鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

観察者、あるいは批評家としてのカポーティ トルーマン・カポーティ『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』 

◎総特集=トルーマン・カポーティ×村上春樹――カポーティ『遠い声、遠い部屋』新訳刊行に寄せて🐈トルーマン・カポーティ―を読む🐈

  

観察者、あるいは批評家としてのカポーティ

 

トルーマン・カポーティ『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』 

  

  

■Truman Capote, The Dogs Bark,1951-1973/トルーマン・カポーティ『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』小田島雄志訳・2006年9月15日・ハヤカワepi文庫。

■翻訳・短篇エッセイ集。

■目次 

・序文

・雲からの声

・白バラ

・ローカル・カラー

・観察日記

 (・白昼の亡霊たち――『冷血』の映画化 ・自画像 を含む)

・観察者としてのカポーティ川本三郎

■299ページ。

■740円(税別)。

■2023年7月25日読了。 

■採点 ★★★☆☆。

 

🖊ここがPOINTS!

① トルーマン・カポーティのエッセイの集成である『犬は吠える』は彼の「観察者」=「批評家」としての資質がよく出ている。

② それは、コクトーやパウンドの奇矯さの本質を描いた文に表れている。

③ 人間をじっと見るというところから、独自の距離感と、類稀なる文学空間が形成されたと思われる。

 

 

目次

1 観察者=凝(じ)っと視る人=カポーティ... 3

2 『観察日記』... 5

3 ジャン・コクトー... 6

4 エズラ・パウンド... 7

5 視ること、距離をとること、批評的であること... 10

6 人間という「悪魔」に魅入られたのか?... 11

参照文献... 12

 

 

1 観察者=凝(じ)っと視る人=カポーティ

「瞠目」という言葉がある。「目を瞠(みひら)く」という意味だ。つまり驚きの余り、声にも出せず、眼を瞠く、ということだ。まさにそれだ。

これにはいささか驚いた。

感情に任せて、気の向くまま、筆の赴くまま、文章を書いているのではないかと、正直思っていた、カポーティは。したがって、彼の書く文章は正直に言って、文章の美しさ、描かれた内容の美しさにこそ、彼にとっては意味があるのであって、正確さに欠くのではないか、とわたしは思っていた。つまりカポーティは、実際的にも、比喩的にも、自らの部屋の中に籠って小説を書いているのだと、少なくとも中期の段階までは、そうではないかとわたしは勝手に思っていた。

ところが全くそうではないのではないか。後年の傑作とされているノンフィクション・ノヴェル『冷血』*[1]が、まさにそうであるように、カポーティは冷静に人や場所を「視る」、つまり「観察する」。そして、人と会う場合は、とにかく相手の話を「聴く」ことに専念する。メモなどは取らない。無論録音などもしない。しているとすれば、彼の心の中に録音、録画をしていたのであろう。

しかし、根本は「視る」、とにかく「凝(じ)っと見る」ことに尽きる気がする。

最近、カポーティの幼馴染ネル・ハーパー・リーの『アラバマ物語』の新訳が刊行された。題名は原題To Kill a Mockingbirdに即して『ものまね鳥を殺すのは――アラバマ物語〔新訳版〕』*[2] という訳題になっている。

物真似と言えば、芸としてのそれは、あるいは日本だけのものかも知れないが、対象となる人物の、むしろ本人が嫌がるような特徴を的確に捉える。それと似ているかも知れない。

カポーティ自身は、無論、物真似はしなかっただろうが、とにかく人間をよく見ていることが分かる。本書のⅡ巻に納められている、映画俳優マーロン・ブランドを描いた「お山の大将」*[3]は、題名からも分かるように、当該の本人を激怒させた、という。さもありなん。普通はそういう形でインタヴューした場合、その後の仕事や、人間関係などを考えて、多少筆を抑えるものだ。しかし、カポーティは書いてしまうのだ。ブランドが怒ったのも、カポーティの文章が、まさに、彼の痛いところを突くものであったからだろう。

 

2 『観察日記』

本書は元々、別々に刊行されていた土地についての写文集『ローカル・カラー』と、同様に、人物について書かれた、やはり写文集『観察日記』を元に幾つかの編集を加えて、他の短篇エッセイをも加えたものである。その意味では写真がないのは、いささか残念ではある。

土地について書かれた『ローカル・カラー』は若書きではあるにせよ、確かにカポーティの口調になっている。だが、いささか、当然ではあるが、ドラマ性に薄く、人によっては、興味を持続させるのが難しいかも知れない。

やはり出色なのが、人、この場合は、その当時存命であった、カポーティよりも年長の、ということは高齢者が多い訳だが、芸術家、芸能人たちを描いた『観察日記』である。原題はObservations であるから、文字通り「観察」である。

アイザック・ディネーセン(イサク・ディーネセン=カレン・ブリクセン)に始まり、マリリン・モンローに至るまで、その冷徹な視線とその的確な筆は留まるところを知らず、まさに自由自在である。

中でも、「ジャン・コクトーアンドレ・ジッド」「エズラ・パウンド」の2篇は秀逸だ。眼から鱗が落ちる、とはこのことである。

 

3 ジャン・コクトー

 「ジャン・コクトーアンドレ・ジッド」の中で描かれる、ジッドはほとんど動かない。問題は、別に問題がある訳ではないが、ジャン・コクトーである。ジャン・コクトーは極めてユニークな人物である。詩人、というよりも「芸術のデパート」と言わしめるほど、その活動領域は小説、評論、映画監督、……という具合に向かうところ敵なし、とでも言わんばかりだが、ポイントはそこにはない。まさに、カポーティは次のように喝破する。「だが彼がもっとも有能であったのは仲介業者の衣装をつけたときである」*[4]というのである。では「仲介業者」とは何か? それは「ほかの人の思想と才能を世に出し宣伝する仕事である」*[5]。つまり、今風に言えば「プロデューサー」ということか。

 

4 エズラ・パウンド

そして、いささか、いや大分毛色が違うにしても、やはり「プロデューサー」、あるいは「パトロン」のような仕事をした詩人がエズラ・パウンドである。ジョイスの『ユリシーズ』刊行に際して、資金を集めたのがパウンドであることは広く知られている。イェイツは「彼には一種の天才と大きな善意がある」*[6]と述べた。カポーティによれば「めったに他人の好意を称えることをしないヘミングウェーさえも」*[7]次のように述べた、という。

 

いままでのところ(中略)われわれのもつ最大の詩人パウンドは、まず自分の時間の五分の一を詩作に捧げている。残りの時間は、彼の友人たちの運命を物質的にも芸術的にも高めるべく努力している。*[8]

 

どういうことか? ヘミングウェーは続ける。

 

彼は友人たちが攻撃されれば守ってやり、彼らを雑誌に出してやったり監獄から出してやったりする。彼らに金を貸してやる。彼らの絵を売ってやる。彼らのコンサートを開いてやる。彼らのことを書いてやる。彼らを金持の女たちに紹介してやる。彼らの小説を出す出版社を見つけてやる。彼らが死ぬと言うと一晩中起きていて遺言を書くのに立ち会ってやる。彼らの病院の費用を前貸しし、自殺を思いとどまらせてやる。そして結局、彼らの何人かはなんとか都合をつけてナイフをしまう*[9]

 

という訳なのだが、一体全体どんな人間なんだ。しかしながら、その間も詩作は営々と続けられる。「だが次第に彼のもっとも強い関心をひいていったのは経済学であった」*[10]。パウンドは「経済についてふれていない歴史はただのたわごとである」*[11]とどこかで述べたようだ。そうこうするうちに彼はムッソリーニの思想に接近し、アメリカに対する「反逆者」として収監された。裁判は彼を「狂人」であるとし、その12年間、病院に隔離された。その間『ピサ詩篇』を発表し賞を獲得する、というような数奇な人生を送った。

恐らくカポーティはその種の、少なく見積もっても「奇矯(クイア)な」人間、あるいはいささか強い言葉で言えば「狂人」とされる人間にこそ、心惹かれるものがあったのであろう。

 

5 視ること、距離をとること、批評的であること

ところで、この「視ること」、とは一体どういうことであろうか。視ることは、距離をとることだ。何らかの距離がなければ、対象を視ることはできない。距離をとる、ということは、多かれ少なかれ、批評的であろうとすることだ。数多の優れた小説家が、勝れた批評的視点を持っていたことは言うまでもない。言うなれば、それは対象を視る自分をも視ることだ。言うなれば、それは対象を描写する自分をも視ることに他ならない*[12]

恐らく、そこに、語り手とも、作者自身とも、いずれも異なる、第三の視点*[13]が生まれるのであろう。優れた小説作品の持つ、表面的な熱エネルギーとは別の、冷静な言語空間、文学空間はそのようにして生まれるのではないだろうか。

例えば、それは短篇「誕生日の子どもたち」*[14]に見られ、さらには中篇『ティファニーで朝食を』*[15]で無尽に活躍する視点である。

カポーティは本書で、写真家セシル・ビートンの「視覚的知性」*[16]を賞賛しているが、この言葉はむしろカポーティ本人にこそ合致する言葉かも知れない。

 

6 人間という「悪魔」に魅入られたのか?

ここでは、もう詳細には論じないが、他にも大変ユニークな、興味深い文章が収められている。

自身の筆法を語った「序文」。第一長篇『遠い声、遠い部屋』*[17]執筆の経緯を語った「雲からの声」。コレットとの出会い、というか面会か、それとコレットから贈与されたことに始まるガラス細工蒐集に触れた「白バラ」。一篇の優れた短篇小説として成立している「ヨーロッパへ」*[18]と「ローラ」*[19]。『冷血』の映画化について触れられた「白昼の亡霊たち」。そして、自身について忌憚なく語った「自画像」。いずれもカポーティが、いかに人間に、あるいは人間という「悪魔」*[20]に魅入られているかが理会できる諸篇である。

 

参照文献

カポーティトルーマン. (2015年/2019年/2022年). 『ここから世界が始まる――トルーマン・カポーティ初期短篇集』. (エバーショフデヴィッド, 編, 小川高義, 訳) ランダムハウス社/新潮社/新潮文庫.

カポーティトルーマン . (1951年/1971年). 『草の竪琴』. (小林薫, 訳) ランダムハウス/新潮社.

カポーティトルーマン. (1945年~1995年/2002年/2009年). 『誕生日の子どもたち』. (村上春樹, 編, 村上春樹, 訳) 原書/文藝春秋/文春文庫.

カポーティトルーマン. (1948年/1971年). 『遠い声 遠い部屋』. (河野一郎, 訳) ランダム・ハウス社/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1949年/1994年). 『夜の樹』. (川本三郎, 訳) Random House/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1951年~1973年/2006年). 「雲からの声」. 著: 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察記録』 (小田島雄志, 訳). 原著/ハヤカワepi文庫(早川書房).

カポーティトルーマン. (1951年ー1973年/2006年). 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』. (小田島雄志, 訳) Rondom House・/ハヤカワepi文庫.

カポーティトルーマン. (1956年/1990年). 『クリスマスの思い出』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

カポーティトルーマン. (1956年/2006年). 「お山の大将」. 著: 『犬は吠えるⅡ――詩神の声聞こゆ』 (小田島雄志, 訳). 原著/ハヤカワepi文庫.

カポーティトルーマン. (1958年/2008年). 『ティファニーで朝食を』. (村上春樹, 訳) ランダム・ハウス社/新潮社.

カポーティトルーマン. (1966年/2006年). 『冷血』. (佐々田雅子, 訳) Random House/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1982年/1989年). 『あるクリスマス』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

カポーティトルーマン. (1985年/1988年). 『おじいさんの思い出』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

カポーティトルーマン. (2006年/2006年). 『真夏の航海』. (安西水丸, 訳) Random House/ランダムハウス講談社.

カポーティトルーマン. (2023年SUMMER/FALL). 「最後のドアを閉めろ」. 著: 『MONKEY』vol.30 (村上春樹, 訳). Switch Publishing.

シュワルツUアラン. (2006年/2006年). 「失われた処女作の軌跡」. 著: カポーティトルーマン, 『真夏の航海』 (ランダムハウス講談社編集部, 訳). Random House/ランダムハウス講談社.

リー  ハーパーネル. (1960年/2023年). 『ものまね鳥を殺すのは――アラバマ物語〔新訳版〕』. (上岡 伸雄, 訳) 原著/早川書房.

江川卓. (1984年). 『ドストエフスキー』. 岩波新書.

三浦雅士. (2018年). 『孤独の発明 または言語の政治学』. 講談社.

村上春樹. (2023年summer/hall). 「カポーティ・ショック」. 著: 『MONKEY』vol.30. Switch Publishing.

村上春樹, 柴田元幸. (2023年summer/fall). 「村上春樹インタビュー――カポーティは僕にとってとても大事な作家――『遠い声、遠い部屋』と「最後のドアを閉めろ」」. 著: 『MONKEY』vol.30. Switch Publishing.

 

【Summary】

◎Overall Feature=Truman Capote x Haruki Murakami: On the Occasion of the Publication of a New Translation of Capote's Other Voices, Other Rooms

🐈Reading Truman Capote🐈.

 

Capote as Observer or Critic

 

Truman Capote, The Dog Barks I: Local Color/Observations

 

 

■Truman Capote, The Dogs Bark,1951-1973 / Truman Capote, The Dogs Bark I: Local Color/Observations, translated by Odashima,Yuushi, September 15, 2006, Hayakawa epi library.

■A collection of translations and short essays.

 

■Table of Contents 

・Preface

・Voices from the Clouds

・White Roses

・Local Color

・Observations

 (Ghosts in Broad Daylight (including a film adaptation of In Cold Blood and a self-portrait)

・Capote as observer (Kawamoto, Saburo)

■299 pages.

■740 yen (tax not included).

■Read on July 25, 2023.

■Score ★★★☆☆.

 

🖊Here are the POINTS!

① The Dogs Bark, a collection of essays by Truman Capote, is a good example of his qualities as an "observer"="critic”.

② This is evident in the sentences describing the nature of Cocteau's and Pound's eccentricities.

③It seems that his unique sense of distance and exceptional literary space were formed from the fact that he stares at people.

 

 

Table of Contents

1 The Observer = The Gazing = Capote

2 “Observations"

3 Jean Cocteau

4 Ezra Pound

5 Looking, Distancing, Being Critical

6 Fascinated by the "Devil" of Man?   

References

 

 

🐤

7,882字(20枚) 202307310820

 

*[1] [カポーティ ト. , 『冷血』, 1966年/2006年]

*[2] [リー , 1960年/2023年]。

*[3] [カポーティ ト. , 「お山の大将」, 1956年/2006年]。

*[4] [カポーティ ト. , 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』, 1951年ー1973年/2006年]p.233。

*[5] [カポーティ ト. , 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』, 1951年ー1973年/2006年]p.233。

*[6] [カポーティ ト. , 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』, 1951年ー1973年/2006年]p.236。

*[7] [カポーティ ト. , 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』, 1951年ー1973年/2006年]p.236。

*[8] [カポーティ ト. , 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』, 1951年ー1973年/2006年]p.236。

*[9] [カポーティ ト. , 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』, 1951年ー1973年/2006年]p.p.236-237。

*[10] [カポーティ ト. , 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』, 1951年ー1973年/2006年]p.237。

*[11] [カポーティ ト. , 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』, 1951年ー1973年/2006年]p.237。

[12] 言語こそが、この自己言及の構造を生み出すことを詳細に論じたのが三浦雅士の『孤独の発明 または言語の政治学』 [三浦, 2018年]である。

*[13] ロシア文学者・江川卓は、これを「ゼロの語り手」と呼んだ [江川, 1984年]p.p.73-86。

*[14] [カポーティ ト. , 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]。

*[15] [カポーティ ト. , 『ティファニーで朝食を』, 1958年/2008年]。

*[16] [カポーティ ト. , 『犬は吠えるⅠ――ローカル・カラー/観察日記』, 1951年ー1973年/2006年]p.255。

*[17] [カポーティ ト. , 『遠い声 遠い部屋』, 1948年/1971年]。

*[18] 強烈な個性を持つ少女が登場するが、カポーティはそういう、いわゆる強い女性に心惹かれていたのであろう。また、それを一歩引いて見ている、というのも、いかにもカポーティらしい。

*[19] 因みに「ローラ」は女性の名前ではなくて、カポーティが已む無く飼っていた烏の名前である。

*[20] カポーティの使用する「悪魔」という言葉、あるいはそこに含まれている概念については慎重な検討が必要であろうと思われる。差し当たって、今、わたしの念頭にあるのは、例えば、「誕生日の子どもたち」の主要登場人物、たかだか10歳の少女ミス・ボビットが悪魔に魅入られ、独自の人生哲学を開陳するところである。彼女は作者を思わせる語り手に向かってこう言ってのける。「大事なのは、悪魔を愛することなのです。ちょうどあなたがイエス様を愛するようにです。なぜなら悪魔というものは強い力を持ったものであり、もしあなたが彼のことを信頼しているとわかれば、あなたに対して報いてくれるからです。」( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.28)。