鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

Unhappy birthday to you! 村上春樹編訳『バースデイ・ストーリーズ』 

🐏Keep Calm and Read Murakami~村上春樹を読む🐏 

  

Unhappy birthday to you!

 

村上春樹編訳『バースデイ・ストーリーズ』 

  

  

村上春樹編訳『バースデイ・ストーリーズ』2002年・12月7日・中央公論新社

■翻訳・短篇小説集。

■目次 

■242ページ。

■1,600円(税別)。

■2023年5月30日読了。 

■採点 ★★★☆☆。

 

  

 村上春樹が誕生日に関わる、アメリカ、イギリス、アイルランドの比較的最近発表された短篇小説を集めて、自ら全編翻訳したもの。最後にボーナスとして、村上自身も書下ろしの短篇を寄稿している。

しかし、それにしても村上春樹も人が悪い、というべきなのか、村上自身も言っているように、そもそも作家というものが素直ではない[1]からなのか。もしも、あなたがこのタイトル『バースデイ・ストーリーズ』というのに魅かれて、本書を手に取ると、大変痛い目に遭う。このタイトルから想像されることは、とてもハッピーで、ハートフルな小説集なのかと思いきや、全くそんなことはなく、陰惨というのか、ダークサイドというのか、人生の暗部を抉りとったかとしか言いようのない話ばかりなのだ。冒頭にポール・サイモンの“Have a Good Time”(楽しくやろう)の歌詞がエピグラムとして掲げられているが、これらの小説を読んでも、とても「楽しく」はならない、普通の人は。

 13回目の誕生日を迎えた少年が高飛び込み台から飛び込むまでを描く「永遠に頭上に」は、面白いかどうかは別として、まだましかもしれない。

誕生日にパートナーに「一夜の愛人」? をプレゼントする「ダイス・ゲーム」、「バースデイ・プレゼント」。不快に思うわたしの間隔が古過ぎるのだろうか。

30年前の不倫の時の二人の秘密を暗示する「ムーア人」。女性はもう老婆に成り果て、相手の男性は中年ではあるが、人生の盛りを喪いかけている。「ムーア人」とはかのウィリアム・シェイクスピアの「オセロ」のことだろうが、つまり、真実はどんでん返しを繰り返す、ということか。

 一人暮らしの老婆の孤独を描く「バースデイ・ケーキ」、「慈悲の天使、怒りの天使」*[2]。3人の老婆と孫息子との謎々の掛け合いで終始する「皮膚のない皇帝」(「裸の王様」のことなのか?)。

 老婆ものが目に付く。「慈悲の天使、怒りの天使」では、鳥が室内に乱入するし、「皮膚のない皇帝」では老婆たちは鳥の比喩で入退場する。奇妙だ。

 交通事故で一人息子を亡くす(ことになる)夫婦を描く「風呂」。これは、後に「ささやだけど、役に立つこと」というロング・ヴァージョンへとリライトされるが、このショート・ヴァージョンのままだと、確かに人生というのはまことに不合理だとしか言いようがない。

 恐らく、ゲイのパトロンを殺して、家と財産を奪い、これから逃亡する男に、小悪人の友人が、男の実家への伝言を頼まれる「ティモシーの誕生日」。その友人は、男の実家に上がり込んで、只飯と只酒にありつき、その家にあった銀器まで掠め取っていく。

 そして極めつけは、誤って友人を射殺してしまう「ダンダン」。もう何が何だか、という感じだが、作者デニス・ジョンソンの視線はどこまでも澄んでいる。

 死にかけている友人を車に載せ病院に運ぼうとしている「ぼく」とダンダン。途中で死んだ友人の遺体を車から放り出す。「こいつが死んでくれてなによりだ」と「ぼく」は嘯く。

この箇所より前に当たるが、殺伐した展開の中で、不意に登場する情景描写。

 

それは乾いた畑を抜ける、まっすぐな道路だった。とにかく見渡す限りまっすぐだ。空には全く空気がなく、大地は紙でできているみたいに見えた。移動しているというよりは、ぼくらはただどんどん小さくなっていきつつあるような気がした。そんな畑についていったい何を語ればいいのか? そこにはブラックバードたちがいて、自分たちの影の上をくるくる飛び回っていた。

[村上, 『バースデイ・ストーリーズ』, 2002年]p.p.35-36。

 

小林秀雄なら旧約聖書の世界とでも言ったであろうか。狂気を通り過ぎた人間の視線の行方がどことなく、かのフィンセント・ファン=ゴッホの世界に重なって見えるのはわたしだけだろうか。

 その意味では、この「ダンダン」という短篇小説が収録されていたJesus’Son そのものを読んでないので何とも言えないが、このタイトルといい、本文中にある「まるで救世主の現れる直前の世界みたいな感じだ。」[3]というのは反語的表現ではあろうが、書き過ぎではないか。不要だと思う。その言葉を書かなくても十分に意は尽きているはずだ。

このように見てくると、「誕生日」についてのストーリーというよりも、人間の持つハッピーではない側面をカタログにして並べた、という印象しか残らない。しかしながら、これは、本来ハッピーであるべき誕生日が、そこにハッピーが存在しない、ということを際立たせるのであろう。

 そもそも、何がハッピーで、何がアンハッピーなのかは、結局のところは主観であり、ものの見方や、スパンの取り方による。同じ事態が全く逆に見えることも、捉えることもできる。良かれと思ってしたことが、思わぬ悪意の攻撃に晒されることもあるし、また、その逆も真である。

 そのことを如実に示しているのが、編訳者・村上自身の手になる「バースデイ・ガール」[4]である。主人公の女性は誕生日に願い事を祈るが、一体それはどんな願いだったのか、そして果たしてそれは叶ったのかどうなのかは、作中明記されない。ただ、読者の手に委ねられたままだ。言うなれば読者をして宙吊りの状況に置く訳だが、これすなわち、短篇小説の本来の機能であるところの、落ちを付けて読者を満足させるということの全く逆なのだ。従って、読者は、当然読後しばらくしても、あれは一体何だったのだろうと漠然とした考えを巡らすことになる。結果論ではあろうが、恐るべくテクニカルな小説だとも言える。

 一般に村上の短篇小説は外れが少ない、と言われる。その中でも作者の自選だと思われるマスター・ピースは、ドイツの画家、カット・メンシックの手により、4冊のイラストレイション・ブックとなっている[5]が、これもその中の一つ。重大なことは書かず、読者の心の中で何度も咀嚼され、反芻される。素晴らしい作品だと思う。ちなみにそれらの5冊目として、村上が恋愛小説の自選訳アンソロジー『恋しくて』[6]に書き下ろした「恋するザムザ」も加えてもらいたいものだ。村上作品としては異色ではあるが、まさに村上春樹の世界というしかない。

 この次は、是非、『クリスマス・ストーリーズ』というのを編集して欲しい。しかし、またまたダークの話ばかりになるのであろうか?

 

参照文献

村上春樹. (2002年). 『バースデイ・ストーリーズ』. (村上春樹, 編, 村上春樹, 訳) 中央公論新社.

村上春樹. (2013年). 『恋しくて――Ten Selected Love Stoies』. (村上春樹, 編, 村上春樹, 訳) 中央公論新社.

 

 

 

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3,323字(9枚)

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*[1] [村上, 『バースデイ・ストーリーズ』, 2002年]「訳者あとがき」p.240。

*[2] 原題は“ANGEL OF MERCY, ANGEL OF WRATH”なのだが、一体どういう意味なのだろうか? 乱入した鳥のことを意味しているのか? 

*[3] [村上, 『バースデイ・ストーリーズ』, 2002年]p.38。

*[4] 全くどうでもよいが、作中に「チキン料理」( [村上, 『バースデイ・ストーリーズ』, 2002年]p.220)としてしか明示されていないが、とても美味そうだ。これを読んでから機会があればチキン料理ばかり食べている。

*[5]『ねむり』(2010年)、『パン屋を襲う』(2013年)、『図書館奇譚』(2014年)、『バースデイ・ガール』(2017年)、いずれも新潮社刊。

*[6] [村上, 『恋しくて――Ten Selected Love Stoies』, 2013年]。