鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

稀代のストーリー・テラー迷走か? 万城目学『パーマネント神喜劇』

万城目学を読む

稀代のストーリー・テラー迷走か?

万城目学『パーマネント神喜劇』



万城目学『パーマネント神喜劇』2017年6月20日・新潮社。

■連作短篇。

■2023年5月21日読了。

■採点 ★☆☆☆☆。

 

 これはいただけない、残念ながら。2013年の『とっぴんぱらりの風太郎』(文藝春秋)まではよかった。翌年の『悟浄出立』(新潮社)から、何やら迷走が始まったのか?

 恐らく従来の現実の中に非現実的状況を、あたかも見てきたかのように混入させて書くという手法から、何とか離脱しようと足掻いているということなのか。しかし、そうではないのかも知れない。いずれにしても、本作は、単純に面白くない、ということに尽きる。

 神の独白の下りが冗長である。現実世界の一般の人間のエピソードが、なんだかどうもありふれているとも思えるし、どうも、出てくる人間、あるいは神が善人過ぎるとも思える。話の展開も善人路線でまとめ過ぎていて、単なる落とし噺の一種になってしまっている。

 題名の『パーマネント神喜劇』についても、どうもよく分からない。「パーマネント」=「永遠の」、神の演ずる喜劇、ということであろうが、「パーマネント」ということに、何か含みがあるのであろうか。何故、「喜劇」なのか、今一つ伝わってこない。最初、パーマ屋さんの話かとも思ったが、全く関係なかった。

 ところで、少し気になる点が一つだけある。それは評価すべきことなのか、あるいはその逆なのか、ちょっと判断がつかないのだが。

 本作は、連関性を持つ、4つの短篇(中篇?)小説から成立していて、なおかつ、それぞれの作品中、縁結びの神の独白部分と実際に人間たちの部分が交互に叙述される。いずれも、軽めの、いわゆるエンタテインメントの文体で書かれていると言ってよいが、表題作「パーマネント神喜劇」の人間の部分だけ、どういう訳か、文体が違うのだ。いや、さほど違いはない、という意見もあるだろうが、わたしには違うと思えた。平易に書かれた、どちらかと言えば、純文学の文体に思えたのだ。それは、子どもが主人公だからかも知れないし、あるいは、阪神・淡路大震災東日本大震災などを思わせるような、大規模な地震を題材にしているかも知れない。と言っても、ここには直接的にも、間接的にも死者の姿は描かれない。が、その重さの影が作品全体に差している。ただ、その方向に文体や作品の方法論を移行することに意味があるのかどうかは分からない。そこだけ、ざらりとして、手触りが違った。

 いずれにしても、全体として、どうこう言うべき作品とは思えない。とても残念だが。

 ちなみに、大変恐縮だが、現段階で、わたしは『バベル九朔』(2016年・角川書店 / 大幅改稿版・2019年・角川文庫)、『ヒトコブラクダ層ぜっと』(2021年・幻冬舎)、『あの子とQ』(2022年・新潮社)の直近の3作品を未読である。

この後、稀代のストーリー・テラーだと思える万城目学がどのように復活し得たのか、それとも、未だに迷走しているのか、あるいは、このまま失墜して果てたのかをしっかりと見届けたいと思う。

全くの余談だが、数年前、本作を読み始めたものの、どういう訳か行方不明になった。本をどこかに忘れてくるなど、そんな経験は全くないのだが。その後、しばらくして、買い直して、読み始めたものの、最初の5ページぐらいで、どうしても読む気が起きず、何故か断念した経緯がある。今回、三回目の正直で、通読出来たことは、誠に幸いなことである。

 

 

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1,437字(4枚) 20230521 1916