鳥  批評と創造の試み

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ここに「青春」はあるか? 万城目学『べらぼうくん』

万城目学を読む

ここに「青春」はあるか?

万城目学『べらぼうくん』



万城目学『べらぼうくん』2019年10月10日・文藝春秋

■長篇エッセイ。

■2023年12月5日読了。

■採点 ★★☆☆☆。

 

 鴨川ホルモー』などの奇想的エンターテインメントな長篇小説で知られる万城目学の浪人時代からデビューに至るまでを淡々と描く自伝的エッセイである。

この手のエッセイについてとやかく言うのがおかしいのかも知れない。確かにそうだとは思うが、とりあえずの感想を書いておく。

 面白かったが、万城目の小説作品ほどではない。一つはエッセイといえどもキャラ立ちを図るべきだったのだが、作者本人の穏和な(?)な性格を反映してか、どうも、その辺りがどうも弱い。

言うなれば、これは、これまでも数多(あまた)書き継がれてきた「青春記」の系譜[1]に属するのだが、そもそも「青春」が今や死語に近づいていて、その言葉の持つ熱量を喪って久しい。「青春記」と言えば北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』(1960年・中央公論社)や、先日亡くなった畑正憲の『ムツゴロウの青春記』(1971年・文藝春秋)などが想起される。時代が違うと言えばそれまでだが、彼らが背負っていた時代的背光と共に、彼ら自体が破天荒とも言うべき出鱈目さだったのだ。単に時代の違いとも言い切れないのが、例えば、この二つの青春記に相似形を示しているのが、自身の北海道大学柔道部時代に取材して書かれた、増田俊也の『七帝柔道記』(2013年・角川書店)である。この話は、時代錯誤もいいところだが、柔道場と下宿をただ行ったり来たりするだけで、ひたすら柔道の訓練に明け暮れるというだけなのだ。

恐らく、これらに通底しているものが、何かに憑りつかれたかのように没頭するという、或る種の狂気にも隣接する何かであろう。人はそれをかつて「青春」と呼んだのだ[2]

かつての、万城目の小説作品にはそれがあったのだと思う。少なくともデビュー作『鴨川ホルモー』(2006年・産業編集センター)にはそれがあった。しかし、ここには青春がない。やっていることはいささか出鱈目でも、出鱈目さを感じない。要は視線が大人なのだ[3]

恐らく、万城目自身が、本書で書いているように、『鴨川ホルモー』を書く以前に、彼が書いていたという、いわゆる純文学的な作品の題材をエッセイにしたらこうなった[4]、ということだとすると、これはやはり、今一つになってしまうのも自明の理である。

そもそも『べらぼうくん』というタイトルからしていけない。まったく「べらぼう」ではない。彼の日常生活は、いくつかの重大なポイント[5]を除いて、極めて穏当なものだ。

むしろ、ここにある主人公は、万城目自身の、名作と言ってもよい『とっぴんぱらりの風太郎』(2013年・文藝春秋)の、主人公・風太郎が、何者でもなかったとき、下宿(?)でボーッとしていた様子を思わせる。だから、これは『風太郎の青春記』か『とっぴんぱらりの青春記』とでもすべきだったのだ。無論、連載時に付けられていた「人生論ノート」など論外である。編集者の見識を疑う。

 

🐥

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*[1] 「青春」の興亡については、三浦雅士の『青春の終焉』(2001年・講談社)に詳しいが、「青春記」という現象については、また別稿を起こす必要があるかと思う。

*[2] とは言うものの、やはり、「青春」、「青春記」という現象は、ある特殊な時代的背景を背負っていると言って過言ではない。それは、社会全体が、或る種の希望、それも未達成、未完了という形での共同的な希望を持ち得た時代ということになる。言うまでもなく、まさにそれこそ「近代/modern」という時代に他ならない。その意味では、その「近代/modern」が終焉を迎えようとする今、青春記を書くことそのものが時代錯誤と言わねばならないだろう。

*[3] その意味では途中にあるK-popに関する分析なども本来的には不要である。

*[4] 不評を呼び、文庫化に当たり、大幅な改稿に追い込まれた(のだと思うが)『バベル九朔』(2016年・角川書店/2019年・角川文庫)こそまさに本書の第四章の下りを題材にしたものだが、いささか重い、重過ぎるというべきか。『バベル九朔』については別稿を起こす予定である。

*[5] その重大なポイントすらも、この語り口(これは良さでもあるのだが)で相殺されてしっまている気がする。