Jジェイムズ・ジョイスを読むJ
「若い小説家」の誕生
ジェイムズ・ジョイス 『若い藝術家の肖像』
■James Joyce,A Portrait of the Artist as a Young Man,1916/ジェイムズ・ジョイス『若い藝術家の肖像』1916年/丸谷才一訳・1969年・講談社/1979年・講談社文庫/1994年・新潮文庫/2009年・集英社。
■長篇小説。
■全5章・548頁。
■2023年5月4日読了。
■採点 ★★★☆☆
昨年、ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)をテーマとする、on lineの公開講義「22Ulysses」を視聴する際に、本作も途中まで読んでみた。第Ⅳ章まで読み進めて、『ユリシーズ』とは異なり、普通に読める、ということに驚きつつ、同時に並行して読んでいた『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』との、余りの落差に驚きをもした。しかしながら、途中から仕事が忙しくなり、『ユリシーズ』は何とか読了したものの、『ダブリンの市民』、本書、『フィネガンズ・ウェイク』については、敢え無く挫折の憂き目を見た。
この度、小林広直さん主催の『Deep Dubliners』Deep Dubliners ――ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』オンライン読書会 - STEPHENS WORKSHOP (stephens-workshop.com)という後継に当たる読書会が発足するに当たって、捲土重来を期して、『ダブリンの市民』は最初から読み直し、なんとか読了した。
そこで、本書も残された第Ⅴ章を読むことにした訳だ(『フィネガンズ』については未定。無理のような気がする)。
第Ⅰ章から第Ⅳ章までは、比較的、いわゆるビルドゥングス・ロマンのように、主人公の幼少時からの成長が、比較的理解し易い文体で記される。
ところが、第Ⅴ章に至っては、この続篇に当たる『ユリシーズ』の文体実験を思わせる、様々な形式、内容、また、背景の説明なしの登場人物たちの会話などが、一つの章に埋め込まれる。その意味では、まさにこの『肖像』の第Ⅴ章こそが、「若い小説家」、それも後年、20世紀を代表する世界文学の覇者とも言うべき「若い小説家」の誕生の瞬間に際会することにもなっていた訳だ。
それが、成功しているのかどうかは、わたしには判断が付かないが、いずれにしても、こうでなければ、あのジョイスとは言えないということは確かとは思う。
個人的に気になった点をいくつか挙げておこう。
① 主人公が、密かに心に思う「彼女」のことを微妙に気にしたり(「彼女」がクランリーに挨拶をするのを見て「こいつもなのか?」と思うシーン(p.425)等)、エロチックな妄想をしたり(「彼女の体が放つ匂いと露をしみこませた柔らかな秘密のリネン」(p.428)等)したのにも関わらず、呆気なくお別れをするところ(p.464)が面白かった。
② 主人公がダイダロスの「末裔」故に、鳥のイメージが頻出する。これは『ユリシーズ』ではさらに輪をかける。大変興味深いが、残念ながら、われわれは主人公も含めて、鳥ではないので、空を飛ぶことも、この「世界」の「壁」を越えていくこともできないのだ。いずれにしても、この点は極めて重要だと思う。
③ 主人公がキリスト教信仰を棄てるに至る、あるいは背教者として生きる屈折具合。そこからの芸術的創造への昇華の予感。
④ そうであるにも関わらず、続篇『ユリシーズ』では、途中で「主役」「降板」の憂き目を見る。私見では、そこに従来の文学的創造の「抒情詩」的側面から、現代の「叙事詩」の創造への転換があったのではないかと考える。
以上のような次第で、本来であれば、未読の『F.W.』に行き、再度『ユリシーズ』に攻め上る、というのが順当な道行かと思うが、いかんせん、もう、わたしには、そのような読書をする時間が残されていない気がする。
ま、いいか。
🐓
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