鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

樹の上に座礁した方舟 トルーマン・カポーティ『草の竪琴』 

🐈トルーマン・カポーティ―を読む🐈

  

樹の上に座礁した方舟

 

トルーマン・カポーティ『草の竪琴』 

  

  

■Truman Capote, The Grass Harp,1951/トルーマン・カポーティ『草の竪琴』小林薫訳・1971年2月10日・新潮社。

■翻訳・中篇小説。

■目次 

・1~7

・あとがき(小林薫

■196ページ。

■650円。

■2023年7月9日読了。 

■採点 ★★☆☆☆。

 

目次

1 長篇小説になり切れていない... 2

2 結末の弱さ... 3

3 短篇連作として分割すべきではなかったか?... 6

4 約束の地は何処に?... 7

5 覚書... 7

 

 

1 長篇小説になり切れていない

カポーティの鮮烈なるデビュー作『遠い声、遠い部屋』*[1]に続く、2作目の長め*[2]の小説である。当時第一作の、プラスの意味でもマイナス意味でも衝撃を受けた読者にとって、恐らく、この第二作は肩透かしを食らった感じがしたかも知れない。おどろおどろしさもなく、謎もなく、随分と大人しい印象を残す。

 確かに、樹上に暮らしたり、奇妙な宣教の家族が現れたり、設定や登場人物の奇妙さは確かにカポーティの世界である。

 だが、恐らく長篇小説になり切らず、尻切れトンボのような形で終わってしまっているのも、あるいは、そもそもカポーティという作家が短篇小説に向いているのか、彼のイメージに任せる奔放な小説作法が、小説の構造をとることができず*[3]、ということはコントロールが効いておらず*[4]、結末をつけるのに難渋して、なんだか投げ出した、というような印象を持つ*[5]。あくまでも印象論です。

 

2 結末の弱さ

 実際問題、この物語がこの展開でよいのか、あるいはここで終わりなのかどうかという問題は他の人も考えていたようだ。英語版Wikipediaによればこう述べられている。

 

 カポーティが『草の竪琴』を完成させたのは、シチリア島タオルミーナで休暇を過ごしていたときだった。しかし、編集者、特にボブ・リンスコットがこの小説の結末を気に入らなかったため、4ヶ月間出版されなかった*[6]。リンスコットは、登場人物たちが樹の家に登ってしまうと、カポーティが 「彼らをどうしたらいいのか分からなかった」ため、その結末は弱いと考えた。彼はカポーティに結末の書き直しを依頼し、カポーティは結末にいくつかの変更を加えたが、完全に書き直したわけではなかった*[7]。*[8](Deeplの機械翻訳に引用者が手を加えた)

 

Capote completed The Grass Harp while he was vacationing in Taormina, Sicily. The last section was airmailed to the publishers Random House just days after he finished writing it, but it was not published for four months because the editors, specifically Bob Linscott, did not care for the ending of the novel. *[9] Linscott thought that the ending was weak because, once the characters were up in the tree house, Capote "didn't know what to do with them." He asked Capote to rewrite the ending, and Capote made some changes in it, but he did not completely rewrite it. *[10] *[11]

 

事実かどうかは分からぬが、確かに樹の家に上げたはいいものの、そこから先「彼らをどうしたらいいのか分からなかった」というのはその通りだったのだと思う。意味もなく何度も保安官たちが押し寄せて来たり、ラウリーや判事、あるいはシスター・アイダのエピソードが無脈絡に投入されたり、正直、カポーティはこれをどうしたらいいか途方に暮れたのかも知れない。したがって、結末云々ということではなく、物語の三分の一辺りで、既に座礁しかかっていたのではないか。

 

3 短篇連作として分割すべきではなかったか?

 あるいは、この物語では、主人公コリン・フェンウィックが16歳の時に生じた出来事を集中的に描いているが、そのことで、かえってカポーティは何が言いたいのか分からなくなってしまったのではないか。

 コリンが同居するミス・ドリーは広く知られているように、カポーティ自身が少年時代、両親から離れて、大家族の親戚の家に預けられていたときの年の離れた従姉であるミス・スックがモデルであるとされている*[12]。ミス・スックの登場する幾つかの名作とも言うべき短篇があるが*[13]、恐らく本作も、それぞれの出来事に分解、分散して、短篇連作のような形であればよかったのかも知れない。言ってみれば、語り手であるコリンの視線で捉えられた、アメリカ南部の田舎町の奇妙な人々の話ということで愉しめたのかも知れない。

 しかし、それでは、カポーティが本当に言いたかったこと、書きたかったことにはならないのであろう。

 

4 約束の地は何処に?

恐らくは、カポーティは樹の上の家(? 家なのか?)に或る種の理想郷、安息の地、約束の地を見出そうとしたのであろう。そこでは、きっと、自分が自分であるということに何の屈託も持たず、そこに暮らす者たちは、互いに干渉せず、しかしながら支え合っていく、そういう在り方をも希求したのであろう。

 しかし、カポーティ自身が、そのような場所から去らねばならなかったように、ずっと、樹の上に暮らしていくことなどはできないのだ。

 約束の地を目指して乗り込んだ、彼らの方舟はいとも容易く樹の上で座礁せざるを得なかった。あたかも、この『草の竪琴』という美しい物語がそうであったように。

 

5 覚書

 以下、気になった点をメモとして残しておく。

  • 少年たちが棲みつく「むくろじの木」*[14]は原著では“the China tree”*[15]となっている。この訳はあっているのか? 
  • 小林訳の「わたし」は無論、原著では“I”だが語り手が16歳当時を振り返って書いている、ということだろうが、ここは、やはり「僕」ないし「ぼく」ではないか? そうすると村上春樹的になってしまうか? それにしても、この書き出しの何と素敵なことか? つまりは、書き出しに見合うだけの結末が付けられないのだろうな。
  • 木の家に登ったドリーたちは何故保安官たちから何度も追及されねばならなかったのか?
  • ライリーが撃たれたにも関わらず、扱いが小さいのはどういうことか?
  • 村上春樹がそのデビュー作『風の歌を聴け』とのタイトルをカポーティの「最後のドアを閉めろ」/“Shut a final door”の末尾「もうなにひとつなにも考えるまい。風を思え。」/“Think of nothing things, think of wind.”に拠っているというのは周知のことである*[16]。わたしの記憶が正しければ、元は、新潮社が発刊した『書下ろし・大コラム』(1984年summer)という短期的(?)な雑誌に、やはりカポーティの「無頭の鷹」の村上訳と同時に、今は亡き、曰くつきの編集者・安原顯による「村上春樹ロングインタビュー」が掲載されており、その中で言及されていたと思う。そこでは「もう何も思うまい。ただ風にだけ心を向けよう。」と訳されていたと記憶している。違うかも知れない。その雑誌は今は手元にない( ノД`)…。それはともかく、何故「風を思う」のだろうか? 短篇「最後のドアを閉めろ」は、いわゆる、展開上、意図的な「切断」で終わっていて*[17]、特に、末尾の表現について、何か前振りのような説明があった訳ではないし、それはそれでいい、短篇だから。ただ、今回「草の竪琴」を読み、次のような表現に当たった。「そう、でもね、風はわたしたちなの。風はわたしたちみんなの声を集めて憶えるのよ。そして木の葉を震わせ、野原を渡ってお話しを聞かせるの。」*[18] /“But the wind is us―it gathers and remembers all our voices, then sends them talking and telling through the leaves and the fields(……). ”*[19] だからこそ、「風の歌を聴け」ということになるのではないか。因みに、カポーティは当初、本作をMusic of the Sawgrassにしようとしていたらしい[20]。”sawgrass”は「芒(すすき)」のことだから、『すすきの音楽』、あるいは『すすきの歌』というようなことになるが、日本語の語感としては、あるいは商品として流通させようとするものとしては、なんだかしょぼい、というか貧乏くさい感じがするが、本来の主題としてはこちらの方が近いように思う。
  • 「大空を翔る鳥の翼に冷たい影を投げかけられたかのように、判事は身震いをして言った。」*[21]/“he said, shivering as though in the sky spreading wings had cast a cold shade.”*[22] 村上春樹的比喩、と言いたいところだが、逆で、村上がいかにカポーティを咀嚼しているかが分かる、というべきであろう。
  • コリンはライリーへの同性愛的な愛情を感じていたのだろうか?(83)
  • 本作に登場する「シスター・アイダ」/“Sister Ida”と、『遠い声、遠い部屋』の「アイダベル」/“Idabel”とは、主題的に、何らかの相関関係があるのだろうか?
  • シスター・アイダの娘の一人の(秘密の)名前が「テクサコ・ギャソリン」*[23]というのは面白い。

 

参照文献

CapoteTruman. (1951/1993). The Grass Harp and A Tree of Night and Other Stories. Random House/Vintage International.

The Grass harp. (2023年March月26日). 参照先: Wikipedia, the free encyclopedia: https://en.wikipedia.org/wiki/The_Grass_Harp#cite_note-Rudisill,_Marie_2000_page_86-6

カポーティトルーマン . (1951年/1971年). 『草の竪琴』. (小林薫, 訳) ランダムハウス/新潮社.

カポーティトルーマン. (1945年/1994年). 『夜の樹』. (川本三郎, 訳) 原著/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1945年~1995年/2002年/2009年). 『誕生日の子どもたち』. (村上春樹, 編, 村上春樹, 訳) 原書/文藝春秋/文春文庫.

カポーティトルーマン. (1948年/1971年). 『遠い声 遠い部屋』. (河野一郎, 訳) ランダム・ハウス社/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1956年/1990年). 『クリスマスの思い出』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

カポーティトルーマン. (1958年/2008年). 『ティファニーで朝食を』. (村上春樹, 訳) ランダム・ハウス社/新潮社.

カポーティトルーマン. (1982年/1989年). 『あるクリスマス』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

カポーティトルーマン. (1985年/1988年). 『おじいさんの思い出』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

カポーティトルーマン. (2023年SUMMER/FALL). 「最後のドアを閉めろ」. 著: 『MONKEY』vol.30 (村上春樹, 訳). Switch Publishing.

村上春樹. (2023年summer/hall). 「カポーティ・ショック」. 著: 『MONKEY』vol.30. Switch Publishing.

村上春樹, 柴田元幸. (2023年summer/fall). 「村上春樹インタビュー――カポーティは僕にとってとても大事な作家――『遠い声、遠い部屋』と「最後のドアを閉めろ」」. 著: 『MONKEY』vol.30. Switch Publishing.

 

 

6,359字(16枚)

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20230709 2235

 

*[1] [カポーティ ト. , 『遠い声 遠い部屋』, 1948年/1971年]

*[2] 短篇ではない、というぐらいの意味。

*[3] 必ずしも、構造的な結構を持つ小説がそのまま優れている訳ではない。

*[4] 「コントロールが効いている」というのは、村上春樹との対談での、翻訳家の柴田元幸の発言(「あれは(デビュー作「ミリアム」のこと)作品としてコントロールが完璧に効いている感じがする。」 [村上 柴田, 「村上春樹インタビュー――カポーティは僕にとってとても大事な作家――『遠い声、遠い部屋』と「最後のドアを閉めろ」」, 2023年summer/fall]p.156)。これを受けて、村上が『遠い声、遠い部屋』の後半では「コントロールが効かなくなってくる」( [村上 柴田, 「村上春樹インタビュー――カポーティは僕にとってとても大事な作家――『遠い声、遠い部屋』と「最後のドアを閉めろ」」, 2023年summer/fall]p.160)と述べている。無論、それが即時的に駄目ということではない。

*[5] その意味では、デビュー作『遠い声、遠い部屋』にしても、出世作ティファニーで朝食を』にしても後半、結末が弱い、というのは同様である。

*[6] 【原註】Clarke, Gerald. Capote: A Biography (New York: Simon & Schuster, 1988), pages 220-224.

*[7] 【原註】Rudisill, Marie & Simmons, James C. The Southern Haunting of Truman Capote (Nashville, Tennessee: Cumberland House, 2000), page 86.

*[8] [The Grass harp, 2023]。

*[9] 【原註】Clarke, Gerald. Capote: A Biography (New York: Simon & Schuster, 1988), pages 220-224.

*[10] 【原註】Rudisill, Marie & Simmons, James C. The Southern Haunting of Truman Capote (Nashville, Tennessee: Cumberland House, 2000), page 86.

*[11] [The Grass harp, 2023]。

*[12] [カポーティ ト. , 1951年/1971年]p.192。

*[13] 「感謝祭の客」(1967年)、「クリスマスの思い出」(1956年)、いずれも村上春樹訳 [カポーティ ト. , 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]に収録。

*[14] [カポーティ ト. , 1951年/1971年]p.3。

*[15] [Capote, 1951/1993]p.9.

*[16] [村上, 「カポーティ・ショック」, 2023年summer/hall]p.153。

[17] このような終わり方を、わたしは、かのルイ・アルチュセールの顰に倣って「小説的切断」と呼ぼう。

*[18] [カポーティ ト. , 1951年/1971年]P.33。

*[19] [Capote, 1951/1993]p.23.

*[20] “Truman Capote initially wanted to title the novel Music of the Sawgrass. It was Bob Linscott who gave it the title The Grass Harp.”( [The Grass harp, 2023])。

*[21] [カポーティ ト. , 1951年/1971年]p.62。

*[22] [Capote, 1951/1993]p.p.37-38.

*[23] [カポーティ ト. , 1951年/1971年]p.132。