鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

「シ」(史/詩/師/死……)の影の下に ――「第2挿話 ネストル」を読む

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』を単なる一素人がとりあえず順番に読んでいく その①(ただし、続くかどうかは保証できません)

 

「シ」(史/詩/師/死……)の影の下に、――「第2挿話 ネストル」を読む

 

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目 次

はじめに... 2

1 旅立つテレマコス=スティーヴン... 4

2 臨時教師としてのスティーヴン... 7

3 妄想するスティーヴン... 10

4 「母」を探し求める「狐」.. 11

5 未来に立ち竦むスティーヴン... 19

6 悪夢としての歴史... 24

7 神はどこにいるのか?.. 35

8 青春という病... 41

参考文献... 44

 

 

  はじめに

 

この新しき春から、若き俊英たち、及びその道のヴェテランの方々に導かれて、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』*[1]を読み始めることにした。きっかけは単なる偶然で、今のところ(いつまで続くか全く不明だが)、わたしに時間だけは余裕があることと、SNSで見かけた読書会・研究会*[2]が無料だったことである。

通常であれば、自分が読みたいと熱望している本すらまともに読めない繁忙さと、経済的事由によってそういう読書会の類いには到底参加することは物理的に困難であった。禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如しとはしばしば言うが、全く何が福と転ずるか分からないものである。

ユリシーズ』そのものの河出書房新社版*[3]は持っていたものの、当然のごとく(?)、その難解さ、というよりも余りの詰まらなさ、意味不明さに1頁目で挫折。それから幾星霜流れたことであろうか。

元々、わたしは丸谷才一のフォロワーのようなもので小説はもとよりエッセイ、評論、対談などあらかた手に入るものは目を通していたが、どうも翻訳書だけは相性が合わないのか、読み切ることが少なかった。取り分け、その代表格が、この『ユリシーズ』だった。なんとかしなければと40年ぐらい深層心理では願っていたのだが、こういうものは何かきっかけがないと手が付けられれないものである。そんな訳で、『ユリシーズ』刊行100年*[4]の佳節に、――読み終わるかどうかは別にして、読み始めることができて幸いである。

読書会・研究会の次第にしたがって、第1挿話・第16挿話は読み了えた。正直に言えば、この2つの挿話について言えば、全くとっかかりがつかめず、一言の感想も浮かんでこなかった。強いて言えば、これは何? ということぐらいだ。読書会・研究会の発表などから、なるほど、それは面白い、と思うことはあっても、特に、わたし自身のこころの何かと重なることはなかったのだが、これは、やはり、わたし自身に積極性(?)が欠けていたためだと反省をした次第である。

そこで、一旦、第1挿話と第16挿話については目を瞑(つぶ)って、その後読んだ第2挿話について読書ノート、つまり感想文を書き記すことにした。これはその記録である。最初から「順番に読む」ことから逸脱しているが、人生とは得てしてそういうものである。

素人の雑文なので、先行研究や関連文書は全くと言っていいほど目を通していない。単なる感想、メモ、落書きに近いものなので無視して頂いて結構である。

それでは、早速始めよう。

 

1 旅立つテレマコス=スティーヴン

本・第2挿話は、通例、ジョイスが事前に書き起こした「計画表」*[5]に基づいて「ネストル」という、仮の題名で呼ばれている*[6]

言うまでもなく、そもそも、この『ユリシーズ』そのものが、古典ギリシア時代の叙事詩人・ホメロスによって纏められたとされる『オデュッセイア』*[7]を下敷きにしているとされる。『ユリシーズ』は『オデュッセイア』主人公のオデュッセウスラテン語形の英語化である。『ウィキペディアWikipedia)』によれば『オデュッセイア』とは以下の通りである。

 

オデュッセイア』は、イタケー*[8]の王である英雄オデュッセウストロイア戦争の勝利の後に凱旋する途中に起きた、10年間にもおよぶ漂泊が語られ、オデュッセウスの息子テーレマコスが父を探す探索の旅も展開される。不在中に妃のペーネロペー(ペネロペ)に求婚した男たちに対する報復なども語られる。*[9]

 

  後に(第4挿話から)登場する広告取り・レオポルド・ブルームがオデュッセウスに比定され、その妻・マリアン・ブルーム(愛称モリー)がそのまま妃ペネロペ*[10]となる。この夫婦には15歳になる一人娘はいるものの、オデュッセウスの息子テレマコスに当たる息子はいない。生後すぐに死んだのである。そこで、物語冒頭の3つの挿話で活躍する、もう一人の主人公・スティーヴン・ディーダラスこそが、その息子たるテレマコスの役割を果たすことになる。

 さて、第2挿話は、そのテレマコスであるところのスティーヴンが母を亡くし傷心のなかで登場し、「父」なるものを探すともなく探索し始める第1部「テレマキア」*[11]の丁度真ん中の挿話に当たる。『オデュッセイア』にならえば、トロイア戦争に出陣したまま、戦死したと伝えられるオデュッセウスの、主(あるじ)なき王宮では、王妃ペネロペのところに、40人の求婚者が遺産目当てに言い寄って数年が経ち、混乱を極めていた。王子であるテレマコスはそれに心を痛めていた。ここの情景が第1挿話「テレマコス」に微妙に表れているようだ。スティーヴンがマリガンやヘインズといった友人たちと暮らしていた「塔」は、今は荒れ果て、廃墟になりつつある「王宮」の表徴であろうか。いずれにしても、スティーヴンは同居人である筈の友人たちに心を許していないばかりか、今夜は住処であるべきその塔には戻らない心算らしい*[12]

 

 2 臨時教師としてのスティーヴン

第2挿話「ネストル」では、その後、スティーヴンは、勤務先である小さな私立学校に行き、古代ローマ史の授業を行う。「ネストル」は、その学校の経営者であり、校長でもあるディージーを指している。

元の『オデュッセイア』では、父を探す旅に出たテレマコスはピュロス*[13]に着き、武勇の名高いネストル王に会う。王はこの若者にトロイア戦争の経緯を語り、大義を為せと激励し、彼への助力を約束し、彼の旅立ちを見送る。あたかも奥州・平泉の藤原秀衡源義経のようではないか。

本作においても、おおよそ、この通りで、ネストル王たるディージー校長は、テレマコスたるスティーヴンに給与を与えた後、歴史を語り、現在の社会問題を語り、若者の行く末を案じ、校門まで彼を見送る。

オデュッセイア』のネストル王は、テレマコスの父・オデュッセウスと懇親の仲でだったこともあり、その息子を歓待する。だが、20世紀初めの「老」*[14]校長は、むしろ、スティーヴンにとっては、いささか面倒な存在でもある。もう少し言えば、さほど高いとは言えないが、幾ばくかの試練を与える「壁」のような存在だと言える。

まずもって、ディージー校長はスティーヴンの上司であり、何をおいても雇い主である。彼の指示には原則従わねばならぬし、そうでなくても人並みに労働しなければ、明日からの、と言わず、今日からの生活費にすら事欠く有様なのだ。スティーヴンが金にルーズ(?)で*[15]、友人たちに借金をしまくっていることも校長は知っているようだ*[16]

ティーヴンの能力や人間性などの側面は一旦措くとしても、本人は教師としては、どうもやる気をなくしているようである。講義をするというよりも、古代ローマ史の授業では、生徒に質問をして答えさせておしまい。授業中にパンを盗み食いしている生徒にも、そのこと自体は何も言わない。17世紀のイギリスの詩の授業では、生徒に暗唱させておしまい。実はその当てられた生徒が暗記しておらず、教科書をこっそりと棒読みしていることに気づいていても何らの注意もしない。最後は、人を煙に巻くような謎々を出して、それで授業を終えてしまう。

 

3 妄想するスティーヴン

そして、授業中に生徒に答えさせたりしている時にも、スティーヴン自身は一人勝手に連想、妄想を膨らませて、自分の内的世界に入って行ってしまうが、途中でそれを独り言のように口に出してしまい、生徒を混乱させる。

例えば、ある生徒に、ピュロスについて知っていることを答えよ、と漠然とした発問をして、その生徒が苦し紛れに「ピュロスはピア*[17]」*[18]、「キングズタウン・ピアとか」*[19]と答えると「そう、当て外れの橋*[20]だね」*[21]と返して、生徒たちを困惑させつつ、「ここで話したってしようがない。」*[22]と独白する。有体に言って、彼は授業をしながら、心ここにあらずなのである。

ディージー校長の指示で居残りの課題を与えられたものの、自分では解けないという生徒・サージャントの代わりに問題を解いてやるときも、「むなしい仕事」*[23]と思いつつ、「やつはシェイクスピアの亡霊がハムレットの祖父であるってのを代数で証明するのさ」*[24]と独白しながら数学の問題に取り組む。「やつ」というのは直接には、その直前に現れる、空想上の「一匹の狐」*[25]のことだが、この狐はスティーヴン自身の内的な自画像であろうから、彼は『ハムレット』の亡霊のことを考えながら、問題を解いていることになる。と言っても、「シェイクスピアの亡霊がハムレットの祖父である」訳はないので*[26]、半分自棄(やけ)になって思っているのだろう。

 

4 「母」を探し求める「狐」

ところで、少し戻って、「狐」がスティーヴン自身であると、先に推測したが、この狐はこんな風に登場する。

 

荒野のなかで、またたく星明りの下で、一匹の狐が獲物の赤い血の匂いを下毛にからませ、無情な目を光らせて、土を掘り起す。聞き耳を立て、土を掘り返し、聞き耳を立て、掘り返し、また掘り返す。*[27]

tea for one

 

コラム ~少年時代の秘密~

 

いささかやる気なさげなスティーヴン先生だが、その割には残されっ子のサージャント君の面倒はしっかり見ている。とは言うもの、その視線はかなり屈折している。スティーヴンはサージャントのことをこう見る。

 

醜くてむなしい。細い首、もしゃもしゃの髪の毛、インキのしみ、カタツムリの寝床。(U-△-Ⅰ-2- ℓ.ℓ.162-163.)

 

随分ひどい言い方だ。しかし、彼を見ているうちにこんな子でも愛する母親がいたことに想いがズレていく。

 

でも、どこかの女がこの子を愛した。彼を腕に抱き心にかけた。彼女がいなかったら世間の生存競争に巻きこまれて踏みにじられていたろう。ぐしゃりつぶれた骨なしのカタツムリ。彼女はわが血を引くこの弱い水っぽい血を愛した。(U-△-Ⅰ-2- ℓ.ℓ.163-166.)

 

彼女は薄い血と酸っぱい乳で彼を育て、彼の産着(うぶぎ)を人目から隠した。(U-△-Ⅰ-2- ℓ.ℓ.192-193.)

 

 そこから、恐らく、スティーヴンは自身の母親のことを想起したのであろう。そして気付いた時には、サージャントに自らの少年時代を重ね合わせている。

 

ぼくもこんなだった。この撫で肩。このぶざまな恰好。ぼくの少年時代がいま隣りでうつむいている。あまりにも遠すぎてほんの軽く手を添えてやることさえできない。ぼくの少年時代は遠い彼方。彼のは秘密を隠している、ぼくらの目のように。二人の心の暗い宮殿には、さまざまな秘密が黙りこくったまま石のようにじっと坐っているのさ。自分たちの専制に飽きた秘密どもが。王座から引きずりおろされるのを待っている暴君たちが。(U-△-Ⅰ-2- ℓ.ℓ.194-201.)

 

これだけでは分からないが、スティーヴンはその少年時代に何か秘密があるのだと言っているようにも読める。この件については引き続き検討が必要である。

📖

 

 この狐は一体何を求めて土を掘り返しているのだろうか。その直前には、彼が「醜くてむなしい」*[28]と思う生徒サージャントにも、その子を愛する母親がいるのだと考え、そこからスティーヴン自身の母親の死の記憶が思い出すともなく、彼の脳裏に過(よぎ)る。

 

火のような気性のコルンバヌス*[29]は信仰の熱意にかられて、横たわる母親の体をまたいだけれど。彼女はもういない。 ふるえる小枝のような骨が炎のなかで燃えた。紫檀と濡れた灰の匂い。彼が踏みにじられるのを救って、 いなくなった。 この世にいたなんて言えないくらい。 あわれな魂が天国に行った。*[30]

 

紫檀と濡れた灰の匂い」という表現は第1挿話に、その類縁の言葉が2回出てくる印象的なものだ。

「友人」であり、「塔」の同居人であるバック・マリガンから暗にスティーヴンがスティーヴンの母親を殺したのだと指摘される。と言っても実際に殺した訳ではなく、「息を引き取る間際に、ひざまずいて祈ってくれって」*[31]母親が「頼んでいる」*[32]にも関わらず、「それを断」*[33]ったことを指している。訳者の解説によれば、スティーヴンは「少年時代にカトリックの信仰を失」*[34]ったとあるので、それ故、「神」に祈ることができなかったのだと考えられる。スティーヴンはマリガンに「おまえにはなにか邪悪な相があるよ……」*[35]と詰(なじ)られて、思うともなく、母のことを思う。

 

まだ愛の痛みにはなっていない痛みが彼の心をいらだたせた。死んでから、黙って、夢のなかで、母は彼のそばに来た。ゆるい茶いろの死衣にくるまれた痩せほそった体は蠟と紫檀の匂いをただよわせていた。おし黙ったままで咎めるように吐きかける息は、かすかに濡れた灰の匂いがした。*[36]

 

「蠟と紫檀の匂い」について、訳注では「蠟は蠟燭。紫檀は棺の材料。」*[37]とある。また「濡れた灰の匂い」の「灰」は無論、遺骨、遺灰の灰であろうが、訳注には「灰は死と悔恨の印。また人間のもろさの象徴。」*[38]とある。先に引用した第二挿話の下りでは「ふるえる小枝のような骨が炎のなかで燃えた」*[39]とあり、その次下(つぎしも)に「紫檀と濡れた灰の匂い」*[40]とあるところから、やはり、直接的には火葬の際の「遺骨」の「灰」だと考えられる。これが、何故、「濡れ」ているのか、という点については、次に述べる。

もう一ヵ所は、先の引用から暫くして後、スティーヴンは回想を続けている。

 

夢のなかで、黙って、母は彼のそばに来た。ゆるい死衣にくるまれた痩せほそった体が蠟と紫檀の匂いをただよわせていた。おし然ったまま、秘密の言葉を語りながら吐きかける息は、かすかに濡れた灰の匂いがした。 死のなかからみつめる母のよどんだ目が、ぼくの魂をゆさぶり従わせようとする。ぼく一人をみつめて。苦しみもだえる母を照らす臨終の床の蠟燭。苦痛にゆがんだ頭を照らす青白い光。みんながひざまずいて祈っているとき、母のしゃがれた大きな息遣いが恐ろしげにぜいぜいと鳴った。母はどうでもひざまずかせようとして、ぼくを見据えた。《百合ニ飾ラレ輝ク証聖者ノ群ナンジヲカコマンコトヲ。歓ビ歌ウ童貞ノ群ナンジヲ迎エンコトヲ》。 /幽鬼よ! 死肉をしゃぶり食らう者よ! /いやだ、お母さん! このまま生きさせてくれ。*[41]

 

 つまり、当たり前のことではあるが、焼け果て、乾きっているはずの「灰」が何故「濡れているのか」というよりも、死の床にある母が「吐きかける息は、かすかに濡れた灰の匂いがした」という文脈なので、「息」、「息遣い」が「濡れている」ように感じるのは当然である。ただ、死ぬ間際の、その息に「灰」の匂いがあったことの方が奇妙だ。恐らく、死後、荼毘に付された際に、スティーヴンの記憶に留まった、母の「遺灰」の匂いを事後的に回想しているのだろうか。恐らく死後もなお、あたかも生者のごとく、スティーヴンの心に、生々しく現れることの、その「生々しさ」の証であろうか。

いずれにしても、この、母の臨終での一件は相当スティーヴンの心の底から彼自身の存在を問い詰め、苦しませていると考えてよい。一言で言えば、彼はかなり追い詰められているのである。

さて、例の「狐」の話に戻る。実はこの狐の登場は、その少し前のところであった。授業の最後に、スティーヴンは生徒たちに謎々(なぞなぞ)*[42]を出す。

 

《雄鶏が鳴いた。/空は青かった。/天の鐘が/十一時を打った。/このあわれな魂が天国へ行くときだ》//――これは何か?*[43]

 

といういささか無理のある謎々(なぞなぞ)である。これで答えられたら逆に驚きである。当然生徒達にもちんぷんかんぷんだ。答えはこう。

 

――狐が自分の婆さんをヒイラギの下に埋めているところさ。*[44]

 

訳注によれば、これには元ネタがあって、本来は「婆さん」ではなく「母親」だったという。彼の「罪の意識」が「母親」を「婆さん」に変えさせたとしている*[45]。いずれにしても、その視点で考えれば、狐が自分の母親を殺害して、――あるいは見殺しにして、地中に埋めた、ということになる。狐は自らが埋めた母親を探して「土を掘り起」しているのだろうか。「獲物」として? 悔恨の情で? 狐は「聞き耳を立て、土を掘り返し、聞き耳を立て、掘り返し、また掘り返す。」とある。何に対して「聞き耳を立て」ているのだろうか。恐らく、それは母親の声、あるいは、まさに母親の「濡れた」息遣いではなかろうか。

 

5 未来に立ち竦むスティーヴン

 このような次第で、スティーヴンは意識の半分は死んだ母のことや他のことを妄想しながら仕事をしている。人間の意識などというものは得てしてそういうものだとも言えるが、それは単に意識の流れを描写する手法を取っているということも無論あるのだが、第三者からも、スティーヴンの様子はいささか疑問に思われてもいるようだ。彼の教師としての仕事ぶりを子細に眺めているのは、上司である校長のディージーである。彼は、給与を受け取りに来たスティーヴンに対し、雑談ともとれる長話をした後、唐突にこう付け加える。

 

――わたしにはわかる、とミスタ・ディージーが言った。きみはいつまでもここの仕事をつづけちゃあいないだろうね。教師って柄(がら)じゃない、 そう思いますよ。間違いかもしれないが。*[46]

 

つまり、この仕事に向いてないよと面と向かって言われている訳だが、そう言われたスティーヴンもこう答える。

 

――むしろ、学ぶ人ってところでしよう、 とスティーヴンが言った。 *[47]

 

では、何か学問をしたいのかと思わせもするが、彼は自分でそう言いながら、「では、 この上ここで何を学ぶ?」*[48]と心の中で、一人自問する。

それに対してディージー校長は「首を横に振っ」*[49]てこう言う。

 

――どうかな、と彼は言った。学ぶには謙虚でなけりゃあ。 でも、 人生ってやつは偉大な教師だから。*[50]

 

 要はスティーヴンが人生勉強の不足している若僧だと軽く揶揄している訳だが、スティーヴン自身はそれに気付いていたのか、どうか分らぬが、さっと話題を変えてしまう。

ティーヴンは一体どうしたいのか。何を求めているのか。彼は古代ローマ史の授業をしながら、古代ギリシアのエペイロスの王・ピュロスとユリウス・カエサルの敢え無い死の故事から「可能性」について連想を拡げていく。

 

ピュロスがアルゴスの町で老婆の手にかからなかったら、またはユリウス・カエサルが刺し殺されなかったら。考えて片がつくわけじゃなし。時が二人に烙印を押したのだから。二人は足枷(あしかせ)をはめられて、自分が追い払った無数の可能性と一つ部屋に閉じ込められたのだから。でも、そういう可能性はつまりは実現しなかったのだから、可能だったと言えるのかな? それとも、実現したものだけが可能だったのかしら? *[51]

 

 つまり、本来、人は「無数の可能性」とともにあるのだが、しかしながら、「実現しなかった」可能性は可能だったと言えるのか、と自己に問うている。これは、今のスティーヴンについて言えば、母の危篤の報さえなければ、今頃、パリで文学の研究を続けていられたのに、そういう可能性が奪い去られたことへの忸怩(じくじ)たる思いがあるのと同時に、これからの人生において、自らの可能性が奪い去られて、このまま、ただの学校の教師になってしまうのかという暗然たる思いも込められているに違いない。

その後、「幽霊の話」*[52]をしてくれ、という生徒の要望を無視して、別の生徒に詩の暗唱をさせる。あるいは、この「幽霊の話」は、「謎々」と同様にスティーヴンが授業中の生徒の心を摑む、十八番(おはこ)の一つだったのかもしれない。しかし、母の死に囚われているスティーヴンは、その日の朝、母の死のことでバック・マリガンに揶揄われて、思いの外、強く傷ついた彼には、その要望はいささかカチンとくるものだったのだろうか。

しかし、すぐさま、「死」は呼び起こされる。『ユリシーズ』全体がそうなのだが、取り分け、この第二挿話は「死」の匂いに強く浸されている。

 

――《泣くな、悲しむ羊飼たちよ、泣くな、/そなたらの歎きの元、リシダスは死んだのではない、/たとえ水底(みなそこ)深く沈んだにしても……》*[53]

 

訳注*[54]によれば、これはジョン・ミルトンが同窓でアイルランド人・エドワード・キングの難破、溺死を悼んだ「リシダス」の一節である。

これを聞きながら、スティーヴンはこう思う。

 

だからこれは、つまり、可能なものとしての可能態が現実態になることは、一つの運動でなければならない。*[55]

 

彼の頭の中で何がどう繋がっているのか分かりかねるが、素直に読めば、「水底(みなそこ)深く沈ん」でいるように見える、自らの「可能態」も、決して「死ん」でいる訳ではない。「一つの運動」として、その「可能態」を「現実態」へと変えていかねばならないのだ、と彼なりに感じたのではないか。

しかしながら、スティーヴンの「可能なものとしての可能態が現実態になる」ための「運動」に重く圧し掛かってくるのは、彼自身の人生であり、アイルランドという民族であり、そして広く、人類全体の血塗られた歴史の重みなのである。

先に引用したが、校長に揶揄されたように、スティーヴンは人生の経験に不足していて、友人関係の軋轢や、母の死に関わる慙愧(ざんき)の念や、あるいはそもそも借金に追われるぐらいに生活能力に欠けてもいる。

恐らく彼は故国アイルランドのことなど、取り合えず措いておいて、より自分の「可能態」に即した文学(「ハムレット論」*[56]!)に打ち込みたいと考えているのだろうが、校長にアイルランドの血塗られた歴史*[57]について絡まれる。多分、校長は俗にいう悪い人ではないのであろう。あるいはもっと言えば「いい人なんだけど」という感じか。部下であり、人生の後輩であるスティーヴンにとっては、ただ単に鬱陶しい、面倒な存在なのであろう。

 

6 悪夢としての歴史

 

そんな歴史を具体的に語り、「老年の知恵」*[58]を披歴するディージー校長に対して、スティーヴンはこう言う。

 

歴史というのは(中略)ぼくがなんとか目を覚ましたいと思っている悪夢なんです。*[59]

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コラム ~「悪夢」が蹴り返す~

 

「歴史というのは(中略)ぼくがなんとか目を覚ましたいと思っている悪夢なんです。」この後、スティーヴンは次のように独白する。「その悪夢がおまえを蹴返したらどうなる?」。悪夢が蹴り返すとはいかなることかと悩むところだが原文を確認してみよう。「What if that nightmare gave you a back kick?」。確かにこれだけでは分かりづらい。その直前は少年たちのホッケーの試合の様子が描かれる。「運動場で少年たちの喚声が湧いた。ホイッスルがピリピリと鳴った。ゴールだ。(From the playfield the boys raised a shout. A whirring whistle: goal.)」この後に「その悪夢がおまえを蹴返したらどうなる?」と続くわけだから、直接的にはゴールされたボールを「おまえに」(傍点引用者。訳文では「おまえを」となっている)「蹴り返したらどうなる?」となるので、完全な言葉遊びと言ってよい。以上はweb上での研究会「22 Ulysses」第3回における吉川(きっかわ)信(しん)の報告「歴史は悪夢か?」による。さて、無論、ジョイスのことだ。確かに言葉遊びで書き添えたと言ったところが事の真相に近いのかも知れない。しかし、仮に「蹴り返」されたものがホッケーのボールであれば何故、訳者たちは「その悪夢がおまえに蹴返したらどうなる?」ではなくて、「おまえを蹴り返」す、としたのであろうか。単なる誤訳なのであろうか。しかし、再度原文を確認すると「that nightmare gave you a back kick」とある。「ボール」がない。もし「ボールを蹴り返す」だとすれば「that nightmare kicked you a ball back」にならないか。やはり、原文を素直に読めば「その悪夢がおまえを蹴返したらどうなる?」となるべきだと考えられる。さて、そうすると、どういうことになるか。「歴史というのは(中略)ぼくがなんとか目を覚ましたいと思っている悪夢」であるがゆえに、スティーヴンはその「悪夢」から早く目覚めたい。言うなれば「歴史」という「共同幻想」のような固定観念から脱却したいということだろう。だが、問題は、仮に、その「悪夢」という固定観念から目覚めたとしても、実はその先ににも新たな「悪夢」が待っている、ということではないか。人間はなんらかの理念なしには生きられないのだが、今までの「悪」を否定するために、新たな「正義」を用意する。それが、固定化すると、その途端に、その「正義」以外に圧力を掛け始め、また、新たな「悪」へと転化するのは、人類史上、しばしば見受けられることだろう。ジョイスのシニカルな視線は、冗談一つとっても、そのそこに重い逆説を沈めている気がするのだ。

📖

 

  文脈的には、大英帝国宗主国として崇め奉り、祖国アイルランドを下に置くような歴史、すなわち被植民地国として、家臣の国として、イギリスの支配を受け続けた歴史を幾度となく刷り込まれたり、あるいはこれからもずっとその歴史を持ち続けるのは確かに悪夢だと言える。

  実際に第1挿話ではイギリス人ヘインズはそれを当然のことのように話して、スティーヴンを傷つける。

 あるいは、本・第2挿話冒頭で、私立学校の臨時教師としてスティーヴンが生徒たちに教えているのは古代ローマ史である。何故、古代ローマ史なのだろうか? 訳者の説明によれば、ディージー校長の説明として以下のように記述されている。

 

校長。近在の裕福な家庭の子弟のためイギリス式の教育をほどこすのが目的の小さな私立学校を経営する。アルスター出身のプロテスタントイギリスの支持者で、ユダヤ人嫌い。スティーヴンを過激派フィニア会の一人と考えているが、才能は買っている。*[60]

 

言うまでもなく、イギリスが大英帝国として、アイルランドを始め多くの植民地国家を支配したのは、古代ローマ帝国の植民地支配にその範を持つ。帝国の宗主国たるイギリスでは、自らの子弟に、自らの国家体制、植民地支配の「正義」の所以を、幼少の頃から徹底して刷り込んでいるのだ。当然と言えば当然のことである。

では、何故、それをアイルランドで行っているのか。この学校では「裕福な家庭の子弟」を集めて「イギリス式の教育」の行っているとのことだが、その「裕福な家庭」というのが、アイルランドの支配階級に他ならない訳で、ディージー校長がそうであるように、宗主国イギリスの理念を内面化して、そのことを、子弟に伝え、このイギリスーアイルランドの、支配―被支配の関係を、これまでそうであったように、未来永劫迄伝えていこうとしているのだ。そして、そのことをアイルランド人として一辺の疑いを持つことがないのであろう。スティーヴンは、従って、自分とは出自の異なる、階級の異なる子供たちを、生活のために已む無く教えているのだ。子どもたちもそのことは子どもなりにうすらうすら理解しているようだ。スティーヴンは自信なさげにこう思う。

 

もうすぐ、こいつらはもっと大きな声で笑い出すだろう。ぼくには抑え切れないのも、パパたちが月謝を払っているのも知ってるからな。*[61]

 

それは確かに「むなしい」と思うのも分からなくもない。

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コラム ~ユダヤ人と口蹄疫

 

ディージー校長がスティーヴンに、新聞への投書の口利きを頼んだその内容は「口蹄疫」に関するものである。それは哺乳類の、それも牛や豚などの偶蹄目の動物(家畜が多い)だけがかかるウイルス性の伝染病なのだが、彼の投書の内容は断片のみ記されて、推測するしかないが、「《自由経済主義》」(U-△-Ⅰ-2-ℓ.377)に基づく「家畜貿易」(U-△-Ⅰ-2-ℓ.378)を閉ざせ、シャットアウトせよ、と主張しているように読める。つまり、何故、彼がこの「口蹄疫」問題に過敏なのかというと、そこにユダヤ人(の商人)の問題が重ねられているのではないか。彼のユダヤ人への嫌悪は実に激烈であるが、もともとイギリスという異分子によってアイルランドが侵略、浸蝕されているにも関わらず、それについては、彼の意識のなかでは宗主国と一体化していて、それ以外のユダヤ人や口蹄疫といった浸蝕してくる異分子については強い拒否感を示す、という一種、戯画的な描かれ方をしている。

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ディージー校長は「ユダヤ人嫌い」とあるが、彼の「ユダヤ人嫌い」は、あるいは当時のアイルランドの教養階級の言わば常識だったのかも知れぬが、相当激しいものである。部外者である我々から見ても、いささか聞くに堪えない発言を彼はしている。

イギリスはユダヤ人の手に握られている。最高の地位にいるのは全部そう。財界も、新聞も。これは国家衰亡の兆しですよ。やつらが集まれば、かならず国家の生命力を食らいつくす。わたしは長年のあいだ事態の成行きを見てきたのだ。ユダヤ商人どもがもう破壊工作をはじめているのは絶対に確実だよ。昔ながらのイギリスは死にかけているのです。(中略)――死にかけている、と彼はまた言った。もう死んでいるのでなければね。*[62]

 

彼のなかではアイルランドはイギリスの一部であって、祖国のことを考えると言えばイギリスのことを考えることになるのであろう。あるいはこうも言っている。

 

アイルランドユダヤ人を迫害したことのない唯一の国という名誉を担ってるそうだ。知ってるかい?  ほう、知らない。では、なぜだかわかりますかな? (中略)/――つまり、やつらを絶対に国に入れなかったからです、とミスタ・デイージーはおごそかに言った。 /せきこむような笑いの塊がぽいと喉から飛び出し、ごろごろ音を立てて痰のつながりを引きずり出した。彼はくるりと背を向け、せきこみ、笑い、両腕を高く上げて振った。/絶対に入れなかった、と彼は笑いの発作の合間にまた叫ぶと、ゲートルを巻いた足で砂利道を踏みつけた。そういうわけさ。*[63]

 

無論、世界的な、あるいは時代的な風潮として「反ユダヤ主義」というのがあり、比較的、社会的な支配階級の、それも教養のある人々の中でそれが抜き難く存在する、ということを、ジョイスは、この「愛すべき」ディージー校長の間違いだらけの出鱈目な社会的認識*[64]の中に、この「ユダヤ人嫌い」を戯画的に込めたのだと思うが、そもそも「ユダヤ人」とはローマ帝国下の植民地支配の「ユダヤ属州」の人々である。したがって、その意味では、ディージー校長は、被植民者の一つの典型としてユダヤ人を嫌っていたとも考えられる。ユダヤ人と言えば、その中にナザレのイエスもいたにも関わらず。

こう考えてくると、これは相当根が深い話で、スティーヴンが日常から鬱屈を抱えていて、まさに「歴史は悪夢だ」と思っているのも已む無いことかも知れない。

言うまでもなく、公平に書かれた歴史など存在しない。そもそも歴史とは支配者の側から書かれたものであって、そこには被支配者の言い分など微塵も書かれてはいない。支配者とは何か。武力的な戦争に勝利した者こそ支配者になる権利を持つ。その意味で言えば、歴史とは究極のところ、戦争史に他ならない。同語反復になてしまうが、人類だけが歴史を書く。そして、人類だけが戦争を行う。人類の歴史が戦争史にならざるを得ないのは理の当然と言わねばならない。

本挿話の冒頭で、スティーヴンは古代ローマ史の授業をする。ギリシア人植民都市タレントゥムがギリシアのエペイロス王のピュロスを招聘したことで、どうなったのか、生徒に尋ねる。彼は「――戦争になりました。」*[65]と答えたのを聞きながら、まさに悪夢のようにその歴史の現場を連想する。

 

ぼくは全空間が廃墟となり、が砕け、石の建築が崩れ落ち、時がついに一つの青白い炎となって燃えるのを聞く。じゃあ、あとには何が残る?*[66]

 

「鏡」とは何か。鏡は、事物を、――左右逆ではあるけれど、そのまま一点の間違いも、一点の曇りもなく映し出すものである。本来であれば、出来事を正確に、できるだけ、そのまま反映させるべきものが、戦争になれば、それが砕け散り、出来事を正確な歴史として映し取ることもできなくなる。戦争が破壊するのは、人命や建築物だけではない。正義や誠実さ、あるいは公正さ、実直さなどの、理念をも破壊するのである。従って、その破壊と殺戮を記した歴史の教科書は「血まみれの傷だらけの本」*[67]に他ならざるをえないのである。

そして、さらに、その戦争は必ずしも、歴史的な時空間にだけ存在していた訳ではない。本作『ユリシーズ』の舞台となっている時期は1904年6月16日ではあるが、実際にジョイスが『ユリシーズ』を執筆していたのはおよそ1914年から22年にかけてである。いうまでもなく、これは、丁度第一次世界大戦の交戦時期である1914年~18年に相当する。戦争の影が差さない方がどうかしている。

それだけではない。戦争は生活の内部で既に開始され、進行しているのだ。ディージー校長が投書*[68]の原稿を直している間、スティーヴンは聞くともなく、外の生徒たちがグラウンドでホッケーに興じる様に耳を澄まし、次第にそこに引き込まれていき、自らもそこに参加しているつもりになる。

 

少年たちのいる運動場で甲高い叫びが湧き、 ホイッスルがピリピリと鳴った。/もう一度。ゴールだ。 ぼくもみんなの一人。入り乱れてぶつかりあう肉体の一つ。人生の馬上槍試合で。あのすこし腹痛気味みたいな内股のお母さんっ子が? 馬上槍試合。時間がぶつかって跳ね返る。 ぶつかるたびに。馬上槍試合。戦場の泥濘(でいねい)と怒号。刺し殺された者の血へどがこごりつく。血まみれの内臓を穂先に引っかけた槍の雄叫(おたけ)び。*[69]

 

 ところが、途中から、ホッケーから「人生の馬上槍試合」へと、そのイメージが遷移していく。言うなれば、ホッケーで互いにぶつかり合って競い合うのは人生もまたそういうものだということである。そこに「あのすこし腹痛気味みたいな内股のお母さんっ子」も無理にでも参加せねばならない。この「内股のお母さんっ子」とは、先程迄、数学で落ちこぼれて、スティーヴンが見てやっていて、遅れてホッケーに参加したサージャントではあるが、スティーヴンはその少年に自らの姿を重ねているのだ*[70]。したがって、サージャントがそうであるように、スティーヴンもまた、これから、「人生の馬上槍試合」において、互いに競い合い、ぶつかり合い、場合によっては、仲間を出し抜いたり、敵方のプレイヤーを叩き潰す必要も出てくるのである。

従って、その「人生の馬上槍試合」のイメージは容易に戦争のイメージへと、さらに遷移する。スティーヴンは子どもたちの単なるホッケーの試合に「戦場の泥濘と怒号」を見る。そこには「刺し殺された者の血へどがこごりつ」いているだろう。ある勇敢なプレイヤーの、つまり兵士の一人が「血まみれの内臓を穂先に引っかけた槍の雄叫び」を上げるのをスティーヴンは聞きとるのである。

tea for one

 

コラム ~『エホバの顔を避けて』~

 

本『ユリシーズ』の訳者の一人・丸谷才一の最初の長篇小説は、旧約聖書に材を取った『エホバの顔を避けて』(1960年)であった。丸谷がどういう意識で自らの最初の小説に異邦の古典世界を書こうと思ったのかは定かではないが、かなり常軌を逸した振る舞いであったことは確かである。ヨナは神エホバからイスラエルの敵国ニネヴェを滅ぼす預言を伝えるように言われたが、それを忌避する。彼は神エホバから逃げ続けるが、最後は巨大な魚に呑まれてしまう* 。

丸谷の二番目の長篇小説は、「徴兵忌避者」を主人公とする『笹まくら』(1966年)であった。主人公は戦争の間の5年間、兵役を逃れて日本中を逃げ回るという話である。丸谷自身は応召して半年ほど軍役に付いているが、一体彼らは何から逃げていたのか。

『笹まくら』の最初の単行本の帯には「作者のことば」として次の言葉が付されている。

 

徴兵令が布かれてから敗戦の日までの長い歳月のあいだ、日本の青年たちの夢みるもっともロマンチックな英雄は、徴兵忌避者であった。彼らはみな、この孤独な英雄の、叛逆と自由と遁走に憧れながら、しかし、じつに従順に、あの、黄いろい制服を着たのである。そう、ぼく自身もまた。……ぼくの長篇小説『笹まくら』700枚は、そのようなかつてのぼくの従順さに対する錯綜した復讐となるであろう。( [ウィキペディアWikipedia)』, 「笹まくら」, 2020年6月27日 (土) 07:26更新]より援引。下線引用者。)

 

「神」にしても、「国家」、「戦争」にしても人々に「従順さ」を強い、「叛逆と自由と遁走」を奪うもの、そこから、彼らは訳も分からず逃げ出したのではないか。しかし、それにも関わらず、それらは執拗に逃亡者を追い詰めていく。丸谷の、絶筆ともなった最後の短篇小説は「茶色い戦争ありました」であったが、終生、丸谷の主題は変わることはなかった。

恐らく、その意味でも神は、捨てられたとしても終生忌避者について回るものであろう。。

📖

本・第2挿話は戦争の血で赤黒く染まってしまっているのだ。

 

7 神はどこにいるのか?

先にも引用したが、訳者たちの解説によれば、スティーヴンは「少年時代にカトリックの信仰を失」*[71]っている。実際に生徒に暗唱させたミルトンの詩に「神」を見出だして、イラついている。

 

――《波の上を歩まれた主の御力により、/御力により……》//――ページをめくれよ、とスティーヴンは静かに言った。ぼくは何も見ていない。/――なんですか? とトールポットは体を乗り出してさりげなく聞いた。/彼の手はページをめくった。彼は体をもとに戻してまた先をつづけた。たったいま思い出したように。波の上を歩まれた主のことを。 ここにも、 こいつらのけちな心にも主の影がさしているあの嘲笑する男の心と唇にも、ぼくのにも。*[72]

 

 先にも触れたが、机の下に教科書を拡げて「カンニング」している生徒トールポットに「ぼくは何も見ていない」ふりをするから、ちゃんと「ページをめく」って読め、とスティーヴンは言っているのだが、そんな「けちな心」を持つ生徒達にも、「あの嘲笑する男」バック・マリガンにも、そして、外ならぬ「ぼくの」心にも「主の」、つまりの「影がさしている」ことに辟易しているのである。既に捨てていた筈の庇護者が執拗に付きまとうかのように。

しかし、――、ここからは何の根拠もない、わたしの漠然とした予感のようなものに近い。人は、何故、神を、あるいは信仰を捨てるのであろうか、という問題である。逆に言えば、人は何故、神を信じるのかという問いに他ならない。あの世であろうと、この世であろうと、人は何らかの形で、神に救済されることを想定して、神を信じるのだ。しかし、その想定が予想外の結果に終わったらどうなるのだろうか。つまり、理念と現実に齟齬を生む形になれば、人はいつの日か神を捨てるであろう。

しかし、その際に注意して欲しいのは、もともと神の教えに従わなかった人々とは違って、一旦は「神の国」のヴィジョンを信じたうえで、棄教した人々は、必ずしも理念を、つまりは「神の国」のヴィジョンを捨てたわけではなくて、むしろ、それを信じるが故に、現実がそれに追いついてこないことに苛立ち、それを否定することになるのだ。これは一般論である。

ティーヴンが何故カトリックの信仰を捨てたのかは、少なくとも第1・2挿話を読む限り、全く分からない。しかし、その件が過去の話になっていないことは朧げにでも分かる。執拗に母の死のことを想起するのもそれに当たるであろう。

では、一体、スティーヴンにとっての「神」はどこにいるのであろう。

先に引用した、スティーヴンの「歴史=悪夢論」に対して、ディージー校長はこう答える。

 

――創造主の道はわれわれの道とは違う、とミスタ・ディージーが言った。すべての歴史は一つの大いなる目的に向って動いているのです、神の顕示に向って。*[73]

 

つまり、歴史とは神の支配の完成という「大いなる目的」に至る道筋であって、それを一人間たる、我々には理解できないのだということか。つまり、神のヴィジョン、神の教え、神の歴史は、教会の奥深くに隠されていて、一般の民衆には知らされていないということか。

それに対して、スティーヴンは意外にも分かった風なことを言って、それに取って返す。

 

ティーヴンは拇指をぐいと窓に向けて言った。/――あれが神です。 /いいぞう!  わあい! ピリピリィ!/何が? とミスタ・ディージーが聞いた。/通りの叫びがです、とスティーヴンは肩をすくめて答えた。*[74]

 

「通りの叫びが」「神」なのだ、とスティーヴンは答えているのだが、訳注によれば、ブレイクの詩や、あるいは8世紀のイギリスの神学者アルクウィンの「民の声は神の声」も踏まえているかとされている*[75]が、いかがであろうか。少なくともスティーヴンが、心の底で期待している、「神」とは、少なくともディージー校長が言うような「神の顕示に向って」「一つの大いなる目的に向って動」き、「われわれの道とは違う」道を歩むような神ではなく、その辺りの道を歩いている神、あるいは、その辺に普通に偏在している神(的な何か)なのではなかろうか。少なくとも、その神は人に指図をしたり、人の考え方を一つに縛ったり、敵対する神を滅ぼそうとする神ではなさそうだ。

そのスティーヴンの人を食ったような返答を聞き、ディージー校長は少し回答の方向をずらす。

 

ミスタ・ディージーは下を向いて、指先でちょっと小鼻をひねり、また上を向いて指を放した。 /――わたしはきみより幸せだな、と彼は言った。*[76]

 

何故か? 何故「わたしはきみより幸せ」なのか? 彼は続けてこう言う。

 

たくさんの過ちやたくさんのへまをしでかしてきたが、その一つの罪だけは犯していません。*[77]

 

「その一つの罪」とは何か。それはスティーヴンが犯している「神への不信」だろう*[78]。だからこそ、「わたしはきみより幸せだ」と言うのだ。したがって、「通りの叫びが」「神」だ、などの世迷言を言って、「神の存在を否定」する、あるいは神を、神の恩寵を信ずることのできないスティーヴンは不幸だというのである。そして、ディージー校長は神を信じ、自らの理念を信じ、「老い先短い身の上でいまも戦っている。だが、死ぬまで正義のために戦うつもりですよ。」と主張するのである。

「正義」というものは得てしてそういうものである。スティーヴンの特殊な考えは当然ながら、ディージー校長には伝わらない。無論、スティーヴン自身も実際には自分が何を言いたいのか、何をしたいのか分かっていないのだ。今や死語に成り果てた感があるが、あるいは、それが「青春」というものなのかも知れない。

 

附記 青春という制度

しかしながら、スティーヴンを捉えたかも知れぬ「青春」という病にも似たものは、或る種の一過性の下にある「制度」であったかもしれない。

この青春については、かつて文芸評論家の三浦雅士が『青春の終焉』と題して、論じたが、それは、主として1960年代の日本の文学状況、取り分け、小林秀雄についてであった*[79]。むしろ、戦後日本の青春の高揚と、その終焉を象徴していたものは、映画『青い山脈』などで高名を馳せた石坂洋二郎であったかも知れない。三浦雅士の『石坂洋二郎の逆襲』はエマニュエル・トッドなど「家族」論からの石坂の捉え直しであるが、映画とのメディア・ミックス*[80]への具体的調査が不足しているのが瑕瑾である。

無論、青春の発祥・発症が日本であるはずなく、西洋の文学や芸術をも論じなければならない。その点、フランス文学者・古屋健三の『青春という亡霊』は同じ主題を西洋文学からの側面も加えて論じている。

ただ、いずれにしても青春という主題が全的に解明された訳ではない。

さて、ここでは、学問的な正確さを追究する余裕はない。概略だけ書き記すことになるが、「青春」はもとより、「思春期」も本来存在しなかった(らしい)。歴史的に、恐らく事後的に「発見」されたものであろう。

それを言ったら「子ども」すら存在していなかった。フィリップ・アリエスの、最早、古典の域にまでなった『〈子供〉の誕生』がそれである。中世ヨーロッパにおいて現在言うような意味での「子ども」は存在しなかった。「小さな子供」がいるだけで、7、8歳ぐらいで言語コミュニケイションが図れるようになれば、もう大人と変わらず、労働に従事したという。

従って、近代に入り、子どもが発見され、それに伴い、順次、子どもと大人の先駆的過程である「思春期」が発見され、それに従い、その後期的過程である「青春期(青年期)」が発見されたと考えられるが、ここで問題にしたいのが、今述べた「青春」「青春期(青年期)」が発見されたと考えられるが、ここで問題にしたいのが、今述べた「青春」という時期、というよりも「青春」という現象のことである。

恐らく小さな大人から大きな大人への「移行」には何ら疑念の生ずるものはなく、貴族の「子」はそのまま貴族へ、農民の「子」はそのまま農民になるのが普通であったろう。自分が何者でもない、あるいはこれからどうすればいいのか分からない、という事態はあり得なかったと思われる。

ところが、近代という時代がそれを可能にした。したがって、近代と青春の発見は軌を一にしているが、それと同時に、近代的な意味での「家族」も、そして、また近代的な意味での「小説」も「青春」の発見と同時的に生じていると考えて間違いないだろう。

「青春」とは何かと問うのは簡単なようで意外に困難なのかも知れないが、一つには不定形な存在、過渡期の存在であると言える。その存在に一旦形を与えて、互いに影響を及ぼし合ったのが、小説という制度であろう。小説が青春に不定形という形を与えて、その具体的な内実をさらに小説の中に繰り入れて行った。

しかし、それに重大な足枷を嵌めたのが近代家族という制度である。家族は、青春を揺籃し、そしてそれを縛る。青春、あるいは小説は、いや、近代小説とは結局のところ「青春小説」に他ならなった訳で、その多くは家族の愛と同時に、家族との対決、家族との訣別が描かれている。したがって、近代という大きなモニュメントの中で、青春・小説・家族は不即不離のトリアーデを築いていたのである。この問題については別稿にて論じたい。

前置きが長くなったが、少なくとも、スティーヴンを中心人物とする、本・第2挿話(あるいは、スティーヴンが登場する挿話全て)は、この前作であり、矢張りスティーヴンを主人公とする『若い藝術家の肖像』がそうであるように、明確に近代・青春・(家族)・小説の骨格を備えている。

彼は不定形で、不明確で、何がしたいのか、自分でも分らず、しかしながら、それにも関わらず、大人の権威に逆らい、ぶつかっていく。そう、そう、丸谷才一が好きだった『坊つちやん』や、あるいは『三四郎』と同じなのである*[81]

しかし、それだけであるなら、『ユリシーズ』は20世紀を代表する小説にはならなかったに違いない。この流れの中にレオポルド・ブルームが登場することになるが、それは総じて「神話的」方法であって、それは同時に近代も、青春も家族も、そして小説すらにも大きな疑問符を投げかけ、根底からひっくり返そうという試みに他ならなった。

この問題は第4挿話以降を扱う続稿にて論ずるのが妥当ではあるが、果たして、それが書かれることになるかどうかは、――すいません、全く保障の限りではない( ノД`)。

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20220314 2328

 

 

主要参考文献

 

ウィキペディアWikipedia)』. (2018年8月10日 (金) 14:01更新). 「デュナミス」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2020年6月27日 (土) 07:26更新). 「笹まくら」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2021年3月7日 (日) 05:37更新). 「ヨナ書」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2021年5月18日 (火) 03:56更新). 「イタキ島」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2022年2月19日 (土) 10:04更新). 「〈子供〉の誕生」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2022年2月28日 (月) 17:27更新). 「オデュッセイア」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

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ジョイス ジェイムズ, 丸谷(訳)才一, 永川(訳)玲二, 高松(訳)雄一. (1922年/1996年-97年). 『ユリシーズ』. 集英社.

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トッドエマニュエル, 石崎(監訳)晴己. (2011年/2016年). 『家族システムの起源Ⅰ ユーラシア』上下. 藤原書店.

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ホメロス, 松平(訳)千秋. (?/1994年). 『オデュッセイア』全2巻. 岩波文庫岩波書店).

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吉川信. (2022年3月4日). 「歴史は悪夢か?」. 『22 Ulysses 第3回』.

金井嘉彦. (2022年3月4日). (コメント). 「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」第3回.

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村上龍. (2001年). 『最後の家族』. 幻冬舎.

 

 

(初出『鳥――批評と創造の試み』第13号・2022年3月16日・鳥の事務所)

 

*[1] 『ユリシーズ』からの引用は集英社版・単行本 [ジョイス, 丸谷(訳), 永川(訳), 高松(訳), 1922年/1996年-97年]による。以下、U-△-巻数‐挿話数‐ℓ.行数 で示す。ただし脚注・訳者解説などを引用・言及する場合は行数ではなくペイジ数とする。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

*[2] ① 「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」全22回開催・2022年2月2日から12月16日までon lineにて実施・発起人:田多良俊樹、河原真也、桃尾美佳、小野瀬宗一郎、南谷奉良、小林広直、田中恵理、平繁佳織、永嶋友、今関裕太、宮原駿、湯田かよこ、新井智也。②「2022年の『ユリシーズ』―スティーヴンズの読書会」全18回(?)開催・2019年6月16日から・現在はon lineにて実施・主催者: 南谷奉良・小林広直・平繁佳織。

*[3] [ジョイス ジ. , 丸谷(訳), 永川(訳), 高松(訳), 1922年/1964年]

*[4] 『ユリシーズ』は1922年2月2日、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店(パリ)から刊行された。

*[5] 「ゴーマン=ギルバート計画表」/U-△-Ⅲ-p.p.686-687.

*[6] 日本語版にはでかでかと、この挿話名が記されているが、英語原文には挿話の数字はあっても、挿話名はないのが通例である。

*[7] [ホメロス 松平(訳), ?/1994年]これは岩波文庫。ネットでは以下のものが読める。 [ホーマー 土井(訳), 2003年8月30日更新]。

*[8] 【引用者註】イタキ島(イタキとう、現代ギリシャ語: Ιθάκη / Ithaki)は、イオニア海に所在するギリシャ領の島で、地理的・行政的なイオニア諸島に属する。イタカ島(英語: Ithaca or Ithaka)、イタケ島 もしくは イタケー島(古代ギリシア語: Ἰθάκη / Ithákē)とも呼ばれる。ホメーロスオデュッセイア』では英雄オデュッセウスの故郷として「イタケー島」 (Homer's Ithaca) が登場するが、現在のイタキ島と同一であるかどうかには諸説ある( [『ウィキペディアWikipedia)』, 「イタキ島」, 2021年5月18日 (火) 03:56更新]」。

*[9] [『ウィキペディアWikipedia)』, 「オデュッセイア」, 2022年2月28日 (月) 17:27更新]。

*[10] 以下くどいので、ギリシア音の長音の長音符「ー」を省略する。

*[11] 「テレマコス伝」というような意味か? ちなみに『ユリシーズ』の三部構成は以下のようになっている。テレマコス(スティーヴン)の活躍する第一部「テレマキア」(第1~3挿話)、オデュッセウス(ブルーム)が中心となる第二部「オデュッセイア」(第4~15挿話)、そしてブルームがスティーヴンを連れて妻モリーの元に戻って来る第三部「ノストス(帰郷)」(第16~18挿話)。これらの部の名称は挿話名と同じように、仮の名称である( [『ウィキペディアWikipedia)』, 「ユリシーズ」, 2022年2月6日 (日) 07:54更新]を要約)。

*[12] 「今夜はここでは寝ない。家に帰ることもできない。」U-△-Ⅰ-1-ℓ.ℓ.830-831。

*[13] このピュロスは地名でネストル王の宮殿があったところ。一般的にピュロスとは古代ギリシアの王のことを指し、本挿話、冒頭の「どの都市が彼を呼んだ?」(U-△-Ⅰ-2-ℓ.1)の「彼」がこのピュロス王のことである。もちろん、意図的にこういう意味の重層化を図っているのであろう。ピュロス王はローマ軍との戦いで辛勝したものの、帰還後、「老婆の投げた瓦のために落馬したところを討ち取られた」というあえない最期を迎えた( [河野(訳), 1952年-56年]/U-△-Ⅰ-2-p.63脚注より援引)。

*[14] スティーヴンからすれば、ディージーの言説は「老年の知恵」(U-△-Ⅰ-2-ℓ.436)と見えるが、実際はさほど老人ではない気がする。

*[15] ズボンのポケットにもらったばかりの給料をそのまま入れたスティーヴンに対して

ディージー校長は「そんなところに金を入れるもんじゃない」(U-△-Ⅰ-2-ℓ.262)と注意したり、「貯金しないから」(U-△-Ⅰ-2-ℓ.271)駄目なんだ、と注意している。

*[16] 「――《わたしは自分の金で生きた。これまでに一シリングの借金もしていない》。これは身にこたえるかな? 《なんの借りもない》。どうだね? 」(U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ. 292-293)と校長に言われて、スティーヴンは以下のように独白する。「マリガンに九ポンド、靴下三足、ばろ靴一足、ネクタイ数本。カランに十ギニー。マッキャンに一ギニー。フレッド・ライアンに二シリング。テンプルに昼飯二回。ラッセルに一ギニー。カズンズに十シリング。ボブ・レノルズに半ギニー。コーラーに三ギニー。ミセス・マッカーナンに下宿代五週間分。この一握りじゃどうしようもない。」(U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.294-298)彼がそこで貰った給与は3ポンド12シリングだが、これでは確かに「どうしようもない」(U-△-Ⅰ-2-ℓ.298)。ちなみにスティーヴンはかなりの給与をもらっているらしい。ジョイス学者・金井嘉彦(一橋大学大学院教授)によれば「£1(1ポンド・引用者註)あると家族で一週間暮らせる額なので。」とのこと( [金井, 2022年3月4日]でのコメント)。

*[17] 【引用者註】桟橋。

*[18] U-△-Ⅰ-2-ℓ.31。

*[19] U-△-Ⅰ-2-ℓ.39。

*[20] 「当て外れの橋」(disappointed bridge)は訳注の3番目の意味では「『ハムレット』の亡霊の台詞unhousel'd,disappointed, unanel'd(「聖体も授けられず、心構えも与えられず、終油も施されず」一幕五場) と母の死を結びつけて。 スティーヴンの母は臨終の秘蹟を授けられたはずだが、彼は最後の祈りを拒んだゆえに良心の呵責を感じている。」と解釈している(U-△-Ⅰ-2-p.67。下線引用者)。

*[21] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.45-46。

*[22] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.50-51。

*[23] U-△-Ⅰ-2-ℓ.156.

*[24] U-△-Ⅰ-2- ℓ.ℓ.175-176.

*[25] U-△-Ⅰ-2-ℓ.172.

*[26] 『ハムレット』に登場する亡霊はハムレットの亡父である。

*[27] U-△-Ⅰ-2- ℓ.ℓ.172-174.

*[28] U-△-Ⅰ-2- ℓ.162.

*[29] 【訳註】アイルランド出身の聖人 (五四三頃ー六一五)。母が戸口に横たわり引き止めるのを振り切って聖職にはいったという。(U-△-Ⅰ-2- p.73.)

*[30] U-△-Ⅰ-2- ℓ.ℓ.167-171.下線引用者。

*[31] U-△-Ⅰ-1- ℓ.99.

*[32] U-△-Ⅰ-1- ℓ.99.

*[33] U-△-Ⅰ-1- ℓ.ℓ.99-100.

*[34] U-△-Ⅰ-1- p.12.

*[35] U-△-Ⅰ-1- ℓ.100.

*[36] U-△-Ⅰ-1- ℓ.ℓ.107-111.下線引用者。

*[37] U-△-Ⅰ-1- p.20.

*[38] U-△-Ⅰ-1- p.20.

*[39] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.168-169.

*[40] U-△-Ⅰ-2- ℓ.169.

*[41] U-△-Ⅰ-1- ℓ.ℓ.292-304. 傍点・下線引用者。

*[42] 集英社版では「謎」(riddle)と訳されているが、文脈的には「なぞなぞ」が妥当であろう。原文ではその直前にある「a riddling sentence to be woven and woven on the church’s looms(教会の織機で織り直され、織り返される謎にみちた言葉)」を受けて、ということと語呂の問題から「謎」になったと思われる。

*[43] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.123-130. 謎々なので、「これは何か?」ではなくて、「これな~んだ?」と訳したいところだ。

*[44] U-△-Ⅰ-2- ℓ.137. 下線引用者。

*[45] U-△-Ⅰ-2- p.72.

*[46] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.467-469.

*[47] U-△-Ⅰ-2-ℓ.470.

*[48] U-△-Ⅰ-2-ℓ.471.

*[49] U-△-Ⅰ-2-ℓ.472.

*[50] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.473-474.

*[51] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.57-62. 下線引用者。

*[52] U-△-Ⅰ-2-ℓ.65.

*[53] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.75-77.

*[54] U-△-Ⅰ-2-p.68.

*[55] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.79-80.

*[56] この詳細は第9挿話で語られる。「ハムレット」問題についてはそこで合わせて論ずることとする。

*[57] 本文中、ディージー校長によって、前後する形で、断片的なアイルランドの歴史が語られるが、予備知識がないと分かりづらい。訳注にはそれを年代順に整理してある(U-△-Ⅰ-2-p.p.80-84)。

*[58] U-△-Ⅰ-2-ℓ.436.

*[59] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.438-439.

*[60] U-△-Ⅰ-2-p.62. 下線引用者。

*[61] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.33-35.

*[62] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.401-410.

*[63] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.507-518。訳注にもあるように、これもディージーの重大な事実誤認である(U-△-Ⅰ-2-p.91)。

*[64] 彼がさも当然だと言っていることの多くは間違っている。

*[65] U-△-Ⅰ-2-ℓ.4.

*[66] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.9-10. 下線引用者。

*[67] U-△-Ⅰ-2-ℓ.13.

*[68] コラム「ユダヤ人と口蹄疫」参照。

[69] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.354-370.  傍点・下線引用者。

*[70] コラム 「少年時代の秘密」参照。

*[71] U-△-Ⅰ-1-p.12.

*[72] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.93-103. 下線引用者。

*[73] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.442-444.

*[74] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.445-449. 下線引用者。

*[75] U-△-Ⅰ-2-p.88.

[76] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.450-452.

[77] U-△-Ⅰ-2-ℓ.ℓ.458-459. 下線引用者。

[78] 訳注には「神の存在の否定」とある(U-△-Ⅰ-2-p.p.89-90)。

*[79] 個人的な見解を言えば、小林は必ずしも青春を象徴しない。むしろ、逆である。青春という物質の最も高まる一時期ではなく、永遠の存在である「幽霊」に取りつかれていた小林を描いた、(何故か、現段階では未刊行の)「孤独の発明」の方がより、小林秀雄という、この稀有な思想家、批評家の実像を照らしていると言える。

*[80] 石坂の長篇小説はその大半が映画化された、と言うよりも、映画化を前提として作品が書かれた。

*[81] [丸谷, 『闊歩する漱石』, 2000年]。