鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

謎々『ユリシーズ』その10   「岩々」なのか「岩」なのか、それが問題だ。 ――「第10挿話 さまよう岩々」を読む

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

Πλαγκτα

 

 

謎々『ユリシーズ』その10

 

「岩々」なのか「岩」なのか、それが問題だ。

――「第10挿話 さまよう岩々」を読む

 

【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社文庫版による。鼎訳・巻数、ページ数で示す。単行本からの引用は、鼎訳・単行本・巻数、ページ数で、柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenbergプロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

1.    本挿話「Wandering Rocks」の和訳を鼎訳では「さまよう岩々」、柳瀬訳では「さまよえる岩」としています。「Rocks」なので「岩々」というのは頭では分かるのですが、そもそも「岩々」という日本語は正しいのでしょうか? 通常の用法では「岩々」とは言わないことを念頭に置き、柳瀬さんは「岩」とされたのではないかと思いますが、いかがでしょうか? 逆に言えばあの、日本語の用法にうるさい丸谷才一がいて、これは如何なることかと、怪訝に思ってしまいますが。

 日常的には使わなくても、まずもって①語感、語呂の問題、「さまよう」か「さまよえる」か、はまた別に問わねばならないが、「さまよう岩」だと静止的な感じがする、つまり、本来はオデュッセウスの通行を邪魔する存在なのだから、②動きが感じられねばならない。さらにはこの「さまよう岩々」はダブリンの市街を「彷徨う人々」に比定されるので、多少日本語としてごり押しだとしても、複数形でないといけなかった。③呉茂一訳『オデュッセイア』には「岩々」という用例があるらしい(未確認)。

2.    本挿話は19の断章からなり、それぞれ市井の人々の生活を、無作為に抽出し、平等に描いているようにも思えますが、そうともいえない気がします。第1断章「(ジョン・コンミー神父)」だけがいささか長過ぎる気もします。試みにそれぞれの断章のページ数を鼎訳の単行本で比べてみると、次のようになります。端数は切り上げ。(1)13ページ・(2)2ページ・(3)3ページ・(4)3ページ・(5)3ページ・(6)3ページ・(7)3ページ・(8)5ページ・(9)8ページ・(10)5ページ・(11)6ページ・(12)6ページ・(13)6ページ・(14)6ページ・(15)6ページ・(16)5ページ・(17)3ページ・(18)4ページ・(19)8ページ。本来は、1922年刊行のシェイクスピア&カンパニー版を参照すべきなのですが、今手元にありません。つまり、ページ数の「数」に何らかの意味があるのでは、とも思うのですが、いかがでしょうか? 長さの不均衡(実はこれにも何らかの意味があるのではとも思えます)について言えば、暴論かも知れませんが、最初ジョイスはこのような断章形式で書く、というアイデアを持っておらず、第一断章を書き始め、途中で挿入節を思いつき、そこから派生して、断章形式に移行したのでは、とも思うのですが、いかがでしょうか? 無論、その後、何らかの意図をもって字数や枚数などを調整したのではないのかと推測してます。あるいは、この第一断章の「コンミー神父」の下りが、本挿話全体の重石、或る種の物見の塔watch towerのような働きをしているのでしょうか?

3.    「あの子の名前はなんと言ったっけ? ディグナム、そう。」鼎訳p.99)と、ありますが、このディグナムは亡きディグナムの愛息のことだと思いますが、何故、ここでコンミーはディグナムのことを想起したのでしょうか? そもそも彼とディグナムはどんな関係だったのでしょうか? 

 5.を参照せよ。

4.    頻出するディグナムの存在が気になるところですが、コンミー神父がディグナムの名前から「Vere dignum et iustum est.(真ニフサワシク正シイコトデアル)」(鼎訳p.99)というミサの叙誦を想起するように、ジョイスが、ディグナムに「価値のある」という意味を込めていたとするなら、ディグナムは実際には登場しないにも関わらず、いわば、隠れ主人公、影の主人公のようなかなり重要な役どころではないかと思われますが、いかがでしょうか?

 

5.    「Mr Cunninghams letter. Yes. Oblige*[1] him, if possible. Good practical catholic: useful at mission time.」、「ミスタ・カミンガムの手紙があるし。そう。できれば、あの人の頼みをかなえてあげよう。善良で遣り手のカトリックだからな。寄付金のときには役に立ちます。」(鼎訳p.99)の「ミスタ・カミンガム」とは誰ですか? また、「あの人」とはカミンガムのことですか?

 註に出てこない人物は集英社文庫第Ⅰ巻巻末の「『ユリシーズ』人物案内」を参照するとよい。それによれば、マーティン・カニンガムとは「パワー、ノーランといっしょにディグナムの遺児のための援助金を募ろうとしている。」(p.659)とある。したがって、「あの人の頼み」とはこのことを指していると考えられる。しばらくして出てくる「管区長宛ののあの手紙」(p.101)も、この「ミスタ・カミンガムの手紙」を指していると考えられる。さて、そうすると、3.に戻るが、ここは順番としては逆で、まず、カニンガムからディグナムの遺児救済の手紙を預かった→出かけるに際して、忘れずに出さねば→そう言えば、「あの子の名前は何だっけ?」ということではなかったろうか。

 

6.    コンミー神父(one plump*[2] kid glove)や電車で同乗した婦人は手袋をはめていますが(her small gloved fist)、6月で手袋は? と思うのですがこれは普通のことですか?

 無論、防寒用ではなく、婦人のそれは装飾用で、コンミー神父のものも、装飾用かあるいは儀礼的なものと推測できる。イエズス会の神父に、あるいはアイルランドの神父に、統一して、そのような習慣があったかどうかは未調査。鼎訳では、単に「ふっくらしたキッドの手袋」(p.106)となっているので、分かりづらいが、柳瀬訳では「ふくらかな子山羊革手袋」(p.377)となっていて、この「キッド」というのが子山羊の革であることが分かる。「handle [treat] A with kid gloves/A(人・物)をきわめて慎重に[優しく]扱う」(新英和)という成句がある。コンミー神父の人柄を些細なことで表現しているのかも知れないが、この場合、彼が「慎重に扱」っているのが「切符」と数枚の「貨幣」であることを考えると、彼の人当たりの良さ(?)や聖職者としての人道主義的な考えや態度も、どこか表面的な部分があるのかも知れない、とも取れる。

 

7.    コンミー神父は白人以外の人種の宗教的救済を思い描いています(p.108)が、イエズス会の神父としては意外かなと思いますが、いかがでしょうか? その点では文脈や背景、あるいは次元を全く異としますが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「ゾシマ長老の法話と説教から」(原卓也訳・1978年・新潮文庫・中巻・p.p.97-118)を想起しますが、いかがでしょうか?

 イエズス会の基本的な性質は、一見人道的に他の人種への伝道を行っていたようにも思えるが、実際は、宗教的支配、また同時に西欧文明による貿易的、経済的支配が行われていたことを考えると、コンミーの言葉の表面的な部分に現れている人道的な表現にも或る種の欺瞞があるのではないだろうか。つまり、これは単に言葉だけの問題だ、ということである。ゾシマ長老云々というのは、全く見当違いも甚だしく、論外というしかない。ドストエフスキーに失礼である。

 

8.    コーニー・ケラハーは干草の葉っぱを噛んでいます(p.112)が、これは噛み煙草のようなものですか?

 

9.    本挿話に限らず、『ユリシーズ』「ライ麦畑」がしばしば出ますが、これは元々民謡? ポップソングがあったと思いますが、これがサリンジャーCatcher in the Ryeにもつながるのでしょうが、なにか欧米の文化の底流に「ライ麦畑」の何らかのイメージがあるのでしょうか? つまり、日本で言うなら水田、稲田のような原風景、言い換えれば、比較的ありふれたイメージを持つものなのか、あるいはジョイス独自の好みの問題なのか、どちらでしょうか?

メモ 

ライムギ(ライ麦、学名Secale cereale)はイネ科の栽培植物で、穎果を穀物として利用する。別名はクロムギ(黒麦)。単に「ライ」とも。日本でのライムギという名称は、英語名称のryeに麦をつけたものである[3]。食用や飼料用としてヨーロッパや北アメリカを中心に広く栽培される穀物である。寒冷な気候や痩せた土壌などの劣悪な環境に耐性があり、主にコムギの栽培に不適な東欧および北欧の寒冷地において栽培される。(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

10.          レネハンはブルームの妻・モリーに欲情を抱きつつ(p.p.135-136)、それにも関わらず?、それ故に? ブルームをやたらと褒めています。

 

Hes a cultured allroundman, Bloom is, he said seriously. Hes not one of your common or garden... you know... Theres a touch of the artist about old Bloom. 

 ―あれは教養のある万能人間だ、ブルームってのは、と彼はまじめに言った。並の男たちとは違うよ……なあ……ちょいと芸術家の風情がある、ブルームってやつには。(鼎訳・p.136

あいつは円満具足の教養人よ、ブルームはな、と、真顔で言った。そんじょそこらのやつとは違う……つまりよ……芸術家っぽいところがあるぜ、ブルーム先生は。(柳瀬訳・p.398

 

しかしながら、褒め過ぎのような気がします。ブルームがどちらかというと孤立しているのを考えると、いささか奇妙な感じがしますが、何かレネハンに思うところの理由があるのでしょうか?

 その次の第10断章で、ブルームがエロ本の物色をしているシーンをもってきているところからすると、これは単なる皮肉を述べているのだ、と取れなくもない。しかし、レネハンが意外にも「seriously」にブルームを褒めちぎっているところからすると、仮に皮肉半分としても、他人にそう言わしめる何かがブルームにはあったとも考えられる。レネハンやブルームの言動を見ると、エロスこそ芸術なのだとレネハンや「話り手」は考えていたのかも知れない。それにしても「a cultured allroundman」はどうだろうか。ブルームは高卒ではあるが、その割には「教養」が、実人生で身に付けた「教養」があったかもしれない。「allroundman」については鼎訳の「万能人間」というよりも、柳瀬訳の「円満具足」の方が意味合いとしては近いかも知れないが、いささかおどろおどろしいので、「具足」を外して「教養のある円満な男」ぐらいが妥当か。ただレネハンの持つ含みについては、一考、二考の必要があるだろう。

11.          「the convent of the sisters of charity」/「慈悲童貞修道院(p.99)/「慈善童貞修道院」(p.373)は何故「童貞」と訳されるのでしょうか? 新英和によれば、「convent」とは「1(女子の)修道会.2(女子の)修道院男子の修道院 monastery.」とありますので「慈善姉妹修道院」なら分かりますが。

12.          「He walked by the treeshade of sunnywinking leaves(……)」/「陽光にきらめく木の葉の陰を歩いていくと(……)」(p.100)。この箇所に限りませんが、『ユリシーズ』には、或る種の文学的表現で描写されるシーンが時折顔を出します。言うなれば、地下のダンジョンで数多のモンスターたちとの激闘の合間、時折、地上が露呈し青空が広がったようにも感じます。これにはいかなる意味があるのでしょうか?

13.          「Father Conmee doffed[3] his silk hat and smiled, as he took leave, at the jet*[4] beads of her mantilla inkshining in the sun.」/「別れるとき、日ざしに黒く輝く彼女のマンティラの黒玉(こくぎょく)の玉飾りに向って、コンミー神父はシルクハットを取った。」(p.101)とありますが、なぜコンミー神父は彼女ではなくて、「彼女のマンティラの黒玉の玉飾りに向って」挨拶をしたのでしょうか?

14.          「And what was his name? Jack Sohan. And his name? Ger. Gallaher. And the other little man? His name was Brunny Lynam. O, that was a very nice name to have.」の箇所は「ところできみの名前は? ジャック・ソーンです。きみの名前は? ジェラルド・ギャラハーです。そっちの坊やは? ぼくの名前はブラニー・ライナムです。ほほう、そりゃいい名前だね。」(p.102)という具合に現在形で訳されていますが(柳瀬訳も同様)、これは英語原文のヴァージョンの違いによるものなのでしょうか? また、コンミー神父は路上で会った小学生の「ラニー・ライナム」という名前を聞いて、「そりゃいい名前だね。」と言っていますが、これは単なる「お世辞」の類いなのか、それとも「ブラニー」あるいは「ライナム」に何か特別な意味でもあるのでしょうか?

15.          さらに、このブラニー少年を「話者」は「Master Brunny Lynam」/「ブラニー・ライナム坊や」/「ブラニー・ライナム君」と呼んでいますが、この場合の「Master」は「[召し使いなどが主家の少年に対する敬称に用いて] 坊ちゃん,若だんな,.」(新英和)という用例だと思いますが、14.の問で述べたように、仮に「ブラニー・ライナム」に特別な意味合いがあるのであれば、この「Master」という呼称に、より一般的な「主人や支配者、師匠」といった意味が暗に込められているとするのは裏読み過ぎでしょうか?

16.          「the red pillar*[5]box*[6]」/「真っ赤な郵便ポスト」とありますが、郵便ポストの赤い色は万国共通なのですか?

 「ポストの色は国ごとに様々である。アメリカやロシアなどは青色が、ドイツ、フランスなどヨーロッパ大陸では黄色が主流。中華人民共和国アイルランドは深緑色、オランダやチェコなどではオレンジ色である。かつての宗主国のポストの色を引き継いでいる例も多く、オーストラリア、インド、南アフリカ共和国などでポストの色が赤なのは、かつての宗主国がイギリスだからである。アジアではインド、インドネシア、タイ、韓国、台湾、日本など、赤が主流である。イギリス領であったりイギリスから郵便制度を導入した国が多く、それらの国に影響下にあった国も赤を採用しているからである。その結果として、世界的に見ても赤を採用している国は多い(イギリス、イタリア、ポルトガルポーランド など)。」(「郵便ポスト」/フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

17.          「Dignams court」/「ディグナムズ・コート」(p.103)「ディグナム路地」(p.375)は地名、路地の名だと思いますが、例の「ディグナム」と、恐らく関係ないのだと思いますが、何らかの意図を感じますが、いかがでしょうか?

18.          「Mrs MGuinness」/「ミセス・マギネス」について述べた「A fine carriage*[7] she had. Like Mary, queen of Scots, something. And to think that*[8] she was a pawnbroker*[9]! Well, now! Such a... what should he say?... such a queenly mien*[10].」の下りですが、鼎訳だと「上品な身ごなしだ。スコットランド女王メアリか何かみたいで。あれで質屋の女主人とはな。いや、まったく! ああいう……どう言っていいか……ああいう女王みたいな風体で。」(p.103)と訳されていて、冒頭の「上品な身ごなし」に引っ張られて、「マギネス夫人は女王のように、上品な様子、振舞であるにも関わらず、実は質屋の女主人なんだ」、つまり、質屋の主人にしておくのは惜しい女だ、と読んでしまい、今一歩状況が摑み切れません。どういうことでしょうか?

 柳瀬訳を見てみよう。「ご立派な容止(ようし)スコットランド女王メアリー様か何かみたいな。ところが質屋さんとは。いやはや。あんなふうな……何というか……あんなふうな女王様のごときお振舞。」(p.375)したがって、状況はまるで逆で、「質屋の女主人風情にも関わらず、あたかも女王であるかのよな尊大な態度で闊歩している」ことに対する皮肉を述べているのだと分かる。ただ柳瀬が無理矢理訳した(そこまでしなくていいのに、と思うのはわたしだけだろうか?)「ご立派な容止」の原文は「A fine carriage」であり、無論「carriage」に「乗り物、車、(特に、自家用)四輪馬車、乳母車、(客車の)車両、客車、(機械の)運び台、(タイプライターの)キャリッジ、(大砲の)砲架」のような意味があることを考えれば、マギネス夫人が相当、恰幅のよい容姿をしていることが想像できるが、いくら何でも「容止」はないのではないか? まさに「笑止千万」とはこのことだ。考え過ぎだと思う。

19.          「Invincible ignorance」/「不可抗的無知」の訳註として「本人の理解力を超えるゆえに克服することのできない無知。倫理的責任を伴わない。トマス・アクィナス神学大全』より」(p.532)とありますが、アクィナスの真意はともかくとして、果たしてそうなのでしょうか? 「話者」は必ずしもそうは思ってないが故に、コンミーにそう思わせたのではないでしょうか?

20.          「On Newcomen bridge the very reverend*[11] John Conmee S. J. of saint Francis Xaviers church, upper Gardiner street, stepped on to an outward bound tram.」/「ガーディナー通り聖フランシスコ・ザビエル教会イエズス会ジョン・コンミー師は、ニューカメン橋をわたり、市外行き電車へ足を運んだ。」(p.105)とありますが、挿話の冒頭でもないのに、何故、このようなくだくだしい紹介がされているのでしょうか? また、敬称(「~師」)であるべき「the very reverend」が「Reverend」ではなくて、「reverend」と小文字になっているということは、敬称ではなく、語の本義の形容詞で使われているのではないかと思います。したがって、ここは「我らが崇めるべき、上ガーディナー通り聖フランシスコ・ザビエル教会イエズス会ジョン・コンミー師」とでもなるべきかと思いますが、これらの表現はコンミーへの皮肉と考えるべきでしょうか?

 それも大いにある。それとともにその次の段落を見ると、ここでしか登場しないダドリーについて「北ウィリアム通り聖アガタ協会首席助手任司祭ニコラス・ダドリー師が、市内行き電車から降りて、ニューカメン橋へ足を運んだ。」という表現がある。つまり、コンミーとダドリーはニューカメン橋の上ですれ違った(?)ことになるが、このダドリーの修飾の文言に、それに先行するコンミーのそれを合わせた、ということではないだろうか。

21.          「Passing the ivy church he reflected that the ticket inspector usually made his visit when one had carelessly thrown away the ticket.」/「蔦の教会を通り過ぎるときに、車掌というものはだいたい人がうっかり切符を捨てると検察にまわって来るな、と神父は考えた。」(p.106)とありますが、「切符をなくす」なら分かりますが、仮に「うっかり」だとしても、「切符を捨てる」ことがあるでしょうか? 何故ここは「thrown away」/「捨てる」なのでしょうか? 確か「throw away」という表現が以前出て来ていた気がしますが。

22.          「He perceived*[12] also that the awkward[13] man at the other side of her was sitting on the edge of the seat.」/「彼女の向う側の男がぎこちなく座席の端っこに腰かけているのにも気がついた。」(p.107)/「奥方と反対側ふなふなした男が席からずり落ちそうになっているのにも気づいた。」(p.378)とありますが、この「男」の位置が分かりませんし、彼の状況も今一つ分かりかねますが、いかがでしょうか? 

 この当時のダブリンのトラムカーの座席の配置が分かりかねるが、進行方向に向かって垂直に配置された対面式だと仮定をする。恐らくこの女性は夫と思われる「眼鏡の紳士」と並んで、コンミーの対面に坐っている。「the other side」なので「その反対側」、ということだから、コンミーと同じ側に「男」が坐っている。さて、この「男」を形容するのが「awkward」だが、これが厄介だ。「weblio」はコアとなる語義として「物事の取り扱いにおいてぎこちなさを伴う」としている。その意味では鼎訳の「ぎこちなく(……)腰かけている」というのも間違いとは言えないが、よく考えて欲しい。「ぎこちなく坐る」というのは坐り方が分からない、とか、久しぶりに坐る場合に、はて、一体どうやって坐ったものか、これで合っているのか、というような場合が「ぎこちない坐り方」である。何故に、この「男」は「ぎこちなく坐る」ことを余儀なくされたのであろうか。そこで、この次の段落に眼を走らせると、そこにも「ぎこちなく」が存在するではないか。「Father Conmee at the altarrails*[14] placed the host*[15] with difficulty in the mouth of the awkward old man who had the shaky head.」/「コンミー神父は、聖体拝領台で、ぎこちなく頭をゆする老人の口にやっとの思いでホスチ

アを授けたことがある。」この箇所も「老人の頭が揺れている」ことの修飾語なので「ぎこちなく」は明らかにおかしい。したがって柳瀬訳はこうなっている。「コンミー神父は聖体顕示台で、首のぐらつくふなふなした老人の口にホスチアを授けるのに苦労したことがある。」(p.137)。果たして「awkward」が「ふなふなした」でいいのかは別問題として、いずれにしても「ぎこちない」はいかにも奇妙であろう。要は「ぐらぐら(あるいはぐにゃぐにゃ)揺れている」ということであろう。次に「on the edge of the seat」だが、確かに「on the edge of my seat」で「ハラハラする」(weblio)という語義はあるが、流石にこれを「席からずり落ちそうになっている」とするのはいささか無理がある。恐らく、この「男」は泥酔しているのか、何らかの病に侵されているのかは不明だが、頭がぐらぐらした様子で、座席に端に坐っていると取るのが妥当だろう。したがって、ここはこうなる。「彼女の反対側の男が頭をぐらつかせて座席の端に座っていることにも気がついていた。」(試訳)。「ぐらつかせ」ているのは「頭」とは書いていないが、「頭」で体全体を代表させる。問題はこの様子を「perceive」していたにも関わらず、何もしない、ということなのだ。『新英和』によれば、「perceive」の【語源】はラテン語の「「すっかりつかむ」の意」とされている*[16]。つまり、その「男」が今どういう状態で頭をぐらつかせているかも「すっかり摑んでいた」にも関わらず、何もしないのだ。その次にでてくる老婆に対しても「かわいそうに」とは思うが、やはり何もしないのだ。白人以外の人種に対してもその救なわれなさを嘆きこそすれ、結局のところ、コンミーは何もしないのである。

23.          「hoarding」/「板囲いのポスター」(p.107)/「広告掲示板」(p.378)とは何ですか? 

 「hoarding 《主に英国で用いられる》1(建築・修理現場などの)板囲い,仮囲い 《英国ではよく広告やビラを張る》.2広告[掲示] (《主に米国で用いられる》 billboard).(新英和)。

24.          「eiaculatio seminis inter vas naturale mulieris」/「女性ノ自然ノ管ヘノ精子ノ射精」(p.109)の「精子ノ射精」は原文が多分そうなっているのでしょうが、この訳は、果たしてこれでよいのでしょうか?

25.          「His thinsocked ankles」/「薄いソックスの足首」(p.110)とあるようにコンミーは「ソックス」を履いていますが、何故、ここは「靴下」ではないのでしょうか? 

26.          「A flushed young man came from a gap of a hedge and after him came a young woman with wild nodding daisies in her hand.」/「生垣の隙間から、顔を上気させた若者が現れた。ゆらゆら揺れる雛菊の花を手にした若い女が後ろからつづいて出て来た。」(p.111)とありますが、彼らは事の後だと推測されますが、これはどんな意味がありますか?

  恐らく「色欲」に囚われた若い男女の様子を見て、「シン」

27.          

〈中絶〉

12041字(31枚)

🐓

20220710 2327



*[1] 1+目的語+to do〕〈人に〉〈する〉義務を負わせる; 〈人に〉〈することを〉余儀なくさせる 《しばしば過去分詞で形容詞的に用いる; ⇒obliged 1; 【類語】 ⇒→compel.The law obliges us to pay taxes. 法律によって税金は払わなければならないことになっている.2a+目的語+前置詞+()名詞〕〈人に〉〔で〕恩恵を施す 〔with; によって〕〈人の〉願いをいれてやる 〔by〕《★by の後は doing.Will you oblige me by opening the window? どうぞ窓をあけてください.b〈人に〉親切にしてやる.

One feels compelled to oblige a lady. だれでも婦人には親切にせざるをえないと感じる.

*[2] ふくよかな、丸々と太った、丸々とした、肉付きのよい、ぶっきらぼうな、露骨な(新英和)。

*[3] doff 脱ぐ

*[4] 1黒玉(くろたま), 貝褐炭(ばいかつたん) 《真っ黒な石炭》.2黒玉色,漆黒.(新英和)

*[5] pillar 柱、支柱、記念柱、標柱、柱状のもの、火柱、中心勢力(新英和)

*[6] pillarbox 《主に英国で用いられる》 (赤色に塗られた円柱形の)郵便ポスト 《【解説】 街頭に立っていて,胴のところには王冠とその下に EIIR (エリザベス 2 世女王)などと記してある; 米国にはこのような形のものはない; ⇒mailbox 1. mailbox《主に米国で用いられる》1(公共用の)郵便ポスト,ポスト (《主に英国で用いられる》 postboxpillar‐boxletter box) 【解説】 道路際にあるアメリカの郵便差出箱は青色の四角い金属製の箱で,上部がかまぼこ形をしている; 利用者が設置する郵便受箱もかまぼこ形である》.

*[7] 身のこなし,態度.(新英和)

*[8] to think that  To think~!などの形で、「~とは」という驚きや意外の意味を表す。(ロイヤルp.479

*[9] 質屋

*[10] 物腰、態度、様子、(顔の)表情

*[11] …師、…尊師、聖職者の、牧師の、あがめるべき、尊いweblio)。

*[12] (…)知覚する、認める、(…)気づく、(…)気がつく、(…)理解する、了解する、看取する、理解する、悟る、(…)わかる(weblio)

*[13] ぎこちない、ぶざまな、不器用な、下手な、(…)ぶざまで、不器用で、きまり悪がって、気まずくて、扱いにくい、不便な/コア 物事の取り扱いにおいてぎこちなさを伴う(weblio)。

*[14] altar rail  (教会の)祭壇前の手すり(weblio)。

*[15] [the Host] キリスト教】 聖餐(せいさん)[ミサ]のパン; カトリック】 ホスチア,聖体.【語源】ラテン語「いけにえ」の意

*[16] per‐【接頭辞】1[ラテン系の語に添えて] 「すっかり」「あまねく(…する)」の意.perfect, pervade.(新英和)。