鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

何もかもが美しくて、 たとえば誕生日の子どもたちのようなところ*[1] トルーマン・カポーティ、村上春樹訳『誕生日の子どもたち

🐏Keep Calm and Read Murakami~村上春樹を読む🐏 

  

何もかもが美しくて、

たとえば誕生日の子どもたちのようなところ*[1]

 

トルーマン・カポーティ村上春樹訳『誕生日の子どもたち』 

  

  

■Truman Capote, Children on Their Birthdays,1945-1995/トルーマン・カポーティ『誕生日の子どもたち』村上春樹訳・2002年5月・文藝春秋/2009年6月10日・文春文庫。

■翻訳・短篇小説集。

■目次 

  • 「誕生日の子どもたち」
  • 「感謝祭の客」
  • 「クリスマスの思い出」
  • 「あるクリスマス」
  • 「無頭の鷹」
  • 「おじいさんの思い出」
  • 「訳者あとがき」

■文庫257ページ。

■文庫600円(税別)。

■2023年6月7日読了。 

■採点 ★★★☆☆。

 

 

*本文の引用文における下線は全て引用者による。

 

🖊ここがPOINTS!

① トルーマン・カポーティの「誕生日の子どもたち」は、作者自身のこころの理想郷のようなものを示していて、大変素晴らしい作品だ。

② 中心人物ミス・ボビットの奇矯な振る舞いと独特な人生観もさることながら、カポーティの視点が一歩引いて、冷静に叙述する文体が際立っている。

③ しかしながら、本来あるべき「こころの理想郷」のようなものが、実はもう存在しないというところに、カポーティの文学の根幹があると言える。

 

~目次~

ここがPOINTS!. 2

はじめに... 3

1 「誕生日の子どもたち」の素晴らしさ... 6

2 ミス・ボビットの特異性... 7

3 ミス・ボビットの巻き起こす大波乱... 9

4 作者の視点... 12

5 「誕生日の子どもたち」、あるいは悪魔を愛すること... 12

6 ティファニー、あるいは「自分といろんなものごとがひとつになれる場所」... 18

10 本来あるべきものが存在しない世界... 21

【主要参考文献】... 25

【Summary】... 26

 

 

はじめに

 「誕生日」という言葉で、人は一体何を思い起こすのだろうか? 恐らく実際に経験があるか、ないかはともかくとして、誕生日、と言えば誕生日パーティーであり、その主賓が鎮座するお誕生日席であり、また、「誕プレ」という最近の言葉があるように、誕生日プレゼントということになる。いずれにしてもそれは正月やクリスマスと並んで、少なくとも当事者にとっては、普段は蔭に隠れている人も主役になれる、年に一度の祝祭の時間と空間ということになる。無論それは、或る一定の収入のある家庭に限られるのだが。

 あなたの家では誕生日パーティーをしていましたか? 友達の誕生会に招待されたことがありますか? わたしにはそういう経験は残念ながらない。漫画やテレ-ヴィジョン・ドラマの中にだけで垣間見える、或る種の理想空間、理想郷とでも言うべきものだった。

 トルーマン・カポーティの、恐らく出色の短篇小説だと思われる、この作品「誕生日の子どもたち」は、題名からすると、いかにも楽しそうにプレゼントやパーティーの算段に熱中する子どもたちの様子が目に浮かぶが、とりあえずは、直截的な誕生日とは全く関係ない。カポーティの心の中での理想郷、それこそが「誕生日の子どもたち」ということになるようだ。

カポーティの作品は、本書にも納められている、村上春樹訳による『クリスマスの思い出』*[2]、『あるクリスマス』*[3]、『おじいさんの思い出』*[4]は相当以前に読んだことがあったが、その時は特にどうということも思わなかった。その後、村上が『ティファニーで朝食を』*[5]を訳した折も、そんな訳で、何となくスルーしていた。

 概して、村上がその翻訳を通じて推している作家は、わたし的には当たり外れが多くて、むろん、これは個人的な相性の問題ではあるが、如何にも不思議なことである。例えば、わたしとしてはレイモンド・カーヴァーやマイケル・ギルモア(『心臓を貫かれて』*[6])は超当たりだったが、村上がせっせと訳しているサリンジャーフィッツジェラルドは、いささかならず、その面白さを理解しかねるところなのだ。これは本当に困ったことだ。その意味では、村上にとって、これらのサリンジャーフィッツジェラルド、そして、このカポーティは無敵の三羽烏なのではないかと思うが、わたしが、村上の核心的な部分を共有出来ていないと思うと、いささか悲しい思いではあった。

 ところが、最近、偶々村上が編訳した、誕生日に纏わる英米(イギリス・アメリカ)愛(・アイルランド)の短篇小説を集めた『バースデイ・ストーリーズ』*[7]を読んで、大変興味深かったので、何となく題名が似ている、本書『誕生日の子どもたち』を手に取った訳だ。

 しかしながら、残念というか、何というか、内容そのものは「誕生日」とは全く関係がなかったのだが。

 それはともかく、少なくとも、表題作「誕生日の子どもたち」、及び「感謝祭の客」にはいささかならず驚倒した。素晴らしいの一言に尽きる。これらの作品から振り返ってみると、他の、先に挙げた三作品の良さも理解できよう。

 村上が高校生時代から愛読した*[8]という「無頭の鷹」は、わたし個人の考えでは、いささか才に走り過ぎというのか、どうも面白さ、というのか、良さが理解できなかったが。

 

1 「誕生日の子どもたち」の素晴らしさ

 それはともかく、「誕生日の子どもたち」の素晴らしさを一体どう語ったらいいのだろうか?

 本作品集は、カポーティ自身の少年時代を色濃く残す自伝的な作品が中心となって収められている。したがって、少年としての語り手の主観によって物語が展開していくのだが、その中でも異色な作品が「誕生日の子どもたち」ということになる。語り手は少年や少女たちの言動を一歩引いた形*[9]で、心持ち首を傾げながら、叙述を進めていく。

 

2 ミス・ボビットの特異性

 この話の中心人物は、年齢不相応な異能(?)を持つ、たかだか10歳の少女「ミス・ボビット」である。そもそも、この「ミス・ボビット」という呼称が、開巻冒頭、読者をして、白けさせるが、その後を読み進むと、まさに、これは「ミス・ボビット」でなければならぬと首肯できるのだ。彼女は、語り手の住む町の突如現れる。彼女はどうもハリウッド・デビューを目指しているためなのか、その言動がとても10歳とは思えないのだ。例えば、彼女はこのような異装で登場する。

 

糊のきいたレモン・カラーのパーティー・ドレスに身を包んだ、やせっぽちの小さな女の子だ。彼女はいかにも大人ぶったかっこうでつんと澄まして歩いてきた。片方の手を腰にあて、もう一方の手でオールドミス風の傘を持っていた。

( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.10)

 

そして、話し方はこうだ。

 

「わたくしはミス・リリー・ジェーン・ボビットと申します。テネシー州メンフィスから参りました。ミス・ボビットです」と彼女は重々しい声で言った。

( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.12)

 

という訳で、彼女のことを、語り手も含めて、周りの子どもも大人も、ファースト・ネイムの「リリー」とは呼ばず「ミス・ボビット」と大人扱いで呼んでいたのだ。

 

3 ミス・ボビットの巻き起こす大波乱

 では、彼女は、自身の異能、というよりも、そのような、一個の大人として生活、あるいは行動出来得る訓練なり、しつけなりをどこでどうやって受けていたのか、ということになるが、それについて結局真相は明かされないままだが、その能力を駆使して、一波乱も二波乱も三波乱も起こしていく。

 一つは小学校の授業を無駄だとして、ボイコットし、説得に訪れた校長を言い負かしてしまう*[10]

 二つには、これがにわかには信じられないが、彼女はその「地方における唯一の雑誌購読取扱業者」*[11]、つまりは、『リーダーズ・ダイジェスト』などの雑誌の代理店ということらしいが、二人の少年を手懐けて、こき使って商売に励むのだ。ミス・ボビットの親友であるシスター・ロザルバという、ミス・ボビットよりかは幾分年嵩ではあろうが、やはり少女が化粧品の販売をしている*[12]ところからすると、その当時のアメリカでは、あるいは普通だったかもしれない。

 三つには芸能界デビューを掛けて、地方巡業の素人演芸大会で、エロティックな歌*[13]と踊り*[14]を披露したものの、それが詐欺だと分かると、徹底的に犯人を追及する*[15]。呆れるばかりの、恐るべき組織力である。

 そして、最後には周りの友人たち(もちろん、子どもだ)から実(まこと)しやかな話をして金を搔き集め、スターになるためにハリウッドに旅立つのである。

 ミス・ボビットは、確かに礼儀正しくはあったけれども、多分にエキセントリックというか、エゴイズムを絵に描いたようなところがあり、それは、あるいは「無頭の鷹」*[16]の「DJ」とか、「ティファニーで朝食を」*[17]の「ホリー・ゴライトリー」と重なる部分があるような気がする。

 

4 作者の視点

 しかしながら、周囲を困惑させつつも、不可解な「奇矯なるもの」*[18]によって、周囲の人々を巻き込んでいく、その様を作者は愛情というのか、愛惜の気持ちを以て一歩引いた形で叙述していくのだ。物語の中心は確かに、この人騒がせなミス・ボビットたちではあるのだが、この一歩引く、すなわち距離をとる、これは関係的な意味での距離をとる、ということなのだが、それは必然的に空間的な距離の発生を意味し、更にまた、時間的な距離をも意味することになる。恐らく、そこにこそ、批評的な視点が生まれ、冷静、沈着に或る熱狂を描写する文体が成立したのであろう。

 

5 「誕生日の子どもたち」、あるいは悪魔を愛すること

 それにしても、話が前後するが、たかだか10歳の少女に礼儀作法や言葉遣いも含めて、先程述べた、エロティックな歌や踊りやらを、更には独特の人生訓を教えた、あるいは教えさせたのは一体誰だったのだろうか。普通に考えれば、ここでは何故か不在の父親に他ならない。彼は、恐らく、自分の娘に「悪魔を愛すること」*[19]をも教えたようだ。

この町に来て、しばらくしてから、語り手(「ミスタ・C」と呼ばれる)を、どういう訳*[20]か訪問したミス・ボビットは、その独特、というか、相当オリジナル溢れる人生観を展開する。たったの10歳の少女が人生観を!

 

「わたくしのことを不信心者だと思ったりしないでくださいね、 ミスタ・C。この世界には神様がいらっしゃって、悪魔がいるということをわたくしはさんざん目にして参りました。( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.28)

 

ミス・ボビットは相当苦労を重ねてきたようだ。当然、ここで言われる「悪魔」とは「渡る世間は鬼ばかり」というような比喩のことだと誰しも思うだろう。しかし、どうも違うのだ。

 

しかしわざわざ教会まで出向いていって、悪魔がどんなに罪深い阿呆であるかという話を聴かされたところで、それで悪魔をどうこうできるというものではありません。そうです、大事なのは、悪魔を愛することなのです。ちょうどあなたがイエス様を愛するようにです。なぜなら悪魔というものは強いカを持ったものであり、もしあなたが彼のことを信頼しているとわかれば、あなたに対して報いてくれるからです。

( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.28)

 

歴史的・社会的背景が分からないが、どうも真面目に悪魔の存在を信じているような口振りである。当時、アメリカでは、その種の新宗教運動でもあったのか、あるいは単に父親の受け売りなのか、どうなのだろうか? しかしながら、彼女の言い分を素直に聞けば、悪魔も神(イエスが神だとして)も何も変わらない、ことになってしまう。いや、むしろ、悪魔の方が現実的な力は強いのかも知れない。

 

彼*[21]はわたくしに対して数々の良きことをなしてくれました。たとえばメンフィスのダンス教室でのことがあります。わたくしはそこの年次発表会でいちばん良い役をとるためにいつも彼に助けを求めました。ふつうに考えればわかることですが、ほら、イエス様はダンスのことになんて、かまわれるはずはありません。実を申しますと、つい最近も悪魔の助けを求めました。この町を脱け出すには、彼の力を借りるしかありませんもの。

( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.29)

 

ますます、神と悪魔の違いが分からなくなってくる。いや、こういうことか。神は、ただ存在するだけで、われわれ現世の人々のことには関わらず、じっと見ているだけだが、悪魔は、積極的に人間と絡み合い、強く祈れば(いや、何かの見返りが必要なのではないか。そうでなければ、悪魔とは呼ばれまい。一体、彼女は悪魔とどんな取引をしたのであろうか?)、その願いを叶えてくれるのではないか。それにしても、彼女が「つい最近」「求め」た「悪魔の助け」とは一体何を指すのであろうか。

 

わたくしは正確に申し上げますと、ここに住んでいるというわけではありません。わたくしの頭にはいつもどこか別の場所があります。そこではすべてのものがダンスをしております。たとえば人々が通りでダンスをしていて、 何もかもが美しくて、たとえば誕生日の子どもたちのようなところです。( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.29)

 

というような訳で、これが題名の由来になるのだが、或る種の夢の世界、理想郷とでも言うべきなのか、冒頭で示したような祝祭空間こそが彼女の本来いるべき場所、ということになる。

 

わたくしの大事なパパは、わたくしは空に住んでいるんだと申しておりました。しかしもしパパがもっと空に住んでおりましたら、望んだとおりのお金持ちになることもできたでしよう。パパの問題は、悪魔を愛さなかったというところにあります。彼は悪魔に自分を愛させました。しかしわたくしはその点につきましては抜かりありません。次善の策こそがきわめてしばしば最良の策であるということを、わたくしは承知しております。 (以下略)」

( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.29)

 

よく分からないが、彼女の「パパ」は悪魔の愛だけを望んで、悪魔への愛、つまりは具体的な貢物のようなものを出さなかった、そのために「空に住」むことが叶わず、今は地上のどこか、監獄であろうか? いずれかの地に留め置かれることになったのであろうか。しかし、「その点につきましては抜かりありません」と述べるミス・ボビットは悪魔と相互の愛の関係にあるということなのだろう。

 実際に悪魔と取引きしたかどうか、それがどのようにして可能だったのかは、一旦措くとしても、ミス・ボビットの「奇矯」とも言える、情熱的な言動のエネルギーは、彼女が住むという、実際には彼女の心の中にある「人々が通りでダンスをしていて、 何もかもが美しくて、たとえば誕生日の子どもたちのようなところ」なのである。

 あるいは、それは「ティファニーで朝食を」のホリーが言うところの「ティファニー」がそれに相当するだろう。

 

6 ティファニー、あるいは「自分といろんなものごとがひとつになれる場所」

 ホリー・ゴライトリーは不安感に襲われたとき、どうするか、という話で、「酒を飲むのもいい」と言われて、次のように述べる。

 

「それはやってみたよ。アスピリンも試してみた。ラスティー*[22]マリファナが効くって言うの。それでちょっと吸ってみたんだけど、ただ意味もなくくすくす笑っちゃうだけ。これまで試した中でいちばん効果があったのは、タクシーをつかまえてティファニーに行くことだったな。そうするととたんに気分かすっとしちゃうんだ。その店内の静けさと、つんとすましたところがいいのよ。そこではそんなにひどいことは起こるまいってわかるの。隙のないスーツを着た親切な男の人たちや、美しい銀製品やら、アリゲーターの財布の匂いの中にいればね。ティファニーの店内にいるみたいな気持ちにさせてくれる場所が、この現実の世界のどこかに見つかれば、家具も揃え、猫に名前をつけてやることだってできるのにな。(以下略)」

( [カポーティ, 『ティファニーで朝食を』, 1958年/2008年]p.52)

 

ホリーは一匹の猫を飼っている、というよりも偶々同居している、というところだろうか。「猫に名前をつけてやることだってできる」とはどういうことか。先程の引用の少し前でホリーは「語り手」にこう述べる。

 

彼女はまだ猫を抱きかかえていた。「かわいそうな猫ちゃん」と彼女は猫の頭を掻きながら言った。「かわいそうに名前だってないんだから。名前がないのってけっこう不便なのよね。でも私にはこの子に名前をつける権利はない。ほんとに誰かにちゃんと飼われるまで、名前をもらうのは待ってもらうことになる。この子とはある日、川べりで巡り会ったの。私たちはお互い誰のものでもない、独立した人格なわけ。私もこの子も。自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかっている」、彼女は微笑んで、猫を床に下ろした。「それはティファニーみたいなところなの」と彼女は言った。

( [カポーティ, 『ティファニーで朝食を』, 1958年/2008年]p.51)

 

「自分といろんなものごとがひとつになれる場所」、ホリーにとっては「ティファニーみたいな場所」だったのだろうが、それがミス・ボビットにとっては「誕生日の子どもたち」だったのであろう。そこでは、「自分といろんなものごとがひとつになれる」という全能感のようなものが与えられるのだろう。そして、猫にもきちんとした名前、固有名が与えられるのだ*[23]

恐らく、カポーティにとってのそれは、彼の子供時代のいわゆる「無垢(イノセ)なる(ント)」思い出にあったのであろう。彼はそれを「クリスマスの思い出」や「おじいさんの思い出」、あるいは「あるクリスマス」、「感謝祭の客」という小品に封じ込めたのだ。

 

10 本来あるべきものが存在しない世界

そのような理想郷は人をして、ミス・ボビットがそうであったように、何か誇大妄想とも思えるような理想へと赴かせるだろう。あるいは、場合によっては、それとは余りにも違う現実に躓かせるだろう。「無頭の鷹」の主人公・ヴィンセントはそんな自分に苦しむ。何かに憑りつかれたような女性・「DJ」(彼女は自分から名前を明かさない。あるいは作者から名前、固有名を与えられない)を愛そうにも愛せず、結局のところ、捨て去ることになる。

ヴィンセントは身元不明*[24]の女性「DJ」から買い取った、頭部を欠く鷹の絵、つまり「無頭の鷹」を自分の部屋に飾る。

 

絵は彼の部屋の暖炉の上に掛けられた。眠れぬ夜には彼はグラスにウィスキーを注ぎ、無頭の鷹を相手に話をした。自分の人生のあれこれについて語った。俺は詩を書いたことのない詩人だ、と彼は言った。絵を描いたことのない画家であり、ただの一度も(嘘偽りなく)恋に身を委ねたことのない恋人だ。要するに方向というものを持たないまったくの首なし人間なのさ。いや、もちろんそりゃ試してみたことはあるよ――始まりはいつも上々にして、結末はいつもお粗末。きまってそうなんだ。ヴィンセント、白人、男性、 三十六歳、大学卒。岸から五十マイル沖合の海にいる男殺されるために生まれてきた犠牲者――自分に殺されるか、あるいは誰かに殺されるか。そして役のつかない俳優。絵の中にはそんな特質のすべてが脈絡なく切り離され、ゆがめられたかたちで含まれていた。

カポーティ「無頭の鷹」/ [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.p.176-177。)

 

 ここに描かれているものは一体何であろうか? 頭のない鷹、「詩を書いたことのない詩人」、「絵を描いたことのない画家」、「恋に身を委ねたことのない恋人」、「まったくの首なし人間」、「役のつかない俳優」、矛盾というべきなのか、単なる言葉遊びのようにも思えるが、要は、本来あるべきものがない人、あるいはそのような世界に生きる人、ということではないだろうか。例えば、それは蔵書を一切持たない図書館のようなものだ*[25]。それを図書館と呼べるであろうか。そこは、かつて図書館だったかもしれない。しかし、それを語の真の意味で図書館と呼ぶことはできまい。

 これが人間であれば、生きながら死んだ状態にあることになる。「岸から五十マイル沖合の海にいる男」とは、普通に考えれば、すぐさま死が訪れるだろう。つまりは「殺されるために生まれてきた犠牲者」ということになる。それが「自分に殺される」にせよ、「誰かに殺される」にせよ、生まれながらにして、死が訪れることを常に怯えながら生きることに他ならない。問題は、その生に、本来あるべき、生き生きとした生が存在しないということなのだ。生きながら、死がじゅくじゅくと内部の傷口から湧いて出てくるのだ。

この「無頭の鷹」は1946年の作品であるが、カポーティ弱冠21歳のことである。出世作とも言うべき、第一長篇小説『遠い声 遠い部屋』*[26]が、その2年後の1948年の出版なので、既にして、彼はこころの故郷のような場所を喪っていたことが分かる。

 カポーティが、心の中に「誕生日の子どもたち」のような場所を深いところで、固く守り続ければ、続けるほど、彼の心は現実の中で、その不在によって、深く苛まれ続けたのに違いない。

 恐らく、カポーティ、その人は悪魔との取引きを望みながらも、悪魔から愛されることを望みながらも、結局のところ、悪魔を愛することができなかったのではなかろうか。

 

 

【主要参考文献】

カポーティトルーマン. (1945年/1994年). 『夜の樹』. (川本三郎, 訳) 原著/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1945年~1995年/2002年/2009年). 『誕生日の子どもたち』. (村上春樹, 編, 村上春樹, 訳) 原書/文藝春秋/文春文庫.

カポーティトルーマン. (1948年/1971年). 『遠い声 遠い部屋』. (河野一郎, 訳) ランダム・ハウス社/新潮文庫.

カポーティトルーマン. (1956年/1990年). 『クリスマスの思い出』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

カポーティトルーマン. (1958年/2008年). 『ティファニーで朝食を』. (村上春樹, 訳) ランダム・ハウス社/新潮社.

カポーティトルーマン. (1982年/1989年). 『あるクリスマス』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

カポーティトルーマン. (1985年/1988年). 『おじいさんの思い出』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

ギルモアマイケル. (1994年/1996年). 『心臓を貫かれて』. (村上春樹, 訳) 原著/文藝春秋.

つげ義春. (1967年/1995年). 「紅い花」. 著: 『ガロ』1967年10月号/『紅い花』. 青林堂小学館文庫.

つげ義春. (1968年/1995年). 「もっきり屋の少女」. 著: 『ガロ』1968年8月号/『紅い花』. 青林堂小学館文庫.

梶井基次郎. (1925年/1967年). 「檸檬」. 著: 『青空』1925年1月/『檸檬』. 青空社/新潮文庫.

村上春樹. (2002年). 『バースデイ・ストーリーズ』. (村上春樹, 編, 村上春樹, 訳) 中央公論新社.

村上春樹. (2013年). 『恋しくて――Ten Selected Love Stoies』. (村上春樹, 編, 村上春樹, 訳) 中央公論新社.

 

 

【Summary】

🐏Keep Calm and Read Murakami – Reading Haruki Murakami 🐏

 

Everything is pretty, like children on their birthday

 

Truman Capote, Children on Their Birthdays, translated by Haruki Murakami

 

 

Truman Capote, Children on Their Birthdays,1945-1995 / Truman Capote, Children on Their Birthdays, translated by Haruki Murakami, May 2002, Bungeishunju / June 10, 2009, Bunshunbunko.

■Translation and collection of short stories.

■Table of Contents 

 " Children on Their Birthday "

 "The Thanksgiving Visitor"

 "A Christmas Memory”

 “One Christmas”

 "The Headless Hawk"

 "I remember Grandpa"

 "Translator's Afterword"

■Bunko 257 pages.

■Bunko 600 yen (tax not included).

■Read on June 7, 2023.

■Score: ★★★☆☆.

🖊Here are the POINTS!

(1) Truman Capote's "Children on Their Birthday" is a wonderful work, showing the author's own mental utopia.(2) The queer behavior of the central character, Miss Bobbit, and her peculiar outlook on life, as well as Capote's point of view, which takes a step back and calmly narrates the story, stand out in the style of the novel.

(3)The fundamental of Capote's literature, however, lies in the fact that the "mental utopia" that should have existed in the first place does not exist anymore.

 

Table of Contents

Introduction  3

1 The Splendor of "The Birthday Children"  6

2 The Peculiarity of Miss Bobbitt  7

3 Miss Bobbitt's Rampage  8

4 The Author's Point of View  11

5 The Birthday Children, or, Loving the Devil  12

6 Tiffany, or "A Place Where You and Many Things Can Become One"  17

10 A world where what is supposed to be doesn't exist  21

[Key References]  24

 

🐦

第3稿 13,825(35枚) 20230613 1150

第2稿 11,473字(29枚) 20230612 1908

第1稿 9,311字(24枚) 20230611 2201

 

*[1] [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.29。

*[2] [カポーティ, 『クリスマスの思い出』, 1956年/1990年]。

*[3] [カポーティ, 『あるクリスマス』, 1982年/1989年]。

*[4] [カポーティ, 『おじいさんの思い出』, 1985年/1988年]。

*[5] [カポーティ, 『ティファニーで朝食を』, 1958年/2008年]。

*[6] [ギルモア, 1994年/1996年]。

*[7] [村上, 『バースデイ・ストーリーズ』, 2002年]。

*[8] [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.248。

*[9] 全くの余談ではあるが、この辺りの距離感の取り方は、日本の漫画家・つげ義春の幾つかの作品に似ている。例えば「紅い花」( [つげ, 「紅い花」, 1967年/1995年])、「もっきり屋の少女」( [つげ, 「もっきり屋の少女」, 1968年/1995年])だ。まあ、似ている感じがするだけなんだろうが。そんなことを言えば、「ティファニーで朝食を」は「語り手」の語り口やホリーの感性が、何となく、梶井基次郎の作品、取り分け、例の「檸檬」( [梶井, 1925年/1967年])に似ている気がする。まあ、ただそれだけなのだが。

*[10] [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.36。

*[11] [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.30。

*[12] [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.30。

*[13] “…if you don’t like my peaches, stay away from my can”/「……私のピーチが気に入らないのなら、私の缶から離れていてね。」( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.43)。村上によると「ピーチ」は「乳房」、「缶」は「性器」だという( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.43・訳注)。川本訳では「お尻」となっている( [カポーティ, 『夜の樹』, 1945年/1994年]p.185)。

*[14] “she gasped again when Miss Bobbit, with a bump, up-ended her skirt to display blue-lace underwear”/村上訳「エル叔母さんがもう一度息を呑んだのは、ミス・ボビットがどんと腰を突き出して、スカートをまくりあげ、ブルーのレースがついた下着を丸見えにしたときだった。」( [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.43)。川本訳「ミス・ボビットはさらにぱっとスカートの裾をめくって青いレースの下着を見せた。」( [カポーティ, 『夜の樹』, 1945年/1994年]p.185)。全てを比べた訳ではないが、意外なことに小説家である村上の方が原文に忠実に、評論家の川本の方は比較的自由に、省略や入れ替えなどをして訳しているのだ。ここで問題になるのが、原文の“with a bump”をどう取るかだが、原文のヴァージョンの違いなのかも知れないが、川本は、それを、スカートをめくる様子と取り、「ぱっと」と訳している。しかしながら“with a bump”は普通に取れば「どしんと」というような意味合いだろう(「ドシンと; いきなり, 突然. 」(『新英和中辞典(web版)』(研究社)))。わたしには、この当時のダンスの様式が分からないが、あるいは村上訳のように「どんと腰を突き出」す、つまりは尻を突き出すという意味だと解釈できるし、そういうのが普通だったのかも知れぬが、“with a bump”で「どんと腰を突き出」すと訳すのはいささか無理があるのではないか。ここは単純に、「どんと脚を踏み鳴らして、スカートをめくりあげた」とするのが妥当ではないか。と思っていたが、『新英和中辞典(web版)』(研究社)によれば、「《米・カナダ》〈ダンサーなどが〉(挑発的に)腰を突き出す./bump and grind 〈ダンサーなどが〉(挑発的に)腰を突き出したり回したりする.」とあるので、ここは村上訳に軍配が上がることになる。やれやれ。いずれにしても、普段、上品なミス・ボビットが、何者かに憑りつかれたかのように、このような下品な(? 失礼、下品ではないのかも知れないが)歌と踊りをしたということに意味がある訳だ。「何者か」とは誰であろうか。父親なのか、それとも、ミス・ボビットが以前述べていたような「悪魔」なのか。ミス・ボビットの「悪魔」については、本文で後述する。

*[15] [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.p.38-46。

*[16] [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]収録。

*[17] [カポーティ, 『ティファニーで朝食を』, 1958年/2008年]。

*[18] 原文では“the queer things”となっている。川本三郎訳では「奇妙なもの」( [カポーティ, 『夜の樹』, 1945年/1994年]p.189)になっている。

*[19] [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.28。

*[20] 理由は後程触れられるが、二人の少年を「アシスタント」として使いたいということだった [カポーティ, 『誕生日の子どもたち』, 1945年~1995年/2002年/2009年]p.30。

*[21] 【引用者註】悪魔のこと。

*[22] 【引用者註】ホリーの男友達。

*[23] 固有名が与えられない問題については以前、別稿(「吾輩は犬ではない。名前はまだない。「誰でもない」からだ。――柳瀬尚紀ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』を読む」/『鳥――批評と創造の試み』第14号・2022年9月11日・鳥の事務所/https://torinojimusho.blogspot.com/2022/09/blog-post_12.html)で述べたことがある。

*[24] そう言えば、ホリー・ゴライトリーも住所は「旅行中(トラヴェリング)」、つまりは定住していない、住所不定ということになる( [カポーティ, 『ティファニーで朝食を』, 1958年/2008年]p.16)。

*[25] 蔵書を持たない図書館の意味については、以前、別稿(「あるべきものがない場所――村上春樹『ふしぎな図書館』・『図書館奇譚』」/webサイト『鳥――批評と創造の試み』2022年12月11日更新/https://torinojimusho.blogspot.com/2022/12/blog-post_11.html )で触れたことがある。また、同様に、蔵書を持たない図書館は、村上春樹の『街とその不確かな壁』に登場する。

*[26] [カポーティ, 『遠い声 遠い部屋』, 1948年/1971年]。