数世界一になった日本は「勇者」だというのである。それではアメリカ人たちは臆病者なのか。というよりも、何も理解しようとも改善もしようともしない愚者だと言わんばかりである。愚者は不平不満を言い募り、場合によっては暴力も辞さぬが、「勇者」はそれに対して沈黙を守るのだ、とでも言いたいのであろうか?

 しかしながら、「勇者は語らず、さ」と嘯く、冬木に対して、もう一人の主人公である、その下請け会社の社長・山岡はこう独白する。「本当に勇者でしょうか、気が弱いだけではないのですか」*[7]。そう思う彼もその言葉を口に出しては言えず、沈黙を守る。結局は同じ穴の貉という訳か。

 恐らくは、日本の自動車産業を支え続け来、そして、親会社に無言の服従を強いられ続けた、数多の中小企業の社長たちこそが「勇者」なのだと、城山は言いたかったのかも知れない。

 しかしながら、この物語をして、平板なテレ‐ヴィジョン・ドラマを想起させるのはその辺りにあるのではないだろうか。中小企業の社長たちが勇者なら、その社員たちはどうなのか? またその家族はどうなのか? より一層強い忍従と沈黙を強いられていたはずだ。

 あるいは、自動車王国の王座を簒奪されたアメリカの側から見たらどうなのだろうか? ここには誰一人として冬木や山岡たちの生き方、あり方、考え方を批判する者は登場しない。強いて探せば、後に言及する感受性(センシティビティ)訓練(・トレイニング)(ST)という、或る意味、非日常な状況で、山岡の前に立ち塞がった「永(A)」という若者ぐらいだ。それすらもセミナー側が意図的に用意した「サクラ」であるとするなら、何と予定調和的な世界であることか。

 冬木の一人娘が心を病む(これも或る意味では仕事一辺倒の冬木の犠牲によるものだと言えなくもない)ものの、留学先のアメリカの風土では快癒に向かい、彼女なりの幸福を摑もうとする。

 それに対して、二人の主人公たちは自らを追い込むにように死地に向かい、一人は皮肉なことに自らが運転する車での自動車事故により重傷を負い、もう一人は過労のためか、心臓麻痺により呆気なく死を迎える。言うなれば、自らの命と引き換えに仕事を成し遂げてきた、ということなのか。

 冒頭に登場する感受性(センシティビティ)訓練(・トレイニング)(ST)によって、山岡は自らのそういう考えの殻を相対化したはずではないのか? しかし、それすらも会社の業績という点でしか捉えられなかった点*[8]に問題があったかも知れない。そのシーンに登場する、セミナー側の「サクラ」ではないかと疑われる「永(A)」という人物こそ、異彩を放ち、相対化の基準点にもなり得るものだったが、残念なことに、その後登場しない。そうなると、一体、このセミナーや、「永(A)」という反駁者が、この小説に登場する意味すらも理解し難くなる。

 

城山には「旗」という有名な詩がある。

 

旗振るな/旗振らすな/旗伏せよ/旗たため//社旗も 校旗も/国々の旗も/国策なる旗も/運動という名の旗も//ひとみなひとり/ひとりには/ひとつの命//走る雲/ 冴える月/こぼれる星/奏でる虫/みなひとり/ひとつの輝き//花の白さ/杉の青さ/肚(はら)の黒さ/愛の軽さ/みなひとり/ひとつの光//狂い/狂え/狂わん/狂わず/みなひとり/ひとつの世界/さまざまに/果てなき世界//山ねぼけ/  湖(うみ)しらけ/森かげり/人は老いゆ//生きるには/旗要らず//旗振るな/旗振らすな/旗伏せよ/旗たため/限りある命のために   

( [城山, 『城山三郎全集』第1巻, 1980年])

 

 皮肉としか言いようがないが、しかし、人間は、理想や、スローガン、掛け声といった、何らかの「旗」を必要とする生物である。そういう類の「旗」を振らざるを得ない生き物なのだ。無論、それは到底「勇者」とは言えないだろう。むしろ、「愚者」と言うべきかも知れない。だが、そのことを知悉した上で、「旗」を振るのと、そうでないのはまるで違う。

 

 話がいささか逸れるかも知れぬが、会社経営者にして詩人・小説家であった辻井喬堤清二)の作品を、あるいはこの横に置くべきかもしれない。詩人(あるいは批評家もそうかも知れないが)とは、恐らく、遠くから見る人のことだろう。あるいは遠くを見る人のことではないか。そこにいても、そこを見ないし、見えないのだ。文芸評論家・三浦雅士は辻井の死去に際して「心ここにあらず」*[9]との一文を草したが、まさにその通りかと思う。

 今手元に本がないのでうろ覚えで書くが、辻井の出世作と言える『いつもと同じ春』*[10]の冒頭で、高層ビルディングの上層階での会議の最中、屋上に翩翻と翻る旗をあたかも遠くにあるもののように呆然と見入るシーンがある。旗は彼が率いる企業集団の社旗であるにも関わらず。企業人としての堤清二は、あるいはその故に失敗したのかも知れない。しかし、この視点、この態度、この姿勢なくして、文学者・辻井喬の存在もなく、はたまた、一世を風靡した西武セゾン・グループの企業風土も存在し得なかったであろうことは言うまでもないことだ。

 以上余談であった。

 城山のスタンス、立ち位置からすれば、企業人を「勇者」と捉える視点は、或る意味、自然とも思えるが、「純文学」と言いつつ、「企業小説家」の殻を城山は、残念ではあるが、破ることはできなかった、と言わざるを得ない。

「勇者」など、どこにもいないのだ。

安易に、「勇者」と言う勿れ。

主要参考文献

三浦雅士. (2014年). 「心ここにあらず」. 『新潮』2014年2月号.

城山三郎. (1980年). 『城山三郎全集』第1巻. 新潮社.

城山三郎. (1982年). 『勇者は語らず』. 純文学書下ろし特別作品(新潮社).

辻井喬. (1983年). 『いつもと同じ春』. 河出書房新社.

 

 

4968字(13枚)

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20221211 1549

 

*[1] と言うよりも企業小説、会社人間小説、とでも言うべきか。

*[2] 本書は新潮社のかつての肝煎りの叢書である「純文学書下ろし特別作品」の一冊として刊行された。市井に生きる人間の様を描くことことこそ「文学」だという自負が城山にはあったかも知れないが。

*[3] webサイト「jun-jun1965の日記」(https://jun-jun1965.hatenablog.com/entry/2021/04/30/110016)の2021-04-30更新「純文学書下ろし特別作品(新潮社)」によるとこのシリーズの履歴は以下の通り。二つ目の西暦は文庫化された年。「充たされた生活 石川達三 1961(白) 1980 浮き灯台 庄野潤三 1961 砂の女 安部公房 1962(白) 1981 恋の泉 中村真一郎 1962 花祭 安岡章太郎 1962(緑・青) 1984 遠い海の声 菊村到 1963 個人的な体験 大江健三郎 1964(白) 1981 聖少女 倉橋由美子 1965(朱) 1981 白きたおやかな峰 北杜夫 1966(白) 1980 燃えつきた地図 安部公房 1967(黒) 1980 沈黙 遠藤周作 1966 (白) 1981 輝ける闇 開高健 1968 (黄土)1982 海市 福永武彦 1968(海青) 1981 懲役人の告発 椎名麟三 1969 (臙脂) 化石の森 石原慎太郎 1970 1982 回転扉 河野多恵子 1970(濃紫) 橋上幻像 堀田善衛 1970 (黒) 恍惚の人 有吉佐和子 1972(朱) 1982 酔いどれ船 北杜夫 1972 (水) 1982 箱男 安部公房 1973(濃赤) 1982 死海のほとり 遠藤周作 1973(白)1983 洪水はわが魂に及び 大江健三郎 1973(緑) 1983 四季 中村真一郎 1975(ピンク) 1982 ある愛 中村光夫 1976(黄) 火山の歌 丸山健二 1977(橙) 密会 安部公房 1977.12(黄土) 1983 夏 中村真一郎 1978(水) 1983 比叡 瀬戸内晴美 1979(朱) 1983 同時代ゲーム 大江健三郎 1979(黄土)1984 侍 遠藤周作 1980(水)1986 帰路 立原正秋 1980(装幀)1986 雪女 森万紀子 1980 秋 中村真一郎 1981 勇者は語らず 城山三郎 1982 1987 裏声で歌へ君が代 丸谷才一 1982 1990 装いせよ、わが魂よ 高橋たか子 1982 地の果て 至上の時 中上健次 1983 1993 方舟さくら丸 安部公房 1984 1990 虚航船団 筒井康隆 1984 1992 冷い夏、暑い夏 吉村昭 1984 1990 冬 中村真一郎 1984 路上の人 堀田善衛 1985 1995 太陽よ、怒りを照らせ 佐江衆一 1985 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹 1985 1988 ぼくたちの好きな戦争 小林信彦 1986 1993 アマノン国往還記 倉橋由美子 1986 1989 スキャンダル 遠藤周作 1986 1989 仮釈放 吉村昭 1988 1991 時を青く染めて 高樹のぶ子 1990.4 1993 みいら採り猟奇譚 河野多恵子 1990 1995 世界でいちばん熱い島 小林信彦 1991 1995 冬の蜃気楼 山田太一 1992 1995 怪物がめざめる夜 小林信彦 1993 1997 マシアス・ギリの失脚 池澤夏樹 1994 1996 青春 林京子 1994 ムーン・リヴァーの向こう側 小林信彦 1995 1998 「吾輩は猫である」殺人事件 奥泉光 1996 1999 終りなき祝祭 辻井喬 1996 1999 争いの樹の下で 丸山健二 1996 1999 敵 筒井康隆 1998 2000 高らかな挽歌 高井有一 1999

虹よ、冒涜の虹よ 丸山健二 1999 2003 血の味 沢木耕太郎 2000.10 2003彗星の住人 島田雅彦 2000.11 2007」以上のように見てくると、1980年の立原正秋『帰路』の辺りからいわゆる「純文学」畑ではない作家も混じり始める。立原の立ち位置はいささか判断に迷うが、城山をして純文学の作家とする者はいないであろうから、この作品はその試みの嚆矢とも言うべきか。 

*[4] 1983年2月7日から2月10日にNHK総合で、「テレビジョン放送開始30周年記念ドラマ」として放送された(全4回)。

*[5] 本田技研がモデルのようである(ウィキペディア)。

*[6]  [城山, 1982年]p.189。

*[7]  [城山, 1982年]p.189。

*[8] [城山, 1982年]p.195。

*[9] [三浦, 2014年]。

*[10] [辻井, 1983年]

フィネガン、旅立つ。。。。。

フィネガン、旅立つ。。。。。

 

皆さん、今日は。鳥の事務所です。

やっと、例の彼が旅立っていきました。成仏しなっせ。心の奥で密かに手を合わせました。

これで開棚以来27冊お買い上げいただいたことになります。誠に有難う御座いました。

お買い上げ頂いたのは霊の、あ、違った、例の彼らです。

 

ジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイク』全2巻(単行本)・河出書房新社

 

 

 

ジョイス第三長篇小説にして、他言語への翻訳は不可能と言われた言葉遊びと多層の意味に満ちた長篇小説。大工フィネガンは屋根から転げ落ちて死に、その通夜で生き返った……と粗筋を書くのはほぼ不可能。ただ、この言語の渦に呑み込まれる外はない。柳瀬尚紀による瞠目の完訳。「ゆっくり読むという上等な読書の習慣さえあれば(……)」決して難解な本ではありません。」(大江健三郎)。

 

いやあ、もう単行本はもう売れないかな、と、思っていましたが、やっとお迎えが来たようです。いや、でもこれが売れるとは思わなかったな。

 

というわけで、そろそろ2022年、『ユリシーズ』100年祭りも終わりに近づいているようです。残り三冊です。寂しくなったなぁ。

 

さて、『ユリシーズ』の舞台となったブルームズ・デイ=6月16日も過ぎてしまいましたが、まだまだ『ユリシーズ』刊行100年イヤーは続きます。『ユリシーズ』を読むなら今しかありません(そんなことはないか?)!

是非、『ユリシーズ』をお手に取ってみてください。

それでも、開巻1ページ目から挫折してしまった方には、とても素晴らしい水先(チチェ)案内人(ローネ)がいらっしゃいます。それも複数。かく言うわたしもこの方々がいなければ、とっくのとうに読むのをやめていたことでしょう。つまり、なんらかの縛りは必要だということです。あとは無理に全部読もうとせず、各挿話を比較的念入りに読むということですね。

以下敬称略です。

  • 「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」全22回開催・2022年2月2日から12月16日までon lineにて実施・発起人:田多良俊樹、河原真也、桃尾美佳、小野瀬宗一郎、南谷奉良、小林広直、田中恵理、平繁佳織、永嶋友、今関裕太、宮原駿、湯田かよこ、新井智也。

On lineによる読書会ですが、どちらかというと公開講義に近いのです。毎回、驚天動地の講義と、そして質問を通じて、専門家、素人、合い交えて、相当熱い論戦が繰り広げられています。是非アクセスしてみてください。

月に2回、第1・第3金曜日の20時から22時まで開講されます。次回の予定は以下の通りです。

11月18日(金)20:00~22:00 こちらをご覧ください。 出版100周年特別企画:2022年×全22回のオンラインイベント - 日本ジェイムズ・ジョイス協会 (joyce-society-japan.com)

 

 ところで、最近はどうかと言うと、恐らくわたしの記憶が正しければ、10月23日(日)が最後の休みで、今15連勤中である。ま、フツーか。以前は半年休み無しもざらだった。老いたな、おれ。

就中、今ウルトラ超貧乏なのである。マーク・ボイルの『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(2010年/吉田奈緒子訳・2011年・ 紀伊國屋書店)という訳には全くいかないが、それに近づきたいとは微かに思っている。で、一昨日から、無銭生活を始める。と言っても、食材の貯えがあるので、全然「無銭生活」とは言えぬ。要は買い物をしないというだけなのだが。しかし、我儘はきかない。食べたいものとか、欲しいものは買えない。仕方がない。決めたことだ。

 柄谷さんの『力と交換様式』批判だが、本論は書いた。後は裏取り。これが大変だ。自分でも一体何のためにこんなことやっているのか段々分からなくなる。ま、いいか。自分で決めたことだ。

 

PASSAGE by ALL REVIEWS

https://passage.allreviews.jp/

東京都千代田区神田神保町1-15-3

サンサイド神保町ビル1F

 

当面の特集は

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」ということで、ジョイス関係の本になります。そろそろ終了が近づいてきました。次は何の特集にしようかな?

 

詳細は以下をごらん下さい。

鳥の事務所 | PASSAGE by ALL REVIEWS

 

皆さま、どうか宜しくお願いいたします。

🐥

20221108 0027

「『世界共和国へ』に関するノート」をコピーしに国会図書館まで行く。

🌀「D計画」――「柄谷行人「Dの研究」」の研究・日報🌀

柄谷行人『力と効果様式』発売日(10/7)まであと7日

「『世界共和国へ』に関するノート」をコピーしに国会図書館まで行く。

 

 という訳で、『力と交換様式』はかつて雑誌『at』、『atプラス』で連載されていた「Dの研究」(全6回)のみならず、「『世界共和国へ』に関するノート」(全14回)も、その土台になっているに違いないと思い込み、それでは、とネットを探したが古本屋などではヒットしないので、已む無く、人生初国会図書館までそれのコピーをしに行った。

 大学に所属していないと、大規模な図書館が使用できないのは、マジ困るが、まー、仕方ない。今までは、何となく、Y市立中央図書館を利用していたが、どうも「at」が検索でヒットしないので、永田町まで行くことになった。

  いろいろと手続きなどは煩瑣で面倒ではあったものの、館内は広く、コピーは一枚27.5円と高価ではあったが、とてもきれいに複写されていた。あたかも中世の修道院の写本僧のような方々が黙々と、なおかつ高速で(10冊あったのを25分で終了)作業をされていた。

 待っている間、暇だったので、新館1階の喫茶「フェリカ」で本日のランチ(670円)を食す。チキン・ソテーだったが美味かった。

 問題は、何故か13号だけなく(理由不明)、仕方なく、今度はT立図書館に行かねばならぬ。来週の月曜日には、また高飛びか? いろいろ出費が嵩んで困る。

 

 あれから(いつから??)、「Dの研究」はほぼ読み終えた。確かに、「力」は単に「交換」から生ずる、と言われても、何故、そうなのか? という問題が残るのは確かである。連載が長期中断になっていた、つまり、これでよし、という気持ちになれなかったのも宜なるかな

 かと言って、「霊」の問題が残るのだが。

 ちなみに「D計画」は、柄谷とは全く関係なくて、小松左京の『日本沈没』に登場する日本人移民計画? のこと。

🐥

20220930 1101

何故、「霊」なのか? 柄谷行人「霊と反復」

何故、「霊」なのか?

 

柄谷行人「霊と反復」

 





 

柄谷行人「霊と反復」/『群像』2021年10月号・講談社

■エッセイ(哲学・社会思想)。

■2段組、6ページ。

■2022年9月18日読了。

■採点 不能

🖊ここがPOINTS!

①新著『力と交換様式』の「力」とは「霊的な力」である。この問題はかつて柄谷が挑戦したものの、あえなく敗退を遂げた問題でもある。

②柄谷が「霊」と言っていることを誰も真面目に取り合ってないが、極めて重大な問題である。

③この「霊」問題の衣鉢を継ぐ意味で、柄谷は「小林秀雄の弟子」というべきである。

 

 

目次

はじめに... 2

1 霊的な力... 3

2 「形式化の諸問題」/「言語・数・貨幣」の反復... 6

3 誰も「霊」を真正面から論じようとしない... 12

4 小林秀雄の影... 14

5 無意識の力... 16

結語――小林秀雄の弟子?... 18

【主要参考文献】... 19

《追記》... 20

《summary》... 21

 

図 1 「基礎的な交換様式」( [柄谷, 「交換様式論入門」, 2017年]による)... 4

 

 はじめに

来る2022年10月7日、柄谷行人の待望の新著『力と交換様式』が岩波書店から刊行される。丁度昨年の今頃、『群像』誌上に発表されて、一部で物議を起こした柄谷のエッセイ「霊と反復」をやっとのことで読んだ。いまさらではあるが、いささか思うとことろがあり、その一端を記すこととする。

 

1 霊的な力

 

 詳細は『力と交換様式』本体そのものを読まねば、何も言えないが、なにしろ「霊と反復」なので、大抵の真面目な読者はいささか引くだろう。

図 1 「基礎的な交換様式」( [柄谷, 「交換様式論入門」, 2017年]による)

 すなわち、柄谷の説くところによれば、4つ存在する「交換様式」はそれぞれ「力」を持つ。例えば、贈与を受けたものは、何らかの形で返済しなければならない、という強迫に襲われる。これが「力」だ、というものである。

 問題は、それらの交換によって、何故人間に何らかの行為を強いる力が発生するのか、ということもさることながら、この「力」をして、柄谷が「霊的な力」としたことにある。柄谷は、これは比喩的に言っているのではない、と言う。ということは、大真面目に「霊」的な力だと言っているということなのだ。

 

私は、さまざまな霊的な力はたんなる比喩ではなく、異なる交換様式に由来する、現実に働く力だと考える。( [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.71)

 

 どういうことなのか。この交換様式によって生じる「力」は、このエッセイでも、例えば「宗教や無意識と見なされる観念的な力」*[1]とか、「〝超感覚的〟なもの」*[2]などと言い換えられている。つまり、交換様式によってもたらされる力とは「無意識の力」、あるいは「観念的な力」、あるいは「超感覚的な力」であると言っていいはずである。何故、あえて、誤解を呼び起こすような「霊的な力」などという言い方をするのか?

 あるいは、「霊的な力」という言い方から想像できることは、すなわち、「霊の力」、霊そのものを実体的に捉える表現ではなくて、霊「的」なのだから、人々が、霊は実際には存在しないが、あたかも「霊」を実体的に感覚してしまうような力、というようなことだろうか。

 それは、日本銀行券が、実は単なる紙きれであるにも関わらず、多くの人々が目の色を変えて、それを得るために血道を上げているのと同様だと言い得るだろうか。

 しかしながら、印象ではあるが、どうも、そういうことではなさそうなのである。

 

2 「形式化の諸問題」/「言語・数・貨幣」の反復

 

 そもそも、この「霊」の話が柄谷の文章に出現するのは、この「力と交換様式」という書題が明らかにされた、『内省と遡行』の講談社文芸文庫版のあとがきであった。そのことについてはかつて触れたことがある*[3]。その段階では、ちょうどその頃、唐突に、柄谷が「霊」という着想を得たようにわたしは思い込んでいたのだ。しかしながら、そうではなかった。柄谷の霊的志向は、或る意味、年季が入っていたのである。

 彼が「形式化の諸問題」で頓挫したことは彼自らの説明で明らかであるが、このエッセイで、柄谷はこう述べている。

 

先ず、 私の最初の本は『畏怖する人間』 で、 これは群像新人賞(1969)をもらった「漱石試論」 を巻頭においた文芸評論集であった。私は一九六〇年に大学に入学すると同時に、安保闘争に参加した。七〇年代初めに出版したこの本は、 私の六〇年代を総括するものだといえる。 その意味で節目であった。 このあと、 私は『マルクスその可能性の中心』を書いた。以後、私の書くものは理論的・哲学的になった。その頂点が、一九八〇年に群像に連載した『隠喩としての建築』、 そして、「形式化の諸問題」 である。

( [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.68)

 

と、こう述べた上で、柄谷は驚くべきことを書きつける。

 

しかし、 それはまもなく破綻に終った。そのきっかけは、その時期、霊界(あの世)は数学的な位相空間として示しうる、 というようなことを考えはじめたことにある。そして、それはたんに理論上の間題ではすまなかった。私はそのあと、我ながら頭がおかしくなったのである。 いわば霊界が現実に存在するかのように見えてきたからだ。しまいには、何も仕事ができず、タイガーマスクの面をかぶって、近所を徘徊したりした。その後、そのような状態を脱し、群像に『探究』 の連載をはじめたのである。

( [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.68・下線部引用者)

 

 すなわち、哲学的な問題を考え過ぎる余りに気が狂いかけた(?)、ということが問題ではない。そうではなくて、「霊界(あの世)は数学的な位相空間として示しうる、 というようなことを」真面目に「考えはじめた」というところだ。普通に読めば、「霊界」の存在は疑うべくもないが、それを数学化する、数値化するというように理論的に考え得るのだ、と柄谷が、もう一度書くが真面目に、考えた、ということにある。

 そこで、もう一度、『内省と遡行』の文芸文庫版「あとがき」を読み返せば、確かに同様のことが触れられているではないか。まったくもって、人間は自らの関心に従ってしか、物ごとを認知できないものなのである。

 

私が気づいたのは、 このような企て*[4]が、「言語・数・貨幣」における企てと類似するということです。かつて私が躓いたのは、代数的構造・順序構造を論じたあと、位相構造を論じようとしたときです。簡単にいうと、それは、「この世」が存在するためには「あの世」が存在しなければならない、というような考えです。その場合、「あの世」がたんに数学的な位相空間としてある間はよいのですが、次第にそれが本当に存在し始めた。そのとき、私は精神的な混乱を来して、仕事を放棄してしまったのです。( [柄谷, 「文芸文庫版へのあとがき」, 2018年]p.332・下線引用者)

 

 要は、「この世」は、「この世」として単独では措定できない。「この世」ではない「あの世」を仮想した上で、「あの世」ではない世界としてしか「この世」を確定できない、というようなことかと思う。これはこれで極めて重要な問題であって、別に論じなければならないが、極めて簡単に言ってしまうと、現実の世界とは異なる世界ということだから、これを「ヴァーチャルな世界」、「仮想世界」、「脳内世界」、と言い得ると思うが、何故それを、あえて、「あの世」とか「霊」とかいう言葉でもって示さねばならぬのであろうか?

 つまり、「霊的な力」が存在する、と言えば、やはり、柄谷が斥けているように、比喩的な表現に聞こえてしまう。そうではなくて「霊の力」が存在すると言えば、これは、霊を、霊の存在を実体化することになる。だが、そのようなものとして、それは人間という存在に働きかける、と言いたいのであろうか。

 とすれば、人間は霊の世界によって支えられていることになる。

 しかし、そう言い切るのは早急過ぎる気もする。

 いずれにしても、問題は、「観念的な力」とか「無意識の力」、あるいはカント的に「統制的理念による力」とでも言っておけば、無難にことが済みそうなのに、何故、あえて、「霊的な力」などと言わねばならないのか。

 穿った見方をすれば、あえて物議を醸すようなことを柄谷は言っているのか。

 

3 誰も「霊」を真正面から論じようとしない

 

 例えば、つい最近のことだが、柄谷を囲んで、國分功一郎と斎藤幸平が同席する講演会が行われた*[5]が、そこでも柄谷は「霊」の話をするが、二人とも何故かその問題には触れないのだ。触れられないのか、あるいは意図的に触れようとしないのだろうか。印象論で言えば、今後も、この「霊」の下りについては、かく、このように読み流されていくのではないだろうか? どうして誰も「霊」を、あるいは「霊」という言葉を問題にしないのだろうか?

全くの余談になるが、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のことである。原題は「Die protestantische Ethik und der 》Geist《 des Kapitalismus」である。文脈的には、ヴェーバーとは直接関係ないが、このエッセイで柄谷も述べているように元来、ドイツ語では「精神」を意味する「Geist」は「ghost」、すなわち「霊」をも意味する*[6]

ヴェーバーは恐らく、そのことを十分意識した上で「Geist」にカッコ( 》……《 )を付けたものと考えられるが、従って、少なくとも『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』と《 》を付けるか、傍点を振るかして強調するべきであろう。あるいは、「der 》Geist《 des Kapitalismus》とは「資本主義の《霊》/《亡霊》/《幽霊》」とも読むことができると註を付けるべきだが、わたしの不勉強故に正確には分らぬが、このことに触れた訳書や解説書は皆無に等しい気がする。ほとんどの人は「Geist」に「亡霊」という意味があることを認識していながら、いや、ここは当然のことながら「精神」と解すべきなのだと思って、取り立てて問題さえしない、ということなのだろうか。

 

4 小林秀雄の影

 

 さて、何故、わたしがこの「霊」問題にこだわるのか、というと、小林秀雄柳田國男という日本の、広い意味での文学、批評の世界を代表するこれらの思想家たちが、いずれも、「霊の世界」あるいは「霊的な世界」を実体視するような経験を語っているからである*[7]。小林について言えば、中断したベルクソン論「感想」の冒頭に登場する、小林自身の亡母が巨大な螢になって現れたなどが記憶に蘇る。あるいは、小林の晩年と言ってもよいと思うが、柳田國男の『山の人生』などを論じた講演「信じることと知ること」なども柳田の霊的な「素養」に、小林の同様な精神性が反応したものと言える。

 恐らく、この流れで論じられることを、あるいは柄谷は嫌がる、拒否するかも知れない。柄谷には2冊の柳田論が存在する。『柳田国男論』と『遊動論――柳田国男と山人』である。以前、この二著に関する感想のようなものを書いた。その一部を自己引用する。

 

恐らく柳田については前者で尽きている。

 筆者は後者を書き上げた段階で長らく封印していた前者はそのままで刊行してもよいと考えたらしいが、むしろ後者は不要とも言える。せいぜい前者に一章を付すことによって論旨は一貫できるはずだ。 

 前者を卒読して思うことは、圧倒的な小林秀雄の影響、あるいはそれへの対抗意識である。一つは再三にわたる本居宣長への言及、そして柳田『山の人生』冒頭の鉞で二人の子供の首を切り落とす父親のエピソードへの言及である。 

 恐らく筆者は通来の文芸批評を避ける/脱するためにマルクスや柳田を論ずると述べているが、小林の批評活動こそが狭い意味での文学の枠を拡張していっていたことを考えれば、同じ道を辿っているとしか言いようがない。

(「小林秀雄の影――柄谷行人柳田国男論』・『遊動論――柳田国男と山人』」/webサイト『鳥――批評と創造の試み』2017年3月18日更新)

 

 これをして無意識のなせる業(わざ)、と言ってもよいのだが、この文脈では、まさに「霊」の力、というべきであろうか。

 

5 無意識の力

 

 柄谷はこのエッセイの末尾で、ソクラテスのダイモン(精霊)について論じたヘーゲルの『哲学史講義』を引用している。

 

精霊というのは、やはり、無意識の、外的な、決断主体で、にもかかわらず主観的なものです。精霊はソクラテス自身ではなく、ソクラテスの思いや信念でもなく、無意識の存在で、ソクラテスはそれにかりたてられています。同時に、神託は外的なものではなく、かれの神託です。それは無意識とむすびついた知という形態をとるもので、――とりわけ催眠状態によくあらわれる知です。

( [ヘーゲル, 1833年-1836年/1992年]p.411/ [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.72より援引)

 

 柄谷は以前、日本人は強固な無意識に制限されて『日本国憲法』第9条を「改正」することはできない*[8]、と述べたが、ヘーゲルの言葉を引くまでもなく、人間を縛る交換による力とは無意識の力、無意識に淵源を持つ、あるいはそこに由来する力に他ならない。

 だが、それをして「霊」の力と柄谷が言うことこそ、ソクラテスがダイモンによって駆り立てられたような、まさに、無意識の力と言わざるを得ない。

 

結語――小林秀雄の弟子?

 

 柄谷は「「ヘーゲルの弟子」としてのマルクスは、『資本論』で「無意識」をもちこんだ、というより、ダイモン(精霊)をもちこんだ、といってよい。」*[9]と言うが、単に「マルクスは『資本論』で「無意識」をもちこんだ」で止めておけばいいところを、「ダイモン(精霊)をもちこんだ」と言わせてしまうことこそ、柄谷の無意識であろう。その意味では、柄谷自身の表層的な意識は否定するであろうが、柄谷行人は紛うことなき「小林秀雄の弟子」なのだ、それも、その本質をそのまま受け継いだ、正嫡の弟子であると言える。そして、これこそが、「霊」の「反復」に他ならないのではないのか?

 

【主要参考文献】

ヴェーバー マックス. (1920年/1989年). 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』. (大塚久雄, 訳) 岩波文庫.

ヘーゲル. (1833年-1836年/1992年). 『哲学史講義』上巻. (長谷川宏, 訳) 河出書房新社.

三浦雅士. (2010年-2011年). 「孤独の発明」. 『群像』2010年1月号~2011年6月号.

小林秀雄. (1958年-63年/2002年). 「感想」. 著: 小林秀雄, 『小林秀雄全集』別巻1. 新潮社.

小林秀雄. (1974年-75年/2001年). 「信じることと知ること」. 著: 小林秀雄, 『小林秀雄全集』第十三巻. 新潮社.

柄谷行人. (2013年). 『柳田國男論』. インスクリプト.

柄谷行人. (2014年). 『遊動論――柳田国男と山人』. 文春新書.

柄谷行人. (2016年). 『憲法の無意識』. 岩波新書.

柄谷行人. (2017年). 「交換様式論入門」. 参照先: 柄谷行人公式ウェブサイト: http://www.kojinkaratani.com/jp/

柄谷行人. (2018年). 「文芸文庫版へのあとがき」. 著: 柄谷行人, 『内省と遡行』. 講談社文芸文庫.

柄谷行人. (2021年). 「霊と反復」. 『群像』2021年10月号.

柄谷行人, 國分功一郎, 斎藤幸平. (2022年). 「『力と交換様式』をめぐって」. 『文學界』2022年10月号.

柳田国男. (1976年). 『遠野物語・山の人生』. 岩波文庫.

 

 

《追記》

 本稿には関連稿が4本あります。ご参考までに。

(1)「いよいよ「Dの研究」完成間近か? ――柄谷行人『内省と遡行』文芸文庫版刊行」

https://torinojimusho.blogspot.com/2018/04/d.html

(2)「「Dの研究」いよいよ推敲段階へ ――柄谷行人「社会運動組織の可能性――「NAM」を検証し再考する」」

https://torinojimusho.blogspot.com/2021/04/d.html

 (3)「ついに「力と交換様式」(「Dの研究」)脱稿か?――柄谷行人「社会科学から社会化学(ばけがく)へ」」https://torinojimusho.blogspot.com/2022/06/d.html

(4)「ついに『力と交換様式』(「Dの研究」)刊行日決定!――柄谷行人『力と交換様式』」https://torinojimusho.blogspot.com/2022/09/d.html

 

 

《summary》

Why "Spirit"?

KARATANI,Koujin, "Spirit and Repetition" (in Japanese)

■KARATANI,Koujin, "Spirit and Repetition"/Gunzo, October 2021, Kodansha.

■Essays (philosophy and social thought).

■Two columns, 6 pages.

■Read on September 18, 2022.

■Score: Incomplete.

🖊Here are the POINTS!

(1) The "power" in the new book "Power and Modes of Exchange" is "spiritual power." This is also the problem that Karatani once tried to solve but lost the battle.

(2) No one takes seriously what Karatani says about "spirit," but it is an extremely serious issue.

(3) In the sense that he is a disciple of KOBAYASHI,Hideo, he should be called "a disciple of  KOBAYASHI Hideo" in the sense that he is the successor to the "spirit" issue.

 

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20220925 2226

7060字(18枚)

 

*[1] [柄谷, 「霊と反復」, 2021年] p.69。

*[2] [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.70。

*[3] 「いよいよ「Dの研究」完成間近か? ――柄谷行人『内省と遡行』文芸文庫版刊行」(

https://torinojimusho.blogspot.com/2018/04/d.html)。

*[4] 【引用者註】 「力と交換様式」のことを指す。

*[5] [柄谷, 國分, 斎藤, 「『力と交換様式』をめぐって」, 2022年]

*[6] [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.71。

*[7] これらの問題の詳細は、三浦雅士の未刊行のままになっている、長期連載評論「孤独の発明」(『群像』2010年1月号~2011年6月号・講談社)に明らかである。

*[8] [柄谷, 『憲法の無意識』, 2016年]

*[9] [柄谷, 「霊と反復」, 2021年]p.73。