鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

『罪と罰』試論のための予備的考察〈2〉

罪と罰』試論のための予備的考察〈2〉

 

f:id:torinojimusho:20220330141236j:plain



鳥の事務所

 

【はじめに】

①本稿は2022年1月13日に本サイト『鳥――批評と創造の試み』に更新した「『罪と罰』のための覚書」(鳥 批評と創造の試み: ドストエフスキーを読む (torinojimusho.blogspot.com))の続稿に当たる。今回タイトルを「『罪と罰』試論のための予備的考察」と改めた。そして、まだ途中である。続きが書かれることを本人も望んでいる。

ドストエフスキー罪と罰』からの引用は原則として亀山郁夫訳(2008年-2009年・光文社古典新訳文庫)による。

 

目次

『罪と罰』試論のための予備的考察〈2〉. 1

10 余談から始まる.. 2

11 スヴィドリガイロフの大霊界... 4

11 スヴィドリガイロフの変態的美への慾望... 9

12 影としてのスヴィドリガイロフ.. 11

13 分裂という主題... 12

14 「悪魔の子」. 15

【主要参考文献・資料など】. 18

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10 余談から始まる

 

罪と罰』を手に取るのは、実は三回目である。何と三読目にして初めて面白い、それも途轍もなく面白いと思えた。一体何を読んでいたのであろう、以前は。 ……と言っても前回は30年ぐらい前の話ではあるが。

罪と罰』については、大分、小出しに書いていて、いい加減きちんとまとめなければ、とは思っているが、なかなかその気にならないのはどうしたものか。

 ところで、同作に登場する、敵役に当たるスヴィドリガイロフは極めて「ユニークな」人物である。映画にしたらジャック・ニコルソンだとちょっと崩し過ぎか(失礼(´;ω;`))。あるいはアンソニー・ホプキンズか。――駄目だ。最近映画を全く見ていないので俳優の名前がまるで浮かばない(´;ω;`)。いずれにしても脇役にも関わらずアカデミー主演男優賞を取ってしまうぐらい、主役が霞む存在感を持つ人物だ。

 ちなみに、今、というか毎年のことなのかも知れないが、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が評判のようだが、ドストエフスキーの作品もこれと似ていて、主役級の登場人物がこれでもか、これでもか、と、くどいぐらいに登場してきて入り乱れ、いささかなんだか訳が分からない感じになってしまうのは玉に傷と言うべきか。言うべきなんでしょうね。

 もしも、『罪と罰』を日本に設定を移して、大河ドラマ張りの予算で撮ったらどうなるだろうか。ラスコーリニコフ松山ケンイチで、スヴィドリガイロフは吉田鋼太郎でどうだろうか。ラスコーリニコフの気の強い妹・ドゥーニャは杏。マルメラードフは西田敏行

ソーニャが難しい。割とガリガリに痩せていて、幸薄い感じが要求される。――年齢的に問題がなければ木村多江か。全く思い浮かばない( ノД`)。

 ラスコーリニコフを追い詰める予審判事ポルフィーリーは野村萬斎役所広司。殺害される老婆アリョーナは岸田今日子と言いたいところだが、もう鬼籍に入られている。では吉行和子か。老婆アリョーナと共に殺害される義妹リザヴェータはソーニャとのダブルキャストで。本当は老婆アリョーナも同じ役者が望ましいが、それだと余りにも意図が見えすいているのその程度にとどめる。警察署の書記官ザメートフは劇団ひとり。親友ラズミーヒンは稲垣吾郎。とか考えてると切りがない。

 

11 スヴィドリガイロフの大霊界

 

 いやいや、そういうことが言いたかった訳ではない。スヴィドリガイロフはどこまで真剣なのか、巫山戯(ふざけ)ているのか判然としないが、幽霊と遭遇した話や霊界についての話を実(まこと)しやかに滔々(とうとう)と話す。

  彼が遭遇したという幽霊は、彼自身が殺害したと噂される妻マルファと使用人のフィーリカで、あたかも生前と同じような言動で、つまり幽霊らしからぬ素振りで出現する。それはまるで、彼にとっては生の世界と死の世界の区別がないかのようである。

 そもそもスヴィドリガイロフの存在そのものが、物語の現時点で果たして「実在」していたのか、あるいはすべてラスコーリニコフの妄想なのか、あるいは「夢」(白昼夢)*[1]の中に現れた幻像なのか、読者の方が、いささか判断に迷う程である。無論、物語の世界には確かに彼は実在するのだろう(とか言って、まだ半分以上疑っている、わたしは)。しかし、そうであるのも関わらず、なんだか怪しい気がしてくるのだ。

 つまり、第6部・第6章でスヴィドリガイロフが安宿に泊まり、その翌朝自殺する。丁度同じころ、二日間ほど、ラスコーリニコフは何故か意識を喪っている。これまたドストエフスキー一流の御都合主義とも言えなくもない。何しろ、ラスコーリニコフが長時間に渡って意識を喪うのは2回目なのである。彼は事件の翌日警察署で意識を喪って倒れて、都合4日間に渡って昏(ねむ)り続ける。 1回目の昏りは別としても、2回目のときには、スヴィドリガイロフはあたかもラスコーリニコフと交代でもするかのように、その全存在を露わにするのだ。

いずれにしても、この問題については別途詳細に検討する必要があると思える。

 さて、問題はスヴィドリガイロフ独特の、霊界、と言ったらいいのか異世界というべきなのか、それに関する考え方、というよりも感受の仕方である。幽霊など存在しないと強弁するラスコーリニコフに対して、スヴィドリガイロフは冷笑的に次のように反論する。

 

『幽霊というのは、いわばほかの世界の切れっぱしであり、断片であり、それらの始まりである。健康人には、むろん、そんなもの見えるわけもない。なにしろ健康人というのは、もっとも地上的な人間だから、もっぱらこの地上での生活を生きなくちゃならない、その充実のため、秩序のためにです。ところがちょっとでも病気になり、オルガニズムのなかの正常な地上的な秩序がちょっとでも壊れると、たちまちほかの世界の可能性が出現しはじめる。病気がひどくなればなるほど、ほかの世界との接触は大きくなる。だから、人間は、完全に死んでしまうと、そっくりそのままほかの世界に移っていく』。(『罪と罰』亀山訳・第2巻・p.233。下線引用者)

 

つまり、彼の世界の中では、この世とあの世であるところの「ほかの世界」が併存しているようである。彼が言うように「幽霊というの」が「ほかの世界の切れっぱし」だとすると、「ほかの世界」に幽霊がいるとも言えるが、その「ほかの世界」の何かがこの世では幽霊のようなものとして感知されるということなのか。いずれにしても、その「ほかの世界」は「オルガニズムのなかの正常な地上的な秩序」、つまり常識的な物の見方に縛られた普通の人々には見ることができないが、それが何らかの理由で崩れてしまった病人にはちらり、ちらりと見える。そして死に至るとそのまま、その「ほかの世界」に行ってしまうということらしい。これが「来世」というものだと彼は結論付ける*[2]

 要するに、彼にとって生と死の閾(しきい)は易々と越えられるもののようである。

あるいはこういう言い方が許されるのであるなら、こうも言える。ラスコーリニコフが倫理的な問題を「踏み越え」ようとして、結局のところ、人間の善悪の問題、倫理の問題に手脚を絡めとられ*[3]、自分でも一体何が問題なのか、一体、何を望んでいるのか判断が付かなくなり、苦悩しているのに対して、スヴィドリガイロフはそれらの問題を易々と「踏み越え」て、或る種、宗教的領域へと超越しているのではないだろうか。この場合の宗教というのは、ドストエフスキーが「表面的に」信じていたと思われるロシア正教キリスト教という枠を越えて、より深い地点にあるそれを示している。恐らくそれは「存在」とでも言うべきものである。その存在の様々な姿への変換、というよりも現れ方、とでも言おうか、それを例えば、生とか死とか言っているのではなかろうか。

「存在」とは文字通り、「世界」の「地」のように、ずっと存在しているのだ。

従って、スヴィドリガイロフは、彼の言動などの見た目はともかく、ラスコーリニコフが衝突した倫理的な問題を、存在論的に否定することによって、より広い地平に我々を招来するのである。

スヴィドリガイロフは最後的にはピストルによって自殺を遂げる。死んで花実の咲くものか、というのは伝統に竿を指した民衆の或る種の智慧の一つではないかとは思うが、全てを見切ってしまったように見える(実際にはそうではないのかも知れないが)スヴィドリガイロフにとってみれば、死への旅立ちも「アメリカ」に高飛びするのと大差なかったのである*[4]

では、もし、その考えが正しいというのであれば、死んでも生きても変わりはない、ということになる。仮に、今、生活が苦しい、生きていることそのものが辛い、というのであれば、みんな自殺すればいいことになる。それでいいなら、俺だって死にたいものだ、全くな。

しかしながら、何故、そうしてはいけないのか。

明確な形で自殺を禁じる言葉は、ドストエフスキーの作品のどこを探しても多分ないだろう*[5]。むしろ、例えば『カラマーゾフの兄弟』の中で、ゾシマ長老が、教会の教えに逆らうことがあっても、自殺者のために祈ってもよいのだとの考えを示しているぐらいだ*[6]。いやいや、そもそもドストエフスキーの作品は自殺者のオン・パレイドと言っても過言ではない。しかしながら、それらはあくまでもマイナスの極限値を示すことで、何らかのプラスを予想、仮想されうるものを小説空間に、読者のこころの底に示そうとしているようにも思える。

従って、ここでもスヴィドリガイロフの「霊界」や自殺(つまり生も死も容易く超えてしまう)も、その観点に立てば、我々の立っている世界が単一の限定されたものではなくて、様々な多様な可能性の絃(いと)の縒(よ)り集まりなのではないか、とも思えてくるのだ。

 

11 スヴィドリガイロフの変態的美への慾望

 

そうそう、話がいささかズレるかも知れないが、スヴィドリガイロフについて言えば、単なる助平親父という範疇を越えて、言ってみれば変態とでも言うべき性向がある。それは単に肉体的な接触による性行為への慾望というよりも、よりもっと精神的な、というのか、あるいは、余りこの言葉は軽々に使いたくないがイデア的というのか、そのような無垢なるもの(少女愛一般、あるいは少女との婚約)、凍り付くまでの至高の、崇高なる美なるもの(ラスコーリニコフの妹・ドゥーニャへの屈折した愛)、あるいは自らが徹底的に虐げられる存在に落とし込まれるあり方(年長の妻・マルファとの関係)、これらの、言ってみれば変態的な美への慾望こそが、先の霊界譚と通底するものではなかったろうか。

これらの変態的な美は、あくまでも精神的な実在であるのだが、それにも関わらず、いや、そうであるが故に、具体的な肉体を持つ人格を通してしかそれらを感受できないものであったろう。

つまり、スヴィドリガイロフがそうであったように、我々は何らかの具体的な「物質」なくして、「精神」的なものに近付けないのではなかろうか。

だからこそ、逆説的な言い方になるが、「この世」に生のある限りにおいてこそ、「あの世」を感得でき、「あの世」との「連絡」もまた可能になるのだ。

 

12 影としてのスヴィドリガイロフ

 

また、更に話がズレる。ドストエフスキーの2作目の作品は『分身』、あるいは『二重人格』である。『ウィキペディアWikipedia)』の解説によれば「原題にあたるロシア語のДвойникはドイツ語由来の外来語ドッペルゲンガーとほぼ同じ意味の言葉」だとされているが、単純な和訳としては、「生き写し」*[7]というのが妥当なところだろうか。

矢張り、『ウィキペディアWikipedia)』の解説に頼れば、「ドッペルゲンガー(独: Doppelgänger)とは、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象である。自分とそっくりの姿をした分身第2の自我、生霊の類。同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現す現象を指すこともある(第三者が目撃するのも含む)。」*[8]とある。元意としては「自分とそっくりの姿をした分身」ということだろうから、本稿で意図することはそれとは違い、「第2の自我」、言うなれば「影」のような存在であると言い得る。

さて、仮にスヴィドリガイロフがラスコーリニコフの、ドッペルゲンガー、あるいはドッペルゲンガー的存在、つまり比喩的な意味でのそれだとすると*[9]、スヴィドリガイロフ的存在、スヴィドリガイロフ的な現(あらわ)れは、第6部、第6章で、この世での役割を果たして、主たる人格をラスコーリニコフに明け渡して、この世から「消滅」したのだと考えられないだろうか。その際、スヴィドリガイロフからラスコーリニコフに託されたものこそ、「死」を通じて、「死」ではなくて、むしろ「この世で生きよ」というメッセージではなかったろうか。

 

13 分裂という主題

 

さて、話を戻すことにしよう。

奇妙なことだが、今回『罪と罰』を読んでみて、様々な点で興味深かったのだが、とりわけ、主人公と目されるラスコーリニコフの「若さ」*[10]からくる(と読める)挙動不審さに心惹かれた、というか撃たれたのだ。要するに、最後の、いわゆる「回心」とされる場面に至ってすらも、「お前ら(世間一般の人達ですね)に何が分かるんだ!」とでも言いたい気分だった気がする、彼がね。

 という訳で、3周か30周遅れぐらいで、やっと「青年」*[11]の気持ちが幾ばくかでもわかるようになったのか。

 で、そういうベクトルで言うと、残念ながら、『罪と罰』に関わる様々な評論や研究書は、大変興味深い、極めて参考になるとは思わせられたが、なんというか、本丸から相当離れた外堀をあちらから、またこちらから埋めていく作業であって、無論、これはこれで重要な作業ではあるが、本丸で呻き苦しんでいる城主であるラスコーリニコフの懐にいきなり飛び込んで切りかかる、といったことは当然ない。それは方法論とフィールドが違うためで致し方がないことだ。

 つまり、今のわたしが求めているのは文学の研究ではなくて、恐らく、いわゆる、弩直球の文芸批評なのかもしれない。

ここで図らずも想起するのが、今は思想家・哲学者として大成してしまった感のある、しかしながら、かつては文芸批評家として出発した柄谷行人のデビュー作「漱石試論――意識と自然」(原題「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」1969年)である*[12]。柄谷はそこで、シェイクスピアの四大悲劇のうちの一篇『ハムレット』(1601年?)についてのT.S.エリオットの評*[13]に言及する形で、そこに或る一つの分裂、分断を見た*[14]。演劇として、あるいは文学作品としての成立の有無はともかく、まさにそこに『ハムレット』という作品の根源的な何か*[15]を見た。同時にそれは夏目漱石の作品についても同様である*[16]、というのが主旨なのだが、それを言ったら、ドストエフスキーの作品についても同様のことが言えるのではないだろうか。いわんや、この『罪と罰』におけるラスコーリニコフの分裂振りと言ったらどうだろう。何しろ彼の名前は「分裂、分離、割割く」を意味する「ラスコローチ」に由来するのだから*[17]。彼はあたかも二人羽織りのように一人の肉体の中に二人の意識が同時存在して、ぶつかり合いながら、場面ごとに、状況に合わせてどちらかの意識が表面/顔面に現れるのだ。まさにその意味で、ラスコーリニコフの裏の顔、夜の顔こそがスヴィドリガイロフに他ならない訳だ。

 

14 「悪魔の子」

 

この場合は一旦人格が二つに分かれてはいる。このことがどういう射程を持っているかと言うことを、いささか極端な形で視点をずらしてみるとすれば、最近の日本の漫画・アニメイションの世界と通底している気がする。

例えばそれは、『鬼滅の刃』の主人公・竈門(かまど)炭(たん)治郎(じろう)の副人格でもある妹・竈門禰(かまどね)豆子(づこ)が人間でありつつ、戦闘時(緊急時?)には鬼と化し、鬼と戦うことや、あるいは『呪術廻戦』の主人公たる虎(いた)杖(どり)悠(ゆう)仁(じ)が特級(とっきゅう)呪物(じゅぶつ)・両面宿儺(りょうめんすくな)に肉体を乗っ取られそうになって、辛うじてコントロールしていることを想起する人もいるであろう。

しかし、他の先行例(『デビルマン』・『寄生獣』など)を挙げてもよいのだが、それらの場合、多くは人間(の善意)の側に立ったうえで行動されていると思われる。つまり何だかんだと言いながら、人間の味方(これを一般的には「正義の味方」と言う)になるのだ。

ところが、それらの中でもいささか特筆に値するのが、『進撃の巨人』の主人公・エレン・イェーガーの行動である(他にもあるやも知れない。わたしの不勉強ぶりをお詫びするしかない)。詳しくは「変身と変貌」の続篇で詳述するが、簡単に触れておくと、パラディ島の内部の戦いを扱った前半部と、マーレ編以降の後半部では、全くエレンの人格は変わってしまっている。顔付も、髪型も、また性格すらも変わってしまった、すなわち、彼は「変貌」したのだ。エレンは今までの仲間を捨てて、イェーガー派と呼ばれるクー・デター組織を密かに作り、遂には、「地ならし」と呼ばれる、壁の巨人を解放することで、パラディ島以外の全人類を滅亡させようとまでする。いままでの主役が一転して、悪役に変ってしまったかのようである。不謹慎な例かも知れぬが、大国に軍事的に侵攻された、防戦一方で、明日にも陥落してしまうだろうと予想されていた小国が、突如として反転攻勢に出て、一斉に他国に向けて、核弾頭付の弾道ミサイルを打ち始めたのと同意である。今までその小国を蔭ながら応援していた読者・視聴者たちは、急転直下、逆に自分たちの拠って立つ場所が攻め滅ぼされそうになるのである。

連続アニメイション版の『進撃の巨人』は2022年3月現在放送中だが、その「the Final Season」 part2 のエンディング・テーマソングはヒグチアイ作詞・作曲・歌唱による「悪魔の子」と題されたものである。テレ‐ヴィジョンでは放送されない最終連を引用する。

 

世界は残酷だ それでも君を愛すよ

なにを犠牲にしても それでも君を守るよ

選んだ人の影 捨てたものの屍

気づいたんだ 自分の中 育つのは悪魔の子

正義の裏 犠牲の中 心には悪魔の子*[18]

 

人間は、誰かを、あるいは何かを守るために、自らの心の中に隠し持っている「悪魔の子」を「正義」という名のもとに引き釣り出さざるを得ないのであろうか。

これらが意味するところは、また別に論ずることとするが、悪魔になり得る人間の姿を、例えば、『罪と罰』では、スヴドリガイロフを、『悪霊』ではスタヴローギンを、そして『カラマーゾフの兄弟』では、あるいは兄・イワンを、そして年少の同志・コーリャ・クラソートキンを、更には未来のアリョーシャをも通してドストエフスキーは描こうとした。

言うなれば、それは、ドストエフスキー自らの心の奥底に「悪魔の子」が潜んでいることに気づいていたが故だと、わたしには思えるのだ。

 

【主要参考文献・資料など】

ウィキペディアWikipedia)』. (2020年10月13日 (火) 08:29更新). 「分身 (ドストエフスキーの小説)」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ウィキペディアWikipedia)』. (2021年11月7日 (日) 14:03更新). 「ドッペルゲンガー」. 参照先: 『ウィキペディアWikipedia)』.

ExtendedWho-ya. (2021). VIVID VICE. SME Records, 東京.

ヴァイツゼッカーフォンヴィクトーア. (?). 『ゲシュタルトクライス―知覚と運動の一元論』 (第 1975 版). (木村敏, 浜中淑彦, 訳)

エリオット・スターンズ,トーマス. (1920). 「ハムレットとその問題」 Hamlet and His Problems. 著: 『聖なる森』 The Sacred Wood.

ゲーテ. (1806-1831). 『ファウスト』. ドイツ.

シェイクスピアウィリアム. (1601?). 『ハムレット』.

ドストエフスキーミハイロヴィチフョードル. (1866年). 『罪と罰』. (亀山郁夫, 訳) 2008年-2009年: 光文社古典新訳文庫.

ドストエフスキーミハイロヴィチフョードル. (1872). 『悪霊』. (亀山郁夫, 訳) サンクトペテルブルグ, ロシア.

ドストエフスキーミハイロヴィッチヒョードル, 亀山郁夫(訳). (1879年-1880年/2006年-2007年). 『カラマーゾフの兄弟』全5巻. 光文社古典新訳文庫.

ドストエフスキーモハイロヴィチフョードル. (1979-1980). 『カラマーゾフの兄弟』. (原卓也, 訳)

ヒグチアイ作詞・作曲・歌唱. (2022年). 「悪魔の子」.

プラトン. (紀元前5世紀~4世紀). 『国家』. (藤澤令夫, 訳) アテナイ, ギリシア.

ブルガーゴフミハイル. (1929-1940). 『巨匠とマルガリータ』. (水野忠夫, 訳)

ワトソンライアル. (1979年). 『生命潮流 - 来るべきものの予感』. (木幡和枝, 訳) 1982年: 工作舎.

永井豪. (1972年-73年). 『デビルマン』全5巻. マガジンKC(講談社).

永井豪. (1976年-78年). 『手天童子』全9巻. マガジンKC(講談社).

永井豪. (1979年-80年). 『凄ノ王』全9巻. マガジンKC(講談社).

加藤典洋. (2006年). 「異質な眠りの感触」. 著: 『村上春樹論集』②. 若草書房.

加藤典洋. (2016). 『世界をわからないものに育てること――文学・思想論集』. 東京: 岩波書店.

夏目漱石. (1914). 『行人』. 東京: 大倉書店.

河合隼雄. (1976年/1987年). 『影の現象学』. 叢書・人間の心理(思索社)/講談社学術文庫.

芥見下々. (2018-). 『呪術廻戦』. 東京: ジャンプ・コミックス(集英社).

外崎春雄・監督. (2019年-22年). 『鬼滅の刃』. アニプレックス集英社ufotable.

監督 荒木哲郎(第1期)肥塚正史(第2期-第3期) 林祐一郎(第4期). (2013年-2022年). 『進撃の巨人』. WIT STUDIO(第1期 - 第3期) MAPPA(第4期).

岩明均. (1990年-95年). 『寄生獣』. アフタヌーンKC講談社).

鬼束ちひろ. (2000). 「月光」. 東芝EMI・Virgin TOKYO, 東京.

亀山郁夫. (2009). 『『罪と罰』ノート』. 東京: 平凡社新書.

吾峠呼世晴. (2016年-20年). 『鬼滅の刃』全23巻. ジャンプ・コミックス(集英社).

江川卓. (1986). 『謎とき『罪と罰』』. 東京: 新潮選書.

江川卓. (1991). 『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』. 東京: 新潮選書(新潮社).

荒井献. (1974). 『イエスとその時代』. 東京: 岩波新書岩波書店).

小林秀雄. (1948). 「『罪と罰』についてⅡ」. 大阪: 「創元」第二輯.

前田護郎編. (1969). 『世界の名著12・聖書』. 東京: 中央公論社.

鳥の事務所. (2022年2月1日更新). 「村上春樹試論Ⅴ――人間の拡張――村上春樹「眠り」考」. 参照先: 『鳥――批評と創造の試み』: https://torinojimusho.blogspot.com/search?q=%E3%81%AD%E3%82%80%E3%82%8A

白井カイウ(原作), 出水ぽすか(作画). (2016年-20年). 『約束のネバーランド』全20巻. ジャンプ・コミックス(集英社).

柄谷行人. (1969年/2017年). 「漱石試論――意識と自然」. 著: 柄谷行人, 『新版 漱石論集成』. 東京: 『群像』1969年6月号(講談社)/岩波現代文庫岩波書店).

柄谷行人, 見田宗介, 大澤真幸. (2019年). 『戦後思想の到達点――柄谷行人。自身を語る 見田宗介、自身を語る』. シリーズ・戦後思想のエッセンス(NHK出版).

朴(パク)性厚(ソンフ). (2020). 『呪術廻戦』. 東京.

木村敏. (1994). 『心の病理を考える』. 東京: 岩波新書岩波書店).

諫山創. (2009年-2021年). 『進撃の巨人』全34巻. マガジンKC(講談社).

 

 

《つづく》

11725字(30枚)

 

🐤

20220330 1336

 

*[1] 本作にとって、あるいはドストエフスキーの全作品を通じて、「夢」そのものも極めて重大なテーマと言わなければならない。こんな註ではなくて別に一節を立てねばならないほどだ。という断り書きの上で、夢と白昼夢について、いささか付記しておきたい。今手許に本の現物がないので以下、うろ覚えで書く。加藤典洋によれば( [加藤, 「異質な眠りの感触」, 2006年])、ライアル・ワトソンが夢の起源を白昼夢に置いているという( [ワトソン, 1979年])。原始人類は、敵から身を隠すために昼間も物陰に身を潜めて行動していた。そのとき脳内に現出させたものが恐らく白昼夢で、こちらが先だったのではないかという議論だ。つまり、本来、覚醒しているときに、目の前の「現実」とは異なる、「非現実」をあたかもそれが「現実」に「存在」しているかのように見てしまう、というところに、人間の存在の不確かさと同時に、その人間世界の拡張性をも示唆していると考えられる。元々、加藤の議論は村上春樹の「ねむり」について論究されたものであった。村上の「ねむり」については、別稿「村上春樹試論Ⅴ――人間の拡張――村上春樹「眠り」考」(2022年)にて論じた。参照を乞う。

*[2] 『罪と罰』亀山訳・第2巻・p.233。下線引用者。

*[3] 厳密に言えば、必ずしもラスコーリニコフは倫理上の問題で苦悩している訳ではない。言うなれば、自分でも正確に把握できない存在上の問題に苦しんでいると考えられる。

*[4] スヴィドリガイロフは「アメリカ」、つまりは「新世界」に行くと言って自殺するのである(『罪と罰』亀山訳・第3巻・p.375)。

*[5] もちろん、作品の中でのキリスト教の教えとしてのそれはあるだろうが。

*[6] [ドストエフスキー 亀山郁夫(訳), 1879年-1880年/2006年-2007年]2・p.464。

*[7] 「Двойник」/webサイト『Yakuru ロシア語オンライン辞書』。

*[8] [『ウィキペディアWikipedia)』, 「ドッペルゲンガー」, 2021年11月7日 (日) 14:03更新]下線・傍点引用者。

*[9] と、簡単に書いてしまったが、この「ドッペルゲンガー」問題は根が深いとわたしは思う。要は、河合隼雄が『影の現象学』(1976年)で論じたような、「主たる人格」を補償する「第二の人格」、つまり「影の人格」の重要性をドストエフスキーは本能的に気付いていたと思われる。機会があれば、別稿を立てて論ずることとする。

*[10] 本当のところは「若さ」とか、という年齢的なことは関係ない。人間の本質に根差したものが若い時ほど露出し易いということかと思う。

*[11] 註の1と同じで「青年」云々は、本当は関係ない。

*[12] 先に述べた点を踏まえれば、「意識」のレヴェルが「倫理的な問題」で、「自然」のレヴェルが「存在的な問題」と敷衍することが可能かと思う( [柄谷, 見田, 大澤, 『戦後思想の到達点――柄谷行人。自身を語る 見田宗介、自身を語る』, 2019年]p.p.29-34参照)。

*[13] [エリオット, 1920].

*[14] 正確には「T・S・エリオットが『ハムレット』を論じて、この劇には「客観的相関物」が欠けているため失敗していると指摘したことである。」( [柄谷, 「漱石試論――意識と自然」, 1969年/2017年]p.p.2-3)

*[15] 「可能性の中心」と言いたいところだが、柄谷行人の看板とも言えるこのキャッチフレイズ的術語は誤解を招くはずだ。柄谷が言おうとしている「可能性の中心」は「中心」にはないからだ。「可能性の中心」ならぬ「可能性の偏在」であり、「可能性の埋蔵」であり、あるいは「可能性の隠蔽」かも知れぬ。また、「可能性」という言葉にもいささか疑問がある。詳細は別稿にて論じる予定である。

*[16] 柄谷は「意識と自然」の冒頭で次のように述べている。「漱石の長篇小説、 とくに『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを読むと、なにか小説の主題が二重に分裂しており、 はなはだしいばあいには、 それらが別個に無関係に展開されている、といった感を禁じえない。たとえば、『門』の宗助の参禅は彼の罪感情とは無縁であり、『行人』は「Hからの手紙」 の部分と明らかに断絶している。 また『こゝろ』の先生の自殺も罪の意識と結びつけるには不充分な唐突ななにかがある。われわれはこれをどう解すべきなのだろうか。まずここからはじめよう。」( [柄谷, 「漱石試論――意識と自然」, 1969年/2017年]p.2)

*[17] [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.p.39-40.

*[18] [ヒグチアイ作詞・作曲・歌唱, 2022年]下線引用者。