鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

人間存在の日常的苦悩を抉る 戸谷洋志『ハイデガー 存在と時間』

人間存在の日常的苦悩を抉る

 

戸谷(とや)洋志(ひろし)『ハイデガー 存在と時間

 



 

■戸谷洋志『ハイデガー 存在と時間』2022年4月1日・100分de名著(NHK出版)。

くまざわ書店八王子本店・ ¥600にて購入。

■テキスト・長篇評論・入門書。

■2022年4月9日読了。

■採点 ★★★☆☆。

 

 全くもって、ハイデガーの「ハ」の字も分かってないので、とてもまともなことが言えそうもないが、とても面白かったとは言える。

当然のことながら、ハイデガーの哲学、思想がたったの100分で、書物で言えば100ペイジ強で、語り尽くせるような内容ではないことは、素人にも何となくは分かる。したがって、相当に内容、論点を絞り込み、レヴェルも、わたしのような一般視聴者にも理解可能なものになっている、と思うが、それにしても、とても面白かった。言ってみれば、大変腑に落ちたというところだ。

 というのは、一般に難解な書、取り分け20世紀最大の哲学書にして、三大難解哲学書の一つとされてはいる*[1]し、引用されている文章の断片を読む、というか眺めただけでも、到底瞬時に理解できるものではないが、ハイデガー自身は、できるだけ、日常的な言葉づかいで、我々人間が遭遇する、日常的な問題を考えようとしていたようなのである*[2]。それは何かといえば、今、我々が、ここに存在することの漠然とした不安である。極端に言えば、その種の問題は、ことさらに哲学をやろうと思わなくても、物心ついた子供ですら、その種の不安は感じ取ることができる。

 うろ覚えで書くが、漱石の「硝子戸の中」*[3]に、彼の幼年時代の回想が語られる*[4]。池の中の鯉だかに引っ張り込まれる恐怖を語ったものではあるが、まさにこれこそ、ここにいうところの「存在的不安」に他ならない。仮に、幼年時代にそのような経験がなくても、思春期や、中年期、あるいは老年期と言った人生の要所で、人は、確(しか)とした理由もなく、「存在的不安」の沼に引きづり込まれる思いをするのではなかろうか。要は、いま、何故、ここに、わたしは存在するのか、存在していいのか、という漠たる不安である。無論、これには具体的な理由は、本来的にはない。

 ハイデガーは、この「存在的不安」を徹底的に分析をした。それは、いわゆる哲学的な方法というよりも、むしろ、主題的には、文学的な世界に近接している気がする。

以前、文芸評論家の三浦雅士は、哲学者・木田元の仕事を介して、ハイデガーは文芸評論家なのだと述べた*[5]が、まさに宜(むべ)なるかな、と言うべきだ。

 さて、多くの人々は、この不安から逃れるために、「世人(ひと)」の中に埋没してしまい、自らの「本来性」を喪う。いわゆる世間に流される、「空気を読む」。これまた、日常でよく見かける事例だ。

 では、人はいかにして、自らの「本来性」を取り戻すことができるのか。

 それは、誰人にも必ず襲い掛かる「死」に他ならない。この死こそが、自分自身が、他人とは交換ができず、自らの「本来性」を生きるように仕向けるものである。仮に死によって、肉体が消滅するにしても、「本来性」を生きるという価値が、それを超えさせていくのであろう*[6]

 さて、20世紀後半から21世紀を生きる我々にとって、ハイデガーと言えば、ナチズムへの加担という問題が存在する。それはそれで大変重要な問題ではあるし、まさに今日的なテーマとも言える。筆者・戸谷自身の関心は、むしろ、この問題をハイデガーの後続者であるハンナ・アーレントやハンス・ヨナスの思想を通じて批判的に受け止め、再解釈をする方向にあるのであろうが*[7]、それはそれとして、大変意味があるとは思うし、取り分けアーレントという思想的高峰には極めて、否定し難い魅力があるのは事実だ。

 しかしながら、――ハイデガー自身がどう考えていたのか、現段階では、――、つまり、わたしの不勉強故に、残念ながらわたしには分らぬが、彼を、あるいは人間を捉える存在論的な不安、苦悩、恐怖、といったものは、そういった現実的である政治的な判断をもや易々と越えてしまう程の広さと深さを持っていたのではないだろうか。彼が最終的には書かれざる、『存在と時間』の下巻において、そのような人間の「存在」という問題を超えて、文字通り「存在」という存在を論究しようとしていたということからも、そのような類推が許されるような気がする。

 いささか文脈が逸れるかも知れないが、わたしがここで想起するのはドストエフスキーの作品に登場する、悪魔的人物たち、言うなれば或る種のニヒリストたち、取り分け『罪と罰』の裏主人公たるスヴィドリガイロフの思想? とその言動である。ご存知のようにスヴィドリガイロフはラスコーリニコフやその妹アーニャたちにつき纏い、精神的な嫌がらせとも言うべき数々の振る舞いをした上で、易々と「新世界=アメリカ」、つまり「死の世界」へと旅立っていく。彼にとっては、生きることも死ぬことも、単なる紙の裏と表であって、大差ないのかも知れないが、実は、そうでもなくて、もしかしたら、死出の旅路を決断することによって、生を荘厳しようとしていたのかも知れない。つまりは、それほど彼にとっての生は苦痛に満ちていたとも考えられる。彼の性への慾望もそこに由来すると思われる。

 その事情は、ドストエフスキー自身がそうであったように、まさにハイデガー自身にも通底すると言えば牽強付会に過ぎるであろうか。

 言うなれば、ここにある事情とは、かつて柄谷行人が「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」*[8]で見事に剔抉して見せたように、「倫理的な問題」と「存在論的な問題」との乖離である。シェイクスピアの「ハムレット」*[9]がそうであるように、漱石の長篇小説の多くは構造的に分裂している。それは小説の結構の問題もさることながら、本来は主人公たちは「存在論的」に苦悩しているにも関わらず、「倫理的」な問題に拘泥しているような気になり、彼らの言動が、或る意味支離滅裂なものとなり、文学作品としては破綻しているとの批判を呼ぶのではあるが、実は、そこにこそ意味があるのであると柄谷は述べた。

 同時代、あるいは後世に、功罪共に重大な影響を与えた高名な哲学者の人生を、文学作品と同じであるとするのは、いささか無理があるとご批判があるかも知れぬ。しかしながら、人はある時点から、文学作品のように生きるようになったのである*[10]ハイデガーが、あたかも自身の全集を編む心算で、生きていなかったとは、誰にも言えないのではないだろうか。

 

【主要参考文献】

 

エリオット・スターンズ,トーマス. (1920). 「ハムレットとその問題」 Hamlet and His Problems. 著: 『聖なる森』 The Sacred Wood.

シェイクスピア ウィリアム. (1601?). 『ハムレット』.

ドストエフスキー ミハイロヴィチ フョードル. (1866年). 『罪と罰』. (亀山郁夫, 訳) 2008年-2009年: 光文社古典新訳文庫.

夏目漱石. (1915年). 『硝子戸の中』.

戸谷洋志. (2022年). 『ハイデガー 存在と時間』. 100分de名著(NHKテキスト・NHK出版).

三浦雅士. (2010). 『人生という作品』. 東京: NTT出版.

三浦雅士. (2012年). 「木田元はなぜ面白いか」. 著: 木田元, 『ハイデガー拾い読み』. 新潮文庫.

柄谷行人. (1969年/2017年). 「漱石試論――意識と自然」. 著: 柄谷行人, 『新版 漱石論集成』. 東京: 『群像』1969年6月号(講談社)/岩波現代文庫岩波書店).

 

 

 

3107字(8枚)

 

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📓ノート

  • 三大難解哲学書 ①カント『純粋理性批判』・②ヘーゲル精神現象学』・③ハイデガー存在と時間』 4
  • 人はなぜ不安になるのか、自分らしい生き方とは何か、なぜ人は世間の目を気にしてしまうのか 5
  • 書かれた本がその著者を裏切っている 11
  • 意図的に伝統的な哲学の語彙を一掃し、日常的なドイツ語で用語を考案 13
  • 〇〇がある  〇〇=存在者ザイエント がある=存在ザイン 25
  • 人間=現存在ダーザイン 27
  • 存在についての暗黙の理解=存在了解 29
  • 実存=現存在が関わり合うことになる自分の存在 30
  • 本来性=自分本来のあり方から自分を理解している
  • 非本来性=自分自身ではないものから自分を理解している
  • 可能性=別様でもあり得る 
  • 人間はほとんどの場合に非本来的に生きている    以上35
  • 現象学=どこにでもある、何でもない日常のなかで、現存在がどのように生き、存在しているかを、ありのままに描き出し、そこから分析を深めていく方法 37
  • 世界=人間が置かれている環境のこと 37
  • 現存在=世界内存在=人間はどんなときでも環境のなかで生きている 38
  • 現存在は自分を「自分でないもの」によって理解し、非本来的に生きている。こうした「自分でないもの」=「世人(ひと/せじん)」das Man p.41
  • 「日常的な現存在であるのは誰なのかという問いには、それは世人(ひと)であると答えられる。この世人(ひと)とは誰でもないひとであり、この誰でもないひとに、すべての現存在は、〈たがいに(ウンター)重なりあう(アイン)よう(アン)に(ダー)存在(ザイン)〉しながら、みずからをつねにすでに引き渡してしまっているのである。」 41
  • 世人=世間=空気 41
  • 「わたしたちは、ひとが楽しむように楽しみ、興じる。わたしたちが文学や芸術作品を読み、鑑賞し、批評するのは、ひとが鑑賞し、批評するようにである。わたしたちか「群衆」から身を引くのも、ひとが身を引くようにである。わたしたちが「憤慨する」のも、ひとが憤慨するようにである。この世人(ひと)とは特定のひとではなく、総計としてではないとしてもすべてのひとであり、これが日常性の存在様式を定めているのである。」 43
  • 「頽落」  私たちは日常において穴に落ちるように世人の中に呑み込まれて、そこから抜け出すことができず、どんどんその深みにはまっていく。これが現存在の最も日常的な姿である。 48
  • ハイデガーはコンスタンツの町の「お坊ちゃん学校」に通って強い違和感を感じた。 p.49 ジョイス
  • どちらを選んでも苦しみに苛まれることになる。 61
  • この意味において、自分が死ぬということは、誰とも交換することができません。ここからハイデガーは自分の死こそが、現存在にとってもっとも固有な可能性であると考えました。 //死とは、それが死で「ある」かぎり、その本質からしてつねにそのつど〈わたしのもの〉としてある。しかも死とは、各人に固有の現存在の存在が端的に問われるという特別な存在可能性を意味する。 //死によって「各人に固有の現存在の存在が端的に問われる」とは、 つまり私たち人間は、自分の死と向き合うことを通じて、初めて自分を「唯一無二の存在」として理解することになる、ということです。自分の死の可能性を前にしたとき、私たちはもはや、自分が他者と交換可能な存在であるとは思えなくなります。ここにハイデガーは現存在が本来性を取り戻していくための一つの手がかりを見出すのです。 p.66-67
  • 現存在の終わりとしての死はみずからにもっとも固有で、〔他者との〕関係を喪失し確実でありしかも無規定な追い越すことのできない可能性である。  68
  • 死の可能性に向き合うとき、「私」は、世人とは違った生き方が自分にあること、別の可能性が自分にあることに気づく  70
  • 「良心の呼び声」   良心が、 「私には別のこともできたはずだ」、と「私」に迫る p.73
  • しかし、 ハイデガーがドイツ語で「決意性」と呼んでいる概念は、まったく反対のニュアンスを持っています。原語の「エントシュロッセンハイト(Entschlossenheit)」は、ドイツ語的に分解して考えていくと、 「鎖を断ち切る」あるいは「鎖から解放される」という意味合いを含んでいます。 つまり、 ハイデガーの言う「決意性」は、 狭まっていた視野を解き放ち、それまで「これしかない」と思っていたもの以外の、様々な選択肢や可能性が見えてくる、ということを示しているのです。 81
  • 全体主義に支配されるとき、人々は同じイデオロギーに染まり、 一人ひとりの個性は失われてしまいます。それに対して、この脅威に抵抗するためにアーレントが主著『人間の条件』 のなかで擁護したのが、人間の「複数性」でした。/複数性とは、 一言で表すなら、この世界で生きる人々の間に、 一人として同じ人間は存在しない、という性格のことです。そのため「私」は、それまで生まれてきた、今生きている、そしてこれから生まれてくるだろうどんな人間とも違った、かけがえのない個性を持った存在である、と考えることができます。   104
  • ハイデガーの「良心」は「それは間違っている」と語りかけることしかない。人間の本来性を「とにかく決定すること」としか捉えなかったが故にハイデガーは誤った(ハンス・ヨナス)   108
  • 「責任」  自分自身に向かうものではなくて、他者に対して引き受けるもの(ヨナス)  109

 

*[1] 三大難解哲学書 ①カント『純粋理性批判』・②ヘーゲル精神現象学』・③ハイデガー存在と時間』 ( [戸谷, 2022年]・p.4より)

*[2] [戸谷, 2022年]p.p.12-13.

*[3] [夏目, 1915年]

*[4] どうも探しきれない。わたしの記憶違いか?

*[5] [三浦, 2012年]

*[6] 以上3段落分は [戸谷, 2022年]の内容を要約した。

*[7] 戸谷自身は、ハイデガー論よりもむしろ、その弟子筋に当たるハンス・ヨンスやハンナ・アーレントに関する、というよりも、ほとんどハンス・ヨナスについての一連の論著で脚光を浴びた。①『ハンス・ヨナスを読む』堀之内出版・2018年、②百木漠との共著『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』2020年・慶應義塾大学出版会、③『ハンス・ヨナス 未来への責任――やがて来たる子どもたちのための倫理学』2021年・慶應義塾大学出版会、④『ハンス・ヨナスの哲学』2022年・角川ソフィア文庫

*[8] [柄谷, 1969年/2017年]

*[9] [シェイクスピア, 1601?]

*[10] [三浦, 『人生という作品』, 2010]