鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

批評を遠く離れてその①*[1] 『小林秀雄全集』第九卷

【ことの次第  Der Stand der Dinge】

という訳で、4月にもなり、相変わらず体調もよろしからず、仕事も絶不調の極みではあり、万事多難という状況下で、多くの先立つ人々に花を手向ける、寒い春ではあるが、春は春なので、春、ということだ。

本稿は、まだ読み込むべき資料や、考察すべきことが多々あり、一旦お藏入りさせたものの、話が一向に進まないので、一旦断念をして(ダンネンです……)、アップすることにする。

今後の進みゆきは、

①これを『鳥』第15号として紙媒体に移植する。

②長らく死体と化していたPASSAGEの棚を復活させる。「◎総特集=小林秀雄歿後40年」。

③その前に、『ユリシーズ』文庫版をPASSAGEに放出する。

柄谷行人『力と交換様式』批判「「D」が「霊」に乗っ取られる」を完成させる(´;ω;`)。

村上春樹、新作『街とその不確かな壁』の論評「街とその確かな壁」を書き上げる。

ジョイス『ダブリナーズ』の読書会に際して「謎謎ダブリナーズ」を書く。

……うーーーん、こんなの一年分の作業量だな。このためには家事の量を減らすしかない。とりあえず今晩のおかずは生協の冷凍の鯖の味噌煮に小松菜の味噌汁と金平牛蒡か何かにしよう。ま、そんな訳だ。

20230405 1125

 

 

 

 

 

 

◎総特集=小林秀雄歿後40年

批評を遠く離れてその①[1]

小林秀雄全集』第九卷



■『小林秀雄全集』第九卷・2001年・新潮社。

■全集(批評・随筆・対談・座談)。

■2023年2月21日読了。

■採点 ★★★☆☆。

 

📌ここがPOINTS!

① 小林は自身の講演や対談などを批評作品の下位に置くが、むしろ逆ではないか?

② 小林は作品そのものよりも作者の人生に吸い寄せられるが、作品の批評にはなってない。

③ 批評の堂々巡りを回避するかのように、小林は「感想」という枠に離脱したのではないか?

 

【目次】

【凡例】. 2

はじめに... 2

1 対談、座談の面白さ... 4

2 「「形」を見る眼」... 7

3 「匿名批評」のすすめ... 15

4 文学は人生に勝る... 19

5 「感想」... 25

【主要参考文献】. 32

Summary... 33

 

【凡例】

一、小林秀雄からの引用は第5次全集(旧字旧仮名、但し対談、座談の類いは何故か新字新仮名)、第6次全集(新字新仮名)を跨ぐ。あくまでも筆者の都合に拠る。御寛恕されたい。

一、引用文中の傍線は全て引用者による。

一、原文の本文活字は明朝体で、対談、座談の発話者の表記はゴシック体ではあるが、全て教科書体で統一した。

 

はじめに

 どういう訳か、昨年(2022年)の秋以降、調子が悪く、仕事の繁忙期も重なって、二進も三進も行かなくなった。揚げ句の果てに、突如、引越しを余儀なくされたり、更には市民税、国民年金の滞納により給与の差し押さえを食らったり*[2]、その上、体調が急激に悪化して半日寝込んだりもしたが、会社も休めず、ずっと休みなしで勤務を続けている。

 このような有様ゆえに、読書も落書き*[3]も全く進まず、途方に暮れていた。柄谷行人『力と交換様式』*[4]への批判文は中絶し、もはや、何も言葉が浮かばず、日記すら書けなくなった。

 引越したばかりで、本を詰めた段ボールも展開されず、そのままの状態で積み上がったままだ。究極の積読とは、まさにこのことだ(笑)。と笑っている場合ではない。

 そもそも、これは以前からだが、老化のため、視力なのか何なのかが悪化して、小さな活字(10ポイント未満?)は判読するのに集中力を要する。もう老人は読書もできず、植物の水やりとか目高の世話ぐらいしかできぬという訳か。

 已む無く、青空文庫で巨大活字にして、カフカの短篇小説やら『城』*[5]やらを読み始めるが、どうも気分がそぐわない。

 そこで、偶々、段ボールを開いたら、買ったままそのままにしておいた『小林秀雄全集』*[6]の端本が2冊あったので、そのうちの一冊、第九卷を読み始めた。内容が頭に入ったとは、到底言えぬが、何しろ活字が10ポイントなので一応読むことができた。老人には有難いことだ。

 以下、その感想の一端を記すこととする。

 

1 対談、座談の面白さ

 小林は、多くのところで、あくまでも自らの本業は書くことであって、講演は已む無くしているという内容を述べている。例えば、本巻の表題作「私の人生觀」では次のように述べている。

 

 どうも私は講演といふものを好まない。だから、今迄に隨分講演はしましたが、自分で進んでやつた事は先づありませぬ。みんな世間の義理とか人情とかの關係で止むなくやつたものばかりです。/私が講演といふものを好まぬ理由は、非常に簡單でして、それは、講演といふものの價値をあまり信用出來ぬからです。自分の本當に言ひたい事は、講演といふ形式では現す事が出來ない、と考へてゐるからです。(中略)私は、書くのが職業だから、この職業に、自分の喜びも悲しみも託して、この職業に深入りしてをります。深入りしてみると、仕事の中に、 自ら一種職業の祕密とでも言ふべきものが現れて來るのを感じて來る。あらゆる専門家の特権であります。(中略)/さういふ様な次第で、私は書きたい主題は澤山持つてゐるが、進んで喋りたい事など何にもない。喋って濟ませる事は、喋って濟ますが、喋る事ではどうしても現れて來ない思想といふものがあって、これが文章といふ言葉の特殊な組合せを要求するからであります。

( [小林, 「私の人生觀」, 1949年/2001年]p.p.129-130)

 

というのだが、世評は必ずしもそうではない。講演、あるいは講演そのものではないが、講演を下にした文章は、小林の作品の中でも「名文」として知られる。「私の人生観」や「信じることと知ること」*[7]など、まさに小林の代表作とも思われるものが、講演を下にしている。ここには実は奇妙な問題があるのだが、一旦話を先に進めよう。

本巻は、その一つである「私の人生觀」を表題作とし、1949年から50年にかけて発表された作品を編年体で収録している。

わたし自身の小林読書歴のほぼ最初期に手にしたのが、この「私の人生観」を含む『人生について』[8]という中公文庫の一冊であった。恐らくのこの一冊からわたしの小林歴が始まったと言っても過言ではない。

では、あるが、今回、恐らく40年振りぐらいに「私の人生観」を再読してみて、正直余り面白いとは思えなかった。「人生観」の「観」から仏教哲学的な展開が為されているが、どうも理に勝ち過ぎる、というのか、今一つ興がそそられなかった。

むしろ、――むしろ、というのも変だが、この全集には幾篇かの代表的な対談や座談の記録が収録されている。小林にとっては意図から外れることになるだろうが、本来、小林が本業とする批評よりも、対談などの語り言葉の方が面白いのである。言うなれば本音が思わず出てしまうということなのか。無論、これは、小林だけのことではなく、誰しも、同じようなことが言えるのかも知れぬが。

そう言えば、――今手元に本がないので、うろ覚えで書くが、小林自身が、『本居宣長補記』[9]の冒頭でプラトンの「第七書簡」[10]について言及していたと記憶する。そこでプラトンは自身の本意は数多の著作の中には現れていないとするものであった。とすれば、プラトンの著作を読んでも仕方がないことになってしまうが、無論、そういうことではなくて、幾多の努力を重ねても、真理を尽くすことはできない、とも取れるし、あるいは師匠ソクラテスが、その著作を持たず、街角で、あるいは広場(アゴラ)で実践していたように、人々との具体的な対話のやり取りの中にしか真理は宿らない、とも取れる。

いずれにしても、小林自身についても事情は余り変わりがなかったのではなかろうか。

 

2 「「形」を見る眼」

本集中で最も耳目を驚かすのが、美術評論家・靑山次郎との対談「「形」を見る眼」での、靑山の発言である。無論、二人の、肝胆相照らす友情あってのことではあるが、青山は徹底的に小林を批判する。ここは途轍もなく面白い。

 

青山 さっき来る時、歩きながら考えたのだが、小林が絵のことをぼつぼつ書いているだろう、 それを僕は言ってみたいんだよ。僕がついて歩いて一緒に見ていたら、小林の見方というものもきっとモットつかまえられるし、普段だと座談にいつもそういうものが出て来るんだ、だけど小林の文章の中にそれが出て来ない雪舟でもゴッホでも……。

( [小林 靑山, 「「形」を見る眼」, 1950年/2001年]p.281・傍線引用者)

 

開口一番、もうこれである。要は「小林の文章」には「小林の見方というもの」が「出て来ない」が、「座談」などにはそれが出ている、小林の文章は駄目なんだ、と批判しているのである。

 

小林 そうかな、座談とは別だからな。/青山 小林の文章だと何か終いには絵は要らないというふうになっちゃうんだよ。画家のことが主要な問題になっちゃう。だけどクローデルだとかリルケは、絵が見えてくるように書けているね。その見えて来るというところが、普段の小林の座談になると生き生きと出て来る。書く時そういうものをみな端折っているね。

( [小林 靑山, 「「形」を見る眼」, 1950年/2001年]p.282)

 

これは痛烈である。本業である「批評」こそが成立していないと言っているのだ。これに対して、意外にも、と言うべきか、殊勝にも、小林は素直に反省して見せる。

 

小林 それはやはりおれが至らないところかな。/青山 だけどあれを読む人は、やはり小林が絵を見ていたというなまなましい眼の感じがほしいのじゃないかね。見た眼の感じを特に言わなくたってさ。たとえばクローデルとかリルケは、そんなことはちっとも言ってないけれども、そういうものが溢れている。作品を本位にしていながらおのずから他を語っているようなところが根本にあるんだよ。小林は画家(えかき)を本位にして絵を忘れているだろう?/小林 そういう癖はあるだろうな。/青山 だけど座談になるとちゃんとそれを喋っているんだよ、何時だって……。どうして文章になるとそれがぽつっと取れちゃうのかなあ。

( [小林 靑山, 「「形」を見る眼」, 1950年/2001年]p.282)

 

そして、最後はこうまで言い切る。

 

青山 無意識な何か大事なものを端折っているんだね。

( [小林 靑山, 「「形」を見る眼」, 1950年/2001年]p.282)

 

恐らく、青山が主として念頭に置いているのが、この前々年(1943年)に連載が開始されていた「ゴッホの手紙」だと思われる。『ゴッホの手紙』そのものについては、また別の機会に触れることもあろうが、ここでは簡単に書いておこう。

青山が述べている「小林が絵を見ていたというなまなましい眼の感じ」というのは、言うまでもなく、小林が『ゴッホの手紙』を書くに至った、その機縁となった経験を指すのだと思われる。

 

先年、 上野で読売新聞社主催の泰西名画展覧会が開かれ、 それを見に行った時の事であった。折からの遠足日和で、どの部屋も生徒さん達が充満していて、 喧噪と埃とで、 とても見る事が適わぬ。 仕方なく、 原色版の複製画を陳列した閑散な広間をぶらついていたところ、 ゴッホの画の前に来て、 愕然としたのである。 それは、 麦畑から沢山の烏が飛び立っている画で、 彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であった。 尤もそんな事は、 後で調べた知識であって、 その時は、 ただ一種異様な画面が突如として現れ、僕は、とうとうその前にしゃがみ込んで了った。 /熟れ切った麦は、金か硫黄の線条の様に地面いっばいに突き刺さり、 それが傷口の様に稲妻形に裂けて、青磁色の草の緑に縁どられた小道の泥が、イングリッシュ・レッドというのか知らん、牛肉色に剥き出ている。空は紺青だったが、嵐を孕んで、落ちたら助からぬ強風に高鳴る海原の様だ。全管絃楽が鳴るかと思えば、突然、休止符が来て、烏の群れが音もなく舞っており、旧約聖書の登場人物めいた影が、今、麦の穂の向こうに消えた――僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる

( [小林, 「ゴッホの手紙」, 1952年/2004年]p.p.11-12・傍線引用者)

 

したがって、小林は、自身を捉えた、この「或る一つの巨きな眼」とは一体何なのか、何故に、小林は、その「巨きな眼」の射すくめられたのかを書くべきだったのだ。青山の言いたいことはそういうことであろう。

ところが、小林が書いたものは、「ゴッホの作品」ではなく、「ゴッホの手紙」だったのだ。確かに、小林の言うように、ゴッホの弟テオ宛ての書簡をして「これは告白文学の傑作なのだ」*[11]ということが或る真理だとしても、それは、小林を射すくめた「巨きな眼」の批評になっているだろうか。

無論、芸術作品を云々する前に人間の生きるということの生生しさこそが批評足り得る、ということも、確かに或る真理ではあろう。しかしながら、そうであるなら、必ずしも芸術作品の批評である必要はない。ゴッホが絵画作品として、例えば「馬鈴薯を食べる人々」で描いたように、市井に生きる無名の市民の姿を描写してもよかったのである。

しかし、小林はそれをしなかった。天才なり、異形なりの言わばエキセントリックな人間にこそ、小林は遭遇し、彼らと衝突し、その経緯を描写するのである。

いずれにしても、小林は、ドストエフスキーでそうしたように、「作品」から入って、それをすり抜けて、「生活」に至るのである。そこに批評は存在するのであろうか。青山の「作品を本位にしていながらおのずから他を語っているようなところが根本にあるんだよ。小林は画家を本位にして絵を忘れている」[12]という指摘はまさに至言と言うべきである。

無論、小林自身にもそのことは分かっていたのかも知れない。青山はこうも言っている。「そうでなければ、小林が骨董を買うはずがない。金を出して買っているんだもの。」*[13] ――これはどういうことか。骨董を買うということは骨董を長い時間かけて見る、まさに「「形」を見る」ことに他ならない。そのような「「形」を見る眼」を無意識に鍛錬するということが「骨董を買う」ということであろう。文脈が逸れるかも知れぬが、小林は、ほぼ同時期に書かれた随筆「年齢」でこう述べている。

 

例へば、若い人から、「徒然草」の一體何處が面白いのかと聞かれる様な場合、私は返答に窮し、かう答へるのを常とする、面白かないが、非常な名文なのだ、と。日本の古典文學は、頭腦的に讀んでも殆ど何んの利益も齎さぬものばかりで、文學により頭腦の訓練をする爲には、西洋の近代文學を讀むのが、どうしても正しい様である。扨て、返答に窮して、といふ意味は、自分では、言はば古典を讀んで知るといふより寧ろ古典を眺めて感ずる術を覺えた気がしてゐるのだが、それがうまく口には言へぬ、さういふ次第だ。釣り気狂ひなどには、人間が魚に見える事もあるだらうと思はれるが、私も、瀨戸物に夢中になってゐた一と頃、人間が瀬戸物に見えて来て、大いに悟るところがあった。隱れて見えぬ、人間の気分だとか料簡だとかについて豫てから抱いてゐた不信の念を、たゞ見えるものを見るといふ修練が決定的なものにして呉れたと感じたからである。

( [小林, 「年齢」, 1950年/2001年]p.317・傍線引用者)

 

いみじくも、小林自身が述べているように「眺めて感ずる」、あるいは「たゞ見えるものを見る」ことの体験をこそ書くべきだったのである。

 

3 「匿名批評」のすすめ

さて、そうかと思えば、「批評」をめぐって、ずいぶん極端なことを述べている箇所もある。一旦、小林自身の本音とも思われる。小説家・劇作家の久保田万太郎、劇作家の眞船豐、そして小説家の永井龍男で囲んだ座談「小林秀雄とともに」[14]といういささか人を食った題名である。

座談者の中に劇作家が二人入っていたこともあり、演劇に対する批評の問題として語られてはいるが、事の本質は批評一般の問題として敷衍してもおかしくない。

眞船や久保田が今の劇評家は駄目だと批判しているところに、それに便乗して小林はこう言う。

 

小林 実にそうだ。平ったい言葉でいうと劇評家っていうものが未だほんとうの商売人になっていない、というこってす。今度こういう芝居をやります、頼みますよって、包みを持ってゆく。よろしゅござんす、という事に何故ならないのかな。/真船 あんなこと、言い出しやがった。/永井 面白いよ。聴こうよ。/小林 芝居という芸術はもともと大衆芸術なんだ。高級な芝居なんというものはあり得る筈がない。実際になり立たないではないか。芝居は民衆のまっただなかに生きるものだ。そうなら劇評家は健全な意味で広告屋になられはならねばならん筈だ。劇評家っていうものはそういうもので生活しなきゃいかんのだよ。今みたいに劇評家はみんな文学青年で、何だとか、彼だとか、高みから批評していて、なんで芝居っていうものが……。/真船 そうだよ。その通りだよ。/小林 僕は文芸時評だってそうだと思うんだ。小説という芸術も大衆的なものだからね。文芸時評家も読者や本屋の立場を考えないで、文学論をしていても駄目でしょう。

( [小林, 久保田, 眞船, 永井, 1949年/2001年]p.67・傍線引用者)

 

要は、批評家よ、商売人たれ、プロフェッショナルであれ、ということになるが、それは対象とする演劇や小説を受容するのが「大衆」だから、高尚な芸術論など不要だということになる。これは「大衆」を馬鹿にしているのだろうか。そうとも言えない気がする。更に、しばらく話題が逸れるが、最後にこの話を小林は蒸し返す。

 

小林 (真船氏に)さっき俺の言ったことは間違いか。/真船 とんでもない。……だけど、あんな、あんまり切実過ぎるんだよ……。/小林 サテ、何過ぎるかな……文芸時評でも、演劇評でも何評でも、 アクチュアルな性質をもつ批評は、みんな匿名批評の簡単明瞭なものにしてしまえという説なんだよ。面白いの面白くないのかそれだけはっきり言えば、それでよい、社会人の常識を代弁すればそれでよい。それには匿名批評形式の健全な発達が望ましいという説なんだ。自家広告的文学論芸術論はいけない

( [小林, 久保田, 眞船, 永井, 1949年/2001年]p.77・傍線引用者)

 

このテーマの、小林自身の結論は、この「匿名批評形式」ということになる。「匿名」ということに、特にこだわる必要はないのかも知れないが、名前が出る、ということはそこに自身の何らかの思想めいたものが出てしまう、ということになる。つまり、その作品が面白いのか、どうか、金を出して買うに値するかどうかだけを書けばよいのであって、小林が言うところの「自家広告的文学論芸術論」と言うような、作品に便乗して、自身の思想や、どこから借りてきたのか、何らかの思潮を語るのは、よろしくない、ということになる。――なるほど。卑近な例で言えば、ゲイム雑誌に掲載されているヴィデオ・ゲイム批評などがこれに当たるだろう。ヴィデオ・ゲイムの購買層は比較的年少であるにも関わらず、その対象となる製品は、おいそれと買うことが容易ではない。仮に保護者がスポンサーだとしても、念入りに製品の良し悪しを事前調査した上で、親に申請することになる。これに失敗すると半年ぐらいは、慚愧の念に塗れながらゲイム・ライフを送ることになるので、この事前調査で使われるだろうゲイム批評は重大である。小林が述べていた「今度こういう芝居をやります、頼みますよって、包みを持ってゆく。よろしゅござんす」ということもゲイム業界、ゲイム雑誌では当たり前のことだろうし、音楽や映画などでも同じようなことが常識となっているのではないか。

事の本質は小説や演劇でも同様であろう。

面白いか、そうでないか、これこそが批評に課せられた使命とも言うべきものである。

しかしながら、では、それが、小林がやりたかったことなのか、というとそうではなかったのだと思う。

つまりは、或る特定の批評家たちは、批評家であることに飽き足らず、結局のところは自説を自在に展開するようになり、やがては思想家と呼ばれるようになる。

 

4 文学は人生に勝る

小林は、詩人である三好達治との対談「文學と人生」[15]において、藤原ていの『流れる星は生きている[16]を批判する形でこう述べている。

 

小林 僕はやっぱりああいうのを見ても、人生経験というものと、 そいつを文学にするということはね、非常にどうも違ったことなんだな。

( [小林 三好, 「文學と人生」, 1949年/2001年]p.90)

 

与えられたテーマが「文学と人生」ということで、偶々、直近で読んでいた作品の名が出されているが、要は「文学と人生経験は違う」、「人生経験をそのまま文学作品にすることはできない」、という感想、思いが、ここに出ている。これはこれでとても重大なテーマではあるが、一旦、この対談の流れに沿って展開する。一体、ここで小林は何が言いたかったのか。

 

三好 あれは面白いものですか? /小林 経験とすればまず大変な経験なんだよ。面白くないわけはない。だが、 それだけなんだな。実人生の必然性からの直接の結果として文学の必然性は生れない自然主義文学の風潮がそこのところを非常に曖昧なものにしてしまったのだな。

( [小林 三好, 「文學と人生」, 1949年/2001年]p.90・傍線引用者)

 

「実人生の必然性からの直接の結果として文学の必然性は生れない。」――成程。実際の人生が如何に興味深い、あるいは深刻な経験であったとしても、それをそのまま文学作品にすることはできないという。それは何故であろうか。

 

小林 (前略)やっぱり深刻な経験をした人は、経験というものを買い被るね。買い被って馬鹿になる人の方が多いのではないかね。従って文学を甘く見るんだな。経験の方が激しいから、それに頼り過ぎるんだね。

( [小林 三好, 「文學と人生」, 1949年/2001年]p.p.90-91)

 

「深刻な経験」に「頼り過ぎて」、文学作品へと昇華させる技量が伴わない、ということなのか?

かと思うと、小林はこうも言っている。

 

小林 それからこういうことも考えたよ。僕の家内があれを読んでいてね、 ああこの人は信州の女の人だ、と思ったんだそうだ。 そうしたら果して終いまで読んだら、 信州に帰って来たというんだね。僕もそう思ったが、書いている女性の性格はよく出ているのだ。書いている人は半ば無意識だろうがよく出ているのだ。そういうところは面白い。外的事件を書いたところより、よほど面白い。経験した非常に悲惨なこと、異常なことと、それからこの人は信州の女だ、という何かその人間が持っている一つの非常に微少な味わいだな。文学でどっちが面白いかというと、それはやっばりこの信州人であるという内的な性質の方なんだ。

( [小林 三好, 「文學と人生」, 1949年/2001年]p.91)

 

つまり、巨大な事件の顛末よりも、具体的な生活や性格、まさに「微妙な味わい」こそに文学的な興味を惹かれるということなのか。と、すれば、それは技量の問題ではなくて、単に自らの持っている日常生活の有様や、些細なことの積み重ねを書くということであれば、いわゆる「私小説」ということになる。となれば、当然のことながら、小林の「私小説論」について論及すべきではあるが、話が逸れるので、一旦回避する。

 いずれにしても、では、小林は「私小説」を文学作品として宣揚しようというのか。

更に小林はこうも放言する。

 

小林 やっぱり、僕は文学は思想だと思うね。思想のための経験だね。

( [小林 三好, 「文學と人生」, 1949年/2001年]p.91)

 

この当時の「文壇」での通例により、対談、座談の多くは酒席で行われた。したがって、途中から酔いが回ってくると、文脈を逸脱して、本音と思われる発言が散見される。これもそうなのか。「文学は思想」である、文学は「思想のための経験」である。一体どういうことか。先程の私小説という観点で言えば、私小説程、思想性がないものと思われていたが。

 

小林 だから、 僕はよくその事を考えるがね。ドストエフスキイがこんな事を言ってるんだ。自分は若い頃、 人生は簡単だと思っていたが、経験を重ねるに従って、人生は複雑なものだと悟った。ところがもっと人生に暮してみると、人生なぞ簡単なものだと思う様になった。そう言ってるんだよ。これは、複雑で大事なのは思想の方だと思ったということなのではないかと思うのだよ。人生は二度読めない。二度読めるのは思想です。そうではないだろうか。 二度も三度も読めるというのは、みな〝人生はもう沢山だ〟とうものがあるんじゃないか。 まあ面白いものは一応面白いと思うけれどね、二度はもう厭だろう。要するに人生というものは解り切っているんだ。

( [小林 三好, 「文學と人生」, 1949年/2001年]p.92)

 

説明になっているとは思えないが、要は実際の人生よりも思想の方が大事だ、ということか。何故か? 思想の方が複雑だから?

 

小林 そうすると、文学はね、あれは人生ではないね、僕は人間でもないと思うのだ。人間でもないというとおかしいがね。(中略)つまりヒューマニティなんということを言うだろう。あれは言葉だ。言葉、言葉、言葉だ。実人生というものは物だ、メカニズムだ。つまらない、退屈な……。(中略)夢だよ。(中略)けっきょく詩がないと、二度読まんということになるのだよ。

( [小林 三好, 「文學と人生」, 1949年/2001年]p.p.92-93)

 

つまり、整理すると、こういうことになるか。

深刻な経験よりも日常の経験、日常の経験よりも思想、思想と詩がどういう関係にあるかは不明。言い換えれば、人生よりも文学、その文学の中でも思想に優位が与えらえていて、そこには詩が存在しなかればならない、ということか。

いずれにしても、このような認識は、恐らく、小林の最初期から持たれていたものと推測される。その指標になると思われるのが「感想」という題名の文章の頻出にあると思う。

 

5 「感想」

 小林の「感想」と言えば、例の、中絶した後、その公刊を禁じた、ベルクソン*[17]論「感想」が有名だが、今は亡き島弘之の『<感想>というジャンル』[18]を俟つまでもなく、「感想」という独自の散文のスタイルを「発明」したのは小林秀雄その人であって、まさに空前にして絶後と言うべきである。その後、誰も「感想」という「ジャンル」で散文を書くものはいなかった。

 小林は「近代批評の祖」、「批評の神様」などと称せられるが、本当にそうなのであろうか。むしろ、小林は相当初期の段階で「批評」を断念し、「批評」から撤退したのではなかったか。それが「感想」という苦肉の「ジャンル」の創出に他ならないのではないか。

ここで問われていることは一体何なのだろうか? 

 何かを考えたり、思ったりする自分の心がある。この自分の心を、自分の心で何か判断することはできるのか。

 あるいは、なにか作品を批評する。同じ人間の作ったものを、同じ人間の視線で批評できるのか。

 それができるのは結局「神様」、つまり「超越的な何か」だけではないか、という問題がここには伏在する。

 小林は、志賀直哉の「小説の神様」に準(なぞら)えて、「批評の神様」と尊称されたり、揶揄されたりしたが、小林的には、いや、とんでもない、ということかどうか分からぬが、自らの批評の何篇かを「批評」ではなくて、「感想」と題したのも、それなりの故あってのことではないだろうか。

 ちなみに、小林が「感想」という題名で文章を書いたのはおよそ20篇ある*[19]が、もちろん、この中に、例のベルクソン論も入っている。

  最初に、この「感想」という題で書かれた文章は、われわれが知りうる限りでは1930年12月の『時事新報』に発表されたものである。小林が「様々なる意匠」で文壇デビューしたのが前年1929年の9月のことだから1年半後ということだが、もうこの段階で、小林は「批評」に対して、どちらかと言えば肉体的な批判、というか愚痴のようなものを並べている。興味深いので、いくつか引いてみよう。

 

  毎月雑誌に、身勝手な感想文を少し許(ばか)り理窟ぽく並べ並べして来ている内に、いつの間にか批評家という事になって了(しま)った。批評家などと厭(いや)な名称である。

( [小林, 「感想」(毎月雑誌に……), 1930年/2002年]p.213。傍線部引用者)

 

 開口一番がもうこれである。小林の時代もそうだったのかはにわかには判断ができぬが、そもそも「批評家」とか「評論家」というのは、自分では具体的には何もせず、他人の振舞の揚げ足を取る人のことである。それは確かに「厭な名称」だ。「感想」、あるいは「感想文」の用例の起源がいつ頃にあるのかも、ちょっと分かりかねるが、少なくとも古語辞典には「感想」という言葉は載っておらず、漱石などにその用例があるところを見ると明治の半ばから末ごろには今と同じような使用法だったようである。また「感想文」というと、現在のわれわれの感覚で言うと、学校などで行われている「読書感想文」などを想起するが、これも起源が不明で、小林の頃、既にそのような習慣があったのかどうかも不明だが、小林の口調から推測すると、子供じみた「感想文」を少しばかり理屈を並べて難しくしてみたが全く嫌な仕事だ、ということになる。自分の書いているのは要は児戯に類するとでも言いたげである。したがってこうなる。

 

 私は嘗(かつ)て批評で身を立てようなどとは夢にも思った事がない、 今でも思ってはいない。文芸批評というものがそんな立派な仕事だとは到底信ずる事は私には出来ぬ

( [小林, 「感想」(毎月雑誌に……), 1930年/2002年]p.216。傍線部引用者)

 

とまで言うのだ。これは小林の実感だったのだろう。なぜ、そうかと言えば、

 

 人を賞((ほ))めても、くさしてもあと口はよくないものである。批評は己れを語るものだ、創作だ、などと言ってみるが、所詮得心のいくものじゃない。あと口をよくしようなどとは思わぬ、今によくなるだろうとも思わぬ。人の事を兎(と)や角(かく)言う事がそもそもつまらん事なのだ。

( [小林, 「感想」(毎月雑誌に……), 1930年/2002年]p.217。傍線部引用者)

 

 「くさす」というのは「腐す」で、人のことを悪意を持って貶(けな)す、貶(おとし)めることだ。他人のことを褒めても貶しても、いずれにしても他人のことをあれこれ言うこと自体が下らない、という訳である。つまり批評そのものが下らない、と言っているに他ならない訳だが、じゃあ、という訳で開き直って「批評は己れを語るものだ」という小林の、ほとんど名刺代わりというか、代名詞とも言うべき有名なフレイズが出てくるが、それすらも「得心」、つまり納得がいかないとまで言っているのである。

 それは何故なのか? ある対象があって、それがいいとか、悪いとかいうのが何故これほどまでに難問を含んでしまうのか、という問題なのである。

 ふざけたような文章だが、――どういう文脈で、どういう形で掲載されたものかは分かりかねるが、掲載紙である『時事新報』は、今となっては知る人も少ないだろうが、かの福澤諭吉の創刊になるもので、戦前の「東京五大新聞」[20]の一つと呼ばれていた由緒正しい「家柄」の日刊紙だった。それにしては随分な書きぶりである。

 いずれにしても、小林はこんなやけっぱちの書き振りでも当然のことながら、事の次第はよく分かっていた。

 

 言葉というものは口を洩れてこの世に記号として存在した瞬間に、この言葉を発言した肉体との縁は切れるのだ。縁が切れるから各人様々な意味をこめて喋(しゃべ)った言葉は、結果として区別のつけられぬ同じ文字として眼前にある始末になる。この面倒な事実が文芸批評家の前にある。批評される作品は、その作者に関する真理とその読者に関する真理と、二つの完全に溶け合わない世界をいつも提出している。作品を眺めて正直にものを言おうとすれば、どうしてもこれに引っかかる。だからこそ文芸批評とは何かという議論は絶えまいし、又言うは易(やす)く行うは難(かた)いなどという昔乍(なが)らの格言が百千の理窟よりは批評家にとって一番教訓的な言葉になるような仕儀にもなる。

( [小林, 「感想」(毎月雑誌に……), 1930年/2002年]p.p.216-217。傍線部引用者)

 

  一旦発表された言葉、文章は著者の元を離れて、フラットな活字の世界に入る、つまりテキスト、テクストである。だからそうなってしまえば、もう何を思おうが、それについて何を言おうが、読者の勝手ということになる。しかしながら、ほんとに作者は死んでいるのだろうか? 無論、作者が考えた構想やら主題などあてにはならない。しかし全くのゼロ、ということはないはずだ。作者は、作品についてこう語っているが、実はそこで語らえていないことが重要だという論法は小林のよく使う技だが、しかし、要はそういうことになる。

 そんなこんなを考えたりしていると、批評するのは簡単だが、実際に作品を書くのは大変だ、という事実の前に沈黙せざるを得ないのだが、それを言ったら批評だって立派な作品であって、書くのは大変なことになってしまう。

 以上のような堂々巡りが蜿蜒とここに生じて、もう批評ではない、「感想」で十分だ、というようなことになるが、この小文の最後は以下の一文で終わっている。

 

 どうなる事やら。

( [小林, 「感想」(毎月雑誌に……), 1930年/2002年]p.217

 

 全く人を喰った話だが、小林、弱冠28歳の率直な気持ちだったと言うべきではないか。

 

【主要参考文献】         

カフカフランツ. (1922年). 『城』. 参照先: 青空文庫.

プラトン. (紀元前352年?/1975年). 『プラトン全集14 エピノミス(法律後篇) 書簡集』. (水野有庸・長坂公一, 訳) 岩波書店.

小林秀雄. (1930年/2002年). 「感想」(毎月雑誌に……). 著: 『時事新報』1930年12月27日、29日-30日号/『小林秀雄全作品』2. 新潮社.

小林秀雄. (1949年/2001年). 「私の人生觀」. 著: 小林秀雄, 『小林秀雄全集』第九巻 私の人生觀. 新潮社.

小林秀雄. (1950年/2001年). 「年齢」. 著: 『新潮』1950年6月号/『小林秀雄全集』第九卷. 新潮社/新潮社.

小林秀雄. (1952年/2004年). 「ゴッホの手紙」. 著: 小林秀雄, 『小林秀雄全作品』20 ゴッホの手紙. 新潮社.

小林秀雄. (1974年/2001年). 「信ずることと知ること」. 著: 小林秀雄, 『小林筆雄全集』第十三卷. 新潮社.

小林秀雄. (1978年). 『人生について』. 中公文庫.

小林秀雄. (1982年). 『本居宣長補記』. 新潮社.

小林秀雄. (2001年ー2010年). 第五次『小林秀雄全集』全14巻・別巻2・補巻3. 新潮社.

小林秀雄, 三好達治. (1949年/2001年). 「文學と人生」. 著: 『文體』第四號・1949年7月/『小林秀雄全集』第九卷. 文體社/新潮社.

小林秀雄, 靑山二郎. (1950年/2001年). 「「形」を見る眼」. 著: 『藝術新潮』1950年4月号/『小林秀雄全集』第九卷. 新潮社/新潮社.

小林秀雄, 久保田万太郎, 眞船豐, 永井龍男. (1949年/2001年). 「小林秀雄とともに」. 著: 『季刊文藝評論』第二輯・1949年4月/『小林秀雄全集』第九卷. 好学社/新潮社.

森銑三. (1969年). 『明治東京逸聞史』1. 平凡社.

島弘之. (1989年). 『〈感想〉というジャンル』. 筑摩書房.

藤原てい. (1949年). 『流れる星は生きている』. 日比谷出版社.

柄谷行人. (2022年). 『力と交換様式』. 岩波書店.

 

Summary

Special feature = 40 years after the death of Hideo Kobayashi

Criticism Far Away (1)

The Complete Works of Kobayashi Hideo Vol.9

 

The Complete Works of Kobayashi Hideo Vol.9, 2001, Shinchosha.

Complete Works (Criticism, Essays, Dialogues and Discussions).

Read 21 February 2023.

Grading ★★☆☆.

 

📌Here are the POINTS!

(1) Kobayashi places his lectures and dialogues below his critical works, but isn't it rather the opposite?

(2) Kobayashi is more absorbed in the life of the author than in the work itself, but this is not a critique of the work.

(3) As if to avoid the roundabout way of criticism, didn't Kobayashi depart from the framework of "impressions"?

 

Table of Contents

Introduction

1 Interest in dialogue and discussion

2 "Eyes that See 'Form' "

3 Recommendations for 'anonymous criticism'

4 Literature trumps life

5 "Impressions"

 

 

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)に筆者が手を加えた。

 

 🐤

第3稿 15,869字(40枚) 20230404 1201

 

*[1] 例の如く、で申し訳ないが、「その①」と書きながら、続いた試しがない(´;ω;`)。気力、体力、時の運があれば「その②」以降が書かれる時もあるやも知れぬ。

*[2] この件については、非常に腹立たしく思っている。そもそも市民税の、前年の収入に対して徴収するという方式に根本的に異論があり、更には地方自治という考え方と、市民税を国税法の範囲内での運用するということにも異和が存在すると考える。これに関しては「これが民意なのか」の番外編として別稿を上げるとともに、何らかの形で具体的な対抗措置を取ろうと考えている。

*[3] 執筆活動のこと(笑)。

*[4] [柄谷, 2022年]

*[5] [カフカ, 1922年]

*[6] [小林, 第五次『小林秀雄全集』全14巻・別巻2・補巻3, 2001年ー2010年]

*[7] [小林, 「信ずることと知ること」, 1974年/2001年]

*[8] [小林, 『人生について』, 1978年]

*[9] [小林, 『本居宣長補記』, 1982年]。

*[10] [プラトン, 紀元前352年?/1975年]

*[11] [小林, 「ゴッホの手紙」, 1952年/2004年]p.17。

*[12] [小林 靑山, 「「形」を見る眼」, 1950年/2001年]p.282。

*[13] [小林 靑山, 「「形」を見る眼」, 1950年/2001年]p.282。

*[14] [小林, 久保田, 眞船, 永井, 1949年/2001年]。

*[15] [小林 三好, 「文學と人生」, 1949年/2001年]

*[16] [藤原, 1949年]

*[17] 小林本人は「ベルグソン」としている。

*[18] [島, 1989年]。

*[19] 純粋な「感想」という題名のみだと17篇となる。題名がいささか異なる①③④以外は全集内容見本に従って、冒頭のフレイズを掲げた。

①1930年11月(ただし題名は「我まゝな感想」)②1930年12月(毎月雑誌に…)③1935年1月(ただし題名は「選後感想」)④1938年7月(ただし題名は「従軍記者の感想」)⑤1940年4月(社会主義の…)⑥1941年1月(或る日、僕は、正倉院…)⑦1948年10月(芥川氏の作品は…)⑧1950年1月(相州の…)⑨1950年11月(ジイド全集に…)⑩1951年1月(一年の計は…)⑪1951年1月(武蔵野夫人を…)⑫1951年1月(「群像」の正月号に…)⑬1951年1月(「中央公論」の正月号の…)⑭1955年4月(先日、ディズニーの…)⑮1955年9月(私は、書いて…)⑯1957年11月(現代人を…)

⑰1958年(終戦の翌年…)「ベルクソン論」⑱1967年6月(先輩や知人の…)⑲1967年9月(「牛部屋の臭ひ」と…)⑳1978年1月(「玉勝間」の中に…)。

*[20] 「東京五大新聞」は以下の5紙。東京日日新聞、報知新聞、時事新報、國民新聞、東京朝日新聞( [森, 1969年]p.147)。