鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

〈自我という現象〉の謎を追って ――真木悠介『自我の起原――愛とエゴイズムの動物社会学』

追悼・見田宗介真木悠介先生

 

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2022年4月1日、社会学者、思想家の見田宗介真木悠介先生がお亡くなりました。享年84歳とのことです。

ここに謹んで哀悼の意を表し、先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。 

恐らく、現代日本を代表する、稀有な社会学者、思想家の業績、影響、全貌については、今後多くの論者が語り継いでいくことになると思います。

見田=真木先生には東京大学での錚々たる教え子たちがいらっしゃり、日本の社会学のかなりの部分は、この見田学派によって占められることになりますが、他にも、私塾「樹の塾」での塾生の方々、そして、著作などを通じて、社会学に留まることのない広範囲の多くの人々に影響を強く与えました。今後、これらの人びとがそれぞれの思いを語り継いでいくことでしょう。

また、見田=真木先生の著作は、合計で14巻の『著作集』*[1]として纏められていますが、惜しむらくは、「全集」ではないので、数多くの作品が、そこには収録されていないこともいささか気になるところです。これに関しても、今後、文字通り、完全版の「全集」が編輯、刊行されることを心から待ちたいと思います。

さて、ここで、新たな見田=真木論を展開する余裕が今のところないので、一旦、1993年に刊行された『自我の起原』についての書評、というよりも、単に内容を纏めただけのレポートを再録して追悼の意味を込めたいと思います。

当時これを勝手に送り付けたところ、どういう訳か、見田=真木先生からは「「鳥」有難う!」というご返事も頂き、尚且つ、ここが重要だが、生物学的知見については、正直さっぱり分からなかったが、この書物の肝は、「あとがき」の言葉に凝縮されているとの思いで、その箇所を囲み付きで引用したところ、全く同じ箇所が、この次の著書『現代社会の理論』の「おわりに」で引用されていて、まさに我が意を得たりと膝を敲いたことも昨日のように思い出されます*[2]

わたしに、能力とやる気と真剣さの何か一つでもあれば、直接教えを乞うことも可能であったはずなのに、何故か、そうせず、結局お会いすることもないまま、鬼籍に入られたことが、なんとも悔やまれます。

今わたしにできることは、残された見田=真木先生の莫大な遺産をしっかりと咀嚼し直すことではないかと、心に強く思いを刻んでいます。

それでは、単なるレポートですが、ご笑覧下さい。

 

 

 

 

 

 

〈自我という現象〉の謎を追って

――真木悠介『自我の起原――愛とエゴイズムの動物社会学

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真木悠介『自我の起原――愛とエゴイズムの動物社会学』①1993年・岩波書店/②2001年・岩波モダンクラシックス/③2008年・岩波現代文庫/④『自我の起原――定本 真木悠介著作集 第3巻』2012年・岩波書店。以下、本書からの引用は①からのものである。引用文の傍点は全て原文のものである。

 

【目次】

《わたくしといふ現象》... 1

《明るい世界》への問い... 3

ドーキンス批判... 5

遺伝子への反逆... 7

他者だけが自己を形成... 9

〈自己裂開的な構造〉... 10

【主要参考文献】... 12

 

 

 

《わたくしといふ現象》 

 

それまで彼の名を知るものからは「なぜに社会学者が宮澤賢治を?」との疑問を引き起こし、 一方彼の名を知らぬものからは「このような賢治論が有り得るのか」との驚きと圧倒的な共感を持って迎えられた書物*[3]見田宗介にとって恐らく最も美しい書物であるだろう『宮沢賢治――存在の祭りの中へ』は〈自我〉の問題、すなわち詩人の言葉を借りれば《わたくしといふ現象》(『校本全集』第2巻・5頁)とは一体どういう現象なのかという主題を持っていた。今では当然とも言えるが〈自我〉が〈現象〉であるということは〈自我〉が他者との〈関係〉性の中で生起する現象であるとの意味だ。それは自分が自分であることの根拠となり、〈自我〉を際立たせる。それと同時に、ひとりひとりの〈自我〉を〈関係〉の中に縛り、場合によってはそれを飲み込んでしまう。これが〈自我〉という現象だ。宮澤賢治がその短い生を生きることで追求しようとした問題は例えば次のような詩句に表れている。

 

ああ誰か来てわたくしに云へ

億の巨匠が並んで生れしかも互ひに相犯さない

明るい世界はかならず来ると

(「校本全集」第3巻・542頁)

 

 《明るい世界》への問い

 

まさに、そのような《明るい世界》が本当に来るのかどうか、またそれはいかにすれば可能なのか、それを問うことの中に1965 年『現代日本の精神構造』 以来の、社会学者・社会思想家、見田宗介真木悠介の一貫した足取りがあったのだ(見田が本名、真木は筆名)。 本書『自我の起原』はそのような問いかけから放たれた、動物社会から現代社会に至るまでの 《自我の比較社会学》の壮大な試みの第1歩である*[4]

《動物社会における個体と個体間関係》の問題の探求を企図としたこの第Ⅰ部では、動物の行動は「利己」的なのか「利他」的なのかをめぐって展開された動物学界の流れを、すなわちローレンツから始まってドーキンスまでを批判的に検討する。なかでも主要な標的にされているのは〈利己的な遺伝子〉理論で知られるリチャード・ドーキンスである。彼の考えを簡単にまとめてみよう。我々の常識からすれば生物が子孫を残すためにその情報を伝える手段として遺伝子という存在がある*[5]。つまり生物が主で遺伝子はその従だ。しかし、実はそうではない、逆だというのだ。遺伝子が主で生物の方がむしろ従だというのである。つまり我々生命体のあらゆる

コラム tea for one

 

~「ほんとうに切実な問いと, 根柢をめざす思考と,地についた方法とだけを求める精神に」~

 

この仕事の中で問おうとしたことは, とても単純なことである. ぼくたちの「自分」とは何か. 人間というかたちをとって生きている年月の間, どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか. 他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか. そういう単純な直接的な問いだけにこの仕事は照準していている。

時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに, ほんとうに切実な問いと, 根柢をめざす思考と,地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに, わたしはことばを届けたい.

 虚構の経済は崩壊したといわれるけれども, 虚構の言説は未だ崩環していない.だからこの種子は逆風の中に播かれる.アクチュアルなもの, リアルなもの, 実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちの内に, 青青(せいせい)とした思考の芽を点火することだけを願って, わたしは分類の仕様のない書物を世界の内に放ちたい.

本書「あとがき」より。

 

この『自我の起原』「あとがき」は、この直後の諭著である『現代社会の理論』(1996年・岩波新書)の「おわりに」においても自己引用された。恐らく、論者、思想家としての見田=真木の姿勢の、ありとあらゆる無駄を削ぎ落した形でのそれが明瞭に、そして全体重を込めてその思いが示されているように思う。

 

📖

本能や行動は彼ら遺伝子が生き残っていくための手段であり、そのような観点に立てば生物は遺伝子の〈生存するための機械〉だとい

うことになる。

 

ドーキンス批判

 

さて、 ドーキンスに対する批判は次の2点からなされる。

(1)《ドーキンスが遺伝子レベルの「利己性」と、個体レベルのの「利己性」を混同していること》。

(2)《ドーキンスが、上位システムの創発的emergentな自律化と、それによるシステム のテレオノミー的な重層化(……)を理論化していないこと》(本書・p.p.28-29)。

 

(1)については、言うまでもなく、先ほどまとめた彼の考えに基づけば〈利己的な遺伝子〉の《利己的》とは遺伝子にとっての「利己」ということで、個体レヴェルの「利己」とは違う。遺伝子の利己性が直接的に、利己的な個体を発現するわけではない。だが、筆者によれば《ドーキンスは理論的には(……) 〈利己的な遺伝子〉理論は、個体の利己主義を帰結するものとしている》という( 本書・30頁)。これは《論理的な誤り》である(本書・29頁)。むしろ個体レヴェルでは「利他的」であるという(本書・36頁)。

また、そこで言われる〈個体〉という概念にしてもそれほど自明なことではないという(本書・46-47頁)。筆者はそこでひとつの例としてマーグリスの理論を紹介する。すなわち《今日動物や植物を構成している真核細胞は、幾種かの原核細胞の共生体である(……)》。 《この共生は、酸素が多いと生きられなかった初期の生命体たちが、(……)酸素による「大気汚染」の大公害の危機をのりこえて生き残るために、酸素無毒化の方法として「呼吸」を発明し、 エネルギー源として逆利用することを開始した突然変異種と連合することに始まった、とするものである)(本書・57-58頁)。 つまり《個体は共生系である》 (本書・147頁)。

 

 遺伝子への反逆

 

(2)。ここまでのところを確認してみると、ドーキンスの考え、つまり個体の「利己性」については退ける。しかし《〈個体〉という生の形態が本来は(……)生成子の再生産のメディアとして派生した現象であることは正しい》と真木は認める(本書・78頁)。だが、我々は本当にドーキンスの言うように遺伝子の単なる〈生存機械〉だろうか? 例えば、それについての簡単な反証が、子どもを意志的に作らない人々がいる、という事実である (本書・78頁)。遣伝子が自らが生き残るためには、それはあってはならない《反逆》行為だ(本書・79頁)。であるにも関わらず、個体は自立化する。 これが2点目である。《上位システムの創発的emergentな自律化》 (本書・28-29頁)とはそういうことだ。では、その後半部分の《それによるシステムのテレオノミー的な重層化》(本書・28-29頁)とはどういうことか まず《テレオノミー》。これは「目的論」、平たく言えば《「何のために」という問いに対する答えである》(本書・83頁)。つまり我々個体がある行動をとる時、それは一体「何のため」なのか、遺伝子の生存のためなのか、それとも我々の自由意志なのか、ということである。言うまでもなく、筆者は個体の〈テレオノミー〉的な主体化を認めている。次にその《重層化》については以下のように述べる。

 

〈テレオノミー的な主体〉の一般的な定義は、テレオノミーを自ら設定しうることである。つまりfor whatに対する答えを、みずから選択しうることである。その設定されたテレオノミーが自己自身であることもあるし、再び自己以外のものであることもありうる。第一の場合を自己目的化、第二の場合を脱自己目的化としよう。(本書・93頁)

 

つまり個体の自立化は二つの側面が存在するということだ。次のようにまとめられる。

 

《エゴイズム》

=《自己目的化》

=《その身体を形成している遺伝子たちの決定論からの「個体」の自立化》。

《愛》

=《脱自己目的化》

=《この「個体」水準の自己絶対化からの自己超越》

(本書・93、37頁をまとめた)。

 

《愛とエゴイズムの動物社会学》の所以である。

 

他者だけが自己を形成

 

では何故そのような〈主体化〉が起こったのであろう。

コラム tea for one

 

~旧版「ことの次第(あとがき)」より~

 

◆私にとって、見田宗介(真木悠介)氏とはその著『宮沢賢治』を通じて、深い影謇を与えられた思想家の一人である。といってもその内容をどれくらい理解てきているか全く心もとない。当時見田のみの字も知らなかったのだが、『銀河鉄道の夜』の読書会の参考文献のひとつとして、何の気もなしに手に取った。種々感じるところがあったが、 その時の読書会ではしきりに〈自己犠牲〉の暗さについて語っていたように記憶している。本文で触れたように『宮沢賢治』は見田氏にとって最も美しい書物だと思うが、私のは何度も読んだためにボロボロになってしまった。揚げ句には結婚式のあいさつなどでも朗読したりした。◆今回は全く専門外の内容だけに、出鱈目を書いてしまったのではと恐れている。〈螢〉

 

📖

 

哺乳類のレヴェルでは、容易に予想されることではあるが次の4点が挙げられる。①《哺乳》②《保育期間の延長》③《学習能力、およびシミュレーション能力を支えるに足るだけの脳の発達》④《群居性、とくに「社会性」》(本書・96-97頁)。

人間のレヴェルでは、明確な原因は特定されていないが、種々の研究成果を紹介、検討した上で次のように述べる。《〈自己認識〉という現象にとって一見逆説的に、〈他者〉こそがその起原と存立の機制の根拠をなすことは確実である》と。すなわち《他者だけが自己を形成することができる》(本書・120頁)。

まとめてみよう。筆者はドーキンスの〈利己的な遺伝子〉理論がイデオロギー的に個体の利己性にまで展開されていることを批判した上で、その発生はともかく、現段階における個体は遺伝子の〈生存機械〉ではなく、自立化しているとする。そしてその自立化は〈愛〉の方向と〈エゴイズム〉の2方向があるという。そしてそのことはその自立化そのものの発生の根拠そのものによって与えられているのである。

 

〈自己裂開的な構造〉

 

本書には補論として「性現象と宗教現象」という、先に挙げた『宮沢賢治』の補章にあたる評論が収録されている。その末尾において次のように述べられている。

自我はその永遠や無限や歓喜や恍惚や諒安や明視を求める極限の欲望にみちびかれながら、その自我を越える存在に向かって自己を散開する。これら極限の欲望もまた、自我という存在の芯にあらかじめ仕掛けられている裂開の罠だ。性現象は、このような個我の欲望の自己裂開する構造の原的に単純な形式であり、宗教現象は、この同じ欲望の自己裂開するダイナミズムの、最も遠い射程を潜勢する形式である。 (本書・196頁)

 

生物的に内蔵された〈自己裂開的な構造〉を持つ我々の〈自我〉。それは仕組まれたシステムを超え出て、人間が人間である所以、〈愛すること〉と〈信ずること〉という次元にまで開いていくだろう。そしてそれはまた、同時に「自分だけ」という〈エゴイズム〉をも意味するのではあるが。恐らく本書の眼目はここにある。

〈自我)という現象の根本に〈エゴイズム〉という《自己目的化》と、同時に性現象や宗教現象のような〈愛〉という《脱自己目的化》つまり〈自己裂開的な構造〉が生物的に基礎づけられるということに。

真木悠介の 『自我の比較社会学』全5部の今後の展開の核心にはこの〈性現象〉と〈宗教現象〉という二者が大きく関わってくるだろう。本書が成功したものになるかどうかはそこに帰着する。 圧倒的な期待を込めてこの完結を待ちたい。

 

【主要参考文献】

(1)見田宗介現代日本の精神構造』1965年/新版・1984年・弘文堂。

(2)真木悠介『時間の比較社会学』1981年・岩波書店/2003年・岩波現代文庫

(3)見田宗介宮沢賢治――存在の祭りの中へ』1984年・20世紀思想家文庫(岩波書店)/1991年・同時代ライブラリー(岩波書店)/2001年・岩波現代文庫

(4)『校本宮澤賢治全集』全14巻・1973-1977年・筑摩書房

(5)Richard DAWKIS,The Selfish Gene,1976.(『利己的な遺伝子日高敏隆他訳・1991年・紀伊國屋書店。)

(6)Lynn MARGULIS,Symbiosys in Cell Evolution,1981.(『細胞の共生進化』永井進監訳・1985年・学会出版センター。)

(7)見田宗介現代社会の理論――情報化・消費化社会の現在と未来』1996年・岩波新書

 

(初出 『鳥』第3号・1993年11月1日・鳥の事務所)

5657字(15枚)

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*[1] 『定本 見田宗介著作集(全10巻)』 岩波書店、2011年-2012年 NCID BB0731070X

現代社会の理論」「現代社会の比較社会学」「近代化日本の精神構造」「近代日本の心情の歴史」「現代化日本の精神構造」「生と死と愛と孤独の社会学」「未来展望の社会学」「社会学の主題と方法」「宮沢賢治――存在の祭りの中へ」「晴風万里――短篇集」

『定本 真木悠介著作集(全4巻)』 岩波書店、2012年-2013年 NCID BB10395926

「気流の鳴る音」「時間の比較社会学」「自我の起原」「南端まで――旅のノートから」

*[2] 「コラム ☕tea for one~「ほんとうに切実な問いと, 根柢をめざす思考と,地についた方法とだけを求める精神に」~」参照。

*[3] もちろん例外はあるが。

*[4] 筆者によれば《自我の比較社会学》は以下のような全5部作である。《Ⅰ.動物社会における個体と個体間関係/Ⅱ.原始共同体における個我と個我間関係/Ⅲ.文明社会における個我と個我間関係/Ⅳ. 近代社会における自我と自我間関係/Ⅴ.現代社会における自我と自我関係》(本書・159頁)。本書はこれの第Ⅰ部に相当する。ついでに註記しておけば、この仕事は1981年の『時間の比較社会学』のあとがき(306頁)で予告されていたものである。

*[5] 筆者自身は「遺伝子」ではなく「gene」の直訳である〈生成子〉という術語を使用している(本書・45頁)。

見田宗介=真木悠介先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます

見田宗介真木悠介先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます

 

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  2022年4月1日、社会学者、思想家の見田宗介真木悠介先生がお亡くなりました。84歳とのことです。 

 ここに謹んで哀悼の意を表し、先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。  

  御病気で療養中とは聞いておりましたが、突然の訃報に言葉が見つかりません。

 一言で先生の業績を振り返ることは大変困難ですが、恐らく、相当巨大な文明史的視点で社会を分析、展望する社会科学者の構想(『価値意識の理論』、『時間の比較社会学』、『現代社会の理論』など)と共に、それと同時に人間の持つ微細な魂の深淵にまで及ぼうとする文学者の方法と文体(『気流のなる音』、『まなざしの地獄』、『宮沢賢治』など)を持った稀有な、まさに現代日本を代表する思想家でいらっしゃいました。

 とりわけ、まさに偶然手に取った『宮沢賢治』からは計り知れない影響を受けているはずですが、これとて、今のところ、纏める言葉すら浮かびません。

 直接お教えを乞う機会には、全くなかったのは悔やまれますが、今となっては致し方ないことです。先生の余りにも大きな遺産を咀嚼し直すことから、まず、始めたいと思います。

 

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ほぼ唯一のジョイス入門書だが…… 結城英雄 『ジョイスを読む』

ほぼ唯一のジョイス入門書だが……

 

結城英雄 『ジョイスを読む』

 

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■結城英雄 『ジョイスを読む――二十世紀最大の言葉の魔術師』  2004年5月19日・集英社新書

■入門書(現代アイルランド文学)。

■採点 ★★☆☆☆。

■2022年2月6日・BOOKOFF町田店にて¥110で購入。

■2022年3月30日読了。

        

 

 本年2022年は、1922年にジェイムズ・ジョイスが、その代表作たる『ユリシーズ』を、パリ、シェイクスピア&カンパニー書店から刊行して、丁度100年の佳節に当たる。その意味でも各種の論文集の刊行*[1]やイベントなども開催されている*[2]。また、『ユリシーズ』が扱った6月16日を中心として、学会や研究会なども実施されるようである*[3]

 恐らく、ジョイスの名や『ユリシーズ』という作品の名を耳にしたり、あるいは書店などで手に取ったこともある方は少なくないに違いない。しかし、しばしば言われることではあるが、では、実際に読み通したことのある人は必ずしも多くはないだろうというのが、一般的な見解である。つまりは読もうとしても、多くの場合、何が書かれているのか、何を言おうとしているのかが分からない、というのが、普通の読者の感覚だと思う。

 その場合、もし、その読書を諦めないとするのであれば、――、無論、分かろうが、分かるまいが、一旦手にしたものは、何が何でも読み切るのだ、という方もいらっしゃるとは思うが、専門で研究している訳でもなく、普通に学業や仕事を持ちながら、僅かな余暇の時間の楽しみとして、その苦役を引き受けるのはいささかならず過酷な試練と言うべきであろう。とすれば、どうすればよいのか。

 難解な哲学書などで行われるのが、一旦、入門書の類いで頭を慣らしておく、事前に低所からの訓練をしておく、という方法である。

その場合、一般には入門書と呼ばれるものの多くは、岩波新書などの新書の形で供給されることが多いと思うが、哲学に限らず、或る一定の高所を持つ学問分野に臨むに当たっては、まずはそれらによって、或る一定の理解の枠、認識の構えを作り上げた上で、本編に臨むというやり方は常道とも言える。

 さて、ところが、ことジョイスの場合、現在、何らかの形で入手可能な新書はたったの2冊しかないのだ。本書、結城英雄『ジョイスを読む』と、かの難解をもってなるジョイスフィネガンズ・ウェイク』の完訳で知られる柳瀬尚紀の『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』の2冊のみなのだ*[4]

 無論、新書という縛りをなくせば、他にも素晴らしい解説になり得ている入門書は存在するであろう。しかし、現在は、この2冊しかないのは紛うことない事実なのである。

 さて、この2著の特徴を言うと、前「日本ジェイムズ・ジョイス協会」会長の手になる前者は、比較的客観的な記述に終始している。目次を紐解けば明らかではあるが、第一章 ジョイスの生涯、第二章 作品解説、第三章 ジョイスの文学的評価、となっており、恐らく、ジョイスを読もうと思い、事前に事典などで調べた場合の記述をそのまま詳細にしたようなスタンスで書かれている。とても簡にして要を得ていると言ってよいだろう。その意味では現段階では、日本語で書かれた唯一のジョイス入門書なのだが……。

これは皮肉を言っている訳ではなくて、この種の客観的な解説は当然初学者には必要だと思われる。おそらくそれは、あるいは、結城自身の思惑ではなくて、書店の側、つまり集英社側の出版戦略の中のひとつとして、刊行されたのかも知れない*[5]。新書の中でのこのような客観的な知識を提供する入門書という位置づけでは決して非難されるいわれは欠片ほども存在しない。そもそも結城自身の独自の方法論、研究は、『『ユリシーズ』の謎を歩く』(1999年)という著書があるぐらいだ。

 ただ、問題は、ジョイスの作品を、例えば問題となる『ユリシーズ』を読もうとした読者に、あるいは読もうとしたが残念ながら挫折した読者に、ジョイスの、あるいは『ユリシーズ』の面白さが伝わるかと言うと、それはいささか話は別である。つまり、本書を読んで、ジョイスについての知識は頭に入るであろうが、果たして、これは凄い、これは面白いのではないか、と思う読者がいるだろうか。

 また、本書は「二十世紀最大の言葉の魔術師」と副題されているが、どこがどういう風に「言葉の魔術師」なのか、いやそもそも、「言葉の魔術師」とはいかなる事態なのかの説明はない。

 いや、もっと言えば、本タイトルの「ジョイスを読む」ということですら、いささか問題で、「読む」とは一体どういうことなのか、その上で「ジョイスを読む」とは何を意味して、何を意味していないのか、という究極の問題がここには現れていない。

どうでもいいことだが、第三章の「ジョイスの文学的評価」の第(二)節において「猥褻裁判」のことが取り上げられるが、伝記的な側面では確かに重要ではあったかもしれないが、「文学的評価」という意味での「言葉の魔術(師)」という意味においては、それは些末な問題ではなかったろうか。

 つまり、こういうことか。入門書と軽々に言うけれども、我々日本人は、この新書というメディアを通じて、入門書ではあるけれども、単に入門書を超え出た作品を知っている。なんらかの研究書なり、入門書なり、評論なりが、その対象とする作品を単に擦(なぞ)るのではなくて、何らかの方法で拮抗する、場合によっては対抗するものを内在的に持たねば、作品としての入門書は成立しえない。

 もし、それが困難であるというのであれば、その対象とする作品、あるいは人物、事態の全部でなくてもよいので、特定の箇所を徹底的に読み砕くということで回避できる気がする。

 例えば、今問題にしている『ユリシーズ』。全部を扱わなくても、全部で18存在する挿話の一つを、あるいは論点の一つを徹底的に解読すればよいのではないだろうか*[6]

 以上のような観点に立てば、先に挙げた柳瀬尚紀の『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』は、――詳細は別稿を立てて論ずることとするが、いささか看板に偽りありで、「語り手」は「犬」であるとした、第12挿話「キュクロプス」についての詳細な読解にほぼ終始している。だから、題名は『ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』第12挿話の謎を解く』が妥当ではあるが、それが長いのであれば、帯のキャッチコピーのままに「吾輩は犬である」でどうだったか。

 題名の問題は一旦措くとしても、内容的には、これはこれで潔い。語り手が犬であるとの主張を論証するには新書200ペイジ分ぐらいは確かに必要であったかも知れない。

 むしろ、この方が、ジョイスだから、と言うことかも知れないが、ジョイスそのものの面白さ(ジ)、(ョ)愉しさ(イ)が、初読者にも伝わろうというものである。

 要は、ジョイスを読むのに莫大な知識は必要としない*[7]。そうではなくて、柳瀬がそうであったように、ジョイスのテキストを面白がる姿勢こそ肝要だったのではなかろうか。

 

📓ノート

  • 結婚という制度への反感 p.34-35
  • 支配・被支配 99
  • 信仰を捨てられないスティーヴン 100
  • 歴史 大きな物語(?) 119
  • 「英文学」の始まりは19世紀インド 植民地支配 英語教育の必要 139 cf.三浦雅士「小説という植民地」
  • ヴィーコ歴史観 ジョルダーノ・ブルーノの二元論 162

 

【主要参考文献】

 

JoyceJames . (2003/07/01アップロード). Ulysses. 参照先: 『Project Gutenberg(プロジェクト・グーテンベルク)』.

ジョイス ジェイムズ, 丸谷(訳)才一, 永川(訳)玲二, 高松(訳)雄一. (1922年/1996年-97年). 『ユリシーズ』. 集英社.

ジョイスジェイムズ, 柳瀬(訳)尚紀. (1939年/1991年-1993年). 『フィネガンズ・ウェイク』(和訳全2巻). 河出書房新社.

伊藤(編)整. (1969年). 『20世紀英米文学案内9 ジョイス』. 研究社出版.

桶谷秀昭. (1964年/1994年). 『ジェイムズ・ジョイス』. 紀伊国屋新書/精選復刻紀伊國屋新書.

結城英雄. (1999年). 『『ユリシーズ』の謎を歩く』. 集英社.

結城英雄. (2004年). 『ジョイスを読む――二十世紀最大の言葉の魔術師』 . 集英社新書.

柳瀬尚紀. (1996年). 『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』. 岩波新書岩波書店).

 

 

 

4808字(13枚)

 

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*[1] ①金井嘉彦・吉川 信・横内一雄 編『ジョイスの挑戦──『ユリシーズ』に嵌る方法』2022年・JJJS(Japanese James Joyce Studies)・言叢社。②下楠昌哉須川いずみ・田村章 編『百年目の『ユリシーズ』』2022年・松籟社

*[2] ① 「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」全22回開催・2022年2月2日から12月16日までon lineにて実施・発起人:田多良俊樹、河原真也、桃尾美佳、小野瀬宗一郎、南谷奉良、小林広直、田中恵理、平繁佳織、永嶋友、今関裕太、宮原駿、湯田かよこ、新井智也。②「2022年の『ユリシーズ』―スティーヴンズの読書会」全18回(?)開催・2019年6月16日から・現在はon lineにて実施・主催者: 南谷奉良・小林広直・平繁佳織。

*[3] 「日本ジェイムズ・ジョイス協会第 34 回大会」・2022年6月12日(日)・大妻女子大学(仮・東京都千代田区)。

*[4] 絶版ではあるが、古書店で入手できるものに、①桶谷秀昭ジェイムズ・ジョイス』1964年・紀伊国屋新書/1994年・精選復刻紀伊國屋新書、がある。こちらは筆者自身の関心が色濃く出ていてジョイスにとってのナショナリズムの問題を中心に論じている。また、新書ではないが、これまた絶版ではあるけれども、古書肆で容易に入手できるものに、②伊藤整編『20世紀英米文学案内9 ジョイス』1969年・研究社出版、がある。簡単な伝記と作品解説、及び評価という三部構成からなっているが、伊藤整、安藤一郎、丸谷才一柳瀬尚紀、他といった錚々たるメンバーが寄稿していて、尚且つ、巻末の、太田三郎による「年表・書誌」が古いとは言え、大変充実している。また月報(付録)に寄稿されている磯田光一の「ジョイス受容史点描」も特筆に値する。①②の両者とも絶版のままにしておくのは大変残念なことである。

*[5] ①1996-97年に、丸谷才一・永川玲二・高松雄一共訳 『ユリシーズ』全3巻、②1999年に、高松雄一訳『ダブリンの市民』、③2004年に、宮田恭子訳『抄訳 フィネガンズ・ウェイク』、④2009年に、丸谷才一訳『若い藝術家の肖像』といったジョイスの全ての小説作品がいずれも集英社から刊行されている。そして、③を除く①~④までの訳文の校訂、訳注の作成などに助力をした結城英雄による⑤ 『「ユリシーズ」の謎を歩く』も1999年に集英社から刊行されている。①~⑤の単行本はいずれも和田誠による統一の装丁でデザインされている。その一環として、本書『ジョイスを読む』が存在する。

*[6] 素人がトライするとするとこうなるだろうか。具体的には次の通り。① 註も(できるだけ)読まずに、まず通読する。もちろん気になるところはチェックを入れる。② 訳者解説を参考に粗筋を頭に入れる。③ 訳註を参考に疑問に思ったところを読み返す。ネットで調べる。場合によっては原文や他の翻訳もチェックする。④ 自分なりにポイントになりそうな論点をノートなどにメモをする。⑤ 時間の余裕があれば④を短文にまとめておく。というようなやり方を各挿話ごとに繰り返していくと、多少なりとも、作品の持つ内在的な意味やおもしょろさが理解できるようになりであろうか。

*[7] 文学の翻訳書の訳註をどうするかというのはなかなか難しい問題である。ジョイス集英社から出ているシリーズは詳細な訳註が売り物だ。実際、素人には調べようがない、つまり、そもそも気づきようがないものもあり、確かに重宝する。だが、逆に柳瀬尚紀は訳書の本体には一切註を付けない。恐らく、読書の流れが阻害されることを恐れているのかもしれない。文学書なのだから、まずは自力で分かる範囲で良いから、読んでみようということか。その代わり、柳瀬は『フィネガンズ・ウェイク』には『』、『ユリシーズ』には『』と『』という解説書を残している。まず、通読した後に、解説を読みたい者は読め、ということか。ロシア文学で言えば、亀山郁夫が同じ態度である。本文には訳註を入れない。その代わり、巻末に詳細な解説を収録するか、場合によっては、別冊で解説書のみを刊行している。どちらが正しいかどうかという問題ではないが、個人的な意見としては註や解説は本文を通読したのち、自分なりの目算、予想を立てた後に眼を通すのがよいのではないかと思う。

 

『罪と罰』試論のための予備的考察〈2〉

罪と罰』試論のための予備的考察〈2〉

 

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鳥の事務所

 

【はじめに】

①本稿は2022年1月13日に本サイト『鳥――批評と創造の試み』に更新した「『罪と罰』のための覚書」(鳥 批評と創造の試み: ドストエフスキーを読む (torinojimusho.blogspot.com))の続稿に当たる。今回タイトルを「『罪と罰』試論のための予備的考察」と改めた。そして、まだ途中である。続きが書かれることを本人も望んでいる。

ドストエフスキー罪と罰』からの引用は原則として亀山郁夫訳(2008年-2009年・光文社古典新訳文庫)による。

 

目次

『罪と罰』試論のための予備的考察〈2〉. 1

10 余談から始まる.. 2

11 スヴィドリガイロフの大霊界... 4

11 スヴィドリガイロフの変態的美への慾望... 9

12 影としてのスヴィドリガイロフ.. 11

13 分裂という主題... 12

14 「悪魔の子」. 15

【主要参考文献・資料など】. 18

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10 余談から始まる

 

罪と罰』を手に取るのは、実は三回目である。何と三読目にして初めて面白い、それも途轍もなく面白いと思えた。一体何を読んでいたのであろう、以前は。 ……と言っても前回は30年ぐらい前の話ではあるが。

罪と罰』については、大分、小出しに書いていて、いい加減きちんとまとめなければ、とは思っているが、なかなかその気にならないのはどうしたものか。

 ところで、同作に登場する、敵役に当たるスヴィドリガイロフは極めて「ユニークな」人物である。映画にしたらジャック・ニコルソンだとちょっと崩し過ぎか(失礼(´;ω;`))。あるいはアンソニー・ホプキンズか。――駄目だ。最近映画を全く見ていないので俳優の名前がまるで浮かばない(´;ω;`)。いずれにしても脇役にも関わらずアカデミー主演男優賞を取ってしまうぐらい、主役が霞む存在感を持つ人物だ。

 ちなみに、今、というか毎年のことなのかも知れないが、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が評判のようだが、ドストエフスキーの作品もこれと似ていて、主役級の登場人物がこれでもか、これでもか、と、くどいぐらいに登場してきて入り乱れ、いささかなんだか訳が分からない感じになってしまうのは玉に傷と言うべきか。言うべきなんでしょうね。

 もしも、『罪と罰』を日本に設定を移して、大河ドラマ張りの予算で撮ったらどうなるだろうか。ラスコーリニコフ松山ケンイチで、スヴィドリガイロフは吉田鋼太郎でどうだろうか。ラスコーリニコフの気の強い妹・ドゥーニャは杏。マルメラードフは西田敏行

ソーニャが難しい。割とガリガリに痩せていて、幸薄い感じが要求される。――年齢的に問題がなければ木村多江か。全く思い浮かばない( ノД`)。

 ラスコーリニコフを追い詰める予審判事ポルフィーリーは野村萬斎役所広司。殺害される老婆アリョーナは岸田今日子と言いたいところだが、もう鬼籍に入られている。では吉行和子か。老婆アリョーナと共に殺害される義妹リザヴェータはソーニャとのダブルキャストで。本当は老婆アリョーナも同じ役者が望ましいが、それだと余りにも意図が見えすいているのその程度にとどめる。警察署の書記官ザメートフは劇団ひとり。親友ラズミーヒンは稲垣吾郎。とか考えてると切りがない。

 

11 スヴィドリガイロフの大霊界

 

 いやいや、そういうことが言いたかった訳ではない。スヴィドリガイロフはどこまで真剣なのか、巫山戯(ふざけ)ているのか判然としないが、幽霊と遭遇した話や霊界についての話を実(まこと)しやかに滔々(とうとう)と話す。

  彼が遭遇したという幽霊は、彼自身が殺害したと噂される妻マルファと使用人のフィーリカで、あたかも生前と同じような言動で、つまり幽霊らしからぬ素振りで出現する。それはまるで、彼にとっては生の世界と死の世界の区別がないかのようである。

 そもそもスヴィドリガイロフの存在そのものが、物語の現時点で果たして「実在」していたのか、あるいはすべてラスコーリニコフの妄想なのか、あるいは「夢」(白昼夢)*[1]の中に現れた幻像なのか、読者の方が、いささか判断に迷う程である。無論、物語の世界には確かに彼は実在するのだろう(とか言って、まだ半分以上疑っている、わたしは)。しかし、そうであるのも関わらず、なんだか怪しい気がしてくるのだ。

 つまり、第6部・第6章でスヴィドリガイロフが安宿に泊まり、その翌朝自殺する。丁度同じころ、二日間ほど、ラスコーリニコフは何故か意識を喪っている。これまたドストエフスキー一流の御都合主義とも言えなくもない。何しろ、ラスコーリニコフが長時間に渡って意識を喪うのは2回目なのである。彼は事件の翌日警察署で意識を喪って倒れて、都合4日間に渡って昏(ねむ)り続ける。 1回目の昏りは別としても、2回目のときには、スヴィドリガイロフはあたかもラスコーリニコフと交代でもするかのように、その全存在を露わにするのだ。

いずれにしても、この問題については別途詳細に検討する必要があると思える。

 さて、問題はスヴィドリガイロフ独特の、霊界、と言ったらいいのか異世界というべきなのか、それに関する考え方、というよりも感受の仕方である。幽霊など存在しないと強弁するラスコーリニコフに対して、スヴィドリガイロフは冷笑的に次のように反論する。

 

『幽霊というのは、いわばほかの世界の切れっぱしであり、断片であり、それらの始まりである。健康人には、むろん、そんなもの見えるわけもない。なにしろ健康人というのは、もっとも地上的な人間だから、もっぱらこの地上での生活を生きなくちゃならない、その充実のため、秩序のためにです。ところがちょっとでも病気になり、オルガニズムのなかの正常な地上的な秩序がちょっとでも壊れると、たちまちほかの世界の可能性が出現しはじめる。病気がひどくなればなるほど、ほかの世界との接触は大きくなる。だから、人間は、完全に死んでしまうと、そっくりそのままほかの世界に移っていく』。(『罪と罰』亀山訳・第2巻・p.233。下線引用者)

 

つまり、彼の世界の中では、この世とあの世であるところの「ほかの世界」が併存しているようである。彼が言うように「幽霊というの」が「ほかの世界の切れっぱし」だとすると、「ほかの世界」に幽霊がいるとも言えるが、その「ほかの世界」の何かがこの世では幽霊のようなものとして感知されるということなのか。いずれにしても、その「ほかの世界」は「オルガニズムのなかの正常な地上的な秩序」、つまり常識的な物の見方に縛られた普通の人々には見ることができないが、それが何らかの理由で崩れてしまった病人にはちらり、ちらりと見える。そして死に至るとそのまま、その「ほかの世界」に行ってしまうということらしい。これが「来世」というものだと彼は結論付ける*[2]

 要するに、彼にとって生と死の閾(しきい)は易々と越えられるもののようである。

あるいはこういう言い方が許されるのであるなら、こうも言える。ラスコーリニコフが倫理的な問題を「踏み越え」ようとして、結局のところ、人間の善悪の問題、倫理の問題に手脚を絡めとられ*[3]、自分でも一体何が問題なのか、一体、何を望んでいるのか判断が付かなくなり、苦悩しているのに対して、スヴィドリガイロフはそれらの問題を易々と「踏み越え」て、或る種、宗教的領域へと超越しているのではないだろうか。この場合の宗教というのは、ドストエフスキーが「表面的に」信じていたと思われるロシア正教キリスト教という枠を越えて、より深い地点にあるそれを示している。恐らくそれは「存在」とでも言うべきものである。その存在の様々な姿への変換、というよりも現れ方、とでも言おうか、それを例えば、生とか死とか言っているのではなかろうか。

「存在」とは文字通り、「世界」の「地」のように、ずっと存在しているのだ。

従って、スヴィドリガイロフは、彼の言動などの見た目はともかく、ラスコーリニコフが衝突した倫理的な問題を、存在論的に否定することによって、より広い地平に我々を招来するのである。

スヴィドリガイロフは最後的にはピストルによって自殺を遂げる。死んで花実の咲くものか、というのは伝統に竿を指した民衆の或る種の智慧の一つではないかとは思うが、全てを見切ってしまったように見える(実際にはそうではないのかも知れないが)スヴィドリガイロフにとってみれば、死への旅立ちも「アメリカ」に高飛びするのと大差なかったのである*[4]

では、もし、その考えが正しいというのであれば、死んでも生きても変わりはない、ということになる。仮に、今、生活が苦しい、生きていることそのものが辛い、というのであれば、みんな自殺すればいいことになる。それでいいなら、俺だって死にたいものだ、全くな。

しかしながら、何故、そうしてはいけないのか。

明確な形で自殺を禁じる言葉は、ドストエフスキーの作品のどこを探しても多分ないだろう*[5]。むしろ、例えば『カラマーゾフの兄弟』の中で、ゾシマ長老が、教会の教えに逆らうことがあっても、自殺者のために祈ってもよいのだとの考えを示しているぐらいだ*[6]。いやいや、そもそもドストエフスキーの作品は自殺者のオン・パレイドと言っても過言ではない。しかしながら、それらはあくまでもマイナスの極限値を示すことで、何らかのプラスを予想、仮想されうるものを小説空間に、読者のこころの底に示そうとしているようにも思える。

従って、ここでもスヴィドリガイロフの「霊界」や自殺(つまり生も死も容易く超えてしまう)も、その観点に立てば、我々の立っている世界が単一の限定されたものではなくて、様々な多様な可能性の絃(いと)の縒(よ)り集まりなのではないか、とも思えてくるのだ。

 

11 スヴィドリガイロフの変態的美への慾望

 

そうそう、話がいささかズレるかも知れないが、スヴィドリガイロフについて言えば、単なる助平親父という範疇を越えて、言ってみれば変態とでも言うべき性向がある。それは単に肉体的な接触による性行為への慾望というよりも、よりもっと精神的な、というのか、あるいは、余りこの言葉は軽々に使いたくないがイデア的というのか、そのような無垢なるもの(少女愛一般、あるいは少女との婚約)、凍り付くまでの至高の、崇高なる美なるもの(ラスコーリニコフの妹・ドゥーニャへの屈折した愛)、あるいは自らが徹底的に虐げられる存在に落とし込まれるあり方(年長の妻・マルファとの関係)、これらの、言ってみれば変態的な美への慾望こそが、先の霊界譚と通底するものではなかったろうか。

これらの変態的な美は、あくまでも精神的な実在であるのだが、それにも関わらず、いや、そうであるが故に、具体的な肉体を持つ人格を通してしかそれらを感受できないものであったろう。

つまり、スヴィドリガイロフがそうであったように、我々は何らかの具体的な「物質」なくして、「精神」的なものに近付けないのではなかろうか。

だからこそ、逆説的な言い方になるが、「この世」に生のある限りにおいてこそ、「あの世」を感得でき、「あの世」との「連絡」もまた可能になるのだ。

 

12 影としてのスヴィドリガイロフ

 

また、更に話がズレる。ドストエフスキーの2作目の作品は『分身』、あるいは『二重人格』である。『ウィキペディアWikipedia)』の解説によれば「原題にあたるロシア語のДвойникはドイツ語由来の外来語ドッペルゲンガーとほぼ同じ意味の言葉」だとされているが、単純な和訳としては、「生き写し」*[7]というのが妥当なところだろうか。

矢張り、『ウィキペディアWikipedia)』の解説に頼れば、「ドッペルゲンガー(独: Doppelgänger)とは、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象である。自分とそっくりの姿をした分身第2の自我、生霊の類。同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現す現象を指すこともある(第三者が目撃するのも含む)。」*[8]とある。元意としては「自分とそっくりの姿をした分身」ということだろうから、本稿で意図することはそれとは違い、「第2の自我」、言うなれば「影」のような存在であると言い得る。

さて、仮にスヴィドリガイロフがラスコーリニコフの、ドッペルゲンガー、あるいはドッペルゲンガー的存在、つまり比喩的な意味でのそれだとすると*[9]、スヴィドリガイロフ的存在、スヴィドリガイロフ的な現(あらわ)れは、第6部、第6章で、この世での役割を果たして、主たる人格をラスコーリニコフに明け渡して、この世から「消滅」したのだと考えられないだろうか。その際、スヴィドリガイロフからラスコーリニコフに託されたものこそ、「死」を通じて、「死」ではなくて、むしろ「この世で生きよ」というメッセージではなかったろうか。

 

13 分裂という主題

 

さて、話を戻すことにしよう。

奇妙なことだが、今回『罪と罰』を読んでみて、様々な点で興味深かったのだが、とりわけ、主人公と目されるラスコーリニコフの「若さ」*[10]からくる(と読める)挙動不審さに心惹かれた、というか撃たれたのだ。要するに、最後の、いわゆる「回心」とされる場面に至ってすらも、「お前ら(世間一般の人達ですね)に何が分かるんだ!」とでも言いたい気分だった気がする、彼がね。

 という訳で、3周か30周遅れぐらいで、やっと「青年」*[11]の気持ちが幾ばくかでもわかるようになったのか。

 で、そういうベクトルで言うと、残念ながら、『罪と罰』に関わる様々な評論や研究書は、大変興味深い、極めて参考になるとは思わせられたが、なんというか、本丸から相当離れた外堀をあちらから、またこちらから埋めていく作業であって、無論、これはこれで重要な作業ではあるが、本丸で呻き苦しんでいる城主であるラスコーリニコフの懐にいきなり飛び込んで切りかかる、といったことは当然ない。それは方法論とフィールドが違うためで致し方がないことだ。

 つまり、今のわたしが求めているのは文学の研究ではなくて、恐らく、いわゆる、弩直球の文芸批評なのかもしれない。

ここで図らずも想起するのが、今は思想家・哲学者として大成してしまった感のある、しかしながら、かつては文芸批評家として出発した柄谷行人のデビュー作「漱石試論――意識と自然」(原題「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」1969年)である*[12]。柄谷はそこで、シェイクスピアの四大悲劇のうちの一篇『ハムレット』(1601年?)についてのT.S.エリオットの評*[13]に言及する形で、そこに或る一つの分裂、分断を見た*[14]。演劇として、あるいは文学作品としての成立の有無はともかく、まさにそこに『ハムレット』という作品の根源的な何か*[15]を見た。同時にそれは夏目漱石の作品についても同様である*[16]、というのが主旨なのだが、それを言ったら、ドストエフスキーの作品についても同様のことが言えるのではないだろうか。いわんや、この『罪と罰』におけるラスコーリニコフの分裂振りと言ったらどうだろう。何しろ彼の名前は「分裂、分離、割割く」を意味する「ラスコローチ」に由来するのだから*[17]。彼はあたかも二人羽織りのように一人の肉体の中に二人の意識が同時存在して、ぶつかり合いながら、場面ごとに、状況に合わせてどちらかの意識が表面/顔面に現れるのだ。まさにその意味で、ラスコーリニコフの裏の顔、夜の顔こそがスヴィドリガイロフに他ならない訳だ。

 

14 「悪魔の子」

 

この場合は一旦人格が二つに分かれてはいる。このことがどういう射程を持っているかと言うことを、いささか極端な形で視点をずらしてみるとすれば、最近の日本の漫画・アニメイションの世界と通底している気がする。

例えばそれは、『鬼滅の刃』の主人公・竈門(かまど)炭(たん)治郎(じろう)の副人格でもある妹・竈門禰(かまどね)豆子(づこ)が人間でありつつ、戦闘時(緊急時?)には鬼と化し、鬼と戦うことや、あるいは『呪術廻戦』の主人公たる虎(いた)杖(どり)悠(ゆう)仁(じ)が特級(とっきゅう)呪物(じゅぶつ)・両面宿儺(りょうめんすくな)に肉体を乗っ取られそうになって、辛うじてコントロールしていることを想起する人もいるであろう。

しかし、他の先行例(『デビルマン』・『寄生獣』など)を挙げてもよいのだが、それらの場合、多くは人間(の善意)の側に立ったうえで行動されていると思われる。つまり何だかんだと言いながら、人間の味方(これを一般的には「正義の味方」と言う)になるのだ。

ところが、それらの中でもいささか特筆に値するのが、『進撃の巨人』の主人公・エレン・イェーガーの行動である(他にもあるやも知れない。わたしの不勉強ぶりをお詫びするしかない)。詳しくは「変身と変貌」の続篇で詳述するが、簡単に触れておくと、パラディ島の内部の戦いを扱った前半部と、マーレ編以降の後半部では、全くエレンの人格は変わってしまっている。顔付も、髪型も、また性格すらも変わってしまった、すなわち、彼は「変貌」したのだ。エレンは今までの仲間を捨てて、イェーガー派と呼ばれるクー・デター組織を密かに作り、遂には、「地ならし」と呼ばれる、壁の巨人を解放することで、パラディ島以外の全人類を滅亡させようとまでする。いままでの主役が一転して、悪役に変ってしまったかのようである。不謹慎な例かも知れぬが、大国に軍事的に侵攻された、防戦一方で、明日にも陥落してしまうだろうと予想されていた小国が、突如として反転攻勢に出て、一斉に他国に向けて、核弾頭付の弾道ミサイルを打ち始めたのと同意である。今までその小国を蔭ながら応援していた読者・視聴者たちは、急転直下、逆に自分たちの拠って立つ場所が攻め滅ぼされそうになるのである。

連続アニメイション版の『進撃の巨人』は2022年3月現在放送中だが、その「the Final Season」 part2 のエンディング・テーマソングはヒグチアイ作詞・作曲・歌唱による「悪魔の子」と題されたものである。テレ‐ヴィジョンでは放送されない最終連を引用する。

 

世界は残酷だ それでも君を愛すよ

なにを犠牲にしても それでも君を守るよ

選んだ人の影 捨てたものの屍

気づいたんだ 自分の中 育つのは悪魔の子

正義の裏 犠牲の中 心には悪魔の子*[18]

 

人間は、誰かを、あるいは何かを守るために、自らの心の中に隠し持っている「悪魔の子」を「正義」という名のもとに引き釣り出さざるを得ないのであろうか。

これらが意味するところは、また別に論ずることとするが、悪魔になり得る人間の姿を、例えば、『罪と罰』では、スヴドリガイロフを、『悪霊』ではスタヴローギンを、そして『カラマーゾフの兄弟』では、あるいは兄・イワンを、そして年少の同志・コーリャ・クラソートキンを、更には未来のアリョーシャをも通してドストエフスキーは描こうとした。

言うなれば、それは、ドストエフスキー自らの心の奥底に「悪魔の子」が潜んでいることに気づいていたが故だと、わたしには思えるのだ。

 

【主要参考文献・資料など】

ウィキペディアWikipedia)』. (2020年10月13日 (火) 08:29更新). 「分身 (ドストエフスキーの小説)」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2021年11月7日 (日) 14:03更新). 「ドッペルゲンガー」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ExtendedWho-ya. (2021). VIVID VICE. SME Records, 東京.

ヴァイツゼッカーフォンヴィクトーア. (?). 『ゲシュタルトクライス―知覚と運動の一元論』 (第 1975 版). (木村敏, 浜中淑彦, 訳)

エリオット・スターンズ,トーマス. (1920). 「ハムレットとその問題」 Hamlet and His Problems. 著: 『聖なる森』 The Sacred Wood.

ゲーテ. (1806-1831). 『ファウスト』. ドイツ.

シェイクスピアウィリアム. (1601?). 『ハムレット』.

ドストエフスキーミハイロヴィチフョードル. (1866年). 『罪と罰』. (亀山郁夫, 訳) 2008年-2009年: 光文社古典新訳文庫.

ドストエフスキーミハイロヴィチフョードル. (1872). 『悪霊』. (亀山郁夫, 訳) サンクトペテルブルグ, ロシア.

ドストエフスキーミハイロヴィッチヒョードル, 亀山郁夫(訳). (1879年-1880年/2006年-2007年). 『カラマーゾフの兄弟』全5巻. 光文社古典新訳文庫.

ドストエフスキーモハイロヴィチフョードル. (1979-1980). 『カラマーゾフの兄弟』. (原卓也, 訳)

ヒグチアイ作詞・作曲・歌唱. (2022年). 「悪魔の子」.

プラトン. (紀元前5世紀~4世紀). 『国家』. (藤澤令夫, 訳) アテナイ, ギリシア.

ブルガーゴフミハイル. (1929-1940). 『巨匠とマルガリータ』. (水野忠夫, 訳)

ワトソンライアル. (1979年). 『生命潮流 - 来るべきものの予感』. (木幡和枝, 訳) 1982年: 工作舎.

永井豪. (1972年-73年). 『デビルマン』全5巻. マガジンKC(講談社).

永井豪. (1976年-78年). 『手天童子』全9巻. マガジンKC(講談社).

永井豪. (1979年-80年). 『凄ノ王』全9巻. マガジンKC(講談社).

加藤典洋. (2006年). 「異質な眠りの感触」. 著: 『村上春樹論集』②. 若草書房.

加藤典洋. (2016). 『世界をわからないものに育てること――文学・思想論集』. 東京: 岩波書店.

夏目漱石. (1914). 『行人』. 東京: 大倉書店.

河合隼雄. (1976年/1987年). 『影の現象学』. 叢書・人間の心理(思索社)/講談社学術文庫.

芥見下々. (2018-). 『呪術廻戦』. 東京: ジャンプ・コミックス(集英社).

外崎春雄・監督. (2019年-22年). 『鬼滅の刃』. アニプレックス集英社ufotable.

監督 荒木哲郎(第1期)肥塚正史(第2期-第3期) 林祐一郎(第4期). (2013年-2022年). 『進撃の巨人』. WIT STUDIO(第1期 - 第3期) MAPPA(第4期).

岩明均. (1990年-95年). 『寄生獣』. アフタヌーンKC講談社).

鬼束ちひろ. (2000). 「月光」. 東芝EMI・Virgin TOKYO, 東京.

亀山郁夫. (2009). 『『罪と罰』ノート』. 東京: 平凡社新書.

吾峠呼世晴. (2016年-20年). 『鬼滅の刃』全23巻. ジャンプ・コミックス(集英社).

江川卓. (1986). 『謎とき『罪と罰』』. 東京: 新潮選書.

江川卓. (1991). 『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』. 東京: 新潮選書(新潮社).

荒井献. (1974). 『イエスとその時代』. 東京: 岩波新書岩波書店).

小林秀雄. (1948). 「『罪と罰』についてⅡ」. 大阪: 「創元」第二輯.

前田護郎編. (1969). 『世界の名著12・聖書』. 東京: 中央公論社.

鳥の事務所. (2022年2月1日更新). 「村上春樹試論Ⅴ――人間の拡張――村上春樹「眠り」考」. 参照先: 『鳥――批評と創造の試み』: https://torinojimusho.blogspot.com/search?q=%E3%81%AD%E3%82%80%E3%82%8A

白井カイウ(原作), 出水ぽすか(作画). (2016年-20年). 『約束のネバーランド』全20巻. ジャンプ・コミックス(集英社).

柄谷行人. (1969年/2017年). 「漱石試論――意識と自然」. 著: 柄谷行人, 『新版 漱石論集成』. 東京: 『群像』1969年6月号(講談社)/岩波現代文庫岩波書店).

柄谷行人, 見田宗介, 大澤真幸. (2019年). 『戦後思想の到達点――柄谷行人。自身を語る 見田宗介、自身を語る』. シリーズ・戦後思想のエッセンス(NHK出版).

朴(パク)性厚(ソンフ). (2020). 『呪術廻戦』. 東京.

木村敏. (1994). 『心の病理を考える』. 東京: 岩波新書岩波書店).

諫山創. (2009年-2021年). 『進撃の巨人』全34巻. マガジンKC(講談社).

 

 

《つづく》

11725字(30枚)

 

🐤

20220330 1336

 

*[1] 本作にとって、あるいはドストエフスキーの全作品を通じて、「夢」そのものも極めて重大なテーマと言わなければならない。こんな註ではなくて別に一節を立てねばならないほどだ。という断り書きの上で、夢と白昼夢について、いささか付記しておきたい。今手許に本の現物がないので以下、うろ覚えで書く。加藤典洋によれば( [加藤, 「異質な眠りの感触」, 2006年])、ライアル・ワトソンが夢の起源を白昼夢に置いているという( [ワトソン, 1979年])。原始人類は、敵から身を隠すために昼間も物陰に身を潜めて行動していた。そのとき脳内に現出させたものが恐らく白昼夢で、こちらが先だったのではないかという議論だ。つまり、本来、覚醒しているときに、目の前の「現実」とは異なる、「非現実」をあたかもそれが「現実」に「存在」しているかのように見てしまう、というところに、人間の存在の不確かさと同時に、その人間世界の拡張性をも示唆していると考えられる。元々、加藤の議論は村上春樹の「ねむり」について論究されたものであった。村上の「ねむり」については、別稿「村上春樹試論Ⅴ――人間の拡張――村上春樹「眠り」考」(2022年)にて論じた。参照を乞う。

*[2] 『罪と罰』亀山訳・第2巻・p.233。下線引用者。

*[3] 厳密に言えば、必ずしもラスコーリニコフは倫理上の問題で苦悩している訳ではない。言うなれば、自分でも正確に把握できない存在上の問題に苦しんでいると考えられる。

*[4] スヴィドリガイロフは「アメリカ」、つまりは「新世界」に行くと言って自殺するのである(『罪と罰』亀山訳・第3巻・p.375)。

*[5] もちろん、作品の中でのキリスト教の教えとしてのそれはあるだろうが。

*[6] [ドストエフスキー 亀山郁夫(訳), 1879年-1880年/2006年-2007年]2・p.464。

*[7] 「Двойник」/webサイト『Yakuru ロシア語オンライン辞書』。

*[8] [『ウィキペディアWikipedia)』, 「ドッペルゲンガー」, 2021年11月7日 (日) 14:03更新]下線・傍点引用者。

*[9] と、簡単に書いてしまったが、この「ドッペルゲンガー」問題は根が深いとわたしは思う。要は、河合隼雄が『影の現象学』(1976年)で論じたような、「主たる人格」を補償する「第二の人格」、つまり「影の人格」の重要性をドストエフスキーは本能的に気付いていたと思われる。機会があれば、別稿を立てて論ずることとする。

*[10] 本当のところは「若さ」とか、という年齢的なことは関係ない。人間の本質に根差したものが若い時ほど露出し易いということかと思う。

*[11] 註の1と同じで「青年」云々は、本当は関係ない。

*[12] 先に述べた点を踏まえれば、「意識」のレヴェルが「倫理的な問題」で、「自然」のレヴェルが「存在的な問題」と敷衍することが可能かと思う( [柄谷, 見田, 大澤, 『戦後思想の到達点――柄谷行人。自身を語る 見田宗介、自身を語る』, 2019年]p.p.29-34参照)。

*[13] [エリオット, 1920].

*[14] 正確には「T・S・エリオットが『ハムレット』を論じて、この劇には「客観的相関物」が欠けているため失敗していると指摘したことである。」( [柄谷, 「漱石試論――意識と自然」, 1969年/2017年]p.p.2-3)

*[15] 「可能性の中心」と言いたいところだが、柄谷行人の看板とも言えるこのキャッチフレイズ的術語は誤解を招くはずだ。柄谷が言おうとしている「可能性の中心」は「中心」にはないからだ。「可能性の中心」ならぬ「可能性の偏在」であり、「可能性の埋蔵」であり、あるいは「可能性の隠蔽」かも知れぬ。また、「可能性」という言葉にもいささか疑問がある。詳細は別稿にて論じる予定である。

*[16] 柄谷は「意識と自然」の冒頭で次のように述べている。「漱石の長篇小説、 とくに『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを読むと、なにか小説の主題が二重に分裂しており、 はなはだしいばあいには、 それらが別個に無関係に展開されている、といった感を禁じえない。たとえば、『門』の宗助の参禅は彼の罪感情とは無縁であり、『行人』は「Hからの手紙」 の部分と明らかに断絶している。 また『こゝろ』の先生の自殺も罪の意識と結びつけるには不充分な唐突ななにかがある。われわれはこれをどう解すべきなのだろうか。まずここからはじめよう。」( [柄谷, 「漱石試論――意識と自然」, 1969年/2017年]p.2)

*[17] [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.p.39-40.

*[18] [ヒグチアイ作詞・作曲・歌唱, 2022年]下線引用者。

バーソロミュー・ギル『ジェイムズ・ジョイス殺人事件』、お買い上げ有難う御座いました! 

🐤鳥の事務所PASSAGE店通信🐤

バーソロミュー・ギル『ジェイムズ・ジョイス殺人事件』、お買い上げ有難う御座いました! 

 

皆さん、今日は。「鳥の事務所」です。ついに3冊目お買い上げ頂きました。誠に有難う御座いました。

お買い上げ頂いたのは、なんとびっくり、ジョイスの作品ではなくて、参考作品となります、バーソロミュー・ギル『ジェイムズ・ジョイス殺人事件』(岡真知子訳・角川文庫)でした。

かのウンベルト・エーコ薔薇の名前』、ダン・ブラウンダ・ヴィンチ・コード』も何のその、ジョイスユリシーズ』を題材とした文芸ミステリー。殺されたのはジョイス本人ではなくて、ジョイス学者。『ユリシーズ』の読解がヒントになります。舞台はもちろんダブリン。サスペンス・ドラマ並みに観光名所案内も。文学的にはどうかは皆さんのご判断に任せます。

作者のバーソロミュー・ギル(Bartholomew Gill,1943-)さんはアイルランドアメリカ在住の小説家。マサチューセッツ州生まれ。ブラウン大学を卒業後、ダブリンのトリニティ・カレッジで文学修士号を取得。現在は家族と共にニュージャージー州に住み、執筆活動を続けているとのこと。アイルランドを舞台にしたピーター・マッガー・シリーズが好評を博し、現在までに10作品を発表しているようです。本書『ジェイムズ・ジョイス殺人事件』はシリーズ第8作目に当たり、エドガー賞候補となりました。

補充分は以下の通りです。近々に棚に入る予定です。

①既に売れてしまった、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』丸谷・永川・高松訳・集英社の単行本の方の第Ⅰ巻。

②こちらは追加分。ジェイムズ・ジョイス『さまよえる人たち』近藤耕人訳・ 1991年・彩流社……姦通と嫉妬、 同性愛、 サド= マゾの四角関係、愛と自由の背反などのテーマを、アイルランドとイギリスの確執や第一次大戦前夜のヨーロッパの時代状況を背景に描かれたジョイス唯一の戯曲にして、イプセン劇につづくケルトの近代劇と言われるものです。

 

 

 

 

 

 

PASSAGE by ALL REVIEWS

https://passage.allreviews.jp/

東京都千代田区神田神保町1-15-3

サンサイド神保町ビル1F

 

当面の特集は

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」で、ジョイス関係の本になります。

皆さま、どうか宜しくお願いいたします。

🐦

20220329 1908

ジョイス『若い芸術家の肖像』、お買い上げ有難う御座いました!

🐤鳥の事務所PASSAGE店通信🐤

ジョイス『若い芸術家の肖像』、お買い上げ有難う御座いました! 

 

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皆さん、今日は。「鳥の事務所」です。ついに2冊目お買い上げ頂きました。誠に有難う御座いました。

お買い上げ頂いたのは、ジェイムズ・ジョイス、最初の長篇小説『若い芸術家の肖像』(丸谷才一訳・新潮文庫版)でした。ジョイス学者でもある、小説家・丸谷才一さんが生涯かけて翻訳を続けた作品です。引き続き宜しくお願い致します。

 

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サンサイド神保町ビル1F

 

当面の特集は

ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』100年!」で、ジョイス関係の本になります。

どうか宜しくお願いいたします。

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20220326 2034

卯王伝 1

亜大陸大戦記 Ⅰ

 

卯王伝

鞍作(くらつくりの)鳥(とり)

 

何時もながら未完成で、恐縮です。もう書く気を亡くしたので(今のところ)、一旦置きます。廃棄しようと思ったのですが、戦争を余儀なくされた小国が、相手兵を殺さず、石化するか、捕虜にするしか方法がないというのをゲイム的な世界ではありますが、どうすれば可能なのかを考えたものです。普通だと自滅するしかなく、それにも関わらず、何とかしたいのですが、今のところ何も思いつきません。とにかく「殺さない」ということのリアリティを如何に担保するかということが言いたいのですが。

 

 

 

 

卯宮第一書記官記す

 

卯王はその朝、かつてないほど激怒したという。牧草月の伍・参日(草の日)*[1]のことである。激昂といっても過言ではなかった。卯王は後ろ肢を一度踏み鳴らして、文字通り地団太を踏んだ。その音は卯宮の回廊という回廊、宮室という宮室、そして宮廷の中庭に拡がる鬱蒼とした燕麦の森の中にすら鳴り響いたという。卯王の踏み鳴らした肢音は、遠方からはあたかも一発の渇いた銃声のようにも聞こえたとも言う。それは牧草月の乾ききった透明な空に、何やら不吉なことの起こる狼煙のようにも聞こえたのだ。

卯王は厳密にいえば、女王なのだが、卯帝國の慣例に従ってそう呼ばれているが、更に厳密にいえば、男女あるいはそのそれらの混合種も含めて性別の如何に関わることなく、「卯帝國の主権君主は「卯王」と称する」と『卯帝國王室典範』第1条第1項に記されている。更に追加して申し述べれば、卯国の正式名称は卯帝國ではあるが、その国家元首は帝王でも皇帝でもなく、代々「卯王」と称することが伝統となって久しい。

何故ジャ、何故コノヨウナコトニ相成ッタノカ、陸軍大臣申シテミヨ。

と、御前会議の面々にはそう脳中に聞こえたという。実際には卯王は無言であった。強いていうなら物理的には「ぐっ」という奥歯を噛み締める音だけが耳にされたのだと思う。卯王が言葉を発することを止め、何某かの超音波なのか、念波なのかは分らぬが、面前のものや、あるいは遠隔の地にいるものどもの脳内へと意思を伝えるようになり、早2ヶ月ともなっていた。

 これには理由があった。丁度2月(ふたつき)程前のことであるが、突如、卯王は両の眼とその長い両の耳だけを残して、白銀の鋼鉄の仮面、と言ってよいのか分らぬが、それで首から上を覆うようになった。われわれ臣下のものは卯王を見上げる形になるので、卯王の玉顔は鋼鉄の逆円錐台のように見えて、見る者に恐怖を与えた。しかしながら、よくよくその内実を識るものによると、その尊顔はやはり目と耳を除いて白い包帯で何重にも包まれていたという。

 後年の調査によれば、丁度、その一週間前のこと、卯王の顔面、左目の下あたりに謎の二つの巨大な目玉のような瘤、肉腫のようなものができたという。これを見たものはお付きのもの数名と3名の侍医に限られていた。それらは目玉のように見える、と言うよりも、まさに目玉ではないかと思われた。なんとなれば、それらは第三者がそれらを見ておらぬ時には、確かに瞼を開いて、あちらこちらと探りを入れておるようなのだ。無論、その視覚は卯王には伝わらず、何者かの眼球が何らかの手段によって飛び地のような状態になっているのか。つまり、どこか遠隔の地において、この肉腫のような眼球を通じて、密かに卯宮の様子を探ろうと言うのか。当然のことながら、これは単なる推測、と言うよりも考え過ぎ、単なる勘違いなのかも知れない。ただ単に腫物の形が腫れぼったい目に見えるというだけに過ぎぬ。いずれにしても醜悪なることこの上ないし、発熱と痛みを覚えた。

 確かにその数か月前に卯王は頻りに奥歯が痛むといい、一時的に食が細くなったことがあった。そこに原因があったのか、それとも何某かの呪いに依るものなのか、あるいは、畏れ多くも前世の報いなのか、今となっては詳細は定かではない。ことがことだけにこのことを知るものは、長年の間、口を閉ざしていたのだ。

 王とは言え、卯帝國随一の美貌、と言っても決して華麗な美しさではなく、清潔と言えばよいのか、清らかな、周りに誇示しない美しさを誇ると言われる卯王がこのことを痛切に悲しんだであろうことは言うまでもない。その時から卯王は口を閉ざし始めた。一説によれば、顔面の醜い瘤よりも何よりも、奥歯が痛み、口を上下させるだけで、その振動で強烈な痛みを覚えたという。従って、細々と液体状にした野菜の欠片を口にするのに留めた。そして、遂には水しか口にすることができなくなった。

 そうだ、その頃から、卯王は思考転写を使い始めたのだ。

痛イ、痛ムゾ。

侍従頭の織音(おりおん)と侍従の案(あん)垂(たれ)洲(す)の2人は、その長い両の耳ではなく、不意に脳の中に声が聞えたので、思わず顔を見合わせたが、すぐさま、その声が紛(まご)うことなく、若年の頃から聞きなれた卯王の声音であることが分かった。二人は突如発現した卯王の異能力については特に問題にはしなかった。何しろ、卯帝國に君臨する卯家の末裔にしてその当主として王の座に就いているのだ。危機に際して、そのような異能を発揮することに何の不可思議があろうか。

いささか中年の域に達している織音はこころに痛みを覚えながらも、昨日も伝えたはずの、侍医の診断を再度繰り返した。昨日も申し上げましたが、と断りを入れた上で、次のように慎重に述べた。

「陛下、お痛みで御座いますか。畏れながら御奥歯と御尊顔のものは繋がっているようで御座います。御顔の痛みも御口の奥と関連が御座います。単に御顔の腫物のみをどうこうすることはできないとのことです。」

 そこに、毛皮の古びた臭いと薬品の臭気が混ざった空気がどこからともなく臭ってきた。気配を察知してなのか、偶々用があったのか、侍医の布令屋阿(ぷれやあ)出(で)洲(す)が恐る恐るにじり寄って、侍従の織音に目配せをして発言を求めた。織音は頷いて、許すという意思を伝えた。年の頃なら既にして7*[2]は過ぎていると思われるその年老いた宮廷医師は嗄(しわが)れた声音で、囁くように述べた。

「陛下、畏れ多くも申し上げます。現下の帝國の戦況を鑑みるに、今陛下が病に臥せられるのは極めて危険なことと存じます。今施術をすれば、早期に快癒されることと存じます」

「真(まこと)か?」とまだ若い案(あん)垂(たれ)洲(す)は疑わし気に強く言った。

「真で御座います。畏れ多くも御尊顔の両の腫物の表皮を切り開き、中の不浄のものを吸い出し、消毒するとともに浄化いたします。」消毒と浄化は違うのかと案(あん)垂(たれ)洲(す)は疑問に思ったが、一旦ここでは口出しするのを避けようと思った。「恐らく十日もあれば施術の跡は一旦落ち着くはずで御座います。残念では御座いますが、施術の跡は幾ばくかの穴が開いてしまいますが、それらもやがては塞がるはずで御座います」

穴が開く、という言葉で、この二人を知らぬものには親子かと思われるほどそっくりな二人の侍従は眼を顰めて、顔を見合わせた。

その間、卯王は玉座にあって謐か眼を閉じて、あたかも眠っているかのようでもあった。3段ほど上にある玉座以外何もない空漠たる拡がりを持つ王の間に一瞬沈黙が降りた。少しだけ開かれた、南に面した巨大な窓からは鈴懸(すずかけ)鳥(どり)や山(やま)湿地(しめじ)といった小鳥たちが鳴き交わしている。彼らは夕刻になると定期的に集会を開いて本日の収穫や新たな獲物の得られる場所等の情報を交換するのだが、まだ時間が早いらしい。今はまだ数羽の鳥たちのみが烏麦の枝に止まり、世間話に事欠かないようだ。

 卯王は俄(にわ)かに眼を開くと、思考転写で皆の脳内に話しかけた。

参謀長ヲ呼ベ。知碓(しりうす)ヲ呼ベ。

 卯王の命に従い、卯帝國陸軍随一の智謀を誇ると言われる陸軍参謀長の知碓が召された。卯帝國陸軍幼年学校を主席で卒業した弱冠2歳の俊英である。本来であれば、上級官である陸軍大臣である明鳴(あけるなる)が呼ばれるべきである。これは組織の命令系統の逸脱ともなり、侍従の織音も、また当の明鳴もかようなことを嫌う。だが、そもそも卯王はその当の明鳴の無能振りというか、全く何も考えない能天気振りを心底嫌っていたのだ。このことは、また、やはり当の明鳴を除いて、卯宮で、子どもですら知らぬものはない。いや、ことによっては赤子ですら、そのことを知っていると揶揄されていた。逆に言えば、気の毒なのは明鳴本人ではあるが、何しろ、その鈍感故、全く気が付かないのだから、よくもまあ、軍の最高司令官にまでなれたものである、と皆は噂した。

 しかしながら、これには歴(れっき)とした理由がある。卯帝國は今般の阿大陸大戦が開戦されるまで、そもそも卯帝國憲法の条項、第弐条「戦争の禁止」にもよるが、歴史的記録に残る限り、開国以来対外戦争を行ってこなかった。つまり、戦争をするという選択肢を端から想像だにしていなかったのだ。だから軍隊を持っていなかった。

 しかし近代化に伴い、阿大陸が、イ国、目公国、などの列強による軍事的侵略が進むにつれて、卯帝國でもその事態を安閑と構えている訳にはいかなくなったのだ。已む無く、五代先の卯王は陸軍の形ばかりは整えて、警察官僚の長であった、明鳴家の先祖にその任お押し付けた。従って、陸軍大臣とは言え、つい、先ごろまでは形式的な名誉職であり、ほぼ世襲に近いものとなっていた。したがって、明鳴に軍事的な責務を、あるいはそもそも大臣として資質を問うのは流石に酷と言うべきであろう。

 であるなら、その職務を解けばよいのではないかと思われるやも知れぬが、ことほど左様に簡単にはいかない。なんとなれば、卯国のものは、どんなことがあっても、自身で辞任しない限り、途中でその職務を解かれることを無上の恥と考えるのだ。恐らくそんなことをすれば、理由の如何を問わず、明鳴家の一族・郎党は全員纏めて憤死することは水を見るよりも明らかであった。そのようなことを、かの情に篤い卯王が許すはずがなかった。

 したがって、戦争の遂行上、参謀長に指示を与えようとするのは卯王としてもぎりぎりの臨界線であった。

「現下の戦況を述べよ」

卯王の敢えての言葉を待つまでもなく王の知りたいことは当然のこととして理解していた侍従頭の織音は、若き英才に尋ねた。

 参謀長知碓は、時候の挨拶など宮廷的な仕来りを一切無視して、跪いたまま、卯軍の置かれている現在の状況を報告し始めた。

「結論的には劣勢で御座います」

「頭を上げよ」と織音が言うか、言わぬかと同時に、そんなことは言われるまでもないとばかりに、顔と上体を上げて滔々と流れる水の如く話し続ける。

「と、申しますのも、恐れながら、帝國の御方針であります、戦争継続、殺生禁止という相矛盾する課題を我が軍の祈禱師あるいは占星術師のものどもは自らの身命を尽くして迄、果敢に打開しようと相努めて参りました。しかしながら、如何せん、他国の強大な兵員と武力の前には、時間的に、あくまでも時間的に間に合わず、一網打尽に撃破されてしまう有様で御座います」

「泣き言を申すのか!」他のものよりも卯王の気持ちを案じている侍従の案(あん)垂(たれ)洲(す)は声を荒らげた。

しかし、若き参謀長は、さも何事もなかったように、イ軍と目軍と、我が卯軍の兵力、武力の数値化したもの説明し、その後、付け足すかのように、戦死者の膨大な数を報告した。

遠くで風の通り過ぎる音が聞えた。

 そのとき卯王は先日《夢》の中で面会した占星術師の諏秘(すぴ)霞(か)のことを思うともなく思い出していた。無論、宮廷には専属の占星術師たちは何百といる。それぞれ農業や、天候、軍事といった具合に専門に分かれて星の運行を占って、日々、それぞれの省庁へとお告げをしている。

しかし占星術師の諏秘(すぴ)霞(か)は宮廷にはいない。時に応じて卯王の、あるいは諏秘(すぴ)霞(か)自身が必要だと考えたものの《夢》の中に勝手に訪れるのだ。一旦ここでは《夢》としておくが、果たしてそれが、いわゆる「夢」と言われるものなのかどうかも判然としない。もし、それが本当に「夢」であるとすれば、諏秘(すぴ)霞(か)は実在しないことになるが、卯宮の、少なくとも王族でその占星術師のことを知らぬものはいない。何人かのものは確かに遭ったと言っている。だが、しかし、それは単なる王宮にだけ伝わる単なる伝説ではないのか。諏秘(すぴ)霞(か)――。諏秘(すぴ)霞(か)とは一体何者なのか。そもそも、性別が分からない。年齢も定かではない。だが、卯王は卯帝國に於ける占星術師の王として、諏秘(すぴ)霞(か)のことを他の誰よりも尊崇していた。これには、無論理由があるのだが、後に述べることとする。

夢の中に現れるのだから、当然の如く、いつも前触れなく現れるのを常とするが、その日、急に左眼の下に鈍い痛みのような重みを感じたとき、これは何らかのお告げか何かかと卯王は思った。きっと近いうちに、例の占星術師の王が現れるに違いないと密かに思った。すると、その晩の明け方、思った通りそのものは現れた。

卯王は、恐らく卯宮の地下にあると思われる、通路を一人で歩いていた。以前、ここを訪れたことがあるはずだ。子どもの頃の記憶なのか、それとも単に《夢》で訪れただけなのか。枯草なのか藁なのか、ひんやりと湿った空気が満たされた、それらが覆っている通路がうねうねと続いている。同じような径が幾つも分岐して、さらに奥の方まで続いているようだ。かさり、かさりという枯草を踏む音だけが辺りを満たす。光が全く無いはずなのだが、卯王には辺りの様子を見ることが何故かできる。それをおかしいとも思わない。途中、途中に幾つもの扉があるようであるが、鍵が掛かっているのかどうかも分からぬが、開けることはせず通り過ぎる。

林檎が一つ落ちていた。普段そんなことはしないはずなのに何故か拾って食べる。美味い。心なしか体力が回復してくるような気がする。歩き続ける。

何処からか水の匂いがする気がする。そういえば遠くの方から水の落ちる音が聞こえてくるようだ。暫く行くと広間のようなところに出る。丁度その中心には円筒状の給水塔があり、そこから滾々と水が溢れ出ていた。卯王は思わずその溢れ出ている水に口を付けて飲む。その時、一瞬、とても遠いところの、例えば、瀧の流れ落ちる水の様のようなものが卯王の脳裏に映し出された。遺憾、気が遠くなる、と自恃心を持たねば、しっかりしろ、と思った瞬間のことだった。諏秘(すぴ)霞(か)は霧なのか靄なのか判然としないが、白煙の中に現れる。あるいは白煙そのものが諏秘(すぴ)霞(か)なのかも知れぬ。しかしながら、実体が全くない、ということもない。何重にも衣装を纏って、かと言って決して華美ではない衣装だと思えるが、顔貌(かおかたち)も定かではない。だが、そのものが現れると、確かに、このものはいつも現れる占星術師の王であるな、と、少なくとも卯王には理会できた。

卯王ヨ、ヨク聞ケ。

「これは、これは、よくお越しになられました。お待ち申して居りました」動揺を抑えて、できるだけ平静を取り繕おうとして、卯王は能う限り堅苦しくないように話そうと努める。この《夢》の世界では卯王は普通に話すことができる。それを不可思議であるとも感じない。

「何か召し上がりますか、酒か、お茶か」卯王は自身の居室に居るつもりなのか、できもしないことを言う。

卯王ヨ、ヨク聞ケ。卯王の申し出を端から無視をして、自分の話を聞くように強要する。そのような思念の力が卯王に押し付けられる。

 ソノ方ノ頬ノ両ノ腫物ハ目族ノ呪イ、アルイハ呪詛ニ依ルモノダ。争イヲ止メヨ。目族ヲ殺スナ。戦ヲ止メヨ。サスレバ、ソノ腫物モ引クデアロウ。

 目族というのは、阿大陸の中央に位置する目湖をその版図とする目公国のものどもだ。彼らは水中戦を無上の得意とする。しかしながら、最近は陸戦においてもどういう訳か攻撃力を増している。何故なのか、正確な理由が分からない。

 「しかしながら、戦を一方的に止めれば、我が軍の敗北となり、どのような戦後処理が行われるか分かりませぬ。――また、我が軍はできるだけ殺生を避けるために、祈禱師らに、石化や、調略、あるいは睡眠などの業(わざ)をなしております」

 ソレハ、デキルダケ、ト、イウコトデアロウ。駄目ジャ、トニカク殺スナ、絶対ニ殺スナ。ソモソモ卯軍ニオケル祈禱師ラモ業ヲ使ウ余リ、脳死シテオルモノガ、オルデアロウ。本末転倒ジャ、恥ヲ知レ!!

「はは、恐れ入ります」確かに卯王が言っていることは、大いなる矛盾である。殺害のない戦争など存在しない。しかし、相手国の侵略を停めるには如何すればよいか。苦肉の策として考えられたのが、祈禱によって、相手を石化、すなわち石に変えてしまうことである。石になっても砕かれたりしない限り、相手軍が持ち帰って、逆祈禱をすれば生身に戻すことができる。また調略は寝返らせ、こちらに味方するように仕向けることで、睡眠は文字通りその場で昏睡状態に陥らせ、戦闘不能状態をもたらすことである。いずれも、祈禱師たちの祈禱の力、精神力、と言ってよいのか、生命力と言ってよいのか分らぬが、いずれにしても強い集中力が必要となる。要は相手の精神に精神の力で侵入することで、こころの組成の配列を意図的に変えることでそのような業を為す訳である。肉体に細胞があるように精神にもそれに類するものがあると考えられる。仮にその精神細胞があるとして、強引にその細胞壁を破壊し、細胞膜を破り、細胞内に侵入し、組成を変えるのだ。いや、そこまでしなくても、ものによれば、その精神細胞の配列、順番を変えてしまうということである。

例えば、単体の敵を石に変えるとする。これは単に細胞の順番を書き換えるだけなのだが、仮に石化に成功したとすると、いや、失敗したとしても、祈禱師はその祈禱後、1時間から2時間は、倒れるように眠り込み、深い眠りに就く。これは、祈禱師の能力や技術的習熟度に関わることなく、多かれ少なかれ、そうなるものだ。

 これが、調略となると、相手方の忠誠心そのものの根本を書き換えることになるので、生中なことではない。リスト・アップされた特定の将校なりの考え方、正義感、ものごとの好悪、個人的な長所や短所などの情報を事前に、それもまた正確に調べておく必要がある。これはまた別に存在する秘密調査士たちが背後で暗躍することになる。そのうえで、ある一定距離まで接近せねばならない。相手が目視できなくても構わないらしいが、およそ100リードの距離の中にいなければ調略は難しく、無論近づけば近づくほど成功率は上がるものの、それはまた、祈禱師の生存率を下げることにもなる。先程も申し上げたように、なにせ、祈禱の後、ばたりと倒れ伏すのだ。当然、回収班も同行しているが、数が多くなればなるほど敵軍に発見され易いということになる。

 それらに比べて、睡眠は比較的、物理的並びに精神的なマイナス面は少ないとされているが、逆に言えば、相手によっては簡単に目覚めてしまうということである。

 当然のことながら、そんなことだけをしていては、あっという間に祈禱師たちは倒れ伏して、敵軍に呑み込まれてしまう。したがって、およそ、全卯軍の1割弱が祈禱師の群れであり、残りは実際に武器を持って戦う実戦部隊である。これでなんとか食い止めて、敵方との均衡を取ろうとしているのだが、もし仮に、この大いなる占星術師の言うように、殺害を止める、実戦部隊の投入を停止するのであれば卯軍は瞬時に全滅し、卯帝國そのものの存亡が疑われることとなる。そもそも祈禱師の力に頼る余り、祈禱師たちの過重労働のための不注意な戦死、あるいは精神的な疲労による突然死なども報告されていたのだ。

 卯王は言葉に詰まった。戦を続ければ、犠牲者が増え続けるであろう。しかしながら、戦を止めたからと言って、敵の侵攻が留まるとも考えられない。我が国、我が、この土地が敵によって蹂躙されて、この大地から消え去ることも考えねばならない。

 卯王が納得していないことを、その様子から見て取ったのか、諏秘(すぴ)霞(か)は言葉を重ねる。

卯王、分カッタノカ、戦ヲ止メルノジャ。サスレバ、オ前ノ頬ノ両ノ腫物モ消エテナクナルデアロウ。

 つまりは、戦を続ける限り腫物は癒えぬ、ということだな、と卯王はこころの奥底で自嘲的に思った。しかし、すぐに我に返って、こう述べた。

「今暫く、わたくしめにお時間を賜りますようお願い申し上げます。なんとか、この戦に決着を着けるべく、わたくしめの全命を懸けまして努力いたします。」

フン、勝手ニスルガ良イ、と言った段階では既にして諏秘(すぴ)霞(か)らしい影は消えていた。

 これは今朝のことだったか、あるいはその前の明け方のことだったのか。気が付くと、依然として知碓が話し続けている。途中の話を聞き逃したのか。まあよい、と卯王は思う。何れにして、何らかの決断をせねばならぬのは間違いないのだ。

窓の外を見るともなしに見ると、遠くの物見の塔の上に掲げられている卯帝國の旗が秋の風にはたはたと翻っている。支柱がなければ、あの旗も風に任せて飛んで行ってしまうのだ。一体どこまで飛んでいくのであろうか。この世界に果てがあるのであろうか。卯王は生まれてこのかた、いや少なくとも記憶のある限りでは、この卯宮を出たことがない。生まれたときには、既に戦争が始まっており、外出を禁じられていた。卯帝國の王にして、自らの版図を自らの肢で踏んだことが絶えてないのだ。一体、真にわたくしは王なのであろうか。

「陛下、お聞きで御座いますか。陛下」

聞いていることの合図で、卯王は無言で首を縦に振る。

「陛下、従って、調略なる業は、相手側に味方への裏切りを迫る、というか、結果的に裏切らせる訳ですから、或る意味では道義心の混乱を招くこととなります。つまり倫理的に問題がある行為をさせることとなり、たとえ、生命を尊重することが前提だとしても、これはいささか問題が、つまり軍隊の規律として問題が生じています。」

卯王はそんなことは分かっているとも言いたげに無言で頷く。

「陛下、更に申し上げます。戦場の実際の運営では、相手に祈禱を懸ける前に、その祈禱が懸かり易くなるように物理的な攻撃をします。致命傷にまで至らなくても、それ相応の負傷を負わせて意志力を弱めた上で祈禱を懸けているのです。したがって、祈禱が懸かったとしても、場合によっては被術者は死に至ることも稀ではありません。これは本末転倒と言うしかない事態で御座います」

 もうかれこれ1時間近く、この若者は話し続けている。卯王は黙って聞いていはいるが、侍従頭の織音は、王の機嫌を慮って、已む無く口出しをした。

「参謀長、つまりどうせよと言うのか」

「それは簡単なことで御座います。敵軍の殺害をすることなしに戦争の継続は不可能で御座います。どうしても生命尊重を第一義に掲げるのであれば、戦争を即座に停止すべきです。講和に向けての水面下での調停こそ肝要で御座います」

 卯王はもう一度、脳裏に諏秘(すぴ)霞(か)の姿と言葉とを思い浮かべた。

 諏秘(すぴ)霞(か)はこう言った。一つには、戦を止めよと。もう一つはこの頬の腫物が目族の呪いに依るものだ、ということだった。

 戦を止めるという発想がそもそもなかった。卯王が生まれたときには既に、この戦役は始まって、恰も日常生活でもあるかのように続いていた。一体、誰が、この大戦を始めたのか。そもそもこの戦争の目的は何なのか、今となってはもう誰にも分からない。

合イ分カッタ。一旦下ガレ。と、知碓を退室させて、織音にこう伝えた。

一旦、施術ヲ受ケルコトトスル。シカシ、ソレハ一時鎬(しのぎ)デアロウ。ソレハ、マア良イ。モウ一点ジャ。目国ノ様子ヲ探レ。和平ノ可能性ヲ調ベヨ。サラニハ・ワタクシヲ呪ッテ居ルモノガ誰ナノカ突キ止メヨ。発見サレタラ、スグサマ祓イ清メヨ。

 翌日の午後には卯王の施術が行われた。一旦二つの肉腫を切開して膿を吸い出す。そのまま穴を塞がず、糸で傷口を固定して、膿が出切って、肉が盛り上がるのを待つ。卯王の顔貌はあたかも顔面を二つの銃弾で射抜かれたかのような痛々しいまでの施術跡となった。

 二月ほど時が経ち、卯王はその間、執政を元老院の院長の出禰(でね)武(ぶ)に任せ療養に努めた。秋も終わりに近づいていた。そして牧草月の伍・参日の朝となった。

何故ジャ、何故コノヨウナコトニ相成ッタノカ、陸軍大臣申シテミヨ。

ちなみに卯国には海軍も空軍も存在しない。陸軍しかないのだ。それは当然のことであって、それらは卯国の者たちの肉体的な条件に左右されている。彼らは海はおろか、水上を泳ぐことはできず、いわんや空を飛ぶこともできないのだ。彼らは、愚直に先祖から代々与えられた肉体の特性を活かして陸上を疾駆する術を第一に軍事の礎としたのだ。

頭髪を丸めた、川の上流に無数に転がり落ちている石くれのような顔をした陸相明鳴(あけるなる)は俯いたまま体全体を振るわせたまま、暫く何もいわなかった。

大臣、申シテミヨ! 再び卯王は声を、と言っても思考転写ではあるが、《声》を荒らげ、眼(まなこ)全体が漆黒の闇に満たされた丸い眼で、明鳴(あけるなる)陸軍大臣を睨みつけた。しかしながら明鳴はおろか、そこにいた者たちから、卯王の眼を直接見ることは叶わなかった。卯王の顔の全面は鋼鉄のような板で覆われていた。卯王からはどういう訳か、その鉄板越しに周りが見えるようなのだ。

 御前会議の万座の注視を浴びて、明鳴は苦し気に、胎の底から絞り出すようにこういった。

「陛下の思し召しに従ったもので御座います」

ソノ方、マタソノ話ヲ持チ出スノカ!

 「陛下の思し召し」と言うのは、例の「戦争継続、殺生禁止」というあれのことだ。明鳴は卯王の指示通りに戦を行ったまでで、その敗戦については、如何ほども自身には責任がない、と言いたいのだろう。

卯国軍は三次に及ぶ阿大陸大戦の、その3回目の戦役が始まって以来、その日に至るまで3回にも及ぶ戦において師団の全滅という事態を招いていた。幾ら何でも全滅というのはどういうことなのだろう。それまでは比較的順調な流れで戦いを進めてきたというのに。きっかけは、卯国軍が戦略上、強くなり、或る一定のレヴェルを超えたことか。或る日を境に急激に敵軍の戦力、軍事力などが強力になった。実はその理由が誰にも分からないのだ。丁度それは卯王が病床に伏すのとほぼ時を同じくしていたとされる。卯王の病と卯軍の敗戦、と言うよりも、騙されたように敵軍が強くなったこと、この二つには何らかの因果関係でもあるというのか。

御前会議には、元老院院長をはじめとして、陸軍大臣や農業大臣、気象大臣など13人の大臣級*[3]と、発言権はないが、議題によっては報告を要求される、各省の次官級の官吏も控えていた。陸軍参謀長の知碓も円卓、と言っても、正面の玉座に卯王が位置し、他の大臣らは、馬蹄形のように座っていたのだが、その外側、後方に、他の次官たちの中に混じって、如何にも詰まらなさそうな顔をして、着座していた。

その時、その御前会議に何が起きたのか、一瞬、卯王にも、知碓にも、あるいは他の大多数の次官たちにも理解できなかったのではないか。いつもであれば、通り一遍の明鳴への叱責が暫く続き、他の大臣の報告が済み、然るべくして、知碓の報告が求められるはずであった。ところが、珍しく、明鳴が卯王に反駁しているようだ。「陛下、お言葉で御座いますが……」その後が聞き取れない。奇妙だ。そんな度胸、というか、そんな弁舌の能力があの石頭にあったのだろうか、と知碓は怪訝に思った。怪訝には思ったが、大して真面目に、その話を聞いていなかった。この辺りが子供の頃からの自分の悪い癖だと、後々になって、知碓は、一人反省せねばならぬことになる。

突如、耳に聞こえてきたのは「……国家反逆罪で逮捕する!」といういささか素っ頓狂な明鳴の叫び声であった。それと前後して会議の間(ま)に何十人もの兵士たちが乱入して卯王を取り囲み、縄で拘束した。ちょっと待て、逮捕権は軍隊にはないはずだ、これは明鳴のクー・デタだな。陛下を救わねば。

――陸軍に逮捕権はない、職権濫用だ、と叫ぼうとしたところ、いきなり背後から両腕を拘束され、当の知碓も逮捕されてしまった。さも、ありなん。わたしも陛下もいくら何でも、明鳴を見縊り過ぎていた、と言うことか。それにしても、これにはきっと裏があるな、と思っていると、複数の兵士に四方を取り囲まれた卯王が無言で、正面横の扉から連行されていく。大臣の中でも、卯王派かと思われる何人かの大臣も逮捕されたようだ。疎(まば)らになった会議の間の座席に着座したままの大臣や次官たちは、事前にこのことを知っていたのか、下を向いたまま、自らに災いが降りかかるのだけは免れようとでもしているようだ。

知碓はそのまま独房へと連行された。逮捕状を見せろ、と刑吏に言ったところで、全く無視されたまま、水も食事も与えらえず、何故か三日間そのまま放置された。知碓は、このまま、この牢獄にて朽ち果てるのかと絶望こそしたものの、万已む無しと達観した。

ところが、三日目の朝になって、水と麦と青菜が与えられた。どうことだと訝しんだが、なるようになれとばかりに、大した量ではなかったが、与えられた飲食物を残らず平らげた。水をもう一杯所望したいと言うと、何故か、椀一杯の水を与えられた。飯は駄目なのかと言うと、既定の量があるので駄目だと言う。

暫くすると知碓はやっとのことで取り調べ室に呼び出された。彼は、そこが、やはり見慣れた陸軍の建物ではなく、特別保安警察のものではないかと推測した。

取調室に来た係官に、知碓は「取り調べもせず、即刻死刑だと思っていたが」と毒づいた。係官は、いささか憔悴した様子で苦笑いをして、「まーな」と答えた。

「陛下はどうなされた」と尋ねても、この質問についてだけは全く聞こえなかった体で全く反応がない。その後、何度か、話の切れ目に、このことを尋ねても判で押したように全く同じ対応であった。

「逮捕状を見せてくれ、と言っても無駄なんだろうな」と、知碓はさも当然であるかのように尋ねた。

「まーな。貴様は国家反逆罪の罪に問われている」この男はまーなとしか言わないのか。今日から貴様の名はマーナだ、覚えておけ。

ふふん、と知碓は鼻を鳴らして、如何にも相手を莫迦にしているかのような態度を取った。

 が、それにはいささかも動じることなく、中年も後半に至ろうとするその係官は、特別保安警察ではなくて、単なる警察の刑事で、本当かどうかは定かではないが、塗(ぬん)木(き)と名乗った。姓名に始まって、出身地、学業の様子、女の出入り(余計なお世話だ!)、とりわけ、参謀長就任以来の言動(それらは極めてよく調べられていた。あたかも壁に耳あり障子に目ありという諺を地で行くようであった)、そして卯王の発言、命令、指示がどうであったか(これまた、極めてよく調べがついていた)、これらを詳細に渡って逐一確認をしていく作業となった。王の居室に内偵が入っていたとしか思えない内容までが、既に調べが付いていた。さすればあの実の親子かと見紛う二人の侍従どもが裏切ったのか。あり得なくはない。いや、それにしては、人払いをして卯王と自分しか知り得ぬ内容までが、漏れている。まさか、卯王が全てをペラペラと話してしまったというのか。そんな莫迦な。確かに、卯王は余りにも現実離れをした、理想家が過ぎると言えば、それはそうなのだが、あの高潔な性格からして、そんなことがあり得るだろうか。

 もし、そうでないとすれば、あの王の居室に、我々の知り得ぬ第三者が紛れ込んでいたことになる。確かにあり得ない話ではない。よもや、大空を舞う、あの鳥どもが偸み聞きをしたのだろうか。そうかも知れぬ。確かにあ奴らは言葉を解すると思われる節がある。われわれの話や振る舞いを見ては、仲間同士で嘲笑っている様を見たことがある気がする。だが、あの空を飛ぶものたちに、ここまで正確に、日時や、詳細な数量、あるいは固有名を理解できるのであろうか。俗に鳥頭と言うが、彼らは、仮に我々の言動を理解したとしても、ほんの数時間で綺麗さっぱりと忘れてしまうのではなかろうか。

 と、すれば、何故、如何にして、この情報は漏れたのであろうか……。

 1日15時間余りに渡って強行に行われた取り調べが3日目となった午後のことである。お互いに気心が知れたのか、あるいは、余りの長時間の取り調べの疲労のためか、気持ちが緩んだのであろうか、塗(ぬん)木(き)刑事は、つい、言わずもがな、のことを言ってしまった。口が滑るとは正にこのことである。

「貴様は、どうせ死刑になることは決まっておるのだ。何がどうであろうと、このことは覆らない、残念ながらな」と、取り調べ机に視線を落として、誰に言うともなく、その刑事は呟いた。

「今さら、何を言っている。そんなことは百も承知だ」知碓は不敵にも、相手を睨みつけながら、笑い飛ばした。

「だから、教えてやる」

「何をだ?」

「貴様が一番知りたいことだ」

「なんと、そうか、教えてくれるのか、礼を言うぞ。それでは、陛下はどうされた?」

「ウム、これは口外しないでくれ」

「無論だ」

「王は、あの日、あの決行の日、龍に依って連れ去れた。」

「は?」

「その後行方知れずだ。もう6日にもなろうとしている。恐らく命はないだろうな」

「本当か」

 龍と言うのは、あくまでも卯民たちが古来より、そう言いならわしているだけであって、本当に龍なのかどうかは分からない。確かに巨大な首なのか胴なのかは分からぬが、その上に、更に細長い首が1本付いていて、その左右に2本ずつの手なのか、触手なのか、触角なのか、いずれにしても、都合4本もの細長いものがついている。多くの場合、雲上から突如として、下界に降りてきて、穀物やら牧草などを口に咥えて、村々に置いて回るという。何故龍がそんなことをするのか全く分からない。が、時として、その5本の細長い触手のようなもので、卯民の首根っこを咥えて、どこへともなく連れ去ってしまうという。龍の方からすると純粋なギヴ・アンド・テイクと言えばよいのか、要は或る種の沈黙交易が行われているのだと考えられる。卯民にとっての食料を置く。その代わり、時々卯民を取って喰う、ということなのか。

 それにしても、選りによって卯王が龍に攫われたなどと言うことは、もう絶句するしかない。

「王宮に龍が侵入したというのか?」

「侵入も何も、龍は前触れもなく、空から降りてくるものだ。連行中、黄緑の回廊を連行中、連れ去られた。あんなに沢山周りを囲んでいたはずなのに、見事に王だけを攫って行ったらしい。狙ってやったとしか思えない。それで数日間は天手古舞だったわけだ。探すにもどこを探していいのか分からんからな」

なるほど、だから、三日間ぐらい放置されていたのはそういう訳だったのか。

「なるほどね」知碓はこころのどこかで卯王の生存を信じていた。そんな莫迦な、という思いと、仮に龍に拉致されたにせよ、食われたかどうかは分からない。きっとどこかで生きているのではないか、いや、生きていて欲しい、そう強く思った。

 そうだ、このわたしもきっと生きていけるに違いない、きっといずれ何処かで卯王とは再会できるのではないか、と知碓は根拠なく確信した。

 窓のない警察署の取調室のどこか遠い壁越しに、秋の終わりの強く冷たい雨の音が聞こえてくる。卯宮の辺り一面の原野に雨が降り注いでいる様子を知碓は漠然と思い浮かべた。

 

🐤

 

第1挿話 了

 

2021/11/24 38枚

 

*[1]  卯帝國には独自の暦があるが、多くの卯国民はその暦の存在を知らぬか、あるいは全く気にしていない。試みにそれらを記せば、一年の始まりは冬の終わりから始まり、冬の深まりと共にその年は暮れる。一つの年は15の月を持つ。芽吹月、青葉月、>>>>>>>>。ひと月は25日を塊として、5日の倍数の形で表せられる。すなわち「伍・参日」とは5×3、つまり15日に相当する。それぞれの5日間は次の曜日を持つ。すなわち、土、水、草、麦、陽の5つである。ことほど左様に、卯帝國は5を基調として世界が成り立っている。これは卯民が5を超えた数の認識が難しいと同時に、そもそも日常生活で数値を取り扱うことが稀である、つまり、ほとんどの卯民が多い/少ないで遣り繰りしているという事情も背景にあるかと思われる。卯帝國において所謂他国、例えばイ国などで言う所の「科学的思考」なるものの「発達」が「遅れている」とされるのも或る一面では首肯せざるを得ないと言い得るであろう。

*[2] 卯帝國のものは寿命が短い。2歳で成体となり、8歳も生きれば長寿の域となる。多くのものは5歳か6歳で、その天寿を全うする。

*[3] 因みにその細目を記せば、以下の通りである。①元老院院長、②祈禱大臣、③占星術大臣、④陸軍大臣、⑤農業大臣、⑥建設大臣、⑦諜報大臣、⑧気象大臣、⑨食料大臣、⑩財務大臣、⑪外務大臣、⑫教育大臣、⑬医療大臣、以上13人となる。