鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

鬼 殺す勿(なか)れ ――『鬼滅の刃』異論

■光の影の記憶に――漫画・アニメイション論 その①

鬼 殺す勿(なか)れ

――『鬼滅の刃』異論

 

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※【未定稿】 

すいません、修正が必要なのは重々承知しておりますが、いささか忙しくなり、本人が忘れてしまうので一旦アップします。続稿は現在、複数の回路で準備中です。

もう一つの理由は、殺し合うのが普通であるという感覚や、何らかの理念のために、相手はおろか、自分も、自分の陣営も死んでも構わない、死ぬことによって、その理念に実体が宿るという思想(のようなもの)が蔓延していることに強い危惧を覚えたからです。「死んで花実の咲くものか」という俚諺は民衆の持つ知恵を冥々とと伝えているのではないでしょうか。

うろ覚えで恐縮ですが、永井豪の『デビルマン』の最終部の下りは、旧ソ連の首脳部が悪魔に乗り移られ、核戦争の準備に入ろうとするときに、旧ソ連を中心として、巨大な光の環が現れ、やがてそれが地球大に拡がっていくことを予想させて終わります。その光に触れたものはそのまま塩の柱に変ってしまうのですが、光が地球を呑み込む前に、人類は互いに殺し合って、勝手に滅亡していったのです。巨大な光が何なのかは、とりあえず措くとしても、その巨大な光の輪(のようなもの)が地球を覆う日が近づいていると思わされる昨今、我々は自分の立場で何をどうするのが最善なのかを考え続け、行動していきたいものです。

 

 

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。

――フリードリッヒ・ニーチェ善悪の彼岸146節・1886年

 

"Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein."

――Friedrich Wilhelm Nietzsche,Jenseits von Gut und Böse,146,1886.

(『ウィキクォート』より一部修正して援引)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【目次】

 

はじめに  「福は内、鬼は外」. 3

1 「鬼」の両義的側面... 3

2 「桃太郎」の鬼退治... 5

3 言葉・価値・文化の両義性... 6

4 『鬼滅の刃』批判に先立って.. 7

表 1 【『鬼滅の刃』原作と映像作品との対応】. 8

コラム 【『鬼滅の刃』あらすじ】. 11

1 根本的な論点以外における『鬼滅の刃』批判あるいは疑問点... 11

1 遊郭が舞台である意味はあるのか?.. 11

1 遊郭が舞台になっていることを理解させるには何が必要なのか?.. 11

2 「隠されること」の意味... 15

3 やはり、遊郭を舞台にするのは理解できない... 18

2 第2・3部、前段の間延びの原因はどこにあるのか?.. 20

3 禰豆子超人化の謎... 20

4 炭治郎(たち)の無根拠な強力化の謎... 22

5 鬼舞辻󠄀無惨の戦略は確かか?.. 23

6 鬼殺隊そのものへの異和... 27

表 2 【人間以外の生物によって人間が捕食される/襲われる主な漫画の比較】. 36

2 『鬼滅の刃』への根本的な批判、あるいは疑問点... 37

1 鬼を殺すという「正義」の根拠はどこから来るのか... 37

2 炭治郎の初期の志はどこに行ったのか?.. 41

3 炭次郎はどうすればよかったのか?.. 43

4 鬼を殺してはいけない... 45

1 生あるものを殺すな... 45

2 鬼は人間の天敵ではないか?.. 47

3 鬼は生態系外生物か?.. 49

4 鬼は人間がかかった病ではないのか?.. 52

結語  鬼はどこにいるのか?.. 55

【主要参考文献・資料】. 55

 

 

 

はじめに  「福は内、鬼は外」

 

1 「鬼」の両義的側面

 

節分の頃になると、今でも、日本中で豆まきが行われ、「福は内、鬼は外」と連呼される。「福の神」は家の内にいて欲しいが、「鬼」は家の外に行ってくれということか。いつの頃からの習慣か分らぬが*[1]、日本では鬼は本来殺すものではなく、「外」へと追いやるものだったのではないだろうか。あるいは、或る種の邪気として払うものだったのではないか。つまり、古来日本では、妖怪や幽霊などとともに鬼的な存在とは共存して、その上で、できるだけ関わりにならないように棲み分けを行っていたのではないか。

そもそも、日本語、日本文化の中の「鬼」という言葉が両義的な側面を持っている。鬼は確かに人に危害を加えるだろうが、何か一つのことに徹底し、頑固にやる切る人のことを、「野球の鬼」とか「張り込みの鬼」とかと呼ぶ。鬼のような何物かに憑依(とりつ)かれて、我を忘れて、自らの仕事に没頭している、ということからだろうが、必ずしもそこに悪意は感じられない。むしろ常人が及び難い未踏の域に到達した者への尊崇すら込められているとも言える。

あるいは、文脈が逸れるかもしれぬが、平成「仮面ライダー」の第6作に当たる『仮面ライダー響(ひび)鬼(き)』*[2]は文字通り「鬼」と呼ばれる、パワーアップした人間が、怪獣のような妖怪(?)を倒していく。敵側の妖怪を操る「童子」、「姫」と呼ばれる男女二人組が登場するが、姫はともかくとして、少なくとも「童子」は鬼の異称である。例えば、「酒吞(しゅてん)童子(どうじ)」の名で呼ばれる大江山の鬼が最もよく知られている*[3]。と、考えれば、彼らは、鬼の善の側面と悪の側面で分かれて戦っていたと考えられる。

ウィキペディア』によれば、「鬼」という言葉は語源的には以下の通りになる。

 

「おに」の語は「おぬ(隠)」が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味する、との一説が古くからある。そこから人の力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上のヒューマノイドのイメージが定着し、さらに陰陽思想や浄土思想と習合し、地獄における十王配下の獄卒であるとされた、とも考えられる。(「鬼」/ [『ウィキペディアWikipedia)』, 「鬼」, 2022年1月10日 (月) 07:25]下線部引用者)

 

 したがって、原初的なイメージとしては「人の力を超えた」「姿の見えないもの、この世ならざるもの」であり、そこには必ずしも「悪」の色彩はなく、鬼が悪へと変化していくのは後世のことだと考えてよい。それも当然のことながら、人間の側の都合によってである。

 

2 「桃太郎」の鬼退治

 

どうでもいいことだが、2022年の3月から放送が開始される「スーパー戦隊」シリーズの最新作は、日本昔話の「桃太郎」に題材を取った『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』*[4]ということらしい。ちなみに「ぼうたろうせんたい」ではなく、「あばたろうせんたい」と読む。

さて、それはさておき、「桃太郎」と言えば鬼退治である。これはしばしば指摘されることだが*[5]、桃太郎本人は何ら鬼の被害を受けている訳でもないのに、突然、鬼ヶ島に安寧と暮らしていた鬼たちを奇襲攻撃し、退治する。さらには鬼たちの隠し持っていた秘宝を強奪し持ち帰るという所業を行っている。桃太郎は、アジア太平洋戦争当時は旧日本軍の侵略行為を正当化する、体の良いプロパガンダになり果てていたとも言われる*[6]

 

3 言葉・価値・文化の両義性

 

かくのごとく、正義や悪は、時代や場所、あるいは見る人の立場などで、しばしば逆転、変転をする。それは、無論、善悪の問題に限らず、男性性や女性性、人間的/動物的、あるいは生と死、といった問題まで、同様に言うことができる。

この世の、あるいはあの世も含めて、ありとあらゆる事象は、その存在に両義的、あるいは場合によっては多義的な側面を持っている。そのことを考慮せず、一面的に何者かを断罪するのはいかがなものかと思う。

鬼という言葉、鬼という存在はその典型例ではなかろうか。

 

4 『鬼滅の刃』批判に先立って

 

漫画、及びそのアニメイション作品『鬼滅の刃』*[7]*[8]*[9]が大変な人気を誇っているという*[10]。わたしも、それでは、と思い、アニメイション作品は普段全く見ないが、『鬼滅の刃』のうち、映画化された、第2部に当たる「無限列車編」*[11]のテレ‐ヴィジョン用に編集され直した、全7回の分割版放送に合わせて視聴をし始めるとともに、ネット配信で第1部「竈門(かまど)炭(たん)治郎(じろう) 立志編」を遡って視聴した。2022年2月現在では、漫画の方は全23巻で完結済。アニメイションはその11巻までに相当する分が、次のように作品化されていて、いずれも大変な反響を呼んでいるという。しかし、いささか考えるところがあり、単に娯楽だからと見過ごす気になれなくなった。

 

表 1 【『鬼滅の刃』原作と映像作品との対応】

(この表記は原作にもアニメイション作品にもない)

編の名称

単行本相当巻

映像化

第1部

竈門炭治郎 立志編

1巻 - 6巻

テレ‐ヴィジョン・アニメイション第1期

第2部

無限列車編

7巻 - 8巻

映画化

のちに編集されテレ‐ヴィジョン放送

第3部

遊郭

8巻 - 11巻

テレ‐ヴィジョン・アニメイション第2期

第4部

刀鍛冶の里編

12巻 - 15巻

未映像化。2023年テレ‐ヴィジョン・アニメイション第3期決定

第5部

無限城編

16巻 - 23巻

未映像化

 

従って、本稿は原則としては『鬼滅の刃』の批判である。

ただ、最初から言い訳になってしまうが、わたしはここ30年ぐらいはほとんど皆無と言ってよいぐらい漫画を読んだり、アニメイション作品に触れてくることはなかった。したがって『鬼滅(きめつ)の刃(やいば)』の原作漫画や、その周辺の作品(漫画・アニメイション問わず)には触れていない。あくまでも現段階で視聴が可能だったアニメイション『鬼滅の刃』の一部というか、断片というべきか、それのみで論じられることだけを一旦論じている。

しかしながら、これは公正な態度ではないので、後日少なくとも原作の漫画については目を通した上で、修正すべき点があれば、修正したいと考えている。

確かに、本稿は批判的な内容ではあるが、作品そのものを全否定している訳ではない。『鬼滅の刃』という作品の内在的な価値を充分に評価した上での議論だとお考えいただきたい。そうでなければ、わざわざこのような一文を草したりはしない。本文でも触れたが、第1部に当たる「竈門(かまど)炭(たん)治郎(じろう) 立志編」の選抜試験までの下りは大変素晴らしく思え、正直オウプニングのテーマソングを聴きながら号泣してしまった程である。ところが、見進めていくうちに、次第に疑問が募ってきた。はてな? これはいかがしたことだ、と。

先日、第3部*[12]遊郭編」の鬼殺隊のメンバーと鬼(たち)との激闘、というか、まさに死闘を見るにつけ、ついに我慢がならず、感想文めいたものを書き出した次第である。

以上のような訳なので、一旦は殴り書きに近いものだとご容赦いただければ幸いである。

 

 

  ――――――[ tea for one]――――――

 

               コラム 【『鬼滅の刃』あらすじ】

 

 頃は大正時代。鬼に家族を惨殺され、妹を鬼に変えられた炭焼きの少年・竈門(かまど)炭(たん)治郎(じろう)は、妹・禰(ね)豆子(づこ)を人間に戻す手掛かりを探すべく、鬼を退治する組織「鬼殺隊」に入隊する。炭治郎は鬼殺隊のリーダーたちである「柱」と他の隊員たちと共に幾多の鬼を退治していくが、それらの鬼を鬼に変えて、操っているのが、鬼の祖である鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)である。彼を退治することが最も肝要となるが、鬼でありながら、鬼舞辻󠄀無惨の支配から免れて、彼を人間に変えようとする、医師・珠代(たまよ)とともに、鬼たちと鬼殺隊の最後の戦いは始まる。果たしてどうなるのか?

🐤

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1 根本的な論点以外における『鬼滅の刃』批判あるいは疑問点

 

1 遊郭が舞台である意味はあるのか?

 

1 遊郭が舞台になっていることを理解させるには何が必要なのか?

 

アニメイション作品『鬼滅の刃』について、いささか感想を述べたい。正確な調査をした訳ではないので分からないが、恐らくファンの一定層を小学生や中学生が占めていると思われる*[13]。ところが第3部は「遊郭編」となっていて、文字通りそのまま遊郭を舞台にしている。無論、作品の中で、人身売買や、男女の交情が描かれる訳ではないが*[14]、中学生はともかく、小学生に遊郭とは何か、というのを説明できるのだろうか。それをわざわざ説明しなければならないのか。そのような「歴史」(と一応しておくが、性産業は無論、今でも存在する)の暗部をも子供も含む視聴者に知って欲しいという意図なのか?*[15] 

もちろん、子どもたちは、やがてはそのような人間の暗部、社会の暗部、歴史の暗部をも知っていかねばならない。主要な論点は以下の通りだろうか。

 

  • 人間は性行為をすることで子孫を残す。
  • しかし、男性は、自らの性行為をしたいという慾望を満たすために、女性の肉体を、一時的に買い取る。→これを場所を限定して行ったのが遊郭。これを公にする形で、長期間行うのが結婚という制度(の一部の働き)。
  • その遊郭で働く女性は自らの意志でそこで性的労働をしている訳ではない。そのほとんどが貧しい家庭に生まれて、金銭で遊郭に売り飛ばされてきたものだ。

 

  まず①の性行為の意味を、プラスの面も、また、マイナスの面も含めて知ってもらうために、1本作品ができるぐらいだ。しかし、本作品にはそのことを伝えようとする内容は皆無である。兄妹愛はあるが、男女のそれは全くない。そのことを抜いて性行為の意味は伝えられないだろう。いや、それは子供番組だから無理だ、必要ない、というのであれば、矢張り遊郭を舞台すべきではなかったのではないか。

 ②も重い、というかグロテスクだ。男性の性衝動には恐らく、愛とかそういう綺麗ごとを越えて、女性を傷つけてしまう。そして、それを金銭で買い取ることができるということの意味。場合によっては金銭のやり取りなく暴力によって女性の肉体を恣(ほしいまま)にする。これもこれで一本映画が撮れる。

③は辛うじて、第三部のラストで遊郭に巣食う鬼である堕姫(だき)の出自が語られる。母親も遊女だったことを思わせるが、貧しい家庭に育ち、売買には触れられぬが、そのまま遊女になったようだ。しかし、そのことに触れられるのが、最後の10分弱程度に過ぎない。物語の要所、要所で回想、あるいは言及されている訳ではない。

  さて、問題は、以上の問題を物語の中でうまく展開しながら視聴者に差し出されている訳では全くなく、ただ、「遊郭」という言葉と、何となくそれっぽい舞台と人物が登場するのみである。つまり、子ども番組だから、遊郭が不適当だという訳ではなく、それの重量に合う重さの物語を準備できていないことが問題ではないかというのである。

 人は、つまりは子どもは、何かを理解するときに、頭で理解するのと、心(のようなもの。河合隼雄であれば「魂」と言ったかも知れないが)で理解するのと、二つあるのと思う。心で理解するとき、それは多くの場合、それを伝える側も、伝えられる側も、何らかの「物語」を通して、「物語」の形で理解する、理解することができるのではないだろうか。

 つまり、1+1=2である、というのは頭で理解可能だろう。しかし、それが、本当の意味で、心の底から納得できる、あるいは腑に落ちる、「なるほど!」と思えるためには、例えば、或るところに一匹の兎さんがいました。そこに一匹の獺(かわうそ)君がやってきました。二人は友達になりました、という形での理解が必要だということだ。

 そのような、「遊郭」に関わる物語なしで、遊郭を理解せよ、あるいは、それを子どもに説明させるのは親の責任だというのは、いささかお門違いだという気がする。

 

2 「隠されること」の意味

 

  ここから述べる論点は上手く伝わらないかも知れぬが、一応述べておく。或る種の事柄、いわゆる、通常「下ネタ」と呼ばれる領域の話題、すなわち、性に関わること、排泄などに関わることは本来、家庭の寝室なり、個人の個室、トイレの中に秘されて然るべきものを、そのままの形で「公」の場、公共の場に引き出してはいけないのではなかろうか。それらの領域の事柄は、実はそれに限らず、何らかの事象は隠される、隠蔽されることに意味があるのではなかろうか。

 平たく言えば、性行為をすれば子どもができます、そこに新たな生命への責任が発生します、と言葉や図解で説明することはできるが、では、実際にやってみましょう、ということには、少なくとも公の場ではならないし、仮にそれをしてしまうと、性行為がただ単に肉体的な接触、挿入だけにとどまらない、何らかの精神的な意味合いがそこで死ぬのではなかろうか。

 あるいは、心ある両親が自らの子供に性教育を施そうと、きちんと説明をした上で、じゃあ、これから、パパとママが実際にやってみるから、よく見ていてね、となった場合も、何かが死にはしないか。考え過ぎだろうか。わたしにはその両親の方が、余りにも「良心」的に考え過ぎたとしか思えない。

 これはいささか、位相を異にするやもしれぬが、家畜の屠殺について思うところがある。動物・家畜などの屠殺そのものについては別稿にて論ずることとするが、ここで問題にしたいのは学校などで家畜を飼育した上で、生徒たちに屠殺をさせ、それを食べるという教育である。我々の食体系が他の生物の「犠牲」の上に成り立っていて、そこには大変な労力とお金がかかっていることを知らしめ、彼ら家畜の尊い生命と、家畜の生育に携わっている農家、業者の皆さんに感謝をする、というのが、わたしの理解する限りでの、その教育の目的なのだと思うが、ここにも、何か良心的に考え過ぎて、何らかの転倒が起きてしまったのだと思える。そこで、子どもたちの何かが死ぬのではないだろうか。

 要は、社会全体を成り立たせる仕事の中でのことと、それを他人に、子どもたちに教える、伝えるのは全く別のことではないかと思う。

 いや、そんなことはない。そういう「大人の事情」的に、何でもかんでも、隠す、隠蔽すること自体が「悪」なのだ、と、反論する方も少なからずいらっしゃるだろう。全て、ありとあらゆる事柄は、知ろうとする者たちに開示されねばならないと。

 しかし、それは事柄によるのではなかろうか。先にも述べたように、隠されることによって発生する意味があるのではなかろうか。人間は意味の関係性の中で生きる生物だからである。

例えば、そこら中で人の目を気にせず性行為をしている人たちが多発したら、そこで性行為の内在的な、精神的な意味は死ぬだろう。単なる肉体的接触に過ぎなくなる。

尾籠な話で恐縮だが、同様にその辺の路上で、白昼堂々と、若い女性が、いや、別に年老いた爺さんでもいいのだが、何ら恥じ入る様子もなく、排泄行為をしていたらどうだろうか。

性行為も排泄行為も、ほとんどの人は、普通に行っているものだ。だから隠す必要はない、というのはいささか暴論であろうと思う。

隠すことによって発生する意味というものがあることを明記しておきたい。

 

3 やはり、遊郭を舞台にするのは理解できない

 

話を戻す。私的な領域に関わることは隠すべきではないか、という議論だった。もちろん、「遊郭」そのものは公的なテーマである。しかし、根本にあるのは、男女の性欲望の非対称性、女性に圧し掛かる性圧力といった性行動の問題が伏在している。そこを考えねばならない。

どうしても、こういう舞台装置が必要だとすれば、旅館とか料理屋で、そこに芸者(芸妓・芸子)が登場するというのでもよかったのではないか。

炭治郎たちは態々女装してまで遊郭の女郎見習いまでしているが、これは相当無理がある。元々音柱・宇(う)髄(ずい)天元(てんげん)の3人の配偶者・パートナー(作品では「嫁」と呼ばれている)*[16]が潜入捜査をしていて、消息を絶っているにも関わらず、比較的下っ端に属する炭治郎たちをさらに潜入させるというのは、時間感覚というか、段取りが間違ってないか。その段階で即突入に近いのではないか。

要は、殊更に遊郭を舞台にしなければならない理由があったのだろうか。遊郭がまさに鬼の巣窟、鬼の温床となっていて、是が非でもそこを叩かねばならぬというのであれば、分らぬでもない。

しかしながら、遊郭がことさらに鬼の巣窟になっていたという訳でもなさそうだ。なにしろ、今のところ二人*[17]しかいないようであるし。であるにも関わらず、何故、遊郭を舞台に選ぶ必要があるのか。大体、遊郭であれば客やら店のスタッフを食べることで、どんどんと消えたらまずかろう。ある一定の場所に棲みついて人間を食らうというのは、鬼にとっても矢張り危険ではないのか。

妖怪人間ベム』*[18]ではないが、「闇に隠れて生きる、俺たちゃ妖怪人間なのさ」*[19]の伝でいけば、妖怪人間も鬼も同じで「闇に隠れて生きる」しかないのではないだろうか。

かの永井豪の代表作とも言うべき『デビルマン』*[20](アニメイション版ではなくて、原作漫画の方)でも、人間に化けたデーモン(悪魔)たちは、こっそりと闇に隠れて人間を襲い、食べていたではないか。

 

2 第2・3部、前段の間延びの原因はどこにあるのか?

 

正直に言って、第1部「竈門(かまど)炭(たん)治郎(じろう) 立志編」と比べて、第2部「無限列車編」と第3部「遊郭編」はともに前段が、物語的に、いささか間延びしてしまっている。つまり、一向にストーリーが始まらない印象を残す。それは何故かと言えば、そもそも第1部で、物語の起動因となっていた「鬼と化してしまった妹・禰豆子(ねづこ)を人間に戻す」というモチーフこそ肝だったにも関わらず、それがどこかに行ってしまって、鬼の討伐が主軸になってしまったからではないか。これについては後述する。

 

3 禰豆子超人化の謎

 

さらに、禰豆子が超人化(ま、鬼ですから)して鬼と戦うに至っては語るに落ちると言うべきか、設定的に意味不明というしかない。それも炭治郎が危機に陥った時に限って、都合よく禰豆子が箱の中から蘇って、窮地を救う。全く以て、困ったときの禰豆子頼みである。もう、これはドラえもん*[21]レヴェルである、と言ったら言い過ぎか。しかし、ドラえもんの場合はのび太の求めに応じて様々なアイテムを出すが、必ずしもそれで万事解決する訳ではなく、結局はのび太が自助努力をしなければ、何にもならない、というメッセイジを暗に伝えていると思うが、禰豆子の場合は、多くの場合、禰豆子が登場しなければ、炭治郎は鬼に殺されていたであろうシーンがしばしば発生する。もちろん、兄妹で協力し、助け合っているのだ、と言えば聞こえはいいが、これが、いつも共に戦っている善逸や伊之助と協力して、危機を助け合うというのであれば、よく分かるが、いつもは眠っている禰豆子が、まさにいざという時だけ出現するのは、余りにも都合がよ過ぎるのではなかろうか。世の中、そんなにうまい具合に動いている訳ではないのだ。

さらに、恐らく「不完全な鬼」となっているであろう禰豆子が、相当上級の鬼とほぼ互角に戦える*[22]ほど強力なのは何故なのであろうか。大体普段寝てばかりいて、筋力などは衰えているのではないか。食事や排泄はどうしているのか。入浴はどうなのか。一体どういうシステムで生きているのだろうか。突然蘇えることが可能なのはどういうことなのか。

言い換えれば、飲まず食わずで、ずっと寝たきり、つまり昏睡状態であれば、分からなくもないが。あまりにもご都合主義ではなかろうか。

そもそも炭治郎は戦闘のときも禰豆子の入った木箱を背負っているが、何故安全な場所に隠してから戦わないのか。何か意味があるのか。

余計なお世話ではあるが、ここは炭治郎と禰豆子は何らかの理由で、切っても切れない(呪い? か何かで、ある一定の距離を離れることが何らかの理由でできない)という設定にすべきではなかったか。

 

4 炭治郎(たち)の無根拠な強力化の謎

 

そんなことを言えば、もう切りがないが、いかに漫画(アニメイション)とは言え、炭治郎たち鬼殺隊のメンバーはどう考えても強過ぎはしないか。百歩譲って、複数の「柱」*[23]たちが、何らかの理由で超人的な異能を持つことは、一旦よしとしても、主人公たる炭治郎は、そもそも普通の少年であったのだ。

「育手(そだて)*[24]」鱗(うろこ)滝(だき)左近(さこん)次(じ)の許で修行しているときには、或る種の発見なり、気付きによる段階的な成長があったはずだ*[25]。だが、その後はそのようなプロセスを経ることなしに、なにがしかの技*[26]を不意に「習得」、というよりも戦っている最中に、その技が勝手に出てくるようだ*[27]。それ以降は実地の戦いの中で、「お前、それいつ、どうやって覚えたのだ」と言いたいぐらいに、次々と技を披露していく。驚くしかない。

一体、彼はそもそも何歳なのだ。たったの13歳から15歳、単なる中学生ではないか。あんなことが可能なのだろうか。

 

5 鬼舞辻󠄀無惨の戦略は確かか?

 

 今更ながら思うのだが、鬼の開祖にして、ラスト・ボスである鬼舞辻󠄀無惨*[28]の目的は一体何なのか? 

というのは、しばしば思うのが悪の組織の目的がかなりの場合、相当曖昧だからだ。よくあるのが「世界征服」だが、世界征服をして、本当に儲かるのか、というか、割に合うのだろうか。悪の組織と言えば「秘密結社」だが、その「悪の秘密結社」の嚆矢(こうし)と言えば、かの『仮面ライダー』*[29]に登場する「ショッカー」だが、言うまでもなく、ショッカーは「ショックさせる者」すなわち「驚かせる者」なのだから、どうしようもない。びっくりさせてどうするのか。単なる愉快犯ではないか。

鬼滅の刃』の場合、鬼たちはただ単に食事をしているだけだから、あまり大それたことは考えていないようにも思う。しかし、鬼の組織は、鬼舞辻󠄀無惨を頂点として、かなり強固なヒエラルキーを構築しているように思える。ただ食事をするためだけに? 鬼の人口というか鬼口がどれくらいなのかは判然とはしないが、鬼によって捕食された被害者が大々的には社会問題にはなっておらず*[30]、警察も、軍隊も、政府も動いていないことからすると、さほど多いとも思えない。

本稿はあくまでもアニメイション作品として放送された分のみを対象としているので、ちょっと、これは反則だが、ネットで粗筋を確認してみると、鬼舞辻󠄀の目的は「日光を克服して完全な不死となる事」らしい。大変健康志向だな。鬼はどういう訳か、日光の下で生きることができない。したがって、「日光の克服」は理解できる。「完全な不死となる」というのも分からぬでもないが、彼は永遠の生命を持ち得て、一体どうしようというのか。そんなに生きることが愉しいのか。ま、愉しいのだろう。

 そのために彼は2つの計画を着々と進める。1つ目が「太陽を克服した鬼を産み出して、吸収する」ということと、2つ目が「(自分を鬼にした新薬*[31]の原材料たる)青い彼岸花を探す」である。

 1つ目は、後に禰豆子がどういう訳か太陽を克服するに至るので、彼女を狙えばよい。2つ目は、それを探してどうしょうというのか。

 いずれにしても、その目的の完遂のために手下として、自らの血を与えて鬼を増やしているらしい。

 さて、それはそれで一旦理解できたとする。いずれにしても、医学的な、あるいは薬学的な分野での探究ということになる。彼は平安時代の生まれとのことだが、一体全体、今の今まで何をしてきたのだろうか。正直、やる気を疑うというのか、全然、本気出してないよね、と強く注意を促したい。

 少なくとも、第1部から第3部迄のところで分かることは、第1部では人間の姿となり、家族持ちで実業家として活躍しているようだ。何のために? 第3部の冒頭では、資産家の養子にもなっている。読書家のようだが、薬学の書物でも読んでいるのか。

 つまり、彼ほどの能力を持っているなら、朝廷や幕府、あるいは政府、国立大学、医学・薬学の研究機関のしかるべきところに鬼を配置し、彼の目的を達するための人的、物的な探究、探索をすればよいのではないか。そもそも、時の為政者を鬼と化し、傀儡政権にすれば、仮に、当初の目的が困難であっても、鬼社会、あるいは、少なくとも、鬼舞辻󠄀無惨の存在は相当な確率で安泰になるのではないか。どうしても長生きしたいというのであれば、そのような政治利用というのが最も直線的で、安全ではないのか*[32]

 以上のように検討してくると、彼の戦略は相当なレヴェルにおいて、間違っているというしかない。

 鬼舞辻󠄀無惨、しっかりしろ。そんなことでは、目的達成は遠いぞ。

 

6 鬼殺隊そのものへの異和

 さて、さらに申し述べておきたいことは主人公・炭治郎が所属して、鬼狩りを日夜行っている鬼殺隊についてである。

 まずもって、その名称「鬼隊」と題名「鬼の刃」という具合に合致していないことに何か意味があるのであろうか。そもそも、熟語の組成としては、客語(中国語での目的語)を動詞の後ろに取るのは英語と同じなので、本来「鬼を殺す」は「殺鬼」(つまり、「殺人」とは言っても「人殺」とは言わない)、「鬼を滅する」は「滅鬼」となるべきだが、そこは御愛嬌と言うべきか。

 そもそも、彼らは一体何者なのだ。

いささかこの辺りは逸脱になるが、鬼の始祖である鬼舞辻󠄀無惨を平安時代に「排出」*[33]した産(うぶ)屋敷家(やしきけ)は、それ以来鬼舞辻󠄀無惨を倒すことが最大の目的であり、そのために創設された私設の秘密結社のようである。

鬼舞辻󠄀は自らの永遠の命の獲得といった、比較的、利己的な目的で動いている、つまり、人間の世界を鬼の世界の変えて、鬼が地球上の新たな主となり、鬼が住み易い社会を作っていくとか、そういうことは、どうも全く考えていないようである。

 それと、軌を一にして、敵が敵なら、こっちもこうなのだが、鬼によって人間社会が被害を受けているが故に、鬼を討伐する、鬼のいない住み易いい社会を構築するとかいうことではない。あるいは、それだけではない。それは、あくまでも自らの家系を穢(けが)した鬼舞辻󠄀を倒すことが本願となる。家系を穢したというのは以下の二点であろう。

 

①〈恥・名誉の側面〉 一族から鬼が出たこと。

②〈利害の側面〉 鬼舞辻󠄀の呪いのためか、一族の当主は早世してしまう。

 

無論、鬼舞辻󠄀を倒せば、その配下の鬼たちの悪行も已むであろう(?)から、別に間違いではないのだが、或る意味では、鬼舞辻󠄀がそうであったように、産屋敷家の当主たちも、或る意味、利己的な理由によって動いているのだ。

 それ、そのものは、別に否定されるものではないが、鬼舞辻󠄀のことは一旦措くとしても、では、そう思うのであれば、産屋敷家の人々で鬼舞辻󠄀打倒を行えばよいのではないのか。病弱だからできないのか。確かに、物語の時点での当主・産(うぶ)屋敷(やしき)耀(かが)哉(や)の顔の上半分は皮膚病のようなものに侵され、失明しているようだ。歴代の当主がそうであったとすると、確かに、彼らが主体となって戦闘をするのは困難なのかもしれない。

 そこで、鬼殺隊が創設されたようであるが、この辺りはよく分からないが、代々鬼殺隊に従事してきた家系の隊士(煉獄家がどうもそうらしい)、炭治郎がそうであるように自らの家族を鬼によって殺され鬼に対して強固な恨みのようなものを持っている隊士、その他武力や腕力に覚えのある者たちが隊士となっているのであろうが、彼らは一体何をしているのであろうか。

 産屋敷家としては鬼舞辻󠄀の打倒が最大の目的である。したがって、草の根を掘り返してでも、鬼舞辻󠄀の捜索こそまずなすべきことに違いない。ところが、鬼殺隊のメンバーは一体何をしているのか。見たところ、警察のように、鬼が出没したところに分担をして治安出動をしているように見える。物語には登場しない別動隊が鬼舞辻󠄀の捜索をしているのだろうか。それも1000年もかけて? しかしながら、炭治郎が偶然、鬼舞辻󠄀に遭遇するまでは、鬼殺隊の誰も鬼舞辻󠄀を見たこともないというのは、一体どうなっているのか。

 そもそも、この組織は大丈夫なのかとわたしが疑念を抱いたのが第一部の後半、那田蜘蛛山の戦闘の最中でのことだ。いや、それ以前に、入隊後の炭治郎は烏の指示に従って、ほぼ単独で戦っているが、初年兵に単独行動を許すなどという、そんなことがあるだろうか。普通で考えれば即死ではないのか。潜入捜査ではあるまいし、複数での行動が基本ではないか。

 それで、那田蜘蛛山の戦闘で、ほぼ全滅寸前となった炭治郎たちの許に、二人の柱、水柱・冨岡(とみおか)義勇(ぎゆう)と蟲柱(むしばしら)・胡蝶(こちょう)しのぶが救援に駆けつける。話が前後して恐縮だが、那田蜘蛛山にはもともと10数名の鬼殺隊員たちが先に入っていて、そこに救援(どうして、格下の者が? どういう命令系統なのか)に入るのが炭治郎たちだが、彼らが救援に訪れたということは、先遣隊がほぼ全滅状態だったからだ。

 炭治郎が為した、最終選抜までの、異様なまでの訓練(正直に言うと、ここの箇所の炭治郎の成長の描写が、少年漫画としても、物語としても、最も優れているとわたしは思う)と、最終選抜である「鬼たちが幽閉されている藤襲山で七日間生き残る」という驚異的な試練を乗り越えて鬼殺隊に入隊しているはずなのに、どうしてかくも先遣隊の隊員たちは異様に弱いのか。鬼の方がそれほど強力なのか。炭治郎たちが、規格外に強いのか。この弱さはいささか疑問に思わざるを得ない。

 ま、それはともかく、問題は鬼殺隊の歴(れっき)とした隊員である炭治郎が、鬼と化した妹を連れて戦っている(よくよく考えると大変奇妙だ。せめて炭治郎を隊士にまで育てた鱗滝の許に預けておけばいいのに、とは思うが、それだとお話にならないのか)のだが、そのことを明確に知っているのは、最初に、鬼と化した禰󠄀豆子とともにいる炭治郎と戦い、鬼殺隊隊士の育手・鱗滝を炭治郎に紹介した水柱・冨岡だけだった。当主・産屋敷耀哉は薄々知っていたらしい。そんな莫迦な。これほど重要なことを。

問題は他の柱たちも、鬼殺隊隊士たちも誰一人そのことを知らなかったということだ。そのことで危なく禰󠄀豆子は胡蝶しのぶに処刑されそうにもなったのだ。

結局、竈門兄妹は産屋敷に連行され、合議に掛けられる。この間、炭治郎が鱗滝に入門してから、この那田蜘蛛山の戦闘に至るまで2年ほどの月日が経過しているようだが、その間、或る意味危険分子を放置したままにし、偶々那田蜘蛛山で発覚した段階で、暫く柱たちに話をさせた挙句、炭治郎と禰󠄀豆子を認めろと、当主が柱たちに申し渡すのは、物語の展開上の問題であるとは言え、この産屋敷耀哉のリーダーとしての資質(行き当たりばったり)、及び鬼殺隊の組織としてのルールの運用の不徹底さに強い疑問を覚える。こんな組織に大事な主人公兄妹をお預けできませんな、という、もう親になった心境で言いたい。

 くり返しになるが、鬼殺隊のルール、隊律の運用の出鱈目さについては瞠目するしかない。那田蜘蛛山の戦闘中、鬼である禰󠄀豆子を庇おうとする冨岡に、胡蝶は隊律違反だと言い、彼らを殺そうとする。これは「鬼を見逃そうとした隊員は死罪」という規律があるためだと思うので、これはよい。

しかし、禰󠄀豆子が人を食わない(鱗滝の暗示が懸かっているから)としても、鬼であることは変わりはない。それを当主が許すと言ったら許さねばならないとすると、隊律の根幹が揺らぐことになりはしないか。また、その際に「禰󠄀豆子が人を喰ったら切腹して詫びる」と鱗滝と冨岡が申し出て、認められているが、「切腹」の段階でその時代錯誤に驚くが(と言っても、どうも、彼らの、一部の価値観は江戸時代以前と変わりがないようだから驚いても仕方がないが)、それで許してしまうというのもどうなのか、とは思う。

 かと言って、当主・産屋敷耀哉が専制的な独裁を振るっている訳ではない。むしろ人柄で柱たちを率いているようではあるが、しかし、彼ら、柱たちは当主の前で跪(ひざまず)く。そもそも、彼らの坐っている場所が違う。当主は座敷の上にいて、柱たちは、一段下の庭に跪いて、「お目通り」をしているのだ。

 確かに、その後の「柱合会議」なる場では、一旦、当主も柱たちも全員同じ座敷の場にいる。しかし、会議とは名ばかりで、自由な議論が戦わされる訳ではなく、当主からの伝達が行われる「申し渡し会」である。

 当然、この階級の差というのは、柱と平の隊員の間でも見られ、柱の前では、矢張り跪けという指示がされていた。また、隊士たちは十干(甲から癸)の階級が割り当てられいる。

 当然のことながら、時代的な制約もあろうかと思うが、一見強固なヒエラルキーによる組織が作り上げらっれているかと思いきや、先程、言ったように組織内の情報の伝達、指示系統の不十分さ・不徹底さが目に付く。

 その割には、柱たちには自由勝手な振る舞いが許されているのだろうか。特に気になるのが服装の乱れである。どうして彼らはかくも勝手気ままな装いをしているのだろうか。これを或る種の警察、軍事組織の一つと考えれば、あり得ない設定である。中でも恋柱(というか、そんなことが能力になるのか?)甘露寺蜜璃(かんろじみつり)の胸元は隊服から弾けて露出すれすれだが、これはOKなのか、誰も注意しないのか、疑問に思う。

平の隊士ではあるが嘴平伊之(はしびらいの)助(すけ)は上半身裸で隊服を身につけておらず、尚且つ、謎の猪の仮面を被っている。炭治郎も、本人すらよく分かっていない花札様の耳飾りを付けている。何故、注意されないのか。

 そういう点で言えば、少し些末な問題に立ち入るが、第3部で活躍した、音柱・宇(う)髄(ずい)天元(てんげん)だが、何故、彼は目の周りに化粧(入れ墨かと思っていたが、化粧らしい)をしているのだろうか。派手好きだから? それは一旦よいとして、もともと彼と3人の妻は忍び(忍者)の家系に生まれて、それを苦痛に思い、そこを離脱しているようだ。その割にはあまり忍びらしい行動を取っていないが、それもまーよしとしよう。

そもそも、忍びの家系・組織から離脱可能なのか。これはわたしが白土三平の漫画の読み過ぎなのか。かの忍者漫画、というよりも社会(史)漫画と言うべきかも知れぬが、『カムイ伝』*[34]、『カムイ外伝』*[35]においては、主人公(のような存在)カムイは忍者組織を離脱し、「抜け忍」として、組織から生命を狙われ、追われる存在だ。組織からの離脱は即、死あるのみなのだ。まー、時代も変わったのかも知れない。

 そのような忍び社会が嫌で抜け出して、また、一見、任務と隊律の厳しい鬼殺隊に、何故入隊したのであろうか。要するに自衛隊が嫌で抜け出して、結局フランス外人部隊に入隊しました的なノリのような気もするが。大体、派手好きの宇随にとって鬼殺隊は派手なのか。芸人か芸能人になればよかったのではなかろうか。

で、問題となるのが、「音柱」の音とは何だったのか、ということである。何をもって音柱と言っているのかさっぱりわからなかったが、「遊郭編」の最終局面でやっとでてきたが、一言でいうなら「遅いわ!」と言いたくなる。彼は「「聴覚に優れ、相手の攻撃動作の律動を読み、音に変換、相手の攻撃の癖や死角を把握する『譜面』という独自の戦闘計算式を立てる事もできるが」 [吾峠, 『鬼滅の刃公式ファンブック 鬼殺隊見聞録』, 2019年]、完成までに時間が掛かる事が弱点」*[36]だそうで、結局その「譜面」とやらも、少なくともわたしにはよく分からなかった。

さらにどうでもよいことだが、彼の使用する巨大な包丁のような2振りの日輪刀には大きな穴が開いている。嘴平伊之(はしびらいの)助(すけ)の日輪刀には鋸のような刃毀れがあるが、その穴や刃毀れに何か特殊な意味があるのであれば別だが、いずれも簡単に刀身が折れてしまう原因となる。早く直した方がいいと思う。ま、余計なお世話か。

しかしながら、以上申し上げたことは些末なことであって、さほど重要なことではない。

 

表 2 【人間以外の生物によって人間が捕食される/襲われる主な漫画の比較】

作品名

発表年

主人公と敵との「融合関係」

人間(主人公側)の対抗形態

対抗のあり方

デビルマン

1972年~73年

デーモン(悪魔)

〈人間優位〉 悪魔人間(デビルマン)

=人間と悪魔の合体体

・人間側:〈組織的〉 悪魔特捜隊

・主人公側:組織的〉 デビルマン軍団、物語の大半は〈個人的〉

・悪魔特捜隊:〈意志的〉 悪魔を探し出して殺害するが、その被殺者のほとんどは人間だった。

デビルマン軍団:〈結果的に意志的〉 物語の最後でデーモン軍団と「アーマゲドン」(最終決戦)をする。それまでの主人公は〈受動的〉

寄生獣

1988年~95年

パラサイト(寄生生物)

〈共存〉 右手をパラサイトに乗っ取られる

〈個人的〉 組織的な対抗は存在せず

〈受動的〉

進撃の巨人

2009年~21年

巨人

〈敵対〉 (融合関係は全く見られない)

〈組織的〉 兵団

〈受動的〉

鬼滅の刃

2016年~20年

〈拮抗〉 妹が鬼化

〈組織的〉 鬼殺隊

〈意志的〉

『呪術廻戦』

2018年~

呪霊

〈人間優位〉だが、しばしば〈拮抗〉 呪霊の指を呑み込むことで呪術を獲得するが、しばしば呪霊が出現して介入する

〈組織的〉 呪術高等専門学校

〈意志的〉

(【表2についての簡単なコメント】 軽々には言えぬが、1970年~80年代を代表する2作品は自らを脅かすものへの対抗のあり方が、基本的には〈個人的〉であり、従って必然的に〈受動的〉となる。ところが2000年代に入ると、〈受動的〉なあり方の〈組織的〉に変り、2010年代には〈意志的〉な形での〈組織的〉な行動が主軸となる。また、その流れ、変化の背景としては、主人公の中で敵対勢力との融合関係が〈人間優位〉→〈共存〉→〈拮抗〉という形で変化していることが分かる。また、ここには同主題を持つ2つの重要だと思われる作品『約束のネバーランド』と『東京喰種トーキョーグール』が抜けている。それらも含めて、詳細は別稿「「存在の原的負荷」について」(この言葉そのものは加藤典洋が『文学地図』などで使用した用語「関係の原的負荷」に負っている)にて論ずることとする)

 

 

2 『鬼滅の刃』への根本的な批判、あるいは疑問点

 

1 鬼を殺すという「正義」の根拠はどこから来るのか

 

題名が「鬼」となっているにも関わらず、炭治郎たちは「鬼隊」を名乗っている。そして、それにも関わらず、制服の背中には「殺」ではなく「滅」と書かれている*[37]。謎というしかない。一回一回の「殺」を地道に重ねることで、最終的には鬼の「滅」に辿り着く、ということなのだろうか。ま、これも、実はどうでもいいことだ。

問題はここからだ。

そもそも彼らは何の根拠があってあのような「殺害」行為を組織的に行っているのだろうか。確かに鬼たちは人間を襲って食べる。しかしだからと言って殺す理由が存在するだろうか。全く理由の分からない現象で人間が死んでいる訳ではない。鬼という存在は認識されているのだから、人間の犯罪者と同じように逮捕して、収監すればいいのではなかろうか。殺されるから、殺す、というのでは、彼ら鬼と同じ土俵に登ることにならないか。

また、鬼を殺すというのが、已むに已まれぬぎりぎりの選択ではなく*[38]、あるいはそこを乗り越えて、組織として自動運動化してしまえば、ただ単に、人間の側の正しさ、正義だけが一人歩きしないだろうか。鬼は悪である、従って、その鬼を殺すことは正義である、と。必然的に「正義」の名の下であれば、如何なる所業でも許されるということにならないか。

ここでわたしが想起するのが、いささか、拡大解釈が過ぎるとお叱りを受けそうではあるが、例えば、アジア・太平洋戦争期における日本の特別高等警察などに見られる精神構造である。彼らは政府の方針こそ最大の正義であって、それに反するものは容赦なく、徹底的に連行し、収監し、過酷な取り調べの中で、あるいはその後で、「被疑者」たちは多くの命を獄中で散らせていった。

治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟編『抵抗の群像:機関誌「不屈」掲載 第1集』によれば、虐殺死80人、拷問・虐待による獄死114人、病気による獄死1503人になるという。この中には哲学者・三木清、小説家・小林多喜二や、多く宗教家も含まれている。

彼らは戦争方針などを含む国家の政治理念に反するものは全て悪と決めつけ、過酷な取り調べを行った。それというのも自分たちこそ「正義」であるとの強烈な思い込みによるものであった。「正義」を語って「悪」を誅滅することほどの「悪」はないのではないか。あるいは正義と悪は容易に転倒する。昨日の正義は今日の悪であり、逆もまた真である。

これは卑近な例で恐縮ではあり、いささか旧聞に属するが、そのまま自己引用する。

 

今朝の新聞報道によれば、川崎市で排外主義的な団体が、いわゆる「ヘイトスピーチ」を伴うデモを計画していたが、反対派の市民数百人がデモ隊十数人を取り囲んで中止に追い込んだという*[39]

私個人は民族や国籍等で或る特定の人々を言論の力も含む形で武力的に排斥する考え方を否定する。しかし、「反対派の市民数百人がデモ隊十数人を取り囲んで中止に追い込」むというのは方法論として正当性があるのだろうか。つまり言論の内容の当否は一旦措くとしても、デモも言論活動の一環であるとすれば、言論活動を数を頼みに取り囲んで封殺するのは言論活動とはもはや言えず、武力的な制圧事件であったと言えまいか。

 逆の立場になったことを考えて欲しい。「ヘイトデモ」反対のデモが、「ヘイトデモ」反対・反対の団体によって取り囲まれて阻止されたらどうだろうか。

 事前に、あるいはことの最中でも構わないが、話し合いはできなかったのか。強く疑問に思う。

( [鳥の事務所, 2016年6月22日更新])

 

2 炭治郎の初期の志はどこに行ったのか?

 

もともと炭治郎は一家を惨殺されたことと、鬼と化した妹・禰豆子を人間に戻したい、という、いわば「私怨」とも言うべき、個人的に内面化された執念によって鬼と戦い始めたのだ。それを裏付けるかのように第一部のテーマ・ソングの冒頭「紅(ぐ)蓮華(れんげ)」はこのように始まる。

 

強くなれる理由を知った

僕を連れて進め

( [LiSA(作詞・歌唱) 草野, 2019年])

 

作詞者の本来の意図はともかくとして、アニメイション作品の中で読み替えるとすれば、「強くなれる理由」とは先にも述べた家族の惨殺と妹の救済に他ならない。「僕を連れて進め」の「僕」とは自らはほぼ眠っている妹・禰豆子のことだろう。炭治郎は妹とともに進むしかないのだ。

つまり、彼(ら)は「個人的に内面化された執念」、――それを否定されたら、彼(ら)自身は彼(ら)自身の根拠を失う場所から戦いを始めていたのだ。その意味では確かに、この段階での彼(ら)の行動は、見る人をして胸を打たせる。ところが、それを組織の論理に乗せる、あるいは同化させる、となれば、そこに何かが消え去って行かないだろうか。

つまり、こういうことだ。全く何の理由もなくもなく、嘲笑するような形で攻撃を受けたとする。例えば、そこで家族なりを侮辱する表現があったとすれば、大抵の人は冷静になれず、怒りに身を任せ、腕に覚えのある者はその力を行使してしまうかも知れない。無論、暴力はいけない。暴力で何も解決はしない。しかし、あとで後悔するようになったとしても、その怒りは本物であって、それを何らかの形で外に出さない方が、実はどうかしているのではないか。

以前、野島伸司脚本による『人間・失格』*[40]というテレ‐ヴィジョン・ドラマがあった。うろ覚えで書くことになるが、確か、「いじめ」を受けて自殺してしまった我が子を思い、加害者を殺害していくという話だったと思う。そんな極端な、と思うかもしれないが、家族や愛する者を不当に奪われた者の心情とは、或る側面では、これが真実ではないだろうか。

最近の事件では老母を亡くした男性が医療関係者を殺害するという事件があった*[41]。無論それを肯定する心算は毛頭ないし、その容疑者とされる男性はそれ以前から言動に問題があったとも聞いているが、母を「不当な医療行為」で亡くしたと思うのであれば、普通の人は実際には行わないが、問題となっている医療従事者を殺害したいと思うのも人間の、一つの心情の表れであると一旦理解できなくはない。

問題は、しかし、それを組織化、制度化して行ったとすれば、そこには原初に存在しただろう怒りのようなものが消えてなくなってしまう。後は組織の自動運動と化していくのではないか。

 

3 炭次郎はどうすればよかったのか?

 

さて、それでは、炭治郎はどうすればよかったのか。

家族を虐殺されて、妹を人間に戻さねばならないという義憤から、一旦は「若気の至りで」鬼殺隊に入って、任務をこなしていく、というところまでは一旦は理解できる。しかしながら、それをそのまま真っすぐに「正義」という大文字の目的に行ってしまうのではなく、何らかの形で、炭治郎は気付かねばならなかった。これでいいのかと。あるいは、どこかで心が打ち折られる時が来なければならなかった。つまり「世界に打ちのめされて負ける意味を知った」*[42]、そういうときが来ることだ。

その時は、何回か、炭治郎に訪れたはずだ。何度か鬼を葬り去るたびに、本来、人間であった者たちが、何らかの不運によって、鬼となり、今や死んで、肉体が燃えて、あたかも紙切れが灰になって消えてしまうようになるたびに炭治郎は、哀惜の念を込めて、彼らを見送っているのである。その時に、何故、炭治郎はもっと突っ込んで、このままでいいのかと、これでいいのかと、自問しなかったのであろうか。

あるいは、最も彼が気付かねばならなかったその時とは、あれほど尊崇していた煉󠄁獄杏寿郎が鬼との戦いであえなく死んだときではなかったか。この殺し合いは果てしない。この殺し合いには本質的には意味等ないのだと気付くときではなかったのだろうか*[43]

幾つかヒントめいたものとしては、虫柱・胡蝶しのぶが「鬼も人も仲良くすればいい」と述べたり*[44]、彼女は鬼の斬首ではなく、毒殺したりしていることだ。前者は、胡蝶にとっては、言葉だけの問題かも知れぬが、鬼に殺害された姉・胡蝶カナエの持論でもあったのだ*[45]。実現はともかく、少なくともそう考えている鬼殺隊の人間がいたということだ。

後者は、必ずしも鬼を殺さなくても、毒、つまり薬物によって鬼をコントロールできるということではないのか。

だから、炭治郎は、あともう一歩前に踏み込むべきであったのだ。

 

4 鬼を殺してはいけない

 

1 生あるものを殺すな

 

問題は、何故、彼らは鬼を殺すのか、ということに尽きる。鬼は首を切られない限り、再生可能で、腕やら、脚やら切られまくりである。しかし切られてもすぐまた生えてくる。大変グロテスクである。こういうものを小学生にも見せたい、このような殺戮(さつりく)シーンには意味があるのだと原作者も含めて製作者は考えたのだろうか。

もし、わたしが小学生の親なら、自分で意味の判断ができる年齢までは止めておきなさい、とアドヴァイスするのではなかろうか。

人間も含めて生物はこんな切られ方をしたら、普通は死んでしまうのである。

例えば、第2部の最後で重要な人物である煉󠄁獄杏寿郎は鬼との戦いで討ち死にしているが、これはほぼ不死の存在である鬼(と言っても鬼も死ぬ)と対照的に、超人的な力を備え持った人間ですら、どんなにあがいても死ぬときは死ぬのだ、死を克服するようなスーパーマンは存在しない、というメッセージなのではないかと思ったが、それにしても、それがうまく視聴者に伝わっているだろうか?*[46]

 

2 鬼は人間の天敵ではないか?

 

ところで、そもそも、鬼とは何だろうか。

起源となる鬼である鬼舞辻󠄀無惨がどうやって鬼となったのか、そもそも生まれたときから鬼だったのか、その辺りはアニメイションの段階では不明というしかないが、その他の鬼たちは、吸血鬼やゾンビと同じで、鬼に噛まれた人間が鬼となって鼠算式に鬼が増えていくシステムである。

さて、そう考えると、本来人間だった鬼を殺すことは道義的に許されるのだろうか。仮に鬼となることが、或る種の病だと考えれば、病者を片っ端から殺害していることになる。

また、鬼となった妹・禰豆子だけは、なんとか人間に戻そうとするが、何故、他の鬼たちにはそういう取り組みをしないのか。癌のような病気と同じように、「いや、これはステイジⅣで、もう手の施しようがありません。ご本人が楽しめるように好きにさせてあげて下さい」、という末期の鬼もいるかも知れないが(いや、その場合でも何らかの方法で全力を尽くすべきだとわたしは考えるが)、まだ新米の鬼とか、禰豆子と同じような半分鬼のような微妙な存在もいるのではなかろうか。それを等し並みに殺してしまってよいのであろうか。

確か、炭治郎が「鬼殺隊」に入隊するに当たっての試験のときに、捕獲された鬼が放し飼い、というか軟禁されている山上の領域で戦わされたが、それができるのであれば(食事はどうするのだろうか? 不明だ)、鬼は可能な限り捕獲すればいいのではないか。どうしても殺したいというのであれば、鬼の祖である鬼舞辻󠄀無惨のみ殺して、あとは捕獲したのち収監すればよい(いや、本来は鬼舞辻󠄀無惨こそ殺してはならない)。もしかしたら後の科学の発達によって、鬼を人間に戻す技術なり新薬なりが開発されるかも知れない。なにしろ、鬼は、人間と比べると相当な長生きのようであるから。

もう一度言うが、本当に鬼は殺さねばならぬのか。

鬼を殺さねば、人間の方が鬼に殺されてしまうというのか。なるほど、そうであろうが、鬼の主食は人間であるとすれば、彼らは、ただ与えられた生存の本筋を、ただそのまま、正直に遵守しているだけではないか。

逆のケイスを考えてみよう。もし、我々人間に食べられる存在である動物たちや、あるいは植物たちが、人間に黙って食べられるだけのあり方に強い疑義を持ち、「このままでは駄目だ」とか呟いて立ち上がり、人間に叛旗を翻す。そして「鬼殺隊」ならぬ「人殺隊」を組織する。我々が「さー、今日もご飯を食べようかな」と思っているところへ、突然武装して侵入してきて、「人間め、許さん! 」とか言われて豚さんや稲さんに殺されたらどうするというのか?

いや、そんなことは食物連鎖というものであって、巡り巡って生態系は循環しているのだから仕方ないのですよとか言っても、彼ら豚さんや稲さんが納得してくれるとは思えない。

そう考えてくると、鬼だって同じではないか、鬼だって生きるために人間を食べているだけで、何がいけないのですか、と言われるだろう。鬼だってしっかり生きているのだ。つまり、鬼は人間にとっての捕食者、天敵として生態系、食物ピラミッドの頂点に位置する。だから、人間はきちんと鬼に食べられないと生態系のシステムが狂ってしまうのではないだろうか。

 

3 鬼は生態系外生物か?

 

いやいや、何言ってんですか、鬼は我々の生態系に入ってないですよ、と反論する方もいるかもしれない。

この物語での鬼の始まりは平安時代の鬼舞辻󠄀無惨によるものだが、それが突然発生したということであれば、確かに従来の生態系には組み入れることが難しいかも知れない。言ってみれば、外来元が不明な「外来種」に他ならない。

しばしば生態系の保全・保護という観点から、「外来種」を排除せよという論を耳にする。例えばブラックバスは在来種のマスを駆逐し、日本の生態系を破壊するので、ブラックバスを排除せよという論調で、他にも特定外来種とされたものは、排除すべきだとされてしまう。しかしながら、一般的に「外来種」と言われるものは明治以降に日本に来たものだが、その境目に何の意味があるのだろうか。

生物学者で科学評論家の池田清彦は次のように述べる。

 

2500年前に日本列島に導入されたイネは、日本の低地生態系を徹底的に改変した「侵略的外来生物」であるが、そのおかげで、日本列島の人口は激増したに違いない。 [池田, 2016年8月15日]

 

もし、本来外来種である稲も原理的に排除すべきだとすれば、大変な混乱を招くが、ブラックバスは排除OKで、稲は駄目だという考え方は、あくまでも人間の立場で判断しているに過ぎないではないか。これはおかしい。この考え方の何が問題なのか。

これは談話の起こしではあるが、矢張り、池田は別のところで次のように述べている。

 

「各々の生態系における、個別で複雑な事情について知らずに、大人が『外来種=悪』と決めつける姿勢を見せれば、子どもは“特定外来種ならば殺してもいい”と誤解するでしょう。これはもう、命の選別ですよ。何であれ、生物の命は同じように大切。とりわけ子どもに、“殺していい生物とダメな生物がいる”という論理を教えるのは問題です」( [『週刊新潮』, 2020年]下線引用者)

 

 さて、以上のように考えると、確かに鬼は人間に危害を加えるが故に、何らかの方策を打たねばならない。しかし、他の生物に危害を加えるのは、人間も同様であり、そもそも、生物は生きるために何らかの形で、他の生物に危害を加えざるを得ない。生物とは、生物の多様性とは、生態系とはそういうものなのだ。

では、どうすればよいのか。

  まず、原則は正当防衛を除いて(つまり、人間の犯罪者と同様に扱う)、殺してはならない。この世に、恣意的に殺していい生物など存在しない。

その上で、捕獲、隔離する。理想としては監獄のような形での隔離ではなく、棲息領域の限定による棲み分けによるのが理想だが、かなり難しいかも知れない。しかし、やってみよう。ある一定の領域・区域を鬼の棲息エリアとして開放する、というよりもやはり、一旦人間の安全性を考えると、彼ら鬼が近寄れない藤の花で囲んで幽閉するしかないか。

  しかしながら、鬼の主食が人間であるという点から言っても、矢張り限界があるように思う。

 

4 鬼は人間がかかった病ではないのか?

 

先にも述べたが、そもそも、鬼という「種」は存在するのだろうか。鬼が人間を齧ることによって、鬼を増産していくという、吸血鬼、あるいはゾンビと同じようなシステムだとすれば、それは結局、人間が何らかの理由によって、そうなっている訳だ。したがって、鬼という現象は、人間が罹患している病気の一種ではないのか。つまり、人間を鬼に変えてしまう、ある種の菌、ウイルスのようなものが存在するのではないか。そういうウイルスが罹患している人間、つまり鬼だが、それに噛まれて、唾液などから鬼ウイルスが伝染する。鬼は或る種の伝染病と考えられないか。

今、現在、どういう訳か、世界的に「新型コロナ・ウイルス」が流行、蔓延しているが、この場合、ウイルスに伝染し、発症した人の何割かが死に至っている訳だが、それと同様に、鬼ウイルスも、罹患した人(つまり、鬼)に食べられた方々は死に至った訳で、運よく鬼になれた人たちは、発症しただけ、ということになる。したがって、鬼、あるいは鬼化を、伝染病の一種と考えるのは、さほど無理があるとは思えない。

 したがって、禰豆子(ねづこ)を人間に戻そうという試みが想定されるのであれば、他の鬼でも同様な措置が考えられる。作中、鬼でありながら人間として平静を保っている珠世なる女性の医師が登場するが、彼女が研究しているのもそのことに他ならない。残念ながら、本稿はあくまでもアニメイション作品として放送されているものに依拠していて、原作に論及するのは逸脱なのであるが、残念ながら、彼女の試み、すなわち、「鬼を人間に戻す」薬の調剤は成功するも、実効には至らなかったようだ。しかし、それを鬼たちに接種、服用させるべきであり、それによって、鬼という「伝染病」? を克服できるのだろう。

 その意味でも、鬼を殺すべきではないのだ*[47]

  それにしても、病、取り分け、ウイルスなどによる伝染病とは何だろうか。

  それは、或る意味、天敵を持たない、食物連鎖の頂点に存在する生物が、ある極点を超えて、増殖した時に、生態系全体がバランスを取るための、或る種の働きなのではないか。

  今現在、コロナなる新型ウイルスによって地球全体が、というよりも人間社会が混乱を極めているが、ワクチンや、あるいは薬剤が開発されても、人類を嘲笑うかのように、次々と新しい株が発現している。無論、きちんとした対抗措置を取らねばならぬことは言うまでもない。しかし、一旦巨視的に見れば、やはり、そこには地球全体の生命圏の意志のようなものを感じざるを得ない。鬼とは、人間には直接知覚できない、そのような巨大な存在の表徴ではないのだろうか。

 

結語  鬼はどこにいるのか?

 

元来、鬼などはいない。単なる想像上の異界の魔物だ。だが、何故、人間は、古の昔から幾度となく、人間に襲い掛かる鬼について語ったり、絵に描いたり、あるいは演劇などにしてきたのだろうか。無論、ここで問題にしているのは民俗学や芸能史の問題ではない。もっと単純な問題だ。

鬼はどこからやってくるのか。当たり前だ、人間の心から生まれてくるのだ。人間の心の暗部が鬼を生み出す。ということは、実は鬼は人間自身に他ならない。人間こそが鬼なのである。

と、ありきたりなことを結語とすることにはいささか抵抗を感じもするが、致し方がない。

表 2 【人間以外の生物によって人間が捕食される/襲われる主な漫画の比較】でも言及したが、永井豪の『デビルマン』はこの種の漫画作品中で、ことの本質を率直に描ききってしまったものの嚆矢となるだろう。すなわち、悪魔に襲われた人間たちが、逆に悪魔以上に悪魔的な行動を体現してしまうという逆説を衝撃的に描いた。この問題については別稿にて詳細を述べるが、本作『鬼滅の刃』についても、鬼殺隊の隊員たちが、鬼が相手とは言え、正直に言って、鬼畜とも言わんばかりの残虐な戦い方をする。無論、鬼が相手なのだから、こちら側も鬼にならなければ、勝てないのだ、というところだが、だからこそ、むしろ勝たなくてもいいのではないか、戦わなくてもいいのではないか、と言いたいのだ。鬼は人間だからだ。そして人間は鬼だからだ。

最初の鬼である鬼舞辻󠄀無惨が薬のために鬼と化したというのは象徴的ではないか。もともと、人間の中に鬼になる、何らかの要素があるが故に、鬼になることができたのである。鬼舞辻󠄀の血をもらった人間が鬼となったのも同様である。その人間に、あるいは人間そのものに、もともと鬼となる要素が含まれていたからである。

言うなれば「逆青い鳥現象」とでも言うべき事態になってしまったが、我々の足もとである自らの心の中にこそ、幸せが存在するように、鬼も同じように棲みついているのである。「福は内、鬼は外」ではない。「福は内、鬼も内」なのではないか。

その意味で、鬼を殺してはならない。殺すのであれば、己の心の中の鬼を殺すべきかも知れないが、いやいや、そうではない。その鬼も殺してはならない。

我々は、その鬼とも何らかの方法で共存すべきなのである。なんとなれば、鬼はあなたの心の中の凸凹したところに光りが当たった場所の裏側にできる、単なる影なのかも知れないのだから。その影は、光の移動に合わせて、場所も形も変える。光が強ければ強いほど、その影はいよいよ漆黒の闇の度を増す。しかし、光が無ければ、影もないのだ。人間は、手術室のような無影燈の中では四六時中生きることは難しいだろう。しかし、それが人間なのである。心の中に、何やら隠れた部分、暗い部分、影の部分を持ったということが人間の意味なのではないか。

我々は、うまく心の中の鬼たちを飼いならすことに習熟すべきで、そのことを、優れた文学作品や、漫画やアニメイションといった映像芸術に、多くのことを学ぶことができるのでないだろうか。

 

 

【主要参考文献・資料】

ウィキペディアWikipedia)』. (2022年1月10日 (月) 07:25). 「鬼」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2022年2月18日 (金) 03:52 ). 「鬼滅の刃」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2022年2月19日 (土) 08:04). 「創価学会」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2022年2月9日 (水) 04:36). 「節分」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

週刊新潮』. (2020年). 「行き過ぎ「外来種バッシング」 コスモスやイネは?――生物学者の提言」. 『週刊新潮』2020年7月11日.

朝日新聞』. (2016年6月6日朝刊). 「ヘイトデモ 阻止の人波」. 『朝日新聞』.

LiSA(作詞・歌唱), 草野華余子(作曲). (2019年). 「紅蓮華(ぐれんげ)」. SACRA MUSIC.

庵野秀明(総監督). (2016年). 『シン・ゴジラ』. 東宝.

井上雄彦(たけひこ). (1999年-2014年). 『バカボンド』現37巻. モーニングKC(講談社).

岡田 斗司夫. (2007年). 『世界征服は可能か』. ちくまプリマー新書筑摩書房).

加藤典洋. (2008年). 『文学地図――大江と村上と二十年』. 朝日選書(朝日新聞社).

河合隼雄. (1971年). 『コンプレックス』. 岩波新書岩波書店).

外崎春雄(監督). (2019年-). 『鬼滅の刃』. ufotable.

吉川英治. (1936年- 1939年). 『宮本武蔵』全6巻. 大日本雄辯會講談社.

吉本隆明, 加藤典洋. (2002年). 「存在倫理について」. 『群像』2002年1月号.

宮崎駿(監督). (2001年). 『千と千尋の神隠し』. スタジオ・ジブリ(制作)・東宝(配給).

吾峠呼世晴. (2016年-20年). 『鬼滅の刃』全23巻. ジャンプ・コミックス(集英社).

吾峠呼世晴. (2019年). 『鬼滅の刃公式ファンブック 鬼殺隊見聞録』. 集英社.

山口昌男. (1975年). 『文化と両義性』. 哲学叢書(岩波書店).

治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟編. (2008年). 『抵抗の群像:機関誌「不屈」掲載 第1集』. 光陽出版社.

石ノ森章太郎(原作). (1971年ー). 『仮面ライダー』. 東映.

石田スイ. (2012年-18年). 『東京喰種トーキョーグール』本編・全14巻、「re」全16巻. ヤング・ジャンプ・コミックス(集英社).

池田清彦. (2016年8月15日). 『池田清彦のやせ我慢日記』(メールマガジン).

鳥の事務所. (2016年6月22日更新). 「或る異和感」. 参照先: 『鳥――批評と創造の試み』.

白井カイウ(原作), 出水ぽすか(作画). (2016年-20年). 『約束のネバーランド』全20巻. ジャンプ・コミックス(集英社).

白土三平. (1966年-1984年). 『カムイ外伝』第一部・第二部まとめて全20巻. ゴールデン・コミックス(小学館).

白土三平. (1967年-1971年). 『カムイ伝』第一部(全21巻). ゴールデン・コミックス(小学館).

白土三平, 岡本鉄二(作画). (1989年). 『カムイ伝』第二部(全22巻)*ただし未完(『カムイ伝全集[第二部]』2006年・全12巻・ビッグコミックススペシャル(小学館)にて完結). ゴールデン・コミックス(小学館).

 

 

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2022年2月21日 第一稿 修正 33008字(83枚)

2022年3月7日 アップロード 

 

*[1] 「文献に現れる最も古い記録は、室町時代の応永32年正月8日(1425年1月27日)(節分)を記した2文書である。」 [『ウィキペディアWikipedia)』, 「節分」, 2022年2月9日 (水) 04:36]

*[2] 2005年-06年・テレビ朝日

*[3] 「鬼」/ [『ウィキペディアWikipedia)』, 2022年1月10日 (月) 07:25]

*[4] 2022年-・テレビ朝日

*[5] 「福澤諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓「ひゞのをしへ」で、悪行をなす鬼を懲罰する桃太郎は正しくとも、(世のために)鬼が所持する宝を強奪した桃太郎は「卑劣千万」であると非難する。」 [『ウィキペディアWikipedia)』, 「鬼」, 2022年1月10日 (月) 07:25]

*[6] 「太平洋戦争の際には桃太郎は軍国主義という思想を背景に、勇敢さの比喩として語られていた。この場合桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子としてスローガンに利用され、日本初の長編アニメ映画といわれる『桃太郎の海鷲』『桃太郎 海の神兵』はじめ多くのプロパガンダ作品に登場した。」 [『ウィキペディアWikipedia)』, 「鬼」, 2022年1月10日 (月) 07:25]

*[7] 漫画:吾峠呼世晴鬼滅の刃』全23巻・2016年-20年・ジャンプ・コミックス(集英社)。アニメイション:原作 吾峠呼世晴、監督 外崎春雄、シリーズ構成 ufotable、脚本 ufotable、キャラクターデザイン 松島晃、音楽 梶浦由記、椎名豪、アニメーション制作 ufotable、製作 アニプレックス集英社ufotable、放送期間 竈門炭治郎 立志編:2019年4月6日 - 9月28日、無限列車編:2021年10月10日 - 11月28日、遊郭編:2021年12月5日 -2022年2月13日、話数 竈門炭治郎 立志編:全26話、無限列車編:全7話、遊郭編:全11話。

*[8] この「鬼滅の刃」というタイトルは内容を正確に表しているだろうか。「鬼滅の刃」ということになれば、その「刃」こそ問題となる、いわば、物にして主人公格ということになるが、実際には、本作において、鬼殺隊のメンバーが、一人一人、それぞれの「日輪刀」なる太刀を持ち、その剣でしか鬼を切ることができないという設定にはなっているものの、その「日輪刀」が物語の駆動因となっている訳ではない。看板に偽りあり、というべきではなかろうか。わたしは最初この題名を目にした時(そもそも、「きめつのやいば」とは読めなかった。「おにめつのは」とか読んでいた)、特殊な魔力を持った剣を求めて旅をしたり、抗争が繰り広げられるのかと思っていた。当然、その剣を手にしたものは、善にも悪にも相当な力を持ち得るが、そこが物語のポイントとなる。と、くれば、それはリヒャルト・ヴァーグナーの楽劇4部作『ニーベルングの指環』と同じではないかとなるが、無論そんなことはなかった。

*[9] どうでもいいことだが、この物語は大正時代を舞台としている。炭治郎たち鬼殺隊は「日輪刀」と呼ばれる太刀で鬼の討伐をするが、少なくともアニメイションを観る限り、彼らは路上を通行する際も普通に帯刀している。鬼殺隊は非公式の組織であるため、1868年に発布された「廃刀令」に反することになる。隠し持って歩くしかないが、全くそんな様子はない。本来であれば10代の子供が刀を所持して歩いていたら、それだけで逮捕されるであろう。

*[10] 単行本(全23巻)の累計発行部数は、2021年2月時点で1億5000万部を突破(電子書籍含む)、劇場アニメイション『無限列車編』(2020年)の日本国内での興行収入は404.3億円に達し、日本歴代興行収入第1位 [『ウィキペディアWikipedia)』, 「鬼滅の刃」, 2022年2月18日 (金) 03:52 ]。

*[11] 「無限列車編」に登場する「無限列車」は無論、作者のオリジナルであるが、最初聞くと、ノンストップで「無限」に走り続ける列車なのかと思ってしまうが(確かに夢を操る鬼・魘夢(えんむ)によって、乗客たちは無限に夢の世界にいることになるのかもしれないが)、結局のところは「ひかり」とか「こだま」と言った車種の架空の名称のようなのか。「鉄道」の異界に移動するイメージは重要なだけに、いささか残念だ。

*[12] 正式に「第何部」という呼称はない。一般的にはテレ‐ヴィジョンで放送された「竈門炭治郎 立志編」は第一期、「遊郭編」は第二期と呼ばれているようである。「無限列車編」は映画化された後、テレヴィジョン放送用に編集されて放送された。

*[13] それにも関わらず、ネットの配信では、回によって違うようだが、一応年齢制限が示されている。それは「13歳以上」だったり、「16歳以上」という指示だが、それについての認証画面がある訳でもない。また、地上波で放送されたときは、そんな指示はなかったのではないか。

*[14] 遊郭と言っても、一見したところ、料亭か旅館かな、という印象を残すのだが、だから、いいということにはならない。

*[15] これを擁護するのに、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』 [宮崎, 2001年]の舞台も遊郭であるから同じであるとの意見もあるようだが、確かに背景のアイデア、原像となったものは確かにそうかも知れないが、どこにも明確に「遊郭」だの「ソープランド」だのとは明示されていない。普通の温泉旅館と考えても異和感はない。それとこれとは全く別ではないか。

*[16] この3人の妻の存在はどう説明せよ、というのか。それは本来はおかしなことだというメッセイジも作品中にはない。

*[17] 二匹? 二頭? 堕姫と妓夫太郎。妹と兄の関係らしい。

*[18] 1968年-69年・第一動画、フジテレビ。

*[19] 「妖怪人間ベム」主題歌、作詞 - 第一動画 / 作曲・編曲 - 田中正史 / 歌 - ハニー・ナイツ。

*[20] 全5巻・1972年-73年・講談社ミックス。

*[21] 藤子不二雄藤子・F・不二雄ドラえもん』全46巻(1 - 45巻・0巻)・1974年 - 1996年、2019年・てんとう虫コミックス小学館)。

*[22] 第3部「遊郭編」において、危機に陥った兄・炭治郎を救うべく、妹・禰豆子は覚醒から目覚め、上弦の鬼(鬼の中でも最上位クラスの強さを誇る)の陸(ろく)である堕姫(だき)と戦うが、その戦闘中に、ほとんど鬼となった禰豆子は額に角を生やし、敵と互角に戦う。

*[23] 鬼殺隊の9人(物語の当初)のリーダーたち。人間離れした異能をそれぞれ持っている。

*[24] 鬼殺隊入隊の選抜試験までの訓練をする者。恐らく、そのほとんどは鬼殺隊のOBだと思われる。

*[25] 例えば、典型的なのが、選抜試験の受験の可否を問う最後の試練として、鱗滝から炭治郎に課されたのが、巨石を切断するというものだった。それを、彼は、敵の急所を指し示す、糸のようなものを発見することで、巨石を切断する。この糸は、どういう訳か、「遊郭編」に至って出現していない気がする。

*[26] わたしの記憶が正しければ、炭治郎は、実戦の最初から、「水の呼吸」とか言って、技を繰り出している。恐るべき修行能力ではないか。ちなみに、水の呼吸は「壱ノ型」から「拾ノ型」まで10通りあり、それに加えて、炭治郎はその後、「日の呼吸」まで習得するに至る。うーーーん。。。。。。。武道漫画、スポーツ漫画の一種として考えれば、驚異的な進行スピードである。

*[27] あたかもプラトンの想起説(アナムネーシス)のようではないか。そのような技の数々は習得すべきものではなくて、もともと自らの心身に眠っていたそれらを「思い出す」だけなのだ。しかし、そんなことって……?

*[28] そもそも、鬼の首領である鬼舞辻󠄀無惨の姓名が鬼殺隊に把握されている段階でアウトである。名前は命であるが故に、それを元に呪いを掛けられたら、一発ではないか。何故、名前が分かってしまったのか。もしかして、凄い阿保なのではないのか。

*[29] [石ノ森, 1971年ー]

*[30] 第2部「無限列車編」の冒頭で、無限列車において行方不明者が40名(!)ほど出ているにも関わらず、その新聞を読む蕎麦屋の主人の反応は、さほど驚いているようにも見えない。警察などの治安出動もされていないようだ。

*[31] 鬼舞辻󠄀はもともと人間だったのだが、或る薬を飲むことで、人類最初の鬼になったようだ。と、すれば、彼の潜在意識としては鬼から人間に戻りたい、と思っているのではないのか。

*[32] 話が全く逸れるが、現在、自由民主党と連立を組んで与党となっている公明党はご存知のように、その支持母体として新興宗教団体・創価学会を持っている。選挙期間中に、友人や知り合いの創価学会員から投票を依頼された方も少なからずいると思うが、彼らは組織として選挙運動を行っているのであって、自由民主党公明党と手を組んでいるのも、偏(ひとえ)に、創価学会の強固な組織票を当てにしているからである。さて、現状の公明党のことはさておき、この問題の淵源には何があるのかというと、創価学会第二代会長である戸田城聖が主張したとされる「国立戒壇論」である。平たく言えば、創価学会(当時は日蓮正宗)の国教化に他ならない。これは現在では取り下げて、そのような主張は影を潜めているが、もともと宗祖である日蓮には「立正安国論」や、三度に渡る国家諌暁(鎌倉幕府に対して、国難に陥っているのは、宗教が間違っているからと諫めた)に見られるように、日蓮の志向には、国家に対するものが強く存在していた。したがって、戸田の「国立戒壇論」も、現行の公明党が、その党是を曲げて、少なからぬ創価学会員から疑問に思われても、それにも関わらず、与党になっているのも宗是に関わる根本的な理由があるのだ。要は社会的な形での、何らかの理念の実現を考えるなら、国家の内在的な支配を考えるのは、大変順当である。無論、わたしはそれが「正しい」と言っている訳ではない。 [『ウィキペディアWikipedia)』, 「創価学会」, 2022年2月19日 (土) 08:04]の内容をまとめた。

*[33] 普通は「輩出」。

*[34] [白土, 『カムイ伝』第一部(全21巻), 1967年-1971年] [白土 岡本, 『カムイ伝』第二部(全22巻)*ただし未完(『カムイ伝全集[第二部]』2006年・全12巻・ビッグコミックススペシャル(小学館)にて完結), 1989年]

[35] [白土, 『カムイ外伝』第一部・第二部まとめて全20巻, 1966年-1984年]

*[36] [『ウィキペディアWikipedia)』, 「鬼滅の刃」, 2022年2月18日 (金) 03:52 ]

*[37] ところが、柱の一人、不死(しなず)川(がわ) 実(さね)弥(み)の背中には「滅」ではなく「殺」と書かれている。何故だ。謎というしかない。「隊律違反」ではないのか。

*[38] 自分が襲われたから、火の粉を払わねばならぬように、已む無く戦うというのではなく、自分たちが進んで鬼を探し出して、戦いを挑み、殺害するという発想に行ってしまうところに、何か欠落していくものがありはしないか、という意味。例えば、安易な比較はどうかとは思うが(ここでの問題は別稿にて、より大きな問題として取り上げたいと考えている)、同じように人間以外の生物によって人間が食べられれる題材を扱ったものに岩明均の『寄生獣』(全10巻・1990年-95年・アフタヌーンKC講談社))がある。そこでは、いわゆる巻き込まれ型のストーリー展開で、基本的に主人公は受け身的に事件を掻い潜っていく。彼(ら)は、言うなれば、自らが生きるために已む無く戦うことになる。

*[39] [『朝日新聞』, 2016年6月6日朝刊]

*[40] 1994年・TBS。初回のみ『人間失格』。太宰治の遺族のクレームを受けて二回目より『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』の題で放送。

*[41] 2022年1月27日、埼玉県ふじみ野市で、W容疑者(66)は母親の訪問診療を担当していた医師など数人を名指ししたうえ、時間を指定して自宅に来るように要求した上で、来訪した医師のSさん(44)を散弾銃で殺害し、そのまま立て籠った事件(NHKのNEWSサイト・2022年1月31日 18時55分更新)。

*[42] [LiSA(作詞・歌唱) 草野, 2019年]

*[43] 話は変わるが吉川英治の『宮本武蔵』を原作とするも、相当な改変を行っている井上雄彦の漫画『バカボンド』も、前半の山場である宝蔵院(ほうぞういん)胤舜(いんしゅん)との闘いが或る意味、相当高密度の山場になっているが、わたしの考えでは、それ以降、この物語は内的動因を喪い、絵柄の美麗さと反比例するかのように、急激に失速する。単行本は37巻まで刊行されているものの、2015年以降、長期休載に陥っているのも、そこに理由があるからではないのか。今武蔵は農業をやっているはずだ。残念ながら、武蔵は気付いているのだ。つまり、井上自身もうこの作品を継続させる理由がないということに。

*[44] [『ウィキペディアWikipedia)』, 「鬼滅の刃」, 2022年2月18日 (金) 03:52 ]

*[45] [『ウィキペディアWikipedia)』, 「鬼滅の刃」, 2022年2月18日 (金) 03:52 ]

*[46] ここは話が逸れるので、詳論を避けるが、自らの命を懸けて、何かを守るという道徳観念そのものを否定するべきだとわたしは思う。人間の、あるいは生物の生命以上に価値のあるものなどないのだ。もし、煉獄杏寿郎は自らの生命を賭して、列車の乗客の生命を、あるいは鬼殺隊の誇りを護ったのだ、だからこそ彼は素晴らしい、感動的だ、と視聴者が、特に若年の視聴者たちがそのように受け取っているとするなら、それは大変忌むべきことだとわたしは考える。それは次のような考え方と通底している。「人間はただ生きているだけでは人間とは言えない。善なり、何なりの、何らかの(外的)価値のために全力を尽くす中で、はじめて人間は人間となるのだ」という考え方だ。その考え方を延長すれば、価値のある人間とそうではない、そこに存在する価値のない人間がいることになる。さらにそれは生物すらも、生きていてもいい生物と、生きていては困る生物、つまりは殺してしまっていい生物の二つに分けられるのではないか。――、しかしながら、果たして、そうだろうか、外的な価値のために人間は、あるいは生物は生きているのだろうか、存在しているのだろうか。人間も含めた生物はただそこに存在しているだけで、意味があるのではないか。存在するものには「存在」という「価値」、約(つづ)めて言えば「存在=価値」があるのではなかろうか。晩年の吉本隆明には、充分に展開されることはなかったが「存在倫理」という思想があった。ここではそのことを指している。吉本は加藤典洋との対談で次のように発言している。「人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、「存在倫理」という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。」 ( [吉本 加藤, 2002年]p.208)

*[47] 鬼を人間に戻す新薬の開発が遅れる、あるいは困難であるなら、殺すのではなく、「冷凍」すればいいのではないか。これは無論、庵野秀明総監督による映画『シン・ゴジラ』のアイデアのパクリである。この映画の背景となっているものは、2011年3月11日に発生した、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所放射能漏れ事故である。この事故の収束に向けては基本的に冷却という手法が用いられた。『シン・ゴジラ』のゴジラの方は続篇の含みを持たせてあるのであろうが、鬼を冷凍したうえで、その後蘇生可能かどうか不明ではあるが、未来の科学技術と医学の進歩の力を信じることとしよう。