鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

その人個人の神話を発見すること 河合隼雄著作集全14巻

はじめに

 

本稿は今を去ること、およそ30年程前、『河合隼雄著作集』の第1期*[1]の刊行開始に合わせて、発表したものである。したがって、河合隼雄の中期から後期にかけての著作や社会的、あるいは文化的活動については触れていない。

取り分け、『こころの処方箋』(新潮社、1992年)並びに『村上春樹河合隼雄に会いにいく』(岩波書店、1996年)については、いずれどこかで触れねばならぬと考えている。一旦は、わたし自身の河合隼雄像とは以下のようなものである。

今般、一棚書店PASSAGEの企画で、河合の『子どもの宇宙』(岩波新書、1987年)を出品することとなり、その解説として、旧版を復刻して添付させて頂いたが、せっかくなので、文字起こしをし、ネットにて公開することにした。

驚くべきは30年前も、30年後の現在も、人の考えはほとんど変わっていない、という事実である。成長がないとも言えるし、頑固に若き日の思考を堅持し続けている、とも言える。そう考えれば、さほど驚くに値しないとも言い得るか。

ちなみに、以下の駄文の会話体は、村上龍のエッセイのパクリなのだが、要は、この段階では、普通に文章が書けなかったというだけなのである。残念。脚註は今回新たに付した。蛇足であるな。

 

 

その人個人の神話を発見すること

河合隼雄著作集全14巻

 



 

目次

はじめに... 1

... 3

ユング... 5

... 9

方 法... 10

... 13

捜 す... 15

宗 教/物 語... 16

... 20

... 23

 

 

 

昔 話

 

 河合隼雄の全集*[2]が出ますね。

B ああ、 そうですか。 Aさんは河合隼雄がお好きでしたね。

A まあ、 そうですね。

B 河合さんのどこがいいのですか?

A 河合さんはだめですか?

B だめってことはないんでしょうが……。そうですね、ま、僕はそんなに読んでないので、大きなことは言えませんが、少々中途半端な感じがしますね。

A ははあ、成程、 それはそうかも知れませんよ。何をお読みになりましたか?

B えーとね、昔話のやつがありましたね。

A 『昔話の深層』*[3]?

B じゃなくて。

A 『昔話と日本人の心』ですね。

B そうそう。

A 他には?

B えーとなんだっけな、『宗教と科学の接点』かな。

A ははあ。なかなかBさん、ポイントを押さえていますね。有名なものはちゃんと読んでいるじゃないですか。

B そうかな。

A Bさんのおっしやることは分かりますよ。そもそも河合隼雄は臨床心理学者で、つまり、理論プロパーというよりも、実際に心理療法の現場にいる人間だ。というわけで、まず第一に思想的な「ありがたみ」が乏しい、そういうことでしょう?

B そうですね、特に『宗教と科学……』の方はそんな感じがするね。要するに別に河合隼雄がわざわざ書かなくてもいいような気がしますね。

A そうでしようね、確かに割りと有名な本であるにも関わらず、あまり河合さんらしさが出ていない。思想的な内容を扱っているのだけれども、それに反して思想性を感じない。少々残念な本ですね。ま、これも読む人次第でしょうが。あの本はやはりあの段階で河合さんにとって〈宗教〉というものを前面に打ち出す必要があったんだと思います。もちろん宗教、あるいは〈宗教性〉については相当以前から著作で触れられていますが。それについてはあとでゆっくりお話ししましょう。それから何でしたっけ?

B 『昔話……』

A 『昔話と日本人の心』ですね。もう一つ昔話に関する本があって『昔話の深層』というものですが、こちらの方が先に出されました。これはグリム童話を題材にして、そこに心理学的分析を加えるもので、なかなか面白い。 『……日本人の心』よりもこちらの方がむしろ「読んで」面白いかも知れない。ただ、河合さん本人にとっては、この本は基本的にはユング派の考えを日本に紹介するというところが本旨なのでしよう。

 

ユング

 

A ちょっとここらで河合さんの業績の流れ、あくまでも著作に準じてということですが、少し振り返ってみましようか。

B そうですね。まず最初はさっきもでてきましたが、 河合隼雄は心理学者だということでしょうか。

A えーとねぇ、 それはそうなんですが、最初河合さんは京都大学の理学部のご出身で、数学がそもそもは専門だったんですよね。

B ああ、 そうなんですか。へぇ。

A で、高校の数学の先生になったんですよ。

B ふむふむ。

A ところが生徒指導なんかの問題で心理学を始めて、それが高じてアメリカに留学して、そこでユング派の人と出会うことになるんですが、そういうことで、スイスのユング研究所に行きまして、日本人としては最初のユング派の分析家の資格を取るわけですね。

B どうしてユングだったんでしようかね。

A なんか偶然だったみたいですよ。

B なんかいいかげんですね。

A そうですね、ま、しかし人生というのは偶然の連鎖ですから、そういう感じの方が「良い加減」なんでしよう。もちろんユングなくして今の河合隼雄はなかったでしょうが、必ずしも河合さんて、純粋のユング派っていう感じがしないじゃないですか。

B そうですよね、単なる祖述者じゃないってことですね。

A というわけで帰国してからしばらくはユングの紹介者として知られることになるわけです。最初の著作が『ユング心理学入門』。同じような系列の本が『コンプレックス』・『影の現象学』・『無意識の構造』・『ユングの生涯』と続くわけです。あと対談ですが、『フロイトユング』・『魂にメスはいらない』というようなものもあります。この辺りの本は最初の『ユング心理学入門』を除いて全て文庫か新書に入っていますので気軽に手に取ることが出来ますし、今まで心理学の本なんか読んだことネ工ヤッ! こちとら江戸っ子デェ! というような人にもお薦めです。

B 突然どうしたんですか?

A ま、面白いから読んでみて下さい。

B ところで「日本で最初のユング派の分析家」ということをおっしゃいましたが、「分析家」って何ですか?

A えーとねえ、 フロイトにしてもユングにしてももともとはヒステリーとか神経症の治療をする中で様々な独自の理論を組み上げていったわけですね。だから河合さんもつい最近までは京都大学で患者さんたちをかかえて心理療法をされていたんですね。そういうのを分析家というみたいです。

B なんで「分析」家なんでしようね?

A そうですね、河合さんがおやりになっているのは精神科のお医者さんの仕事とは一応違うわけですね。〈山の向こう側〉にいらっしゃる方々を対象とするのは精神病理学の領域で、学部で言うと医学部の領域なんですね。河合さんは京大では教育学部に所属されていました。最後は学部長までお務めになりましたが、我々「健常者」は言うなれは〈山のこちら側〉に幸か不幸か、たまたまいさせていただいているわけですが、ただ時々〈山〉が恋しくなったりとかで、山道に入り込んだり、迷ったりするわけですね。そういう人はノイローゼなんかの症状が現れるんじゃないでしょうか。それでユング派の人達は例えは〈夢〉を記録して話し合ったり、「箱庭療法」といって、箱庭にいろんな物を置いたり、形を作ったりする。あるいは一緒に遊んだりする「遊戯療法」というようなものもあるようです。ただそこで何かを分析するというよりは、患者の話を聞いたりというのが主眼のようです。ま、私はこういうことが専門ではありませんので、あくまでも河合さんの本を読んだ限りの話です

B 成程ねえ。Aさんは何がご専門なんですか?

A それは秘密です。

B はい、はい。ただ、今、河合さんは京都大学を定年でお辞めになって、国際日本文化研究センターにいらっしゃいますね。

 

日 本

 

A そうですね。そこで先ほどの話に戻るわけですが、 ユング派では昔話の分析を通じて精神の構造を探ろうとするわけです。それの紹介が『昔話の深層』なのですが、例えば西洋の昔話と日本の昔話とは少々違う、そこには西洋人の心の構造と日本人の心の構造の違いが現れているということになるわけです。そのことにどうもユング研究所にいらっしやる時から気づいていたそうですが、ただそのことを著作として発表される前に臨床家として日々様々な心の状態の人々と接するに従って、さきほどの西洋人と日本人の心の構造の差異に一層関心を深められていったのでしょう。

B ははあ、それが日本〈母性社会〉論ですね。

A そうです、『母性社会日本の病理』ですね。要するに西洋が父性が強固なのに対して、日本は〈母性〉が強い〈母性社会〉だというわけですね。戦前においては表面的に父権が強くそれとバランスをとっていたということですが、戦後それが崩れて現在の様々な問題を生み出しているとしています。もちろんだから父権を再復活せよという議論にはなりません。そう単純ではないでしょう。

また、 このことの各論として子どもや教育の問題(『子どもの宇宙』・『子どもと学校』など)、家族の問題(『家族関係を考える』など)、中年や死の問題(『働きざかりの心理学』・『中年クライシス』・『生と死の接点』など)という感じで次々と展開されていきます。

B フーム。

A そして、その日本人論、日本文化論の追求として神話や昔話、古典読解へと歩みを進めていきます。それが先程の『昔話と日本人の心』ですね。この系列としては『中空構造日本の深層』・『明恵 夢を生きる』・『とりかへばや、男と女』そして最新刊の『物語をものがたる』 と続くわけです。恐らく河合さんご本人としては今後この系列のお仕事を続けられていくのだと思います。

 

方 法

 

B さあ、そこで『昔話と日本人の心』 のことですが。

A ええ、 そうでした。

B 要するに学問的に果たしてどうなのか、手続きは万全か、そういう疑問ですね。

A ええ、分かります。昔話を題材に日本人の精神構造を分析するというが、そもそも昔話とは一体何なのか、一体いつのものなのか、代々語り伝えられてきたものも、もちろん聞き書きしたのはつい最近なのですから、ある種の変容が加わっているはずです。その辺りをどう考えるのか。

B 例えば、同じ昔話でもグリム童話なんかは、グリムが童話集としてまとめるにあたって行った検閲の問題が最近研究されていますね。

A うんうん、たくさん出ていますね、手近なところでは鈴木晶さんの『グリム童話』(1991年・講談社現代新書)なんかに紹介されていますね。

B あと「日本人」というくくりかたの問題ですね。例えば日本中世史の網野善彦さんの研究によれば、中世においては日本は東日本と西日本と分裂していたそうですから(網野善彦『日本社会と天皇制』1988年・岩波ブックレット)。

A JR西日本と東日本の対立は今に始まったことではないんですね。

B ……? JRで対立しているのって東日本と東海じゃなかったかな?

A ……うーむ そうだったかも知れない。しまった。

B ま、それとか、どの辺りまでを日本とするのかという問題もありますよね。よく日本は単一民族とかいいますけど、 そんなのは全くの虚構なのは言うまでもありません。仮に「日本」という枠を一応認めるにしても地域性の問題がやはり残るでしよう。例えばさっきの『昔話と日本人の心』、ですか、それでは確か昔話が採集された地域がばらばらでしたね。

A ええ、そうです。ま、あそこで言われている内容を簡単にまとめると、 西洋人と日本人の意識の差が昔話に表れている。前者は男性として後者は女性の姿をとっている。例えば西洋人の意識は若き英雄が怪獣なりを倒して、お姫様を手に入れるという形で表される。これは要するに〈自我〉の発生を意味しているわけです。ところが日本人の場合は主人公が女性なんですね。あるいは女性的意識を持っている。ま、ここまではいいんです。そこから河合さんは〈無〉の意識からその女性が自立するまでを、昔話を恣意的に並べ直して後付けようとする。話としては面白いし、実際の臨床ではけっこうこういう直感力のようなものが要請されるのでしょう。

B しかし、学問的には少々杜撰(ずさん)の謗(そし)りを免れないのではないのか。

A おっしゃる通りです。でも仮説としてはどうですか?

B そうですね、ま、話としては面白いんじゃないでしょうか。

A 恐らくそのような学問的手続きの不備については河合さんご自身も自覚されているでしょうから、今後整備されてくることだと思います。

 

事 例

 

B ところでAさんとしてはどういう点に魅かれるわけですか?

A そうですね。まあ、河合さんは今のような形になって初めてオリジナルな思想家になり得たのでしようが、私個人としては今お話しがあったように日本文化論関係のものは方法の問題も含めてどうもあまり面白く感じられません。

B それはどうしてですか? あんまり日本のことは好きじゃない?

A いやそんなことはないですよ。――あのね、要するに具体性に欠くような気がするんです。もちろん昔話だとか、神話だとか、そういう具体的なものはあるんですが、パンチがないような気がするんです。

B ……パンチですか? ということは……?

A ま、 つまりですね、私個人としてはやはり初期のものというか、 日本論以外のものの方が面白いと思うんです。

B それはどうしてですかね?

A うーん。ま、ひとつとしては私が心理学の素人だからというものと、河合さんご自身の文章も清新な感じがしますね。非常にスッキリしたものを私は感じます。あと初期のものは確かにユングの祖述なのですが、なんだかそれにとどまっていない気がするんですね。きちんと河合さんの中で咀嚼されて、河合さんの言葉で言い直されている気がする。もう一つはさっき言った具体性の問題ですよね。ま、事実は昔話よりも奇なりということでしょうか。つまり事例の中にドラマがあってすごい衝撃を与えるんですね。

B でもそれは事例の面白さで河合さんの功じゃないでしょう。

A うん、要するに、変な言い方ですが河合さんは腕のいい料理人なんじゃないでしようか。

B  素材の良さを引き出すとか?

A うん、『美味(おい)しんぼ』みたいですが、 そういうことでしょう(雁屋哲花咲アキラ美味しんぼ』現111巻・1985年ー・小学館)。

B 成程ね。

 

捜 す

 

A これは『子どもの宇宙』の中で紹介されている事例なんですが、簡単に説明してもなかなか感動が伝わりにくいでしようが、P子ちゃんという小学3年生の女の子で情緒不安定、集団不適応ということで相談に来られた事例です。担当されたのは河合さんではなくて木村晴子さんという大学院生の方のようです。遊戯療法ということで一緒に遊ぶなかで徐々にP子は変化し、やがて「治癒」していくのですが、例えば一緒に宝捜しの遊びをするんですが、結局それは見つからない、だが、 それにも関わらすP子は大喜びだったといいます。 その辺りを読んでみましょう。えーと、ちょっと待って下さい。 《結局のところ秘密の宝は見つからなかった。しかし、P子は「ああ面白い、 こんな面白い遊び、先生したことある?」と大喜び》だったというんです (『子どもの宇宙』65頁)。で、治療者の木村さんがお書きになったコメント。《ダイヤの隠されている周辺を、P子はこれまでの人生にないほどエネルギーを使い、感情をこめて探索する。ダイヤそのものの発見よりも、今は治療者とともに捜すことに意味があるのだと思う。》(木村晴子「少女P子との二年間ープレイセラピイの記録」/河合隼雄他編『臨床心理ケース研究3』1980年・誠信書房。 『子どもの宇宙』65頁より援引・傍線評者)。

B ふーむ、成程ね。

A 他にもいろいろ挙げられているんですが、 治療の最終回の1回前にはP子はカネゴンの人形を砂に埋めて《「カネゴンは悪いことや乱暴なことはしない。けれどお金を食べるから、やっぱりみんなを困らせる」》と言って、その左右に「カネゴンのおはか」 「さようなら、 カネゴン」と書いたそうです。同じく木村さんのコメント。《埋葬されたカネゴンは、 これまでのP子自身であると思い、 胸のつまる思いであった。》(同前。「子どもの宇宙』67頁より援引)。このようにして彼女は治癒していくわけです。

 

宗 教/物 語

 

B うーん。なんか宗教的ですね。

A そうですね、さっきも言いましたけどこの〈宗教性〉の問題は河合さんご自身にとっても極めて重要な問題だったと思います。 この宗教性の発生は当然の事ながら〈意味〉の問題ともからんでいるわけですが、もっと言えば〈ストーリー〉、あるいは〈物語〉とも関係があるような気がする。

例えばさっきのP子の例で木村さんは《埋葬されたカネゴンは、 これまでのP子自身であると思い》とおっしゃっているがこれは単なる解釈、 つまり「お話し」だとして退けることは可能なわけです。そう勝手に木村さんが思いこんでいるだけで、 P子の治癒とは因果関係がないってね。しかし、この短い引用では分かりにくいんですが、 ……何と言えばいいんでしょうか、とても私たちのこころの奥に、 腑に落ちるとでもいうんでしょうか、非常にしっくりくるお話しなんですね。 ストンと入ってくるわけです。 これはやはり我々にとってもP子にとってもこのことが〈物語〉の形をしているからでしょう。

宗教というのは言うまでもなく絶対的な価値をその根幹に持つわけですが、その絶対性が絶対のままであれば、我々は理解できないわけです。それを物語の形にしてやるとうまく我々の心に入ってくるわけですね。

 そういう側面と、物語を話したり、書いたり、あるいは物語を生きることによって、不可避的に絶対的なものを照射してしまうんじゃないでしょうか。もちろんこんなこと簡単には説明できない。感じてもらうしかないんですが。

さっきの宝探しの例だって、いわゆる「お話し」だったら、情緒不安定の子どもが比喩的に宝を発見することによって自らの心を発見して治癒していきました。めでたしめでたし。これだったら誰も驚かないでしょ。まあ、それは良かったねで終わりです。しかし、宝が見つからないっていうんですから、これは我々にとっても、すごくびっくりすることです。けれども内的なドラマとしては正にそうである他ないような起爆力を秘めているわけです。これには本当に感動しました。

要するに私たちは事象それ自体を観照することなどできないわけです。〈生きる〉ということそれ自体がもう既に何らかの解釈ですから。つまり一瞬一瞬我々は何かを判断選択して生きているわけですから。〈意味〉はどう転んでも発生してしまうわけです。

ただ我々としては手垢がべっとりと付いた「意味」や、老朽化して固着してしまった「物語」なんかは拒絶できるんじゃないでしょうか。 B なんだかいきなり話が難しくなりませんか。

A 例えばさっきのカネゴンの埋葬だって、〈宗教性〉とはいっても「宗教」とは言いませんよね。

B カネゴン、拝んでもしょうがないからね。

A その違いはなんでしょうか?

B うーん、宗教は要するに一つの制度でしよう。それに対して宗教性の方は宗教や信仰が発生してくるその瞬間のエネルギーのような……。

A そうでしょうね。どちらも〈意味〉であることには変わりがありませんが、宗教の方は意味の堆積でしようね。だから閉ざされた空間では安心できるわけです。しかし意味がぶつかり合う場所やそのような時代になってくると絶えず清新な宗教性を一人一人が持つということが必要になってくるのではないでしょうか。恐らくそれは一人一人が自分自身の何らかの〈物語〉を持つということと同じだと思います。

これじゃ、分かんないですよね?

B ええ、さっぱり。

 

自 分

 

A それでですね、河合さんご自身がこんなことを随分初期の段階でおっしゃっているんです。

いうまでもないことですが、ユング派では心の構造を表層的な意識、この中心が自我。深層的なものを無意識、この中心を自己といっているようです。

要するに人間が一個の人間として生きていくということはある意味では可能性の限定ということじゃないですか。

B ええ。消防士になった人間は教師にはなれない。

A そういうことですよね。で、心には相補性というのがあるんだそうです。ま、職業の例は極端ですけど、ま、例えば明るい性格の人は明る過ぎて、悲しみや苦しみを抱いている人のことを理解できないとすると、それが無意識の方で調節しようとして、例えばコンプレックスとして形成され、やがてそれが何らかの症状として現れてくるんだそうです。

あるいは成長の問題をあげてもいいでしよう。例えは成人式とか行きました?

B ハハハ、一応行きましたよ。ネクタイくれたな。

A 感動しました?

B するわけないでしょ。

A なんか実感ありました? 成人したなぁって。

B うーん、何年前の話だ。なかったんじゃないでしょうか。

A あのね、私は行かなかったんです。行ってもしょうがないと思って。それはそれで仕方ないんですが、人間はちゃんとした形で何らかの成長したということを確認する場が必要なんじゃないでしょうか。

B 〈イニシエーション〉。

A そう、〈通過儀礼〉。言うまでもなく、 かつては宗教がそのような儀礼に意味を与えていました。ところが今、地方公共団体でやっている成人式を何か宗教でやるわけにいかないだろうし、仮にやってもどうでしょうか、あまり意味が伝わっていかないでしょうね。

B 別にそういうことにこだわらなくてもいいんじゃないかという人もいるんじゃないですか。

A まあ、 そこで無意識の問題に戻るわけですが、 さきほども言ったように人間の心はどういうわけか何らかの成長ということを要求しているんじゃないでしょうか。成長ということが問題なら変化といってもいいんですが、 そうすると悪く変わるよりは良く変わった方がいいでしょ。まあ、良い悪いというのは難しいですが。例えば一応健康な人で、全く何もしないということを1年でも続けるということは可能でしょうか。食う寝るは保証する、 しかし、何もしてはいけない。

B なんだかうらやましいような話ですが、多分おかしくなるでしょうね。

A 多分人間は自分の心身は自分のものであるにも関わらず、自分のものに出来ていないんじゃないでしょうか。つまりコントロールできる部分はかなり少ないんじゃないでしょうか。

B 一番身近な他人は自分だって言いますからね。

A そう他人のこともそうそう理解できないけど、実は一番分からないのは自分なんですね。恐らく、このわけの分からない〈自分〉ということを抱え込んだということが人間の人間たるゆえんでしょう。そしてその分からない自分を理解するために、あるいは分からない自分と〈和解〉するために人間は生きているんだと思います。そのためにその分からない自分を形にしてやる必要があるんです。例えば自分の仕事がそうでしょうし、あるいは子どもを育てるとかね、芸術家であれば自分の作品がまさに自分の分身になるわけですね。ただ、問題はそれがすっきりと自己の確認になればいいのですが、そう簡単にはいかないわけです。例えば仕事の例が一番簡単ですが、自分の思うようにやれる程、世の中は甘くないわけです。

かつては宗教がその仕事を担っていた、あるいは支えていたんでしょうね。オレハ一体何ナンダー! という叫びをうまく吸収していたのでしょう。しかし私たちは科学の進歩によってそのようなものをどうも喪ってしまったようです。

 

神 話

 

A さて前置きが長くなりました。 そこで河合さんは次のようにおっしゃっている。

 

《このようにいって、私は科学の進歩を攻撃するつもりは毛頭ない。それは確かに結構なことだ。しかし、科学の進歩によって失ったものを回復する手段を講じておかねはならないと考えるのである。ここで、われわれの取り得る道は、伝統的な儀式に再び生命を与えるか、あるいは新しい儀式を創造するかであると思われる。あるいは、いってみれば、その人個人の神話を発見することといっていいかも知れない。(……)伝承社会と訣別によって生じた近代社会に生きるわれわれとしては、簡単に伝統的なイニシエーションの儀式に頼ることはできない。ここでわれわれに課せられた問題は、伝承社会の一員としてではなく、個性をもった一人の人間として、いかに個人による個人のためのイニシエーションの儀式を行うかにあると思われる》(『コンプレックス』209頁・傍線評者)。

 

B ……。

A そのために河合さんは無意識との対決を呼びかけられている。そのなかで自分というもの、自分の成長というものが出てくるということでしょう。

B じゃ、宗教はだめなんですかね。

A いやそうじゃあないでしょう。ただ何らかの信仰を持ったり宗教団体に参加するということが絶対条件ではないんでしょう。問題はやはり《その人個人の神話を発見すること》という点にあるのではないでしょうか。

B それはどういう意味なんでしょうね。

A ここで〈神話〉っていう言葉が使われているのは、さっき述べた西洋人の心が一人の若き英雄の神話で表されているという点を踏まえているのだと思います。だからこの言葉は「物語」でも「意味」でもいいんです。さっきのP子の場合ではカネゴンの埋葬がその段階でのP子にとっての神話、儀式だったわけです。

B ……。

A 分かりにくいですね。 そうだなぁ、例えばこんなことがあります。須田晴夫という人によるとキリスト教神学の流れは自己解体的に仏教に近づいているのだそうです。 つまり神の絶対性をどんどんと相対化していって、最終的には《キリスト者のなすべきことは、 この世においてイエスを見つけ、イエスのわざをなし、イエスそのものになることである。「イエスになるためには」、神を信ずるのではなく「自己自身に対して降りて行くこと」である》というところまでいってしまうのだそうです(須田晴夫「「神」の変貌」/『講座・教学研究』3・1982年・東洋哲学研究所・183頁・傍線評者)。これはハミルトンという人の考えだそうですから、一概にそう言えるかどうか分かりません。しかし、事実がどうであれ、このような考え方が照らし出すものは宗教ではあるが、宗教とは言えない、そういう微妙な思想、というよりも態度でしようか、これはひとつの〈無宗教の宗教〉とでも言うべきものでしょう。あるいは〈無神論の宗教〉といってもいいかもしれない。先程の話と同じようなものを感しるのですが。

B ウーン。

A 我々はこうして毎日生きていても、 一瞬一瞬、意味や自分というものが手のひらから次々とこぼれ落ちていくような経験をしています。電車を待つプラットホームやあるいは会社でパソコンと向かい合っている時に自分だけが「世界」の蟻地獄のような底に一人取り残されたような気持ちになることがあります。

B エッ?

A あ、ないですか?

B ま、そうですね。

A なきゃないでいいんですよ。我々はそうした意味や自我の流出をなんとか食い止めるために一瞬一瞬、自分自身の神話を捜すんじゃないでしょうか。文学の言葉に翻訳すれば恐らくそれが物語や批評の意味なんだと思う。もちろんそれは様々なことの根幹に普選的にあるような気がします。しかし、この神話はそう簡単には見つからないのではないでしょうか、あたかもP子の宝が見つからなかったようにね。我々は一生かけてその宝を捜し続けるんじゃないでしょうか。すなわち捜す中にこそ意味があるわけですね。

B ムムム、なんかAさん、かっこよすぎませんか?

A フフフ、ちょっとね。

 

(初出 『鳥』1994年2月号・鳥の事務所)

 

11197字(28枚)

🐤

20220630 0154

 

[1]河合隼雄著作集』第一期(岩波書店・全14巻、1994年~1995年)・『河合隼雄著作集 第二期』(岩波書店・全11巻、2001年~2004年)。

*[2] 全集ではなく、選集である「著作集」である。

*[3] 以下、河合の著作の書誌情報は別稿「河合隼雄著作一覧」を参照されたい。