鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

現代の「白痴」――献身と姥捨て――カズオ・イシグロ『クララとお日さま』

~~過渡期の人間――カズオ・イシグロを読む そのⅨ~~

現代の「白痴」――献身と姥捨て――カズオ・イシグロ『クララとお日さま』





■Kazuo Ishiguro, Klara And The Sun,2021, Faber & Faber, Knopf, Hayakawa Publishing/カズオ・イシグロ『クララとお日さま』2021年3月15日・英Faber & Faber社、米Knopf社、土屋政雄訳・早川書房

■長篇小説。

■2023年10月8日読了。

■採点 ★★★☆☆。

🖊ここがPOINTS!

  • イシグロの『クララとお日さま』に登場するアンドロイドは、或る意味で人間に置き換えられる。
  • 主人公・クララは、その献身的な行動の果て、最後的に姥捨てされるが、まさにそれこそ究極的な愛の形である。
  • 他者を疑うことを知らぬ無垢なる存在・クララは、まさに現代の「白痴」とも言える。

【目次】

現代の「白痴」――献身と姥捨て――カズオ・イシグロ『クララとお日さま』... 1

1 はじめに... 2

2 梗概(ネタバレ注意!)... 3

3 姥捨て... 8

4 プロット、結末の問題... 10

5 献身... 12

6 現代の「白痴」あるいは「おばかさん」... 17

7 附記 残された問題... 18

【主要参考文献・音楽資料・映像資料】... 25

 

 

はじめに

 元々、本作『クララとお日さま』[1]は、「機械の倫理学」という小論の中で扱う予定でした*[2]。それは、人工知能を与えられた擬似人間(サイボーグ、アンドロイド、クローン人間等)と「心」、「精神的実在」との問題から、「人間性」、「人間であること」とは一体どういうことなのかを考えようとするものです。同様にイアン・マキューアンの『恋するアダム』[3]もその対象作品の一つでした。

 しかしながら、少なくともこの2作品について言えば、元々の作者の興味、関心がそうであるからなのかどうかは分かりませんが、「機械」、「AI」、「人造人間」などといったサイエンス・フィクション的な要素は、あくまでも単に設定として使われているだけで、実はさほど重きを置いていないのでは、とわたしは思うようになったのです。

 つまり、問題になっているのは、まさに人間そのものであって、ここに登場するアンドロイドは簡単に人間に置き換え可能なものなのではないか、と思うように、少なくともわたしはなりました。

 したがって、『恋するアダム』については「機械の倫理学」の「付論」扱いとするか、あるいはこの文脈では論じないこととします。

 また、本作『クララとお日さま』については仮称「過渡期の人間――カズオ・イシグロを読む」の一項として扱うことと致します。

 

1 梗概(ネタバレ注意!)

 「AF」とされるクララは街の雑貨屋(?)のようなところで売られていました。AFは“artificial friend” 、つまり「人工的な友達」、という意味だと思いますが、本文には一切その説明はありません。要するにアンドロイド、ロボットということです。クララは太陽光線をエネルギーとして稼働しているようです。

 やがて、クララは、重い病気を患うジョジーの家に買われて行きます。ジョジーは、恐らく「向上処理」/”lifted”[4]と呼ばれる何らかの遺伝子操作のような処置を受けたためなのか、病に陥っているようです。クララはそのジョジーの「お相手役」を務めることになります。しかしながら、ジョジーの母親クリシーは、ジョジーに万が一のことをあった時を想定して、その身代わりのアンドロイドを、既に発注していました。実は、ジョジーの実の姉サラーも同じ病に冒されて、既に亡くなっています。その時も、クリシーはサラーの身代わりのアンドロイドを発注し、実際に「使用」し始めたらしいのですが、どうも、クリシーとしては納得がいかなかったようでした。つまり、それは、肉体をいくら精巧に模造しても、何らかの精神的実在感のようなもの、その人が、まさにその人であり得るようなそれがなければ、その人らしさが感じられない、ということのようです。そこで、クリシーは、まず、ジョジーの持つ「何らかの精神的実在感のようなもの」をコピーするために、アンドロイド・クララを使って、記録させます。最終的に、ジョジーが亡くなった後に、ジョジーそっくりに作られたアンドロイドの、クララの持つメモリーを移植させることで、可能な限り本物そっくりなジョジーを作り上げる、という計画が進行していたのです。

 無論、クララとしては、その立場上、否も応もありません。しかしながら、クララとしては、唯々諾々(いいだくだく)と、その運命を受け入れる訳にはいかなかったのです。必ずジョジーが治癒することを頑なに信じようとしています。或る種、その信じ方、――そもそもロボット、人工知能が論理的な推論による判断ではなく、そうあって欲しいという願望のみで何かをbelieve、信じる(強く思う)ということがあるでしょうか? ――その信じ方は信仰のそれに酷似している気もします。

それはともかくとして、そこでクララは考えました。自らが太陽の光にエネルギーを受けているというところからなのかも知れませんが、彼女にとっては太陽がまさに「神」だったのですが、どういう訳か、その太陽が沈む時に、彼女たちの家から見える、マクベインさんの納屋のところに、太陽が一旦休憩をするのだと、彼女は考えたのです。その休憩してるところ、つまり太陽が寝る前ですけれども、クララはそこに訪問をして、直接、ジョジーの治癒を太陽にお願いをする、もっと言ってしまえば祈りを捧げることにしたのです。そこで、クララはある啓示を受けます、というか、勝手に受けたと考えます。太陽が嫌っている「空気の汚染」、これを排除するということが、ジョジーの治癒に結びつくと彼女を考えたのです。一旦太陽に自らの祈りが捧げられた、受け取られたと信じ込んだクララは、或るチャンスをうかがって、彼女が以前見たことのある、空気を汚染する(と、クララが勝手に思い込んでいる)機械、――道路工事の機械だと思いますが、――「クーティングズ・マシン」/“the Cootings Machine”*[5]というものを、自らの「体液」(?)である「P・E・G9溶液」を注ぐことによって、破壊することに成功します。しかし、残念ながら、ジョジーは治ることはありません。病が悪化する一歩です。さらにしばらく時が経ち、再度、マクベインさんの納屋を訪問し、クララはお日様に最後の祈りを捧げます。すると、しばらくして、ジョジーは快癒しました。このあたりは難しいところですけれども、当然のことながら、因果関係というものは成立しません。まさに偶然というしかないのですが、クララにとっては、まさに太陽がジョジーを助けてくれた、という解釈になります。

さて、その後さらにしばらく時が経ち、通常の健康と体力を回復したジョジーはすくすくと成長し、大学に入るまでになりました。途中でもう、お相手役の仕事がなくなってしまったクララは、ひっそりと物置に引き下がります。

最後にジョジーが大学に行くために家を出るところで、呆気なくクララとお別れするのですけれども、そこで話が一旦切れます。

最後のところは、おそらく、ゴミ捨て場、機械などの故障したものの廃棄所のようなところでクララが余生を過ごす、というところで終わっています。彼女はその余生を過ごしながら今までの記憶を再整理しているというようなことになっています。

まぁ、したがってこの話全体は、まあ、そう考えてくると、最後の廃棄所のところで、クララの人生というものを振り返っている、そういう流れになっているのかな、と思われます。

 

2 姥捨て

言うなれば、これはかつての「姥捨て山」、つまり仕事がなくなって、役割がなくなってしまった老人というのは、山に棄てられる。そういう姥捨て山の状況というものを想起させます。

どういうわけか、クララが引退する、――「引退」/”fade”[6]という言葉が本文に出てくるんですけれども、ロボット、つまり機械が引退するというのであれば、例えばスイッチを切る、とかそういったことは、恐らく、ほぼ人間扱いだったクララに対しては、「人道的」にできなかったのかもしれませんけれども、人工的な処理というか、その出荷工場に戻して、初期化するというようなことがされるべきなんだと思いますし、現実的にはそうなんだと思うんですけれども、この話のまあ一つの、悲しみというか、非常に苦しいところというのがそこの最後、とても「献身」的に自らの命も賭けて、ジョジーを守ろうとしたクララというのが、最後、「姥捨て山」に廃棄されてしまう、というところに、まあ一つのポイントがあるのかなと、と思います。わたしはそういった意味でこの一文に「献身と姥捨て」という風にサブタイトルをつけました。

 それにしても、どうしてクララには、あるいは同種のAFには「安楽死」という方法が採られなかったのでしょうか? 何故、このような惨い扱いをされねばならなかったのでしょうか?

 クララは、ジョジーの病が癒えると、何となく居場所がなくなり、自ら物置を見つけ出し、そこに棲みつくことになります。そのことをジョジーはおかしいとも思わないようですし、母親のクリシーは、もうクララにはほとんど関心がないようです。つまり、物置送りのあとに、廃棄所に送られても、別におかしなことではないのかも知れません。

このような扱いを受けるものとは一体何でしょうか。子どもの頃は一心同体のように寝食を共にしてきた(ように思い込んでるだけですが)にも関わらず、子どもが成長すると、顧みられなくなり、廃棄されてしまうもの。――、そうですね、おもちゃ、玩具ですね。つまり、クララは、ジョジーたちにとって高級玩具であったと考えれば、話は通じます。そもそも、クララたちは、どういう訳か、専門のAFショップで販売されている訳ではなく、恐らく、お洒落な雑貨屋のようなところで販売されていましたからね。であれば、何も「姥捨て」などと騒ぐ必要もなく、万事解決、ということになるのかもしれません。ただ、おもちゃを棄てただけなのですから。

しかし、果たして、そうなのでしょうか?

 

3 プロット、結末の問題

 ところで、この話の結末の付け方はいかにも、涙を誘いますが、そもそも、話の展開はこれでよかったのでしょうか。2回目のクララの祈りのあと、ジョジーが快癒するのは、ジョジーには申し訳ないですが、いささか拍子抜けでした。え、ここで治っちゃうの? という感じではなかったでしょうか。

 わたしの予想ではこうでした。

 〈わたしの予想①〉 やはり、母親が危惧していたようにジョジーは死んでしまうか、あるいは意識不明の寝たきりになる。そこで、計画通り、クララが身代わりになるが、――と言っても、見た目はジョジーですが、いつまで経っても外見上成長しないジョジー=クララに母は怒って破壊してしまう、というものです。成長しないアンドロイドに怒るという設定は、例の『鉄腕アトム』のパクリですが。まー、もともと母親のクリシーは情緒不安定で、怒りっぽかったですからね。これの難点はクララの文字通りの「献身」というテーマが、結果的には、何も実を結ばない、ということと、「お日さま」の存在が、やはり意味のないものになってしまう、ということです。

〈わたしの予想②〉 2回目の「祈り」のあと、お日さまとの誓約を果たすために、再度、クーティングズ・マシンを破壊する目的でクララは自身の脳内にある「P・E・G9溶液」を全て使い果たしてします。その結果、マシンは壊れますが、それと同時にクララも機能不全を起こし、その場で息絶えてしまいます。しかし、当然のことながら、ジョジークリシーにとっては突然、クララが行方不明になったということになります。いずれにしても、その結果、というよりも、偶然、ジョジーは全快するのです。これだと、クララの献身とお日さまの加護、恩寵が美味い具合いに生きているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 しかし、イシグロさんは、そうはしませんでした。確かに、クララは献身的に働きましたが、必ずしも、結果的に自らの命を落とした訳ではありません。クララの強い祈りがお日さまを動かし、ジョジーの快癒に向かわせた、と読めなくもないですが、実際には、単なる偶然ですから、読者としては、あれ? そうなの? という感が否めないでしょう。

というように考えて来ると、イシグロさんは、比較的、無難な結末、誰も傷つかないような、安全な道を選んだのでしょうか? つまり月面への降下で言えば(何故、月面なんだ?)、軟着陸、ソフト・ランディングを敢行したと言えるのでしょうか?

そもそも、何故、ジョジーは治るのか、この謎が残されます。お日さまの光 え? そんなことがあるでしょうか?

 

4 献身

例の如く、話が逸れますが「献身」と言えば、東野圭吾さん原作による映画『容疑者Xの献身』*[7]を想起します。御覧になりましたか? もう、例としては古いですね(笑)。それはともかく、その主題歌「最愛」*[8]を主演したお二人が歌っています。いい歌ですよね。

 

ちょっと、YouTubeで聴いてみましょう。

 

夢のような人だから

夢のように消えるのです

 

その定めを知りながら

捲られてきた季節のページ

 

落ちては溶ける粉雪みたい

止まらない想い

 

愛さなくていいから

遠くで見守ってて

強がってるんだよ

でも繋がってたいんだよ

あなたが まだ好きだから

(以下略)

 

うーん、いい歌ですね。

それはともかく、クララは文字通り、場合によっては自らの死をも予想された献身的な働きをして、最後は姥捨て山に追いやられる。ということは、こういうことでしょうか?

愛の本質とは結局、相互に確認し合うものではなくて、一方的に捧げるものが愛なのではないか。答えがあろうが、無かろうが、相手に認識されようが、されまいが、一方的に強く信じられるものが愛なのではないか。と、すれば、その究極の形は、神に捧げられるものであり、それが、偶々クララにとっては太陽だったのではないでしょうか? ジョジーは言うなれば、その太陽の光を反射する月のような存在だったのかも知れません。

しかし、その見返りが姥捨てとは、なんということでしょうか。

だが、究極的に愛する人にとっては、見返りは問わない、というか全くそんなことは問題にならないのでしょう。仮に相手から殺されても、それが相手の意志、つまりは遡って、それが神の意志であるとすれば、――言うなれば、それが運命ということになるのでしょうが、それに従うのが献身ということなのではないでしょうか。

したがって、献身の結果が姥捨てであることは何ら問題にならないばかりか、むしろ、献身の意味をか輝かせるものになったのかもしれません。

 

5 現代の「白痴」

さて、そこまで考えて、何故、イシグロさんは、この小説にサイエンス・フィクションの設定を「借りた」のでしょうか? あえて、「借りた」と表現しておきます。

つまり、その問いは、何故、クララはアンドロイド、人工人間、人造人間でなければならなかったのか、という問いに接続します。

かつて、そのような、目の前の相手や、周囲の人達を全く疑わない、無垢なる人物を、フョードル・ドストエフスキーは『白痴(おばかさん)』*[9]の中でムイシュキン公爵という造形で提示して見せました。無論、ドストエフスキーの頭にあった、その原型はイエス=キリスト、その人に他なりません。もっとも、『聖書』からうかがえるイエスは必ずしも、疑うことをしない、全き純粋なる無垢の人、とは言えないとは思いますが。

いずれにしても、イシグロさんは、現在では、恐らく、そのような無垢なる人物は、実際の、現実的な人間として提示して見せるのは困難だと判断したのではないでしょうか?

 つまり、今や、究極の愛の姿とは、現実世界では既に絶滅してしまい、今や、古典文学や、サイエンス・フィクション的な想像力の中でしか生きることができない、ということなのでしょうか。

 

附記 残された問題

 わたしの能力と努力不足と、時間切れのため、本文に反映することの出来なかった幾つかの問題が残されています。以下、一旦箇条書きで、書き残しておくことと致します。とりわけ、重要だと思われるものに★を付けておきます。

 

  • クララが最後に会うのが店長さんでよいのでしょうか? 例えば、それがジョジー、あるいはクリシーではなかったのは何故でしょうか?
  • 本書『クララとお日さま』は何故、「母・静子」に捧げられているのでしょうか? 
  • ★ 本書で太陽の持つ意味は何でしょうか? 太陽の比喩の意味とは何でしょうか? そもそも太陽とは一体何でしょうか?
  • AF、つまり人工的な友達は使用者の意志の如何により、奴隷とも、 ペットにもなり得ます。場合によっては性慾の処理にも使えます。この作品では、そのような人造人間の暗部、というよりも、人造人間に対する人間の持つ暗部が、意図的になのか書かれていません。これは一体どういう意味があるのでしょうか?
  • 本作は、人工知能を持つ、人造人間クララの一人称で書かれています。とすると、本作の文体はこうあるべきでしょうか? 
  • 何故、AFには個体差が生じるのでしょうか? 学習機能があるにせよ、店頭で陳列されている時から、クララとローザは第三者(店長、客)から見ても明らかな差が生じていました。何故こんなことが生じるのでしょうか? つまり、最初からゼロ・ベイスで稼働している訳ではなく、何らかのモデルとなる人間のキャラクターが存在するのではないでしょうか。さて、ここからは逸脱も甚だしいですが、もし仮にそのモデルが死者だとしたら、どうでしょうか? 記憶は削除して、――そんなことが可能だとしての話ですが、純粋に性格、キャラクター、人格のみを移植した、そういう存在なのではないでしょうか?
  • ジョジーというのは女児という含意があるのでしょうか?
  • ★ クララは通常“Clara”と表記されます。“Klara”とはどういうことでしょうか?→クララ(Clara, Klara)は欧米の女性名・地名、ドイツ語圏(主にイタリアの南チロル地方等)の家族名。「光り輝く、著明な、立派な」という意味のラテン語の形容詞クラールス(Clarus)の女性形クラーラ(Clara)に由来し、各言語でも概ねクラーラと発音されるが(アメリカ英語ではクレァラやクララ)、日本ではいずれも慣例的にクララと表記される事が殆どである。同じ系統の名前にクレア、クレール、クラリッサ、クラリスなどがある。/古来より女性名として用いられてきたが、13世紀の西方教会の聖女、アッシジのキァーラ(Chiara は伊語形の一つ)により一般化した。キァーラは徹底した清貧を旨とする修道会を設立し一生を祈りと奉仕に捧げた修道女で、主に眼病を患う人と眼を酷使する職人(金属細工師や刺繍職人など)の守護聖人として死後間もなくから崇敬されてきたが、現在ではブラウニー(ガールスカウトの小学生低学年部)や遠隔通信(テレビや電信・電話)の守護聖人としても崇敬を集めている。
  • クララの下見に来ていたとき、帰りがけに母親がジョジーに伸ばされた手がためらうのは何故でしょうか? (24)
  • 屋外にAFがあまりいないのは何故でしょうか? (25)
  • ジョジーのキャラクターをクララに記憶させて、人造のジョジーに移植する計画は、かなり周到に準備されているようですが、肝心のクララをカバルディの工房で作らず、どうして市販されているクララを買ったのでしょうか? かなり、計画の根本に関わる問題だと思いますが。
  • 「クーティングズ・マシン」とは一体何なのでしょうか? (46)
  • 母親は何故、クララの向こうを見ていたのでしょうか? (67)
  • ★ クララが一貫して、クリシーのことを「母親」/“the Mother”と呼んでいるのは何故でしょうか? “the Mother”とはどういうことでしょうか?
  • クララを買うときに、母親が「やつれて張りつめ」ていたのは分かるにしても「ショルダーバッグをのぞき、中を探っている」のは何故でしょうか? 中に何が入っていたのでしょうか? 財布? そんなことがあるでしょうか? (68)
  • 「いまこうしてあの日々のことを思い出していると」(まさに「日々の名残」ですね)、ということは、この話はクララが廃棄処分にあって、廃棄所で記憶の整理をしている時に叙述された、ということでしょうか? (74)
  • クララは母親が怒りだすことを異様に恐れています。(80)懸命にその「サイン」「緊張感」「話題の背後にある何か」を事前に察知しようとしています。(p.p.132-133) これは何を意味しているのでしょうか?
  • ジョジーのボーイフレンドのリックの一家は「イギリス人」のようです。何やら、そのことを他人に悟られることを異様に気にしています。これは何故でしょうか? 何かイギリスに不吉なことでも生じたのでしょうか? あるいはイギリスは滅んだのでしょうか? そして、とすれば、ここはアメリカなのでしょうか? (91)
  • 家政婦のメラニアは何人なのでしょうか? 何故、彼女は英語が片言なのでしょうか? (91) 何故、家政婦が存在しているのでしょうか? ロボットでは駄目なのでしょうか?
  • 「向上処置」(119)とは何でしょうか?
  • クララの視覚認識は複数の「ボックス」で捉えられるようだが、現実問題として、コンピュータの視覚認識の問題として、そんなことあるのでしょうか? (118の辺り)
  • ★ クララに感情があります。さらには観察するほど感情が多くなるといいます。(142)人工知能が感情を持つ、というのはどういうことでしょうか? そもそも感情とは一体なのでしょうか? それは、電気的な信号に変えられるものでしょうか?
  • ジョジーの父は「置き換えられた」と言います。 何に置き換えられたのでしょうか? 文脈的にはロボットにその仕事を奪われたとも取れますが、いかがでしょうか? (144)
  • 何故、彼らの使用する自動車は、文字通り自動運転自動車ではないのでしょうか? まさにいたるところに人工知能を持つ、つまりは自己制御可能な機械的構築物が氾濫していて然るべきかと思います。あるいはクーティングズ・マシンすらもロボットであるべきだったような気もします。(144)
  • ★ クララはモーガンの滝に行く途中で遭遇した雄牛を忌み嫌います。それをして「怒りと破壊のサイン」だとしますが、これは一体何を意味するのでしょうか?(145)本来クララが敵対視するのは、環境を汚染する、すなわち、太陽光線を遮る、例えばクーティングズ・マシンのような存在です。雄牛は環境を汚染するのでしょうか? あるいは、雄牛は何故「怒りと破壊」を象徴するものだとされているのでしょうか?
  • 何故、家政婦メラニアはクララを敵視するのでしょうか? 
  • 何故、クララは不用意に思い出を想起するのでしょうか? 雄牛や、ローザのことを想起しています。そこで、ローザは苦しんでいますが、何故ローザは苦しんでいるのでしょうか? クララには遠隔的共感能力があるのでしょうか? 単なる想像力なのでしょうか? 共感覚、共体験ということでしょうか? (237)
  • 「あれの真っ最中」とは、「あれ」のことですか? (252)
  • ★ クララは一体誰に向かって話しているのでしょうか? 

 

以上で御座います。本日はお疲れ様でした。御機嫌よう。

 

 

主要参考文献・音楽資料・映像資料】

IshiguroKazuo. (2021). Klara And The Sun. Faber & Faber.

KOH+, 柴咲コウ, 福山雅治. (2008年). 「最愛」. NAYUTAWAVE RECORDS/ユニバーサルミュージック.

イシグロカズオ. (2021年). 『クララとお日様』. (土屋政雄, 訳) Faber & Faber, Knopf,早川書房.

ドストエフスキーフョードル. (1868年/2004年). 『白痴』上下. (木村浩, 訳) 『ロシア報知』/新潮文庫.

マキューアン イアン. (2019年/2021年). 『恋するアダム』. (村松潔, 訳) Nan A. Talese/新潮クレストブックス(新潮社).

手塚治虫. (1956年-60年). 『鉄腕アトム』全8巻. 光文社.

手塚治虫, 浦沢直樹, 長崎尚志. (2003年ー2009年). 『PLUTO』全8巻. ビッグコミックス小学館).

西谷弘. (2008年). 『容疑者Xの献身』. 東宝.

石森章太郎. (1972年ー1974年). 『人造人間キカイダー』全6巻. サンデー・コミックス(秋田書店).

 

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第2稿 10,739字(27枚) 20231022 1953

 

*[1] [Ishiguro, 2021] [イシグロ, 2021年]。

*[2] この問題は、手塚治虫の代表作『鉄腕アトム』 [手塚, 『鉄腕アトム』全8巻, 1956年-60年]の中の1挿話である「地上最大のロボット」の、浦沢直樹によるリメイク版『PLUTO』 [手塚, 浦沢, 長崎, 『PLUTO』全8巻, 2003年ー2009年]に触発されたものです。機械が「自我」、「自意識」を持つとはどういうことなのか、ということですね。それを言うなら、石森章太郎の『人造人間キカイダー』 [石森, 1972年ー1974年]はどうなのか、とか、あるいはこれは実話になってしまいますが、JAXAの惑星探査衛星「ハヤブサ」の事績をどう考えたらいいのか、とか、話は尽きることはありません。

*[3] [マキューアン , 2019年/2021年]。

*[4] [イシグロ, 2021年]p.119/ [Ishiguro, 2021]p.93

*[5] [イシグロ, 2021年]p.43他/ [Ishiguro, 2021]p.31他。

*[6] [イシグロ, 2021年]p.420/ [Ishiguro, 2021]p.329。原文の“fade”は「消え去る」ことでしょうから、ジョジーの母親は、用済みとなったクララには消えて無くなって欲しいと思っているのだと思います。土屋訳の「引退」とはいささか異なります。「引退」というのは、そこで死ぬわけではなく、その後の比較的悠々自適な生活が保障されている印象が残りますが、クララの場合は、本来的に、それはきっとないのでしょう。

*[7] [西谷, 2008年]。

*[8] [KOH, 柴咲, 福山, 2008年]。歌唱:KOU+(柴咲コウ福山雅治)・作詞:福山 雅治・作曲:福山 雅治・発売:2009-06-26 10:52:39。

*[9] [ドストエフスキー, 1868年/2004年]。