鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

謎々『ユリシーズ』その18 抒情への敗北 ――「第18挿話 ペネロペイア」を読む

ⅩⅧ

Πηνελόπη



バチカン美術館(ピオ・クレメンティーノ美術館)に所蔵されているペーネロペーの像(wikipediaより援引)。

 

 

謎々『ユリシーズ』その18

 

抒情への敗北

――「第18挿話 ペネロペイア」を読む

 

 

【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社文庫版による。鼎訳・巻数、ページ数で示す。単行本からの引用は、鼎訳・単行本・巻数、ページ数で、柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

 

〈登場人物〉

〈登場人物〉(モリーの想念のなかでの)

  • ブルーム
  • 《途中》

 

  1. 英語原文は単にピリオド、カンマの類いがないだけなので、鼎訳のような読み辛さはさほど感じません。旧鼎訳のようにほとんど仮名書きにするとか、新鼎訳のように中途半端な漢字の使用とか、いささか考え過ぎのような気もします(考え方によれば改悪になっているかも知れませんが)。単に句読点を省くだけでよいのではないでしょうか? そもそも旧鼎訳、というよりも、少なくとも本挿話と第14挿話については丸谷才一さんの好みが色濃く出ていると考えられます。大体、丸谷さんが訳した(とされている)第11・12・14・18挿話の訳文に他の二訳者や校訂役を務めたと思われる結城英雄さんが露骨な口出しをするというのはいささか考えにくいところです。旧訳での第18挿話がほとんど平仮名書きだったのは、女性の(無)意識の流れ→日本女性による平仮名の発明とその使用→日本中世における「女流」文学の隆盛、というような意識が働いたのではないかと思いますが、これは個人的な見解ですが、本挿話は、余りにも、そのような「女性性」、「女らしさ」、「女神性」、「聖母性」、「女性の持つ救済力」などに余りにももたれかかれ過ぎではないでしょうか? 無論、原文のジョイスにもそのような側面があることは否定できませんが(ジョイスの原文はもう少しフラットな感じがします)、丸谷さんの訳文が、さらにそれを(過剰に)助長してしまっていないでしょうか?
  2. 鼎訳で反復される「Yes」はこのままでよいのでしょうか? プロでもそれは無理だとおっしゃるかもしれませんが、そこを何とか、日本語にするのが翻訳ではないでしょうか。つまり、「Yes」で通じるからいいのだということではないと思います。共通するニュアンスは「これでいいのだ!」という肯定感だと思いますが、これだと長いし、例の「バカボンのパパ」の台詞を想起させるので、「いいわ」ぐらいではないでしょうか? また、それとは別に訳語が固いのも気になります。原文の調子が今一つわたしには分かりかねますが、半醒半睡の状態での言葉と考えると意識レヴェルが高いかな思います。例えば「he never did a thing like that before」(1511)/「先にはぜったいにしなかったこと」(p.279)の「先には」。元が「before」なので、間違いではありませんが、普通は「前は」ではないでしょうか。こういったところのニュアンスの違いというのは、無論個人の趣味とは言え、いささかならず気になるところです。本来こういう問題は、専門の研究者や翻訳家ではなく*[1]、本来小説家である丸谷才一さんの自家薬籠中のものとも思いますが、少なくとも『ユリシーズ』の翻訳については充分、そのお力が発揮されていない気がします。それともあえて、ゴツゴツした歯応えのある訳文を心がけられたのでしょうか? さらに言うと、擬古文ならぬ、いわゆる「擬女性語」も気になります。ここでは「先にはぜったいにしなかったこと」(p.279)の「よ」です。無論、原文にはそのような表現はないはずです(多分)。その上で、こんなことを実際に言うでしょうか? 20世紀初頭という時代状況を考えると、日本語ではそれなりに女性語というのがあったとは思います。しかし、ここではモリーの想念の世界ですから、そんな風に人は考えるでしょうか? 
  3. 訳註によれば「ブルーム夫妻は一八九三年から九四年まで、あるいは一八九四年から九五年まで、このホテルにいた」(457)とありますが、さほど裕福とも思えない彼らがホテル住まいをしているというのは、そもそも、この「シティ・アームズ・ホテル」というのが、どちらかと言えば、下級クラスの、つまり、自力で住居を確保できない人々向けの「ホテル」ということでしょうか? その割には、その後、ということでしょうが、ブルーム家には「女中」さんがいたようですが(p.283)、それなりの階級の出身ではあるが、それと比較すると貧しかった、という感じなのでしょうか?
  4. 「when he used to be pretending to be laid up*[2] with a sick voice doing his highness*[3] to make himself interesting for that*[4] old faggot*[5] Mrs Riordan that he thought he had a great leg of(……)」/「あのころあの人は亭しゅ関ぱくでいつも病人みたいな声を出して病きで引きこもってるみたいなふりをしていっしょけんめいあのしわくちゃなミセスリオーダンの気を引こうとして自ぶんではずいぶん取り入ってるつもりだったのに(下略)」(279)とありますが(以下鼎訳からの引用は適宜通常の漢字仮名混じりとする)、①「亭主関白」と「病気みたいな声を出」す、あるいは「病気で引きこもっているみたい」がそぐわない気がしますし、そもそも、この訳文だと、その目的が「ミセス・リオーダンの気を引」くためと取れます。「doing his highness」の「his highness」を「殿下」と取って、「亭主関白」としたのでしょうが、それはちょっと違う気がします。少なくともブルームのキャラ設定的にモリーに対して高圧的に振る舞うというのはいささか納得できません。さらに言えば、その目的は「to make himself interesting」なので、「自分を面白がらせるために」=「自分で面白がって」していることなので、或る種の「気位の高さ」を演じながら「病人っぽく」振る舞っていたということでしょうか? ②しかしながら、それが「ミセス・リオーダンの気を引」くためというのは理解出来ません。確かにブルームに好色の面は多分にありますが、流石に老女の域に達しようというリオーダンまで手を伸ばそうというのはいささか考えにくいところです。恐らく、単に、独り身の老女を心配して、何くれと世話を焼こうとして、その意味での「気位の高さ」を演じていたのではないか、とも思いますが、いかがでしょうか? したがって、この箇所はこう解釈をしました(句読点は入れました)。「あんとき、うちのは面白がってどっかの殿下みたいに病弱な声で病室に引きこもっているような振りをよくしていたなあ。そんであれは足長おじさん気取りで肉団子みたいなミセス・リオーダンに(下略)」(試訳)。いかがでしょうか?
  5. ミセス・リオーダンは「地しんのことやらこの世の終りのことやら」(279)/「earthquakes and the end of the world」(p.1511)ばかりをおしゃべりしているとモリーは嘆いていますが、何か伏線というか、背景があるような気がしますが、いかがでしょうか?
  6. 「lownecks」(1511)は「デコルテ」と訳されているようですが、この場合のデコルテとは何でしょうか? 「ウィキペディア」によれば「デコルタージュ・デコルテDécolletage(仏), Décolleté (仏)/服飾において、襟を大きく開け、胸や肩、後背部をあらわにするデザインのこと。ローブ・デコルテを参照。/英語圏・日本においての誤用。胸の谷間を指し示す用語。服飾以外ではこちらの意味ととることが少なくない。」とありますが、ミセス・リオーダンが下品だと指弾しているところから、後者の意味でしょうか?
  7. 「and her dog smelling my fur and always edging to get up under my petticoats especially then」(1512)/「それからあのおばあさんのかっている犬のやつあたしの毛がわのにおいをかいでしょっちゅうあたしのペチコートの下にもぐりこもうとしてあれのときにはなおさら」(p.280)とありますが、「then」を「あれのとき」と訳すのはいかがなのでしょうか? 「そのとき」だとして、「そのとき」とは一体何を指すのでしょうか?
  8. 「(……)and the last time he came*[6] on my bottom*[7] when was it(……)」(p.1514)/「この前あたしのお尻にしたのはいつだったかしら。」(284)とありますが、何故、ブルームはモリーの「on my bottom」/「お尻の上に」に射精(?)したのでしょうか? 挿入していて、最後抜いて発射したというよりも、印象論ですが、性交の形ではなく、ブルームが寝ているモリーの尻の上に出したようにも思えます。それはブルームが自身の性病を疑っていることや、あるいは、この夫婦が何となく性交の機会を失っているにも関わらず、相変わらずブルームの(そして、またモリーの)性慾は衰えることを知らない、ということもあるのかとも思いますが、いかがでしょうか?
  9. それにしても、モリーとボイランは本当に性関係を結んだのでしょうか? 時代やお国柄が違うとは言え、出先での出来事であれば、まだ理解できるのですが、自宅で夫のいないすきに、というのも、その夫が暫く帰宅しないということであれば、まだあり得るとは思いますが、夜まで帰ってこない、その夕刻の数時間で、ことを致す、というのはなかなか危険な試みではないかと思います。仮にボイランの立場で言えば、危険を避けるために巡業先で思いを果たすか、どうしても、ことを急ぐのであれば、どこぞのホテルのようなところに呼び出す、というのが妥当な判断でしょう。また、モリーの立ち場でも、そうなることを期待して、男を呼ぶというのはどうかと思いますし、普段、ブルームと、性関係は途絶えているにせよ、そのベッドで、新しい男とことを致して、更に、シーツも替えず、その痕跡(と言っても瓶詰肉を食べた跡)を残したまま、夫の帰宅を迎えるというのも、いくら何でも、大雑把過ぎる気もします。ブルームへの当て付けと考えれば、つまり、ばれてもOK、むしろ、波風を立てたい、と思っているなら、まあ、確かに、そうかも知れない、そもそも、モリーはそういう大雑把なところがあることは確かかと思いますが、で、あれば、実際に実事に及ばなくても、もっと、目立つところで、大ぴらにブルームにあてつければよいのにとも思います。以上のような意味で、ボイランとの、余りにも煽情的な性交シーンも、実はモリーの妄想ではないでしょうか? 無論、ボイランは訪問して、それなりのアプローチをしたのだとは思いますが。いかがでしょうか?
  10. モリーは不倫相手のことを「Boylan」/「ボイラン」つまりファミリー・ネイムで呼んでいますが、これは普通のことなのでしょうか? どうしてファースト・ネイムで呼ばないのでしょうか?
  11. 「he touched me」(1517)/「彼があたしにさわりました」(p.286)という箇所の訳註によれば「「彼」はモリーの告解の主体。」(p.459)とありますが、「告解の主体」とは何のことでしょうか?
  12. 「whatever*[8] way he put*[9] it I forget no father and I always think of the real father what did he want to know for when I already confessed it to God」(1518)/「どんな言い方をしたかわすれたけどいいえ神父さまあたしはいつも本とうのお父さんのほうのことを考えてしまう何を知りたがっているのかしらとうにあたしは神さまにそのことをざんげしてしまったのに」(p.286)
  13. 何かの作品を読解、読み解くという作業は必然的に「切る」、「区切る」ということを伴います。一旦はそういう読みかたをせざるを得ませんが、実は『ユリシーズ』という作品は、むしろ切ってはいけない、可能な限り繋げて読むべきではないかと思いますがいかがですか?
  14. 「I always think of the real father」()
  15. 元の原文は女性的ではなく、むしろ日本語訳で受ける印象よりももっとフラットなものではないでしょうか?
  16. 「Yes」と並んで本挿話に頻出する「O」は「No」という意味ではないでしょうか? その前提でやはり日本語に翻訳すべきだと思います。
  17. 「Yes」を日本語の文脈に置くと語調が強過ぎませんか? つまり「ハイ」という断定性が強くなり過ぎるのだと思います。もっと多義性、含みを持たせるように、日本語では、「いいわ」とか「そーよ」ぐらいではないでしょうか?
  18. 「Yes」の持つ「肯定性」とモリーの「女性性」が相俟って、この小説内部の「物語」が持つ様々な問題点や矛盾や軋轢などがそこに回収されてしまうのが、個人的には、『ユリシーズ』のわたしにとってのかなり強いマイナス・ポイントです。言うなれば、あらゆることが「抒情」に吸い込まれていないでしょうか。一旦、これを「抒情への敗北」としておきます。
  19. モリーの独白・描写は男性目線の女性ではありませんか? 女性は違和感を感じませんか?

 

《この項続く》

 

6391字(16枚)

🐤

20220801 0015

 

*[1] 丸谷さんの研究者や翻訳家としての実力を否定している訳ではありません。

*[2] lay up  使わずにおく、蓄える、しょい込む、働けなくする、引きこもらせる、(修理のために)係船する(weblio).

*[3] 高いこと、高さ、高位、高度、高率、高価、殿下(weblio).

*[4] for that それには;そのための;その為に(weblio).

*[5] 1*1肉だんご,ファゴット/2*2=fagot/3*3ホモ,おかま(Eゲイト英和辞典)。

*[6] come 《俗語》 オルガスムスに達する,「いく」(新英和).

*[7] 底、基部、(いすの)座部、尻、臀部(でんぶ)、最低の部分、末席、びり、ふもと、下(weblio).

*[8] [疑問代名詞 what の強調形として] 《口語》 一体何が,全体何を 《★【綴り】 特に 《主に英国で用いられる》 では what ever と 2 語に書くのが正式とされるが,最近では区別がなくなっている》.Whatever are you going to say? 一体全体何を言おうとしているのですか(新英和).

*[9] …を(あるふうに)言い表す(副詞(句)を伴う);…を〈…に〉(言葉で)表現する〈in/into〉;…を〈別の言語に〉置きかえる,翻訳する〈into〉(Eゲイト)。

*1:

*2:

*3:米俗

謎々『ユリシーズ』その17 海雀の巣穴の中へ ――「第17挿話 イタケー」を読む

ⅩⅦ

Ιθάκη

 



 

謎々『ユリシーズ』その17

 

海雀の巣穴の中へ

――「第17挿話 イタケー」を読む

 

【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社版単行本による。鼎訳・巻数、ページ数で示す。柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

  1. 訳者の解説には「彼が暴力によってではなく寛大さによってボイランに勝つ(?)」(単行本p.312)とありますが、「寛大」というテーマは重要だとは思いますが、単にブルームの生活の疲労などからくる「あきらめ」のようにも思えますが、いかがでしょうか? 単行本p.442,ℓ.2332には「羨望、嫉妬、諦念、平静」とありますが、結局は「諦念」による「平静」という面が強い気がします。それとも、どこかに「寛大さ」を示す伏線のようなものがありましたでしょうか?
  2. ブルーム家の台所(ブルームの居場所?)が半地下にあるのは、アイルランドでは一般的な家の造りであると以前「22Ulysses」の読書会で教えていただきましたが、どうも半地下というのが木のうろとか、動物の巣のように思えて、巣から出てきたブルームが、再び巣穴に戻って行くようなイメージが浮かびます。ブルームを何かの動物に見立てるようなイメージはジョイスには全くなかったのでしょうか? あるいは、スティーヴンが塔という直立するものに住んでいる/住んでいた、のに対しての、ブルームが半地下=穴=凹んでいるものに住んでいる、という対比なのでしょうか?
  3. 単行本p.319ℓ.112-114で「黄燐マッチを摩擦して点火し、ガス栓をひねって可燃性石炭ガスを放出し、高い炎を点火し、これを調節して静かな白光にしばり、最後に持ち運び可能な一本の蠟燭に火をともした。」とありますが、どうしてこんな面倒なことをしたのでしょうか? マッチを擦って、そのまま蠟燭に灯せばいいものなのに。それとも、これは何らかの宗教的儀式か何かを模しているのでしょうか?
  4. ブルームは靴を脱いで(単行本p.319,ℓ.119)、スリッパを履いていますが(単行本p.320,ℓ.130)、これは、アイルランドでは普通のことなんでしょうか?
  5. ブルームがスティーヴンを家に招き入れて、台所に連れて行くときに「明りの洩れる左手のドアの前を通過し」(単行本p.319,ℓ.131)とありますが、この左手の部屋はモリーの寝室なのでしょうか? そうすると、この段階ではモリーは起きていたということでしょうか?
  6. 単行本p.341,ℓ.516に「暖かい夏の夕方」とありますが、この表現はアイルランドでは普通なのですか? 夏でも夕方になると気温が下がるのでしょうか?
  7. 単行本p.347,ℓ.620 の「圧縮された三文字一観念の記号」とは何のことですか?
  8. 単行本p.366,ℓ954 の「祭礼的殺人」とは宗教的な様々なことが、人々を苦しめるという意味ですか? それにしては「殺人」というのは言い過ぎなような気もしもしますが。
  9. これは文庫では訂正されているかもしれませんが、単行本p.373,ℓ.ℓ.1085-1086の「イタリア語講習過程」と「声楽講習課程」は原文では両者とも「course」なのですが、前者の「過程」は誤植ですか?
  10. 寝ているモリーの描写の中に「あふれんばかりの精液をたたえた姿勢(fulfilled, recumbent, big with seed)」単行本p.451,ℓ.2485とありますが、この訳はあっていますか? 確かに「seed」=「精液」というのは分らぬでもないし、その含みがあるのも理解できますが、ここでは、モリーの寝ている様子が大地の女神になぞらえられているのと、「左手を枕に」とあるだけで右手がどうなっているか不明ですが、文字通り、種子を蒔いているような気もします。ここで、横向きに横たわっていて「精液をたたえた姿勢」というのがどうもピンときません。そもそも誰の精液なんでしょうか?
  11. ティーブンの「水嫌い」(単行本p.326,ℓ.246)、風呂に入らないというのは何か意味があるのでしょうか?
  12. 湯沸かしから出た水蒸気が「鎌状」(単行本p.328,ℓ.280)と表現されていますが、何故、鎌のように曲がるのでしょうか? 棒状なら理解できますが。
  13. ブルームは肉などの食品を棚に入れていますが(単行本p.p.330-331)、冷蔵庫の発明は1800年代らしいのですが、この時代、アイルランドではあまり普及していなかったのでしょうか?

 

〈中絶〉

 

2168字(6枚)

 

🐤

20220724 1550

自転車

夢で遇いましょう 

 

 

 

自転車

 

こんな軽装で山登りなんて、と思われるかも知れないが、なにしろぶらっと家を出て、適当に、空想上の棒を倒した方角に、気の向くまま、脚の向くまま、歩き出しただけなのだから仕方ない。電車に乗り、バスに乗り、気が付いたら、なんだかとんでもない山の中にいた。何しろ、革靴で歩いているのだ。これは仕事用なのだが、会社に勤めているときは、プライヴェイトな休みとかがほとんどなかったので私用で履く靴を買ってなかったのだ。まー、仕方がない。だから、就職活動の面接に行くのも、近所のスーパー・マーケットに行くのも、この革靴を履いている。本当は2、3足揃えていて、常時履き替えるようにすればいいのだが、どういう訳か、40年前後サラリーマン生活を続けていて、ついぞ、その習慣は一切身に付かなかった。一足の靴を1年近く履き続けて、襤褸〳〵になり、これは流石に人間としてどうなんだ、というレヴェルになると、東友とかダイオーとかの格安スーパー・マーケットの生活用品売り場に行って最安値の商品を買ってくるのだ。要するに、これが貧乏人の銭失いということであって、そんな安物を買えば、すぐに履けなくなってしまい、結局またすぐに買う羽目になるのだ、だから、高価であってもきちんとした商品を買うべきである、というお考えを否定する気は全くない。全くその通りだと思う。それができればそうしていた。要は手持ちの自由になるお金があまりないので、そうならざるを得なかっただけなのだ。

これはサラリーマンの制服であるところの背広についても同様なことが言える。もう制服なんだから、デザインなんかどうでもいいので(という考え方がもうアウトなんであろうな)、一律に同じものを会社から支給して貰いたいものだ。

しかしながら、これは、結局のところ、自分がサラリーマンであることに本質的な異和感とでもいおうか、根本的なやる気のなさみたいなものが伏在していたので、かく、このようなどうでもいいや的な態度になってしまったのであろうな。ま、辞めてしまった今となってはどうしようもないことだ。

ま、そんな訳で、リュック・サックこそ背負っているものの、黒のスラックスに、ワイシャツ、その上に深緑のカーディガンという、山を舐めているのか、と叱責を被るだろう恰好だ。ちなみに、リュック・サックも仕事用であった。例の東北大震災までは普通の手提げ鞄だったのだが、その時に電車が止まって、自宅まで4、5時間かけて帰宅してみて、手提げ鞄、つまり片手が塞がっている状態で逃げるのは大変困難だということを痛感して、普段の通勤もリュック・サックを使用することになった。ま、それ以降大きな地震などはないが、まー、何が起こるか分からないからね。

で、そんな巫山戯た恰好で、木の切り株に一人腰かけていると、いわゆる山登りの完全装備をしたクライマーたちが、三々五々と、わたしに奇異な目を向けながら、挨拶をしながら、通り過ぎていく。

そもそも一体ここは何処なんだ。

電車を降りて、軽い気持ちで、ケイブル・カーに乗り込んで、その終点の土産物屋を後にして、暫く歩いたらこうなった。電波の状況も悪く、先程から、既に携帯電話は使えなくなっていた。わたしは、手首が痛くなるため腕時計をする習慣がないので、時間も分からない。恐らく、午後の、まだ早い時間だと思われるが、山の天気は変わり易いのと同様に、山の時間は早く通り過ぎる。これは空間が山塊のため物理的に曲がっているからそうなるのだ。アインシュタイン特殊相対性理論、第2法則である。したがって、もう帰る方向で準備をしないと、すぐにでも日が暮れてしまうであろう。

そうこうしているうちに、辺りの木々が騒めいている。地震のようだ。いや、地震だ。これは大きい。ここで来たか。地表がぐらりと揺れる。立ってられなくて、近くの樹木の幹に縋り付いて蹲る。遠くから、恐らく土砂のようなものが崩れる音と共に、何人かの人の叫び声が聞こえる。これは流石にやばいのではないのか? 山の斜面の上方を見るが、ただ、依然として木々、というより山の塊が塊ごと左右に揺れている。2分後だか、3分後だか、判断できないが、揺れが収まったようだ。こういう時、つまり、山の中にいて地震にあったらどうするか、みたいなことはついぞ聞いたことがない。一体どうすればいいのだ。

暫く辺りの様子を窺って、大丈夫ではないかと一旦判断をして山を下ることにする。幸い、どこも怪我はしていないようだ。10分程恐る恐る、下っていくと、5、6人の登山客が小径の上で固まっている。

どうしたんですか、と尋ねると、矢張り、人々はわたしの異相を訝し気に暫く眺めてから、山道が陥没していてこれ以上先に進めないのだと言う。確かに皆の肩越しに見ると、岩山に亀裂が入って、2、3メートルもの裂け目が拡がっている。なるほど、かといって、その2、3メートルの間を跳べばいいのではないかと、簡単に思われるかも知れないが、その裂け目の先にも岩くれが崩れ落ちたりしていてどうも危なそうだ。

比較的山に長じていると思われる、初老のクライマーが頻りに携帯電話で連絡を取ろうとしているが、どうも通じないようだ。誰が、どの携帯電話で連絡しようとしても、電波の状態が悪くて、全く通じないという。

さて、困った。

あんた、何しに来たの? と、その初老の登山家に、悪意なく尋ねられた。

いや、散歩です。

え? 家近いの? この辺?

いえ、神奈川の縦島です。

え? そんなところから? 散歩なの? 

ええ、まあ。はは。。。は。

それにしても、なんとかしなければならない。このまま野宿(ビバーグ)だと覿面(てきめん)に困るのは、私服姿で、ほぼ手ぶらーマンのこのわたしだ。さて、どうしたものか。きっと呆気なく死ぬだろうな。

すると、先程から山岳地図を拡げて子細に点検していた、30代ぐらいかと思われる、全く化粧気のない女性が、ここから10分程戻ったところが一番国道に近い。ただし、その国道へは崖を降りなければならないが、皆さんどうされますか、と一人呟くかのように言うではないか。

国道があったんかい。

別の、恐らく長いであろう髪を頭の後ろに丸く固めている若い女性が、崖ってどれくらいなのかと尋ねる。

10mぐらい、と地図の女性はこともなげに答える。

10m、そこにいた人々はいささか絶句する。

5分程話すともなく、なんとなく話し合って、結局、このままここにいても埒が明かないので、取り合えず、そこまで行ってみることにする。山道を辿りながら、皆の話を聞くともなく聞いていると、そこにいたのは6人で、わたしを入れると7人となる。そこには二つのグループが存在しているようであった。初老のクライマー、仮にAさんとすると、そのパートナーと思われる、矢張り初老の女性がいた。Bさんとしておこう。多分夫婦かとは思うが、世の中何が正解か分からないものだ。ま、夫婦であろう。この二人は随分山に慣れているような気配がする。頼もしいな。

それとは別に、先程の地図の女性、Cさん、ひっつめ髪の女性、Dさん、そして同じように20代から30代かと思われる二人の男性がいたが、この二人は全くの無口であった。Eさん、Fさんとしておこう。どうもこのグループは会社の研修かなにかで、ミッションを遂行中にこの惨事、という程のものでもないが、これに巻き込まれたようだ。ひっつめ頭の若い女性Dさんは先程から、ぶつくさ、研修? のことや、会社のこと、会社の、恐らく上司のこと、さらにはこの災厄についても心の底から呪詛の言葉を挙げ連ねていた。ついには、この地震と、崖崩れのことは事前に仕組まれたもので、わたしたちがどうするか見ているのよ、と言い出す始末だ。大分参っているようだ。それに引き換え、E・Fさんはあたかも影のように、完全な無言で、他の二人の女性に付き従っている。いや、これは、マジで影ではないのか、と疑われるぐらいに。あるいは、実は、二人の女性は高貴な方々で、警護のセキュリティ・ポリースが付き従っているのではないか。そう考えると、この男性二人の無言振りも納得できるし、二人の女性も、あるいはテレ‐ヴィジョンのニュースかなにかで見たかも、いや、お見掛けしたかも知れないと思えなくもない。と、すると、このお二方は御姉妹になるのか、うーん、似てないが。

さて、問題の現場に到着すると、さっきわたしがいた場所ののすぐ近くではないか。なんということか。確かに、足元には崖が垂直に滑り落ちていて、その下には、舗装された車道が目にされる。

それでは、と言って、初老のクライマー夫婦が、如何にも頑丈そうなロープや、結索具などをザックから出して(一体、何に使う心算だったのだろう)、比較的頑丈そうな岩にハンマーで器具を打ち込むと、パートナーと思われる初老の女性、あ、Bさんだった、Bさんの体に器具と共に縛り付け、するすると崖を下ろしていくではないか。呆気なく、Bさんは下界に降りた。あとはほぼ順にアルファベット順に、C、D、E、F、と降りて行った。するとわたしはGさんということになるのか。確かにな。

最後にAさんが降りて、どういう業か分からぬが、何か別の紐を引っ張ると、岩に突き刺さった結索具ごと、ロープも落ちてきて、回収が完了した。

国道には道の向こうに小さなドライブ・インらしきものがあった。覗いてみると営業中のようだったので、彼ら6人は休憩していくという。

さて、困った。わたしはとにかく早く帰りたいのだ。

こっからどうやって戻ればいいですか、と、そのドライブ・インのマスターのような、口髭を生やした中年の男性に尋ねると、バスが来るのは一時間以上後だという。

わたしが、困惑していると、その口髭マスターは、見かけとは違って、意外に親切で、自転車を貸してくれるという。それで降りて行けばまー30分ぐらいで着けるという。麓にここと同じ屋号のレストランがあるから、そこに返してくれればいい、という。というか、こんな山の中で自転車なんか使うんですか、と聞こうかとも思ったが、なんだか藪蛇なので、やめておいた。

同じ屋号? 辺りを見渡しても書いてないので、外に出て見てみると、確かにでかでかと、「ドライブ・イン LED」と看板に書かれていた。

ドライブ・イン・エル・イー・ディー、失礼ですが、変わった名前ですね。エコとか何とかですか?

そう。いや、そうじゃない。ドライブ・イン・レッドね。ルェッド。

ああ、レッド・ツェッペリンのレッドですね。

いや、いや、レッ・ゼペリン。

ああ、確かにね。イギリスでは、そうですね。

ノウ、ノウ、ノウ、UK。

――なんだ、このハード・ロック親父は? 

有難く、そのハードロック親父の愛用の? 自転車を拝借していくことにする。恐らく、この自転車も「レッド」号、とでもいうのであろう。

なんか食べて行けば、というその親父の言葉を丁重にお断りをして、わたしは颯爽と自転車に乗って、山の中の国道をハイ・スピードで駆け下りて行った。その自転車は、今はとんと見かけることのない、昔流行った27インチの車高、10段変速ギア、ドロップ・ハンドルという仕様で黄緑色の車体だ。高速で走行するタイプのものだ。もちろんペダルには足の脱落防止のカヴァーというかベルトも付いている。ドロップ・ハンドルというのはハンドルが羊の角の逆方向になるが下に半円状に曲がっているものだ。

これはわたしが中学校3年生の夏に、自転車は別に普通のものを持っていたにも関わらず、母に我儘を言って買ってもらったものだ。丁度そのとき、わたしの悪友仲間の中では、スケイト・ボードとそのスポーツ車が流行っていた。どっちにしようかと迷った挙句、受験前だという、よく分からない理由で、スケイト・ボードを止めて、自転車を買ってもらった。一人っ子だったので、我儘し放題だった。家が貧しい割にはとんでもない横暴ぶりだった。

わたしは、その夏、しばしば、大してしていない受験勉強のストレス発散で、そのスポーツ車で暴走行為を繰り返していた。近くに工業団地があって、昼間は何故か、ほとんど人も車も通行しない。なおかつ、車道が広かった。直線距離で1kmぐらいのその車道をしばしば全速力で疾走したものだった。なぜ、そんなことをしたのか、自分でもよく分からない。高校に入ると、その種のスポーツ車は使用禁止で、仕方なく、普通の自転車で通学していた。

結局、その後、大学に入って、ここは話せば長くなるのでショート・カットするが、スーパー・ダイオーの前に停めておいて、回収されてしまい、そのままになってしまった。全く酷い話だ。こんな出鱈目が許されていいのか、と今更自分で突っ込んでも仕方がない。

山の中とは言え、全てが下り坂という訳ではなく、多少のアップ・ダウンはあるものの、総じて、さほど苦労することもなく、むしろスピードが出過ぎないようにブレイキを適宜書けながら、疾走していった。超ウルトラ久し振りの自転車なので、恐らく30数年ぶりぐらいの自転車の走行である。いささか尻が痛いが已むを得ない。

30分も下ったであろうか。周りの山林が消えて、遠くの方に麓の街並みが見えてきた。すると、矢張り遠くの方に、以前勤めていた会社で同じ支社にいた倉敷君と思われる若い男性が、何故か、背広の上着を付けず、白いワイシャツ姿で、携帯電話で、にこやかに話しているのが目にされた。

おや、倉敷君だな、と一目で分かった。いい奴だったが、少し神経質なところがあって、それにも関わらず、若いのに、別の支社の支社長に大抜擢されると、営業成績の不振なんかのことで心をいささか病んでしまい、結局、呆気なく退社してしまった。その後は、小学校の先生になったと風の便りでは聞いていた。それにしても、何故、こんなところにいるのであろう。横には黒いトヨマ・カロールが、路肩に停めてあった。車を降りて電話しているのだろうか。

聞えてくるのは、ベイルートとか、原油価格がとか、航路の問題がとか、そういう類の言葉が聞こえてくる。なんだ、学校の先生ではなくて、石油の商社かなんかに入社したのだろうか。世の中、大変だな、そう思いながら、倉敷君の横を自転車で通り過ぎる。

わたしは原則として、外で知り合いに会っても絶対に挨拶をしない。完全に無視をする。とても恥ずかしいからだ。向こうから声を懸けられたら、已む無く、今日は、じゃあ、また、と言って即座にその場を離れる。

更に暫く下って行くと、左前方の、大きな川を渡った向こう岸に大きなスーパー・マーケットが目にされる。スーパー・シュンペイだ。ついでだから、買い物をして帰ろう。

ところが、それに気を取られていると、前方に、赤い服を着た小学生ぐらいの少女が、わたしの5mぐらい前に不意に飛び出してくる。

危ない。ぶつかる。

その少女はわたしの自転車に気付かないのか、向こうを向いたまま全く微動だにしない。避けようと思うが、ハンドルが効かない、というよりもわたしの手が全く動かない。何故だ。危ない。

よくみると、その少女は向こうを向いているのではなくて、顔がなかった。顔がないのだ。

 

自転車

夢で遇いましょう

 

6151字(16枚)

 

🐓

脱稿日不明

20220713 2235

 

澁 谷

 夢で遇いましょう 



 夢で遇いましょう 

 

澁 谷 

 

渋谷という街はまさに田舎者にとっては悪魔の街、と言わねばならない。わたしは東京に来て、もうかれこれ40年余りとなるが、全く以て、渋谷の街の構造、というのかシステムというのか、さっぱり分からない。のだ。渋谷の営業本部の二号館の方に行く。初めて来た。大型新古書店の上ではなく、その向かい側のビルディングだ。

 登っていくと、スーパー・マーケットのバック・ヤードみたいなところがオフィスのようだ。タイム・カードやロッカーもある、やたらと狭い空間に休憩用のトレニアまで置いてある。なんか食べるならオフィスじゃなくて、ここで食べて下さい、と注意される。警備員までいる。営業本部だと警備員までいるのか、二号館なのに。

 支社長会が開かれるようだ。問題があるとされる支社の支社長や営業所の所長がぞろぞろ入って来る。知り合いの所長に挨拶する。やあ、最近どう? どうもどうも。

 自分も資料の準備をしたり、コピーをしたりする。 

 見知らぬ本部長が来る。しかし本部長だなと分かる。顔がテラテラと光っている。バターかマーガリンを塗りたくったようだ。あるいは歌舞伎か新劇の舞台役者のようにこってりと化粧をしているようだ。

 本部長、わたしは? と問うと、

 あんたは出なくていいよ、といわれる。あんたの支社は問題がないからいいよとも、あんたは所長でも支社長でもないからいいよとも、あんたは無能だからいいよとも、実はどうでもいいよともとれる。どっちなんだ。

 そこは地下街の呑屋街の一郭だった。異様に明るい。店の中は満員だ。

 支社のメンバーが三々五々と集まる。外の通路のどんづまりのテーブルで順番待ちをしなければならない。

 わたしはすでに瓶ごと焼酎を呑んでいる。水のようだ。全く酔わない。開け放たれた窓ガラスごしに呑屋の中の様子が見える。入り口を入った左手の果てが列の末端のようだ。そこにいなきゃいけないのか。よくわからない。そこに支社長の箱根が合流する。芳川君が列の半ばにいる。

 一人入って名前を書いてしばらく待つ。窓に向かってカウンターがあるがそこには帳簿やボールペンやらいろんなものが置いてある。せっかくカウンターがあるに、そこは死んでいる。

 5人空いたのでみなも入って来る。外に向かって横並びになる。さっきの物置のようなカウンターだ。しかし外にもテーブルが複数あってみんな楽しそうに飲んでいる。そう言えばさっき自分たちもそのテーブルに座って中が空くのを待っていたではないか。どういうことだ? この店のシステムが全くわからない。そのことを店員にいうと、多分、中国語で何かいわれただけで、そのまま放置される。

  

澁 谷 

 

夢で遇いましょう 

 

 

 

1072字(四百字詰め原稿用紙3枚)

🐥 

初稿不明

20220713 2206 

 

渋谷という街はまさに田舎者にとっては悪魔の街、と言わねばならない。わたしは東京に来て、もうかれこれ40年余りとなるが、全く以て、渋谷の街の構造、というのかシステムというのか、さっぱり分からない。のだ。渋谷の営業本部の二号館の方に行く。初めて来た。大型新古書店の上ではなく、その向かい側のビルディングだ。

 登っていくと、スーパー・マーケットのバック・ヤードみたいなところがオフィスのようだ。タイム・カードやロッカーもある、やたらと狭い空間に休憩用のトレニアまで置いてある。なんか食べるならオフィスじゃなくて、ここで食べて下さい、と注意される。警備員までいる。営業本部だと警備員までいるのか、二号館なのに。

 支社長会が開かれるようだ。問題があるとされる支社の支社長や営業所の所長がぞろぞろ入って来る。知り合いの所長に挨拶する。やあ、最近どう? どうもどうも。

 自分も資料の準備をしたり、コピーをしたりする。 

 見知らぬ本部長が来る。しかし本部長だなと分かる。顔がテラテラと光っている。バターかマーガリンを塗りたくったようだ。あるいは歌舞伎か新劇の舞台役者のようにこってりと化粧をしているようだ。

 本部長、わたしは? と問うと、

 あんたは出なくていいよ、といわれる。あんたの支社は問題がないからいいよとも、あんたは所長でも支社長でもないからいいよとも、あんたは無能だからいいよとも、実はどうでもいいよともとれる。どっちなんだ。

 そこは地下街の呑屋街の一郭だった。異様に明るい。店の中は満員だ。

 支社のメンバーが三々五々と集まる。外の通路のどんづまりのテーブルで順番待ちをしなければならない。

 わたしはすでに瓶ごと焼酎を呑んでいる。水のようだ。全く酔わない。開け放たれた窓ガラスごしに呑屋の中の様子が見える。入り口を入った左手の果てが列の末端のようだ。そこにいなきゃいけないのか。よくわからない。そこに支社長の箱根が合流する。芳川君が列の半ばにいる。

 一人入って名前を書いてしばらく待つ。窓に向かってカウンターがあるがそこには帳簿やボールペンやらいろんなものが置いてある。せっかくカウンターがあるに、そこは死んでいる。

 5人空いたのでみなも入って来る。外に向かって横並びになる。さっきの物置のようなカウンターだ。しかし外にもテーブルが複数あってみんな楽しそうに飲んでいる。そう言えばさっき自分たちもそのテーブルに座って中が空くのを待っていたではないか。どういうことだ? この店のシステムが全くわからない。そのことを店員にいうと、多分、中国語で何かいわれただけで、そのまま放置される。

  

澁 谷 

 

夢で遇いましょう 

 

 

 

1072字(四百字詰め原稿用紙3枚)

🐥 

初稿不明

20220713 2206 

謎々『ユリシーズ』その10   「岩々」なのか「岩」なのか、それが問題だ。 ――「第10挿話 さまよう岩々」を読む

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

Πλαγκτα

 

 

謎々『ユリシーズ』その10

 

「岩々」なのか「岩」なのか、それが問題だ。

――「第10挿話 さまよう岩々」を読む

 

【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社文庫版による。鼎訳・巻数、ページ数で示す。単行本からの引用は、鼎訳・単行本・巻数、ページ数で、柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenbergプロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

1.    本挿話「Wandering Rocks」の和訳を鼎訳では「さまよう岩々」、柳瀬訳では「さまよえる岩」としています。「Rocks」なので「岩々」というのは頭では分かるのですが、そもそも「岩々」という日本語は正しいのでしょうか? 通常の用法では「岩々」とは言わないことを念頭に置き、柳瀬さんは「岩」とされたのではないかと思いますが、いかがでしょうか? 逆に言えばあの、日本語の用法にうるさい丸谷才一がいて、これは如何なることかと、怪訝に思ってしまいますが。

 日常的には使わなくても、まずもって①語感、語呂の問題、「さまよう」か「さまよえる」か、はまた別に問わねばならないが、「さまよう岩」だと静止的な感じがする、つまり、本来はオデュッセウスの通行を邪魔する存在なのだから、②動きが感じられねばならない。さらにはこの「さまよう岩々」はダブリンの市街を「彷徨う人々」に比定されるので、多少日本語としてごり押しだとしても、複数形でないといけなかった。③呉茂一訳『オデュッセイア』には「岩々」という用例があるらしい(未確認)。

2.    本挿話は19の断章からなり、それぞれ市井の人々の生活を、無作為に抽出し、平等に描いているようにも思えますが、そうともいえない気がします。第1断章「(ジョン・コンミー神父)」だけがいささか長過ぎる気もします。試みにそれぞれの断章のページ数を鼎訳の単行本で比べてみると、次のようになります。端数は切り上げ。(1)13ページ・(2)2ページ・(3)3ページ・(4)3ページ・(5)3ページ・(6)3ページ・(7)3ページ・(8)5ページ・(9)8ページ・(10)5ページ・(11)6ページ・(12)6ページ・(13)6ページ・(14)6ページ・(15)6ページ・(16)5ページ・(17)3ページ・(18)4ページ・(19)8ページ。本来は、1922年刊行のシェイクスピア&カンパニー版を参照すべきなのですが、今手元にありません。つまり、ページ数の「数」に何らかの意味があるのでは、とも思うのですが、いかがでしょうか? 長さの不均衡(実はこれにも何らかの意味があるのではとも思えます)について言えば、暴論かも知れませんが、最初ジョイスはこのような断章形式で書く、というアイデアを持っておらず、第一断章を書き始め、途中で挿入節を思いつき、そこから派生して、断章形式に移行したのでは、とも思うのですが、いかがでしょうか? 無論、その後、何らかの意図をもって字数や枚数などを調整したのではないのかと推測してます。あるいは、この第一断章の「コンミー神父」の下りが、本挿話全体の重石、或る種の物見の塔watch towerのような働きをしているのでしょうか?

3.    「あの子の名前はなんと言ったっけ? ディグナム、そう。」鼎訳p.99)と、ありますが、このディグナムは亡きディグナムの愛息のことだと思いますが、何故、ここでコンミーはディグナムのことを想起したのでしょうか? そもそも彼とディグナムはどんな関係だったのでしょうか? 

 5.を参照せよ。

4.    頻出するディグナムの存在が気になるところですが、コンミー神父がディグナムの名前から「Vere dignum et iustum est.(真ニフサワシク正シイコトデアル)」(鼎訳p.99)というミサの叙誦を想起するように、ジョイスが、ディグナムに「価値のある」という意味を込めていたとするなら、ディグナムは実際には登場しないにも関わらず、いわば、隠れ主人公、影の主人公のようなかなり重要な役どころではないかと思われますが、いかがでしょうか?

 

5.    「Mr Cunninghams letter. Yes. Oblige*[1] him, if possible. Good practical catholic: useful at mission time.」、「ミスタ・カミンガムの手紙があるし。そう。できれば、あの人の頼みをかなえてあげよう。善良で遣り手のカトリックだからな。寄付金のときには役に立ちます。」(鼎訳p.99)の「ミスタ・カミンガム」とは誰ですか? また、「あの人」とはカミンガムのことですか?

 註に出てこない人物は集英社文庫第Ⅰ巻巻末の「『ユリシーズ』人物案内」を参照するとよい。それによれば、マーティン・カニンガムとは「パワー、ノーランといっしょにディグナムの遺児のための援助金を募ろうとしている。」(p.659)とある。したがって、「あの人の頼み」とはこのことを指していると考えられる。しばらくして出てくる「管区長宛ののあの手紙」(p.101)も、この「ミスタ・カミンガムの手紙」を指していると考えられる。さて、そうすると、3.に戻るが、ここは順番としては逆で、まず、カニンガムからディグナムの遺児救済の手紙を預かった→出かけるに際して、忘れずに出さねば→そう言えば、「あの子の名前は何だっけ?」ということではなかったろうか。

 

6.    コンミー神父(one plump*[2] kid glove)や電車で同乗した婦人は手袋をはめていますが(her small gloved fist)、6月で手袋は? と思うのですがこれは普通のことですか?

 無論、防寒用ではなく、婦人のそれは装飾用で、コンミー神父のものも、装飾用かあるいは儀礼的なものと推測できる。イエズス会の神父に、あるいはアイルランドの神父に、統一して、そのような習慣があったかどうかは未調査。鼎訳では、単に「ふっくらしたキッドの手袋」(p.106)となっているので、分かりづらいが、柳瀬訳では「ふくらかな子山羊革手袋」(p.377)となっていて、この「キッド」というのが子山羊の革であることが分かる。「handle [treat] A with kid gloves/A(人・物)をきわめて慎重に[優しく]扱う」(新英和)という成句がある。コンミー神父の人柄を些細なことで表現しているのかも知れないが、この場合、彼が「慎重に扱」っているのが「切符」と数枚の「貨幣」であることを考えると、彼の人当たりの良さ(?)や聖職者としての人道主義的な考えや態度も、どこか表面的な部分があるのかも知れない、とも取れる。

 

7.    コンミー神父は白人以外の人種の宗教的救済を思い描いています(p.108)が、イエズス会の神父としては意外かなと思いますが、いかがでしょうか? その点では文脈や背景、あるいは次元を全く異としますが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「ゾシマ長老の法話と説教から」(原卓也訳・1978年・新潮文庫・中巻・p.p.97-118)を想起しますが、いかがでしょうか?

 イエズス会の基本的な性質は、一見人道的に他の人種への伝道を行っていたようにも思えるが、実際は、宗教的支配、また同時に西欧文明による貿易的、経済的支配が行われていたことを考えると、コンミーの言葉の表面的な部分に現れている人道的な表現にも或る種の欺瞞があるのではないだろうか。つまり、これは単に言葉だけの問題だ、ということである。ゾシマ長老云々というのは、全く見当違いも甚だしく、論外というしかない。ドストエフスキーに失礼である。

 

8.    コーニー・ケラハーは干草の葉っぱを噛んでいます(p.112)が、これは噛み煙草のようなものですか?

 

9.    本挿話に限らず、『ユリシーズ』「ライ麦畑」がしばしば出ますが、これは元々民謡? ポップソングがあったと思いますが、これがサリンジャーCatcher in the Ryeにもつながるのでしょうが、なにか欧米の文化の底流に「ライ麦畑」の何らかのイメージがあるのでしょうか? つまり、日本で言うなら水田、稲田のような原風景、言い換えれば、比較的ありふれたイメージを持つものなのか、あるいはジョイス独自の好みの問題なのか、どちらでしょうか?

メモ 

ライムギ(ライ麦、学名Secale cereale)はイネ科の栽培植物で、穎果を穀物として利用する。別名はクロムギ(黒麦)。単に「ライ」とも。日本でのライムギという名称は、英語名称のryeに麦をつけたものである[3]。食用や飼料用としてヨーロッパや北アメリカを中心に広く栽培される穀物である。寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境に耐性があり、主にコムギの栽培に不適な東欧および北欧の寒冷地において栽培される。(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

10.          レネハンはブルームの妻・モリーに欲情を抱きつつ(p.p.135-136)、それにも関わらず?、それ故に? ブルームをやたらと褒めています。

 

Hes a cultured allroundman, Bloom is, he said seriously. Hes not one of your common or garden... you know... Theres a touch of the artist about old Bloom. 

 ―あれは教養のある万能人間だ、ブルームってのは、と彼はまじめに言った。並の男たちとは違うよ……なあ……ちょいと芸術家の風情がある、ブルームってやつには。(鼎訳・p.136

あいつは円満具足の教養人よ、ブルームはな、と、真顔で言った。そんじょそこらのやつとは違う……つまりよ……芸術家っぽいところがあるぜ、ブルーム先生は。(柳瀬訳・p.398

 

しかしながら、褒め過ぎのような気がします。ブルームがどちらかというと孤立しているのを考えると、いささか奇妙な感じがしますが、何かレネハンに思うところの理由があるのでしょうか?

 その次の第10断章で、ブルームがエロ本の物色をしているシーンをもってきているところからすると、これは単なる皮肉を述べているのだ、と取れなくもない。しかし、レネハンが意外にも「seriously」にブルームを褒めちぎっているところからすると、仮に皮肉半分としても、他人にそう言わしめる何かがブルームにはあったとも考えられる。レネハンやブルームの言動を見ると、エロスこそ芸術なのだとレネハンや「話り手」は考えていたのかも知れない。それにしても「a cultured allroundman」はどうだろうか。ブルームは高卒ではあるが、その割には「教養」が、実人生で身に付けた「教養」があったかもしれない。「allroundman」については鼎訳の「万能人間」というよりも、柳瀬訳の「円満具足」の方が意味合いとしては近いかも知れないが、いささかおどろおどろしいので、「具足」を外して「教養のある円満な男」ぐらいが妥当か。ただレネハンの持つ含みについては、一考、二考の必要があるだろう。

11.          「the convent of the sisters of charity」/「慈悲童貞修道院(p.99)/「慈善童貞修道院」(p.373)は何故「童貞」と訳されるのでしょうか? 新英和によれば、「convent」とは「1(女子の)修道会.2(女子の)修道院男子の修道院 monastery.」とありますので「慈善姉妹修道院」なら分かりますが。

12.          「He walked by the treeshade of sunnywinking leaves(……)」/「陽光にきらめく木の葉の陰を歩いていくと(……)」(p.100)。この箇所に限りませんが、『ユリシーズ』には、或る種の文学的表現で描写されるシーンが時折顔を出します。言うなれば、地下のダンジョンで数多のモンスターたちとの激闘の合間、時折、地上が露呈し青空が広がったようにも感じます。これにはいかなる意味があるのでしょうか?

13.          「Father Conmee doffed[3] his silk hat and smiled, as he took leave, at the jet*[4] beads of her mantilla inkshining in the sun.」/「別れるとき、日ざしに黒く輝く彼女のマンティラの黒玉(こくぎょく)の玉飾りに向って、コンミー神父はシルクハットを取った。」(p.101)とありますが、なぜコンミー神父は彼女ではなくて、「彼女のマンティラの黒玉の玉飾りに向って」挨拶をしたのでしょうか?

14.          「And what was his name? Jack Sohan. And his name? Ger. Gallaher. And the other little man? His name was Brunny Lynam. O, that was a very nice name to have.」の箇所は「ところできみの名前は? ジャック・ソーンです。きみの名前は? ジェラルド・ギャラハーです。そっちの坊やは? ぼくの名前はブラニー・ライナムです。ほほう、そりゃいい名前だね。」(p.102)という具合に現在形で訳されていますが(柳瀬訳も同様)、これは英語原文のヴァージョンの違いによるものなのでしょうか? また、コンミー神父は路上で会った小学生の「ラニー・ライナム」という名前を聞いて、「そりゃいい名前だね。」と言っていますが、これは単なる「お世辞」の類いなのか、それとも「ブラニー」あるいは「ライナム」に何か特別な意味でもあるのでしょうか?

15.          さらに、このブラニー少年を「話者」は「Master Brunny Lynam」/「ブラニー・ライナム坊や」/「ブラニー・ライナム君」と呼んでいますが、この場合の「Master」は「[召し使いなどが主家の少年に対する敬称に用いて] 坊ちゃん,若だんな,.」(新英和)という用例だと思いますが、14.の問で述べたように、仮に「ブラニー・ライナム」に特別な意味合いがあるのであれば、この「Master」という呼称に、より一般的な「主人や支配者、師匠」といった意味が暗に込められているとするのは裏読み過ぎでしょうか?

16.          「the red pillar*[5]box*[6]」/「真っ赤な郵便ポスト」とありますが、郵便ポストの赤い色は万国共通なのですか?

 「ポストの色は国ごとに様々である。アメリカやロシアなどは青色が、ドイツ、フランスなどヨーロッパ大陸では黄色が主流。中華人民共和国アイルランドは深緑色、オランダやチェコなどではオレンジ色である。かつての宗主国のポストの色を引き継いでいる例も多く、オーストラリア、インド、南アフリカ共和国などでポストの色が赤なのは、かつての宗主国がイギリスだからである。アジアではインド、インドネシア、タイ、韓国、台湾、日本など、赤が主流である。イギリス領であったりイギリスから郵便制度を導入した国が多く、それらの国に影響下にあった国も赤を採用しているからである。その結果として、世界的に見ても赤を採用している国は多い(イギリス、イタリア、ポルトガルポーランド など)。」(「郵便ポスト」/フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

17.          「Dignams court」/「ディグナムズ・コート」(p.103)「ディグナム路地」(p.375)は地名、路地の名だと思いますが、例の「ディグナム」と、恐らく関係ないのだと思いますが、何らかの意図を感じますが、いかがでしょうか?

18.          「Mrs MGuinness」/「ミセス・マギネス」について述べた「A fine carriage*[7] she had. Like Mary, queen of Scots, something. And to think that*[8] she was a pawnbroker*[9]! Well, now! Such a... what should he say?... such a queenly mien*[10].」の下りですが、鼎訳だと「上品な身ごなしだ。スコットランド女王メアリか何かみたいで。あれで質屋の女主人とはな。いや、まったく! ああいう……どう言っていいか……ああいう女王みたいな風体で。」(p.103)と訳されていて、冒頭の「上品な身ごなし」に引っ張られて、「マギネス夫人は女王のように、上品な様子、振舞であるにも関わらず、実は質屋の女主人なんだ」、つまり、質屋の主人にしておくのは惜しい女だ、と読んでしまい、今一歩状況が摑み切れません。どういうことでしょうか?

 柳瀬訳を見てみよう。「ご立派な容止(ようし)スコットランド女王メアリー様か何かみたいな。ところが質屋さんとは。いやはや。あんなふうな……何というか……あんなふうな女王様のごときお振舞。」(p.375)したがって、状況はまるで逆で、「質屋の女主人風情にも関わらず、あたかも女王であるかのよな尊大な態度で闊歩している」ことに対する皮肉を述べているのだと分かる。ただ柳瀬が無理矢理訳した(そこまでしなくていいのに、と思うのはわたしだけだろうか?)「ご立派な容止」の原文は「A fine carriage」であり、無論「carriage」に「乗り物、車、(特に、自家用)四輪馬車、乳母車、(客車の)車両、客車、(機械の)運び台、(タイプライターの)キャリッジ、(大砲の)砲架」のような意味があることを考えれば、マギネス夫人が相当、恰幅のよい容姿をしていることが想像できるが、いくら何でも「容止」はないのではないか? まさに「笑止千万」とはこのことだ。考え過ぎだと思う。

19.          「Invincible ignorance」/「不可抗的無知」の訳註として「本人の理解力を超えるゆえに克服することのできない無知。倫理的責任を伴わない。トマス・アクィナス神学大全』より」(p.532)とありますが、アクィナスの真意はともかくとして、果たしてそうなのでしょうか? 「話者」は必ずしもそうは思ってないが故に、コンミーにそう思わせたのではないでしょうか?

20.          「On Newcomen bridge the very reverend*[11] John Conmee S. J. of saint Francis Xaviers church, upper Gardiner street, stepped on to an outward bound tram.」/「ガーディナー通り聖フランシスコ・ザビエル教会イエズス会ジョン・コンミー師は、ニューカメン橋をわたり、市外行き電車へ足を運んだ。」(p.105)とありますが、挿話の冒頭でもないのに、何故、このようなくだくだしい紹介がされているのでしょうか? また、敬称(「~師」)であるべき「the very reverend」が「Reverend」ではなくて、「reverend」と小文字になっているということは、敬称ではなく、語の本義の形容詞で使われているのではないかと思います。したがって、ここは「我らが崇めるべき、上ガーディナー通り聖フランシスコ・ザビエル教会イエズス会ジョン・コンミー師」とでもなるべきかと思いますが、これらの表現はコンミーへの皮肉と考えるべきでしょうか?

 それも大いにある。それとともにその次の段落を見ると、ここでしか登場しないダドリーについて「北ウィリアム通り聖アガタ協会首席助手任司祭ニコラス・ダドリー師が、市内行き電車から降りて、ニューカメン橋へ足を運んだ。」という表現がある。つまり、コンミーとダドリーはニューカメン橋の上ですれ違った(?)ことになるが、このダドリーの修飾の文言に、それに先行するコンミーのそれを合わせた、ということではないだろうか。

21.          「Passing the ivy church he reflected that the ticket inspector usually made his visit when one had carelessly thrown away the ticket.」/「蔦の教会を通り過ぎるときに、車掌というものはだいたい人がうっかり切符を捨てると検察にまわって来るな、と神父は考えた。」(p.106)とありますが、「切符をなくす」なら分かりますが、仮に「うっかり」だとしても、「切符を捨てる」ことがあるでしょうか? 何故ここは「thrown away」/「捨てる」なのでしょうか? 確か「throw away」という表現が以前出て来ていた気がしますが。

22.          「He perceived*[12] also that the awkward[13] man at the other side of her was sitting on the edge of the seat.」/「彼女の向う側の男がぎこちなく座席の端っこに腰かけているのにも気がついた。」(p.107)/「奥方と反対側ふなふなした男が席からずり落ちそうになっているのにも気づいた。」(p.378)とありますが、この「男」の位置が分かりませんし、彼の状況も今一つ分かりかねますが、いかがでしょうか? 

 この当時のダブリンのトラムカーの座席の配置が分かりかねるが、進行方向に向かって垂直に配置された対面式だと仮定をする。恐らくこの女性は夫と思われる「眼鏡の紳士」と並んで、コンミーの対面に坐っている。「the other side」なので「その反対側」、ということだから、コンミーと同じ側に「男」が坐っている。さて、この「男」を形容するのが「awkward」だが、これが厄介だ。「weblio」はコアとなる語義として「物事の取り扱いにおいてぎこちなさを伴う」としている。その意味では鼎訳の「ぎこちなく(……)腰かけている」というのも間違いとは言えないが、よく考えて欲しい。「ぎこちなく坐る」というのは坐り方が分からない、とか、久しぶりに坐る場合に、はて、一体どうやって坐ったものか、これで合っているのか、というような場合が「ぎこちない坐り方」である。何故に、この「男」は「ぎこちなく坐る」ことを余儀なくされたのであろうか。そこで、この次の段落に眼を走らせると、そこにも「ぎこちなく」が存在するではないか。「Father Conmee at the altarrails*[14] placed the host*[15] with difficulty in the mouth of the awkward old man who had the shaky head.」/「コンミー神父は、聖体拝領台で、ぎこちなく頭をゆする老人の口にやっとの思いでホスチ

アを授けたことがある。」この箇所も「老人の頭が揺れている」ことの修飾語なので「ぎこちなく」は明らかにおかしい。したがって柳瀬訳はこうなっている。「コンミー神父は聖体顕示台で、首のぐらつくふなふなした老人の口にホスチアを授けるのに苦労したことがある。」(p.137)。果たして「awkward」が「ふなふなした」でいいのかは別問題として、いずれにしても「ぎこちない」はいかにも奇妙であろう。要は「ぐらぐら(あるいはぐにゃぐにゃ)揺れている」ということであろう。次に「on the edge of the seat」だが、確かに「on the edge of my seat」で「ハラハラする」(weblio)という語義はあるが、流石にこれを「席からずり落ちそうになっている」とするのはいささか無理がある。恐らく、この「男」は泥酔しているのか、何らかの病に侵されているのかは不明だが、頭がぐらぐらした様子で、座席に端に坐っていると取るのが妥当だろう。したがって、ここはこうなる。「彼女の反対側の男が頭をぐらつかせて座席の端に座っていることにも気がついていた。」(試訳)。「ぐらつかせ」ているのは「頭」とは書いていないが、「頭」で体全体を代表させる。問題はこの様子を「perceive」していたにも関わらず、何もしない、ということなのだ。『新英和』によれば、「perceive」の【語源】はラテン語の「「すっかりつかむ」の意」とされている*[16]。つまり、その「男」が今どういう状態で頭をぐらつかせているかも「すっかり摑んでいた」にも関わらず、何もしないのだ。その次にでてくる老婆に対しても「かわいそうに」とは思うが、やはり何もしないのだ。白人以外の人種に対してもその救なわれなさを嘆きこそすれ、結局のところ、コンミーは何もしないのである。

23.          「hoarding」/「板囲いのポスター」(p.107)/「広告掲示板」(p.378)とは何ですか? 

 「hoarding 《主に英国で用いられる》1(建築・修理現場などの)板囲い,仮囲い 《英国ではよく広告やビラを張る》.2広告[掲示] (《主に米国で用いられる》 billboard).(新英和)。

24.          「eiaculatio seminis inter vas naturale mulieris」/「女性ノ自然ノ管ヘノ精子ノ射精」(p.109)の「精子ノ射精」は原文が多分そうなっているのでしょうが、この訳は、果たしてこれでよいのでしょうか?

25.          「His thinsocked ankles」/「薄いソックスの足首」(p.110)とあるようにコンミーは「ソックス」を履いていますが、何故、ここは「靴下」ではないのでしょうか? 

26.          「A flushed young man came from a gap of a hedge and after him came a young woman with wild nodding daisies in her hand.」/「生垣の隙間から、顔を上気させた若者が現れた。ゆらゆら揺れる雛菊の花を手にした若い女が後ろからつづいて出て来た。」(p.111)とありますが、彼らは事の後だと推測されますが、これはどんな意味がありますか?

  恐らく「色欲」に囚われた若い男女の様子を見て、「シン」

27.          

〈中絶〉

12041字(31枚)

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20220710 2327



*[1] 1+目的語+to do〕〈人に〉〈する〉義務を負わせる; 〈人に〉〈することを〉余儀なくさせる 《しばしば過去分詞で形容詞的に用いる; ⇒obliged 1; 【類語】 ⇒→compel.The law obliges us to pay taxes. 法律によって税金は払わなければならないことになっている.2a+目的語+前置詞+()名詞〕〈人に〉〔で〕恩恵を施す 〔with; によって〕〈人の〉願いをいれてやる 〔by〕《★by の後は doing.Will you oblige me by opening the window? どうぞ窓をあけてください.b〈人に〉親切にしてやる.

One feels compelled to oblige a lady. だれでも婦人には親切にせざるをえないと感じる.

*[2] ふくよかな、丸々と太った、丸々とした、肉付きのよい、ぶっきらぼうな、露骨な(新英和)。

*[3] doff 脱ぐ

*[4] 1黒玉(くろたま), 貝褐炭(ばいかつたん) 《真っ黒な石炭》.2黒玉色,漆黒.(新英和)

*[5] pillar 柱、支柱、記念柱、標柱、柱状のもの、火柱、中心勢力(新英和)

*[6] pillarbox 《主に英国で用いられる》 (赤色に塗られた円柱形の)郵便ポスト 《【解説】 街頭に立っていて,胴のところには王冠とその下に EIIR (エリザベス 2 世女王)などと記してある; 米国にはこのような形のものはない; ⇒mailbox 1. mailbox《主に米国で用いられる》1(公共用の)郵便ポスト,ポスト (《主に英国で用いられる》 postboxpillar‐boxletter box) 【解説】 道路際にあるアメリカの郵便差出箱は青色の四角い金属製の箱で,上部がかまぼこ形をしている; 利用者が設置する郵便受箱もかまぼこ形である》.

*[7] 身のこなし,態度.(新英和)

*[8] to think that  To think~!などの形で、「~とは」という驚きや意外の意味を表す。(ロイヤルp.479

*[9] 質屋

*[10] 物腰、態度、様子、(顔の)表情

*[11] …師、…尊師、聖職者の、牧師の、あがめるべき、尊いweblio)。

*[12] (…)知覚する、認める、(…)気づく、(…)気がつく、(…)理解する、了解する、看取する、理解する、悟る、(…)わかる(weblio)

*[13] ぎこちない、ぶざまな、不器用な、下手な、(…)ぶざまで、不器用で、きまり悪がって、気まずくて、扱いにくい、不便な/コア 物事の取り扱いにおいてぎこちなさを伴う(weblio)。

*[14] altar rail  (教会の)祭壇前の手すり(weblio)。

*[15] [the Host] キリスト教】 聖餐(せいさん)[ミサ]のパン; カトリック】 ホスチア,聖体.【語源】ラテン語「いけにえ」の意

*[16] per‐【接頭辞】1[ラテン系の語に添えて] 「すっかり」「あまねく(…する)」の意.perfect, pervade.(新英和)。

謎々『ユリシーズ』   亡霊と共にあれ! ――「第9挿話 スキュレとカリュブデス」を読む

Σκύλλη και Χάρυβδις

 

 

謎々『ユリシーズ

 

亡霊と共にあれ!

――「第9挿話 スキュレとカリュブデス」を読む

 

【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社文庫版による。鼎訳・巻数、ページ数で示す。単行本からの引用は、鼎訳・単行本・巻数、ページ数で、柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenbergプロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

l  一旦、「主役」交代したと思われたスティーヴンがこの第9挿話で復活したのには何か、小説の構造上の、あるいは物語の展開上の理由があるのでしょうか? 要するに、この挿話は必要なのでしょうか? 仮に必要だとしても、たまたま通りかかったブルームの視点から揶揄的にスティーヴンたちの様子を描写することもできたのではないかとも思ってしまいます。

l  本挿話とは直接は関係ありませんが、集英社版の「各挿話の要約と解説、および巻末の訳注は訳者たちによる。」(凡例)とありますが、この「訳者たち」とは一体誰のことでしょうか? つまりどの程度、結城英雄先生の筆が入っているのでしょうか? 「訳者あとがき」には、訳者たちの原稿を結城先生が校訂したととも取れる表現ですが、実際には逆で、まず、結城先生が初稿を書き、それを丸谷さんたちが赤入れをしていったのではないかと推測しています。この辺りの事情をご存知の方はいらっしゃいますか? 

l  「クウェイカーの図書館長」(U-△Ⅱ,p.13)、「篤震の図書館長」(U-y,p.315)、(the quaker librarian)ですが、そもそも「クウェイカー」教徒のというように宗派をあたかも枕詞のように何度も書くというのは、いささか奇妙な印象を残します。その場合、つまり宗派を表す場合は大文字で「Quaker」でしょうから、柳瀬訳の「篤震の」とした方がより正確だとも言えますが、要は簡単に感動で震える「感激屋さん」とでもいうような意味だと思うので、流石に「篤震」は凝り過ぎだと思います。原文のニュアンスがうまく掴めていませんが、「自震家の図書館長」というのはいかがでしょうか? いずれにしても、ここを「クウェイカーの」とするのは誤訳ではないでしょうか?

l  『ウィルヘルム・マイスター』についての訳註は大変興味深いものです。言うなれば、精神的な存在であるハムレットがそれに見合う肉体を保持することができず、破滅したということだと思いますが、言うなればハムレットが霊的な存在故に物理的な肉体を持ちえないとも読めるからです。彼が物語の現在で既に死んでいるという意味ではなくて、霊的な存在にとりつかれて霊的な世界へと移行しようとしているというような意味なのですが。振り返ってみれば、スティーヴンがハムレットに比定されるのであれば、精神的な存在=霊的な存在=スティーヴン 肉体的な存在=生身(現実)的な存在=ブルーム とも考えられ、この『ユリシーズ』という物語(物語があるとして)は、この世を彷徨うスティーヴンの霊(必ずしも死者という意味ではなく)を、霊的な世界とうまくコンタクトが取れる司祭者ブルームが鎮魂をしているとも読めます。ここでわたしが想起するのがT.S.エリオットの「ハムレット論」です。エリオットは「客観的相関物」が欠けているが故に『ハムレット』という劇は失敗していると論じていることです。と言っても、わたしはこれを直接読んだわけではなく、柄谷行人のデビュー作である「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」を通して読んだのでした。つまり、何が言いたいのかというと、「ハムレット」に「客観的相関物」が欠けているのと同様に、漱石の幾つかの長篇小説の主人公たちにとっても「客観的相関物」は欠けているのです。それは更に言えば初期から中期にかけての柄谷自身も同じであり、もっと言えば、例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフにとっても同じことが言えます。

l  訳者解説によれば本挿話は「国立図書館の一室」(12)とありますが、そんな場所があったのでしょうか? 図書館長も頻繁に出入りするところを見ると、図書館長の応接室のようなところなのでしょうか?

l  「—Have you found those six brave medicals, (…), to write Paradise Lost at your dictation?」/「――六人の勇敢な医学生ってのは見つけたのかね、(中略)きみが口述して《失楽園》を書き取らせようっていう六人は?」(14

 ここは、一体どういう意味なのでしょうか? なぜ6人の勇敢な医学生が《失楽園》を書き取るのでしょうか? また、この場合の「失楽園」はジョン・ミルトンのそれだと思われますが、柳瀬訳では「楽園喪失」(316、ただし太字)になっていますから、ミルトンのそれではなくて、スティーヴン自身の「楽園喪失」、「楽園」からの「追放」譚を話す、というような意味で柳瀬さんは取ったのだと思います。個人的にはこちらかな、とは思いますが、問題は、それを何故、スティーヴンが医学生に向かって口述するのでしょうか? それは一体なんのためなのでしょうか?

 

l  原文 —I feel you would need one more for Hamlet.

鼎訳単行本 ――《ハムレット》の話となればもう一人いるな。(448

鼎訳文庫本 ――《ハムレット》の話をするのならもう一人いるな。(15

柳瀬訳 ――ハムレットとなるともう一人要るだろう。(316

 先程の「六人の勇敢な医学生」に対して、全部で「7人」必要だから「もう一人要る」ということらしいのですが、一体どういう意味なのでしょうか? 「Seven is dear to the mystic mind[1].」/「七は神秘家の珍重する数だからね。」(448)/「七は神秘家の珍重する数だよ。」(15)/「七は謎めいた人物のお気に入りだ。」(316)、とエグリントンは理由にもならぬことを口走っていますが、――柳瀬訳はいささか文脈を逸らし過ぎなので、ここでは鼎訳を取りますが、この「神秘家」とはシェイクスピアのことでしょうか? それともスティーヴンのことを指しているのでしょうか? あるいはWBことW.B.イェイツのことなのでしょうか?

 ちなみに、この国立図書館のよく分からない謎の一室で語り合うのは以下の7人です。係員とヘインズはカウントしません。また、この場合、話者スティーヴンはカウントするのでしょうか?

  図書館長リスター

  ティーヴン

  ジョン・エグリントン

  ラッセ

  ミスタ・ベスト

  バック・マリガン

  (ブルーム? あるいはヘインズ?)

 

l  原文 He holds my follies[2] hostage[3].

鼎訳 やつはぼくの馬鹿まねを抵当に取っているからな。(44915

柳瀬訳 おれの愚行を形に取ってる。(316

 ここはどういう意味でしょうか? 鼎訳の「馬鹿まね」という日本語はないのではないでしょうか? これだと「やつ」(マリガン?)がスティーヴンの馬鹿の真似をしているというようにも読めます。「馬鹿まね」であれば、まだ分かります。スティーヴンの「馬鹿なまね」=「愚行」とは一体何なのでしょうか? それをマリガンの知るところとなり、弱みを握られているということでしょうか?

 そう考えてくると、そもそも、スティーヴンはマリガン(達)と必ずしも気持ちが通じ合っているようには読めませんが、何故、マーテロ塔で「同居」(?)していたのでしょうか? 何か弱みを握られていたのでしょうか?

 

〈中絶〉

3514字(9枚)

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20220710 2301

 

 



[1]  [通例修飾語を伴って] (…)[知性]の持ち主,人.a great mind 偉人(新英和).

[2] folly 愚行,愚案,愚挙(新英和).

[3] 人質(ひとじち)(新英和).

謎々『ユリシーズ』その8   人喰い族から逃れて ――「第8挿話 ライストリュゴネス族」を読む

Λαιστρυγόνες



 

 

謎々『ユリシーズ』その8

 

人喰い族から逃れて

――「第8挿話 ライストリュゴネス族」を読む

 

【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社文庫版による。鼎訳・巻数、ページ数で示す。単行本からの引用は、鼎訳・単行本・巻数、ページ数で、柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenbergプロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

 

 

l  挿話冒頭の訳者解説で、「飢えがその王アンティパネスに、歯がライストリュゴネス族に対応する。」(U-△Ⅰ,p.370)とありますが、単に「飢えがライストリュゴネス族に対応」ではなく、「飢え」と「歯」を分けて、それぞれ「王アンティパネス」と「ライストリュゴネス族」に分割して対応させているのは何か意味があるのでしょうか?

l  「学校のおやつにする」とブルームが推測した「パイナップル味の棒飴、レモン入りキャンディ、バタースコッチ」(U-△Ⅰ,p.371)を「クリーム菓子」(U-△Ⅰ,p.371creams)と彼は総称しているように読めますが、要は飴のことを通常「クリーム菓子」とは言わないと思いますが、このクリーム菓子は冒頭の「パイナップル味の棒飴、レモン入りキャンディ、バタースコッチ」とは無関係なのでしょうか? また、彼は「子供の胃(tummies)に悪い。」(U-△Ⅰ,p.371)とも思っていますが、我々の感覚では「胃」というよりも「歯」に悪い、だと思います。そもそもここの「tummy」という幼児語を「胃」とするのは奇妙なので、「ぽんぽん」か「おなか」でしょう。それにしても、多量の甘い食品を見て、胃への負担を想起するのはブルーム自身が胃に何らかの異常を感じているからとも考えられますが、そのような記述は少なくとも本挿話まではなかったと思いますが、今後の展開的にいかがでしょうか?

l  「シオンの教会の再建者、ジョン・アレグザンダー・ダウィー博士」(U-△Ⅰ,p.372)とありますが、彼はなぜ「博士」(Dr)なのでしょうか?

l   「腎臓の燔祭」(U-,p.372)の訳註で「古代ユダヤ教の儀式では、腎臓は神ヤハウェへの供物として祭壇で焼かれる特別な器官であった」(U-△Ⅰ,p.585)とありますが、腎臓を焼く、と言えば第4挿話で朝っぱらからブルームが腎臓を焼いて食していた(U-△Ⅰ,p.139)のが思い出されます。もし、ジョイスが訳注に記されていることを知っていたとすると、ブルームは「古代ユダヤ教の儀式」を期せずして執り行っていたことになります。そもそも、『ユリシーズ』冒頭においてもバック・マリガンが《ワレ神ノ祭壇ニ行カン》(U-△Ⅰ,p.15)と言って、何やら儀式を茶化していましたが、これは何を意味しているのでしょうか?

l   サイモン・ディーダラスが「子供を十五人産ませた」(U-△Ⅰ,p.373)というのは設定的に実話なのか、単なる噂、あるいはブルームの思い込みなのでしょうか? それにしても印象論ですが、時代が違うとは言え、15人は多い気がします。何かそのような多産とか繁殖させるとかの意味付けがディーダラス父には与えられているのでしょうか?

l   「かわいそうにあの子の服はぼろぼろじゃないか。」(U-△Ⅰ,p.374)の「あの子」とは、スティーヴンの妹のディリーのことですか? そうだとすれば、ディーダラス家はかなりの火の車であると想像できますが、その割にはディーダラス父は第6挿話や第7挿話の印象からするとぶらぶらと遊び歩いている気もしますが、葬儀のため、偶々のことだったのでしょうか? そう考えると、しばらく後に、「《ハムレットよ、わたしはおまえの父の亡霊だ、/いまだにこの世をさまよい歩く運命にある》」(U-△Ⅰ,p.375)とあるところを見ると、時としてブルームにはスティーヴンの視点が乗り移り(?)「さまよい歩く」父・サイモンをハムレットの父の亡霊として重ね合わせて見ているのだと言えば、言い過ぎでしょうか? 

l  屋台で売られている林檎を見て、ブルームは「オーストラリアものだろうな」(U-△Ⅰ,p.376)と推測していますが、林檎などわざわざ、それもオーストラリアなどから輸入しなくても、アイルランドのどこだって栽培されている気がしますが、そうでもないのでしょうか?

l  ブルームは食欲旺盛な鷗たちの様子から白鳥を連想し、「白鳥の肉はどんな味だろう?」(U-△Ⅰ,p.376)と独白していますが、普通、我々の感覚ではまず、白鳥を食べるという考えは浮かぶことはありません。何故、ブルームは白鳥を食べることを思いつくのでしょうか? それとも、ヨーロッパ、あるいはアイルランドでは鳥一般は食用の対象として考えられていたのでしょうか?

l  性病の広告から、訳注によれば、「ボイランが性病にかかっているかもしれないと心配している」(U-△Ⅰ,p.588)とありますが、いささか唐突な感があります。何か、ボイランがそうであるような伏線などあったでしょうか? あるいは、仮にボイランにその危険性があるとしても、ブルームの動揺振りはいささか常軌を逸している気がします。モリーへの感染を恐れる余りなのか、それとも、自らに累が及ぶことを恐れているのか。その割には、ボイランとモリーの密会を阻止しようとも思っていないようで、どうも腑に落ちないシーンですが、他に何か考えられることとかあるでしょうか?

l   「parallax」(視差/U-△Ⅰ,p.378)という言葉は『ユリシーズ』の中で都合7回登場しますが、近年で「パララックス」と言えば、スラヴォイ・ジジェクの『パララックス・ヴュー』(山本耕一訳・2010年・作品社)を想起します。柄谷行人はそれの書評において「パララックス(視差)とは、一例をいうと、右眼で見た場合と左眼で見た場合の間に生じる像のギャップである。カントの弁証論が示すのは、テーゼでもアンチテーゼでもない、そのギャップを見るという方法である。」と述べています(『朝⽇新聞』201037日)。全く次元、文脈が逸脱しますが、ジョイスにとっても、その文学創作上において極めて重要な概念ではないかと思いますがいかがでしょうか?

l  ブルームは集金で回った修道院のシスターについて「あの目はどう考えてもたしかに失恋した女の目だ。」(U-△Ⅰ,p.)と回想しています。同様にかつての恋人(?)ミセス・ブリーンについても「ミセス・ブリーンの女性の目が悲しそうに言った。(中略)とにかく目だけはまだ昔どおりだ。」(U-△Ⅰ,p.381)とも独白しています。他の箇所は探しきれなかったのですが、無論、ブルームの単なる思い込みなのかも知れませんが、女性の視線について、ブルームは特殊な感覚、あるいは美意識を持っていたようにも思います。それは、ブルームが幼年の頃から、周囲の、言外の視線から内心を読み取り、危機を回避しようとしてきたことと繋がるような気もしますが、いかがでしょうか?

l  初歩的な質問で恐縮ですが、ブルームに久し振りに再会したミセス・ブリーンは、彼に「—O, Mr Bloom, how do you do?」と挨拶をして、ブルームも同様に「—O, how do you do, Mrs Breen?」と返しています。「How do you do?」には「How are you?」と同じ用法があるようですが、これはアイルランド特有の用法なのか、旧時代の用法なのか、あるいはジョイス独特の逸脱した用法なのでしょうか?

l  今更ですが、どうしてミリーは家を出て写真屋に就職したのでしょうか?

l  ディグナム(Dignam)の名前は、『ユリシーズ』全体で合計で85回登場します。リアルタイムでは実際に登場しない、ということは、回想、というよりも、言及に近い登場の仕方ですが、彼が死者であることを考えると異様に多い気もします。同様にボイラン(Boylan)は72回登場し、それぞれ代名詞も入れれば、相当な数に上ると思われます。ボイランについては妻モリーの浮気相手であることが分かっていて、どうすることもできないブルームの、或る種の「影」、あるいは「もう一人の自分」、更に、あるいは自らの「可能態(デュナミス)」)」とも考えられるので、ブルームにとって重大な存在であることは間違いないので、この登場(言及)回数は一旦、問題なしとしますが、それにしても、ブルームは、あるいはジョイスは、更に、あるいは、ジョイスとは別の『ユリシーズ』の「語り手」は、何故に死者ディグナムにこだわっているのでしょうか?

l  ブルームは浮気相手を探すために「タイピスト募集」の広告を打った(U-△Ⅰ,p.393)のでしょうか? その割にはマーサ・クリフォードとは文通しかしていないようですし、尚且つ44通も応募の手紙を温存していることから見ても、余り真剣に浮気相手を探しているようには感じられません。実際に浮気をしていると思われるモリーへの当てつけでしょうか? それとも、ブルームに一歩前に踏み出す勇気がないだけなのでしょうか?

l   ブルームがマーサからの手紙を回想するシーンがあります(U-△Ⅰ,p.393)。要はマーサがブルームのことを、妻モリーがブルームを呼ぶような呼び方(that other word)と同じ呼び方で呼びたくないので「おいたさん(naughty darling)」と呼んだ(書いた)つもりが「word」を「world」とミスタイプしたため、話がおかしくなったということでしょうか? その場合「Please tell me what is the meaning.」が鼎訳では「ほんとうの意味を教えてほしいわ。」、柳瀬訳では「あの言葉の本当の意味を教えて下さい。」(U-,p.276)となっていますが「ほんとうの」というのは訳し過ぎで、単に「あれってどういう意味なの?」ぐらいが適当なような気がします。つまり、モリーがブルームを「ポールディ」と呼ぶことを知ったとしてそれを指していると考えました。それを知る可能性が低いのが、この解釈の難点ですが。マーサがブルームの名前、呼び方を話題にしているのは、元の手紙の続きに「よくあなたの美しい名前のことを考えます。」(U-△Ⅰ,p.193)とあることからも明らかです。この場合の美しい名前は「フラワー」の方でしょうね。さて、この下りの中に、この「word」→「world」のミスタイプを意図的に利用した「この世界を誰がつくったのか教えて。」(Tell me who made the world.)という一文です。その(つぎ)(しも)に「女というやつはまったくいろんなことを聞きたがる。」とあるので、流れ的にはマーサが書いたのかと思わせますが、少なくとも、元の手紙には、その表現はありませんし、『ユリシーズ』全体を検索しても同じ表現は出てきません。したがって、この「Tell me who made the world.」はマーサ(あるいは他の女性)の手紙などの引用ではなくて、ブルームの独白の挿入ではないでしょうか? つまり、ここは「この世界をだれがつくったのか教えて。」ではなく、「こんな世界にしちまったのは一体誰なんだ? ――あ、俺か?」というような意味ではないでしょうか? したがって、「世界」について、鼎訳の訳註にあるような「来世」(U-△Ⅰ,p.592)とか、柳瀬訳の「他界行儀」(U-,p.276)というのは、考え過ぎ、訳し過ぎのような気がしますが、いかがでしょうか?

l  「あれから何週間か、彼女はさぞ耳がほてったろう。」(U-△Ⅰ,p.397)「あの女、あの日からひと月は耳ががんがんしたろうよ。」(U-,p.277)(Her ears ought to have tingled for a few weeks after.)とありますが、ここの「Her」はその直前に出てくる「古いショールや黒の下着を売った女」「ミセス・ミリアム・ダンドレイ」ではなく、一義的には「今朝グローヴナー・ホテルの前にいたあの女」のことだと思いますが、「がんがん」はあり得ないとしても、何故、彼女は耳を「ほて」らせたのでしょうか? 元の第5挿話の下りでは「おれが眺めているのに気がついたな。目がいつもほかの男を探している。」(U-△Ⅰ,p.184)とありますが、よもや、ブルームに見られただけで数週間も耳をほてらせるなど考えにくいところです。

l   「One tony relative in every family.」の一文中の「tony」は、例えば研究社の『新英和中辞典(電子版)』だと「《米口語》 ハイカラな,しゃれた.」という語義が記されています。鼎訳の単行本では「どの一族にも一人は馬鹿がいる。」(U-△Ⅰ単行本,p.390)となっていますが、文庫では「どの一族にも一人は有名人の親戚がいる。」(U-△Ⅰ文庫,p.396)となっており、更に柳瀬訳では「どこの家にも羽振りのいい親戚がいるね。」(U-,p.277)となっています。本来の「しゃれた」という意味では柳瀬訳の「羽振りのいい」というのがより近い気もしますが、文脈的にはパートナーや他の子供たちの「迷惑」?も考えずに「毎年きちんと女房を孕ませ」ることや、「帽子もかぶらずに行進」するというようなことに掛かっていくので、鼎訳単行本の「馬鹿」というのが、一番意を汲んだ訳語ではないかとも思えてきます。というのは、今回の件とは無関係なのかも知れませんが、『ユリシーズ』には矢鱈と「馬鹿(fool)」という言葉が出てきます。「fool」を検索すると41回出現します。この「馬鹿」の使用文脈については、また別途検討すべきテーマかと思いますが、印象論で言うと、いわゆる知的な意味での「馬鹿」というよりも、周囲の迷惑を顧みず、個人の内面にズカズカと立ち入ってくるやからを「馬鹿(者)」と言っているようですが、いかがでしょうか?

l  「産婆のミセス・ソーントン」は「トム・ウォールの息子に手をつぶされた。」(U-△Ⅰ,p.398Got her hand crushed by old Tom Walls son.)とありますが、この時点でのトム・ウォールは赤子だったと思いますが、「手をつぶされ」(crush)ることなどあるでしょうか? ただ単に、足で踏まれたというのを過剰に表現しているだけでしょうか?

 

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原文 Best moment to attack one in pudding time. A punch in his dinner.

鼎訳 プディングどきの襲撃にはいちばんいい時刻だよ。食事中のパンチ。(U-△Ⅰ,p.398

柳瀬訳 人を襲うんなら一番の時刻だね、デザートタイムは。そいつのディナーにパンチ一発。(U-,p.279)        

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 ここは直前の段落の鳩の群れによる糞攻撃の話を受けているのだと思いますが、警察の一隊の行進の下りに、この一節が挿入されていることから、あたかも警察が、油断して食事をしている一般の人の「襲撃」の機会を窺っているようにも読めます。その意味では、警察への敵意のようなものがここにはあり、更には、それは『ユリシーズ』のあちこちに散りばめられている気がします。例えば「警察の留置記録には事件がぎっしり詰まっているけど、あれは点稼ぎに犯罪をでっちあげるから。」(U-,p.447)など、他にも、かなりあると思いますが、これはブルームの、というよりも、ジョイス本人に警察などの武力的な政治権力に対しての強い嫌悪感があるように思いますが、いかがでしょうか?

 調査中。

 

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原文 Feel as if I had been eaten and spewed.

鼎訳 自分が誰かに食べられて、吐き出されたような気分だ。(U-△Ⅰ,p.404        

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 ブルームは一体誰に(何者に)よって食べられ、吐き出されたような気になったのでしょうか? この下りの直前に「一日のうちでいちばん気分の悪い時間だ。活力。だるい、憂鬱。大きらいな時間。」(△Ⅰ,p.404)とありますが、何故、「いちばん気分の悪い時間」なのでしょうか。それは、「だる」く、「憂鬱」だから、ということにはなりますが、実は、人を食うための「襲撃にはいちばんいい時刻」(U-△Ⅰ,p.398)だからではないでしょうか? 「食事中のパンチ」というのは、人間を襲って食う何者かにとっての「食事中のパンチ」ではないでしょうか? 

では、一体、誰が人を食うのかと言えば、直接的には挿話名として名指されている、「人食い族」であるところの「ライストリュゴネス族」ということになりますが、比喩的には「飢え」、「欲望」が人間を食べると考えられますが、いかがでしょうか? 

ここからは蛇足ではありますが、ここで思うことは、「人喰い族」という表徴が、恐らく人類の起原とともに古く、人類の歴史と共に、我々は、何者かに「取って喰われる」という恐怖を抱えていたのだと考えられます。実際に、他の動物に襲われて食われた、ということもあるでしょうが、異人種同士で喰いあったり、あるいは、飢餓のためなどで、食わざるを得ないという状況があったと思う。

〈中絶〉以下メモ

人喰い

巨人

性と死

ハイデガー 向死

マルロー 抗死 藝術 永遠

 

 本作、(ママ)わけ本挿話には、矢鱈と鳥が頻出します。これは何か意味があるのでしょうか?

 

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原文 —Up the Boers!

Three cheers for De Wet!

Well hang Joe Chamberlain on a sourapple tree.

鼎訳 ――ボーア人がんばれ!/――デ・ヴェットばんざい!/――ジョー・チェインバレンを青い林檎の木に吊るそう!(U-△Ⅰ,p.404        

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 ここに限らず、本作にはアイルランドの近代史、少なくとも、ジョイスが『ユリシーズ』を刊行した前後の歴史、社会情勢の知識は或る程度は必要かと思われますが、それらについての、何かお勧めの書籍はございますか?

 

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原文 —His name is Cashel Boyle OConnor Fitzmaurice Tisdall Farrell, Mr Bloom said smiling.

鼎訳 ――彼の名前はキャシェル・ボイル・オコナー・フィッツモリス・ティズダル・ファレル、とミスタ・ブルームは笑いながら言った。(U-△Ⅰ,p.392        

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 キャシェル・ボイル・オコナー・フィッツモリス・ティズダル・ファレルはそもそもなぜあんなに名前が長いのですか? 実在の人物だったとのことですが、何故、人々は省略した呼称を与えなかったのでしょうか?

 

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原文  Sinn Fein

鼎訳 シン・フェイン(U-△Ⅰ,p.402        

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 「シン・フェイン」とは何ですか?

 シン・フェイン党(シン・フェインとう、アイルランド語: Sinn Féin)は、1905年にアーサー・グリフィスらによって結成されたアイルランドナショナリズム政党。/「シン・フェイン」とは「我ら自身」(英語: We Ourselves)という意味である。共和主義シン・フェイン党 (Republican Sinn Féin) とは区別される。歴史的にIRA暫定派と関係が深い。「ナショナリスト」と呼ばれるが、これはアイルランド民族主義を意味し、現在はイギリス領の北アイルランドを含めた統一アイルランド国家の建設を主張している。北アイルランドでは、「ユニオニスト」(連合王国派)、「ロイヤリスト」(王党派)と呼ばれるイギリス支配支持派と、長年にわたり抗争を繰り広げている。/アイルランド下院(ドイル・エアラン)、北アイルランド議会において議席を獲得しているほか、イギリス下院(庶民院)の総選挙にも候補者を立て、毎回一定の当選者を出しているものの、議会登院に義務付けられているイギリス国家元首(エリザベス2世女王)への宣誓を拒否しているため、登院を行っておらず、議員歳費も受け取っていない[原註 Gerry Adams: 'What kind of Irish leader would swear loyalty to the English Queen?'. TheJournal.ie. (2017617) 2019118日閲覧。]。/参考文献

西部邁「シンフェーンの覚悟」 『生と死、その非凡なる平凡』新潮社、2015年、101-105*[1]

 

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原文  His smile faded as he walked, a heavy cloud hiding the sun slowly, shadowing Trinitys surly front.

鼎訳 彼の微笑は歩いているうちに消えて行った。重苦しい雲がすこしずつ太陽を覆い、トリニティ・コレッジの不愛想な正面が日蔭になった。(U-△Ⅰ,p.403        

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 雲の動き、あるいは太陽の光にブルームは敏感のようですが、なにか意味があるのですか?

 ブルームがマーサに宛てた手紙の自身の偽名は「ヘンリー・フラワー」でした。あるいは、そもそも本名も「ブルーム」つまり、彼は「花」を名前に持つのです。したがって、町を歩くときでもできるだけ日向を歩き、日陰に入ると途端に元気がなくなるようです*[2]

 

 ブルームはパーネルの兄を見かけて、「誰かのことを考えていてその人間に出会」うという意味での「偶然の一致」だと考えていますが、確かに、その前に、その弟パーネルのことは考えていますが、兄をことを考えていた訳ではありません。それでも、ブルームにとっては「偶然の一致」だったのでしょうか。

 

 「世界の終り」に何か意味がありますか?

 

 「ホームスパンの服」とは何ですか?

 もともと手紡の、繊度の不ぞろいになった太い紡毛糸を使い、粗く平織に手織機で製織し、縮絨(しゅくじゅう)せずに仕上げた紡毛織物であった。そのため素朴な味があり、多くの人々に愛用されてきた。現在ではこの風合いに似せて、繊度を不ぞろいにし、雅味をもたせて紡いだ太番手の機械紡績糸を使い、力織機で織ったものである。この織物の風合いは、ツイードとよく似ているため、混同されることが多い。というのも、ツイードの場合は斜文(しゃもん)織であるのに対し、ホームスパンは平織であるということが違っているにすぎない。用途は、婦人コート、背広、運動服、室内装飾品などである。[角山幸洋]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)

 

 「ランプステーキ」とは何ですか?

 ランプステーキ(英語: Rump steak)はビーフステーキの一種。牛肉のランプと呼ばれる下腰部の肉を使用する。脂肪分が少なく柔らかくて美味である。

イギリス式の牛肉の部位の呼び名

(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 彼の瞼が虹彩の下の端までさがった。見えない。あるんだと想像すれば、見えたも同然。見えない。ここでは「視覚を奪われた世界」への想像があります。第3挿話でも、スティーヴンは目を瞑ったまま歩きますし、本挿話では、この後段に「めしいの青年」へのブルームの好意的な振る舞いが描かれます。どんな意味があるのでしょうか? 

 

 小指の先で太陽を隠す、いわば擬似日食をブルームは行いますが、彼の天文への興味、実験精神、あるいはこどものようないたずら心などを表しているようにも思いますが、本来世界を統べる存在である太陽の光を、人為的に、意のままに隠す、という行いに、何らかの意味が込められている気もしますが、いかがでしょうか?

 

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原文  The moon. Must be a new moon out, she said. I believe there is./(…)/Wait. The full moon was the night we were Sunday fortnight exactly there is a new moon. Walking down by the Tolka. Not bad for a Fairview moon. She was humming. The young May moon shes beaming, love. He other side of her. Elbow, arm. He. Glowworms la-amp is gleaming, love. Touch. Fingers. Asking. Answer. Yes.Stop. Stop. If it was it was. Must.Mr Bloom, quickbreathing, slowlier walking passed Adam court.With a keep quiet relief his eyes took note this is the street here middle of the day of Bob Dorans bottle shoulders.

鼎訳 月。きっといま新月なのね、と彼女が言ってた。たしかにそうらしい。/(中略)/待てよ。満月はあの二週間前の日曜日の夜だからちょうどいまが新月だ。トルカ川のほとりを歩きながら。フェアヴューの月としては悪くなかった。彼女は口ずさんでた。若い五月の月がほほえむ、恋人よ。あの男が彼女の向う側により添って。肘、腕。あの男が。蛍のラァァンプが光っているよ、恋人よ。触れあう。指。求めて。答えて。ええ。/よせ、よせ。できたことはできたこと。やむをえん。/ミスタ・ブルームは息がはずみ、足どりがにぶって、アダム小路を通り過ぎた。/やっとのことで何とか気持を静めて目に止めた。ここは町のなかで真昼間なのにあれはボブ・ドーランの徳利肩だ。(409-410

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 ここで二か所出てくる「彼女」は一体誰でしょうか? 仮にモリーだとします。ここは時系列が分かりづらいところですが、「月。きっといま新月なのね、と彼女が言ってた。」と「トルカ川のほとりを歩きながら。フェアヴューの月としては悪くなかった。彼女は口ずさんでた。若い五月の月がほほえむ、恋人よ。」の箇所は、前者は「新月」の時で、後者が「満月」の時と日付の差はあるけれども、かつて、ブルームとモリーが恋人として付き合っていた時のことを想い起こしているのだと仮定します。「あの男」は無論、ボイランで、「あの男が彼女の向う側により添って。肘、腕。あの男が。蛍のラァァンプが光っているよ、恋人よ。触れあう。指。求めて。答えて。ええ。」という下りは、ボイランの求めにモリーが応じる様をブルームが想像、妄想しているところではないでしょうか? それにしても、ここの箇所は何か隠されているようで、なんともすっきり割り切れないところですが、何かあるのでしょうか?

 

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原文  Showing long red pantaloons under his skirts.

鼎訳単行本 彼がスカートの下に長い赤ズボンをちらつかせて。(405

鼎訳文庫本 彼がスカートの下から赤いパンタロンをちらつかせて。(411

柳瀬訳 スカートなんかはいて長い真っ赤なパンタロンがはみ出してた。(286

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 これは単に酔っぱらってふざけているだけなのでしょうか? 「赤」に何か意味がありますか? 我々の感覚では、普通「赤い」ズボンを履くのはよほどの洒落者ですが。そもそも、パンタロンpantaloons)とズボン(trousers)の違いがさほどあるのでしょうか? 

仮説 パンタロンの語源は「16世紀のコメディー・イタリアンの道化(どうけ)役者パンタローネが、(すそ)の開いたズボンをはいていたところから、これにパンタロンの名称があてられた」*[3]ところにあるようです。

この場合の「彼」が直前に出ているパット・キンセラだとすれば、恐らく、劇場の出し物の一つとして、ボンネット(小さな帽子)*[4]を被り、コメディー的な要素の強い赤いパンタロンを履き、「学生あがりの三人のかわいいお嬢さん」という歌を歌うのに合わせて、そのパンタロンの上にスカートを履いたと考えられます。したがって、鼎訳者たちが、ここは「ズボン」ではなくて「パンタロン」と訳し直したのは賢明であったと言うべきでしょう。

 

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原文  I was happier then. Or was that I? Or am I now I?

鼎訳 あのころ、おれはもっと幸福だった。それともあれはおれだったのか? 今のおれがおれなのか?(411

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 「あのころ」の方が今よりも「もっと幸福」だ、と思いながらも、ブルームは、「今のおれがおれ」であって、かつての「おれ」は、少なくとも今の「おれ」ではないのだから、「時」を「呼び戻」(411Cant bring back time.)すことはできず、仕方がないことなのだ、と断念してます。同じような表現は幾つも見られ、例えば「昔に帰っても仕方がない。*[5] なるようにしかならなかったんだ。」(p.407Useless to go back. Had to be.)ともブルームは思っています。

息子ルーディを亡くして以来、モリーともしっくりいかず[6]、そんなこともあり、気になって仕方がないにも関わらず、ボイランとの情事も暗に認めてしまっているのもそんな背景があるのでしょうか? それにしても、ブルームにとって、そんなにルーディの死が後を引くものなのでしょうか? むしろ、モリーの方こそ、立ち直れずにいるというのであれば分かる気もしますが。

仮説 キャスリーン・フェリス『ジェイムズ・ジョイスと病の桎梏(しっこく)(仮訳)』(Kathleen Ferris, James Joyce and the Burden of Disease,University Press of Kentucky ,June 18, 2010.*[7]によれば、「彼(ジョイス〈引用者註〉)の症状の多くが、治療されていない神経梅毒の一種であるタブス背骨の症状と一致することを示し、(中略)特にスティーヴン・ディーダラスとレオポルド・ブルームが、歩行のこわばり、消化器系の問題、幻覚、視力障害など、作者と同じ症状を示してい」るとしています*[8]。その観点に立つと、ブルームも梅毒症に罹患していて、あるいはその恐れを抱いていて、そのために、息子のルーディーが死んだのではないか、と無意識にでも考えているとすれば、――つまり、ジョイスが実際に梅毒症に罹っていたかどうかは問題ではなく、彼がそう思い込んでいて、そのことが登場人物にも、比較的、直截に反映しているとすれば、ブルームの幾つかの奇妙な言動にも説明が付きます。

 例えば、妻モリーとの性交渉を断って久しいにも関わらず、その反面、モリーに対する、日常的な生活上に現れる数々の気配りがされているのは、決してモリーへの愛情が覚めたからではなく、自らの病のため、致し方がないことだと考えられます。また、したがって、モリーがボイランとの情事の危険性があるにも関わらず、そして、ボイランに対しても強い拒否感があるにも関わらず、それを阻止しないのは、ブルーム自身の強い罪責感のなせる業だとも考えられます。ただ、問題は、では、ブルームは性病の薬剤の広告を見て、揶揄するぐらいなら、何故、自らの病を治癒しようとしないのでしょうか? あるいは、既に治癒しているのだが、病に罹っている期間にモリーとの性交渉が絶えて、性慾を持て余しつつ、そのままになってしまったということでしょうか? ここはいささか検討の余地があると思います。

 

 「ポプリン」とは何ですか?

 「ポプリン/ぽぷりん/poplin/一般に約40番手ぐらいの単糸を使い、やや(よこ)(うね)のある平織に織った織物。これと同様な生地(きじ)にブロードがあるが、60番手以上の双糸を使っていることが多く、ポプリンより高級品である。販売上からは、ポプリンよりブロードとするのがよいため内容と品質が一致しない表示もある。16世紀にフランスのアビニョンで緯畝の絹織物がつくられ、アビニョンが当時ポープつまり教皇の所管地であったため、ポプリンと名づけられたという。生地は綿が多いが、毛、絹、化合繊ともつくられ、多くはシャツ、ブラウス地などに使われている。([角山幸洋]/小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 

 He bared slightly his left forearm. Scrape: nearly gone.「彼は左手を少しまくりあげた。傷あと、ほとんど消えた。」(U-△Ⅰ,p.)の傷は、無論比喩的な意味での精神的な傷も意味するのでしょうが、実際には一体何の傷なのでしょうか? それについての言及はあったのでしょうか?

 

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原文  A pallid*[9] suetfaced*[10] young man polished his tumbler  knife fork and spoon with his napkin.

鼎訳単行本 青白い牛脂みたいな顔の青年が、自分の大コップとナイフとフォークとスプーンをナプキンで拭いた。409

鼎訳文庫本 青白い脂ぎった顔の青年が、自分の大コップとナイフとフォークとスプーンをナプキンで拭いた。414

柳瀬訳 青白い牛脂顔の若者がタンブラーナイフフォークスプーンをナプキンでご丁寧に磨く。289

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 鼎訳では分かりませんが、原文を見ると「tumbler knife fork and spoon」となっており、少なくとも「tumbler knife fork」の三つの名詞はカンマなしで羅列されています。これは何か意味がありますか?

 

 「新しい細菌の群。」「細菌を拭きとる。」これは何か意味がありますか?

 

 「ディグナムの瓶詰肉。」どんな意味がありますか?

 

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原文  Mr Bloom cut his sandwich into slender*[11] strips*[12]. Mr MacTrigger. Easier than the dreamy creamy stuff. His five hundred wives. Had the time of their lives.

鼎訳単行本 ミスタ・ブルームはサンドイッチを細く切った。《ミスタ・マクトリガー》。あの夢みたいなクリームみたいなやつより扱いやすい。《五百人いる妻たちに、楽しい思いをさせたとさ》。416

鼎訳文庫本 ミスタ・ブルームはサンドイッチを細く切った。《ミスタ・マクトリガー》。あの夢みたいなクリームみたいなやつより扱いやすい。《妻たちは五百人。みんなを楽しませてやった》。422

柳瀬訳 ブルーム氏はサンドイッチをすいすい切り分けた。マックトリガー氏の、夢みたいなクリームたっぷりの一物よりはやさしいね。女房なんと五百人。みんなぞっこんいい思い294・下線部訳文太字

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 彼はサンドイッチをなぜ「細く切っ」ているのでしょうか? この当時、サンドイッチは切らずに供されていたのですか? 

 

 —Seven d., sir... Thank you, sir.の「Seven d.」の「d」は何ですか?

 ペンス/〈通貨単位〉 pence 《略: p./用法         pence は金額としての penny の複数形. 1971 年の貨幣制度の改正以来, それまでの略字 d. は廃されて, p がそれに代わった(新英和).

 

 

【解決済みの問】

 まだ幼女と思われるミリーを風呂に入れる際に、「Funny she looked soaped all over. Shapely too.」とあります。柳瀬訳では「体じゅう石鹸のあぶくになって滑稽だった。もう体つきがしゃんとして。」(U-,p.269)となっていますが、鼎訳では「体じゅう石鹸を塗った彼女の姿ったらなかった。しかもいい体つきで。」(U-△Ⅰ,p.)となっています。原文は確かに「she」なので、直訳では、当然「彼女」となりますが、自分の娘の、取り分け、まだ赤ん坊に近い幼女を「彼女」というでしょうか? せいぜい「あいつ」とか、「あの子」ぐらいではないでしょうか? なぜ、ここにこだわるかというと、次に「いい体つき」とされているからです。流石に、自分の幼い娘を「いい体つき」と見る父親はいないでしょう。柳瀬訳のように、まだ赤ん坊ではあるが、体がしっかりしてきたという意味で採るべきでしょう。ここは読者を混乱させる、あるいは誤読させるとういう意味で誤訳というべきではないでしょうか? 逆に、監訳者の立場にあったであろう、かの丸谷才一にして、このような「見過ごし」(?)が起きるとは、いささか腑に落ちかねるところです。それほど『ユリシーズ』は難敵だったのか、あるいは、自らの小説を書くことと、他人の作品の翻訳をするというのは、矢張り別のことなのでしょうか? そんなことを言えば、村上春樹の翻訳も相当おかしな日本語になっていることも多く(村上氏を批判している訳ではありません)、翻訳の難しさを痛感させられます。

 文庫では修正済み。

 

 「Maginni the dancing master」は柳瀬訳では「ダンス教師」(U-,p.265)となっていますが、鼎訳では「ダンス等教授」(U-△Ⅰ,p.378)となっています。単に「ダンス教授」で良さそうなものをなぜ「等」が付いているのでしょうか? 実際、広告に「ダンス等教授」と書かれていたと推測されますが、ここで、それを反映させるのは誤訳ではないでしょうか?

 文庫では修正済み。

 

〈中絶〉

16825字(43枚)

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20220710 2037

 

参考文献

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』. (202259 () 03:25更新). シン・フェイン党. 参照先: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』.

⼾⽥ 勉. (2022年6月3日). 「レオポルド・ブルームの胃の痛み」. 22 Ulysses 9 .

 

 



*[1] [フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』, 2022年5月9日 (月) 03:25更新]

*[2] [⼾⽥ , 2022年6月3日]

*[3] パンタロン/ぱんたろん/pantalon フランス語/ズボンのこと。語源は16世紀のコメディー・イタリアンの道化(どうけ)役者パンタローネが、裾(すそ)の開いたズボンをはいていたところから、これにパンタロンの名称があてられた。ベネチアの水夫たちがこの種のズボンを着用していたが、市民服にズボンが登場するのは18世紀のフランス革命時である。キュロット(半ズボン)をはいた貴族に対して、サンキュロット(キュロットをはかないの意)とよばれた愛国党員は、縞(しま)パンタロンをはいたが、以後男子服にパンタロンが定着していった。([辻ますみ]/小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

*[4] 「ボンネット (英語: bonnet)、ボネ (フランス語: bonnet) は、ヨーロッパの伝統的な帽子である。いくつかの種類の帽子がボンネットと呼ばれる。」(「ボンネット (帽子)」/フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

*[5] 文庫版では「戻っても仕方がない。」(p.413)となっているが、一旦、意図の取り易い単行本を取った。

*[6] 「西ロンバード通りを離れたころからなんだかしっくり行かなくなった。ルーディが死んでからはどうしても前のようには行かない。」(p.411

*[7] 横内一雄・関西学院大学教授の教示による(「22Ulyssesジェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」第9回・2022年6月3日・on line

*[9] (病気などで)青ざめた、青白い。

*[10] suetface」はジョイスの造語。suetface。「suet/súːɪts(j)úː‐/名詞 不可算名詞/スエット 《牛[]の腎臓(じんぞう)の周りの脂肪; 料理に用いる》. (研究社 新英和中辞典(電子版))

*[11] slender/sléndɚ‐də/形容詞/(slendererslenderest; more slendermost slender)1aほっそりした,すらっとした.a slender girl ほっそりした少女.b(長さ・高さに比べて幅・周囲の)細い,細長い.a slender twig 細長い枝.(新英和)

[12] (布・板などの)細長いきれ,一片 〔of.a strip of paper ひときれの紙.(新英和)