鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

謎々『ユリシーズ』   亡霊と共にあれ! ――「第9挿話 スキュレとカリュブデス」を読む

Σκύλλη και Χάρυβδις

 

 

謎々『ユリシーズ

 

亡霊と共にあれ!

――「第9挿話 スキュレとカリュブデス」を読む

 

【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社文庫版による。鼎訳・巻数、ページ数で示す。単行本からの引用は、鼎訳・単行本・巻数、ページ数で、柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenbergプロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

l  一旦、「主役」交代したと思われたスティーヴンがこの第9挿話で復活したのには何か、小説の構造上の、あるいは物語の展開上の理由があるのでしょうか? 要するに、この挿話は必要なのでしょうか? 仮に必要だとしても、たまたま通りかかったブルームの視点から揶揄的にスティーヴンたちの様子を描写することもできたのではないかとも思ってしまいます。

l  本挿話とは直接は関係ありませんが、集英社版の「各挿話の要約と解説、および巻末の訳注は訳者たちによる。」(凡例)とありますが、この「訳者たち」とは一体誰のことでしょうか? つまりどの程度、結城英雄先生の筆が入っているのでしょうか? 「訳者あとがき」には、訳者たちの原稿を結城先生が校訂したととも取れる表現ですが、実際には逆で、まず、結城先生が初稿を書き、それを丸谷さんたちが赤入れをしていったのではないかと推測しています。この辺りの事情をご存知の方はいらっしゃいますか? 

l  「クウェイカーの図書館長」(U-△Ⅱ,p.13)、「篤震の図書館長」(U-y,p.315)、(the quaker librarian)ですが、そもそも「クウェイカー」教徒のというように宗派をあたかも枕詞のように何度も書くというのは、いささか奇妙な印象を残します。その場合、つまり宗派を表す場合は大文字で「Quaker」でしょうから、柳瀬訳の「篤震の」とした方がより正確だとも言えますが、要は簡単に感動で震える「感激屋さん」とでもいうような意味だと思うので、流石に「篤震」は凝り過ぎだと思います。原文のニュアンスがうまく掴めていませんが、「自震家の図書館長」というのはいかがでしょうか? いずれにしても、ここを「クウェイカーの」とするのは誤訳ではないでしょうか?

l  『ウィルヘルム・マイスター』についての訳註は大変興味深いものです。言うなれば、精神的な存在であるハムレットがそれに見合う肉体を保持することができず、破滅したということだと思いますが、言うなればハムレットが霊的な存在故に物理的な肉体を持ちえないとも読めるからです。彼が物語の現在で既に死んでいるという意味ではなくて、霊的な存在にとりつかれて霊的な世界へと移行しようとしているというような意味なのですが。振り返ってみれば、スティーヴンがハムレットに比定されるのであれば、精神的な存在=霊的な存在=スティーヴン 肉体的な存在=生身(現実)的な存在=ブルーム とも考えられ、この『ユリシーズ』という物語(物語があるとして)は、この世を彷徨うスティーヴンの霊(必ずしも死者という意味ではなく)を、霊的な世界とうまくコンタクトが取れる司祭者ブルームが鎮魂をしているとも読めます。ここでわたしが想起するのがT.S.エリオットの「ハムレット論」です。エリオットは「客観的相関物」が欠けているが故に『ハムレット』という劇は失敗していると論じていることです。と言っても、わたしはこれを直接読んだわけではなく、柄谷行人のデビュー作である「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」を通して読んだのでした。つまり、何が言いたいのかというと、「ハムレット」に「客観的相関物」が欠けているのと同様に、漱石の幾つかの長篇小説の主人公たちにとっても「客観的相関物」は欠けているのです。それは更に言えば初期から中期にかけての柄谷自身も同じであり、もっと言えば、例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフにとっても同じことが言えます。

l  訳者解説によれば本挿話は「国立図書館の一室」(12)とありますが、そんな場所があったのでしょうか? 図書館長も頻繁に出入りするところを見ると、図書館長の応接室のようなところなのでしょうか?

l  「—Have you found those six brave medicals, (…), to write Paradise Lost at your dictation?」/「――六人の勇敢な医学生ってのは見つけたのかね、(中略)きみが口述して《失楽園》を書き取らせようっていう六人は?」(14

 ここは、一体どういう意味なのでしょうか? なぜ6人の勇敢な医学生が《失楽園》を書き取るのでしょうか? また、この場合の「失楽園」はジョン・ミルトンのそれだと思われますが、柳瀬訳では「楽園喪失」(316、ただし太字)になっていますから、ミルトンのそれではなくて、スティーヴン自身の「楽園喪失」、「楽園」からの「追放」譚を話す、というような意味で柳瀬さんは取ったのだと思います。個人的にはこちらかな、とは思いますが、問題は、それを何故、スティーヴンが医学生に向かって口述するのでしょうか? それは一体なんのためなのでしょうか?

 

l  原文 —I feel you would need one more for Hamlet.

鼎訳単行本 ――《ハムレット》の話となればもう一人いるな。(448

鼎訳文庫本 ――《ハムレット》の話をするのならもう一人いるな。(15

柳瀬訳 ――ハムレットとなるともう一人要るだろう。(316

 先程の「六人の勇敢な医学生」に対して、全部で「7人」必要だから「もう一人要る」ということらしいのですが、一体どういう意味なのでしょうか? 「Seven is dear to the mystic mind[1].」/「七は神秘家の珍重する数だからね。」(448)/「七は神秘家の珍重する数だよ。」(15)/「七は謎めいた人物のお気に入りだ。」(316)、とエグリントンは理由にもならぬことを口走っていますが、――柳瀬訳はいささか文脈を逸らし過ぎなので、ここでは鼎訳を取りますが、この「神秘家」とはシェイクスピアのことでしょうか? それともスティーヴンのことを指しているのでしょうか? あるいはWBことW.B.イェイツのことなのでしょうか?

 ちなみに、この国立図書館のよく分からない謎の一室で語り合うのは以下の7人です。係員とヘインズはカウントしません。また、この場合、話者スティーヴンはカウントするのでしょうか?

  図書館長リスター

  ティーヴン

  ジョン・エグリントン

  ラッセ

  ミスタ・ベスト

  バック・マリガン

  (ブルーム? あるいはヘインズ?)

 

l  原文 He holds my follies[2] hostage[3].

鼎訳 やつはぼくの馬鹿まねを抵当に取っているからな。(44915

柳瀬訳 おれの愚行を形に取ってる。(316

 ここはどういう意味でしょうか? 鼎訳の「馬鹿まね」という日本語はないのではないでしょうか? これだと「やつ」(マリガン?)がスティーヴンの馬鹿の真似をしているというようにも読めます。「馬鹿まね」であれば、まだ分かります。スティーヴンの「馬鹿なまね」=「愚行」とは一体何なのでしょうか? それをマリガンの知るところとなり、弱みを握られているということでしょうか?

 そう考えてくると、そもそも、スティーヴンはマリガン(達)と必ずしも気持ちが通じ合っているようには読めませんが、何故、マーテロ塔で「同居」(?)していたのでしょうか? 何か弱みを握られていたのでしょうか?

 

〈中絶〉

3514字(9枚)

🐣

20220710 2301

 

 



[1]  [通例修飾語を伴って] (…)[知性]の持ち主,人.a great mind 偉人(新英和).

[2] folly 愚行,愚案,愚挙(新英和).

[3] 人質(ひとじち)(新英和).