鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

話が拡がり過ぎる( ノД`)………

遍 歴

 

話が拡がり過ぎる( ノД`)………

 

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2022年2月21日(月曜日) 晴れ

花登筺(はなとこばこ)原作によるテレ‐ヴィジョン・ドラマ『どてらい男(やつ)』*[1]における山下猛造役で一世を風靡した西郷輝彦氏が逝去された。衷心よりご冥福を祈る次第である。

 

 

それからどうしたか?  

恐らく2月の初めから書いていた「『鬼滅の刃』異論」が、一応昨日脱稿したが、やっぱり、漫画を最後まで読んでないので不公正ではないかと思い、upするのを控えようかと思っている。ま、どうせ手直しをするしね。

要は、鬼殺したらいかんがな、ということに尽きるのだが、問題はそういう視点が原作漫画の作品の中にどれくらい出ているかに尽きるのだが。

それのスピンオフというか、もともと『鬼滅』と『呪術廻戦』を観ていて思いついたのが「変身と変貌」というテーマだが、これが20枚弱あって、膨らみそうなのだが、そこで、さらに出てきたテーマが、何者かによって人が食われる漫画(アニメイション)の比較というテーマで、これを仮に「存在の原的負荷について」としておく。これはもともと加藤典洋の『文学地図』に出てくる、村上春樹海辺のカフカ』などを論じた「関係の原的負荷――二〇〇八、「親殺し」の文学」に多くを負っている。

そもそも漫画もアニメイションも全く見なくなって30年ほど経つが、この間の脱落した知識や経験を補填するのは大変困難であるし、もう、わtしにはそんな時間は残されていない。

しかし、何本かの作品は確認せざるを得ない。それは以下の通り。

永井豪デビルマン

岩明均寄生獣

白井カイウ出水ぽすか約束のネバーランド

石田スイ『東京喰種――トーキョーグール』

諫山創進撃の巨人

庵野秀明(監督)『新世紀エヴァンゲリオン』   など

 

とにかく、未見・未読の作品が多いので、愚かというしかないが、まー乗りかかった船なので致し方がない。(´;ω;`)

 

本当は、「『罪と罰』試論」の続きを書かねばならぬのに。

 

目高の水槽は相方が先日掃除してクリーンになった。多分18匹欠けることなく生存しているようだ。田螺は全員専用の水槽に引っ越してもらった。うにのお供えのご飯の小松菜をあげると二日ぐらいで芯だけになる。

 

パキラの新芽が矢鱈と伸びている。

 

最近は家事もサボりがちだが、やっている最中は『村上RADIO』の過去のものを聴いている。『Youtube』では余り発見できなかったが、『ニコニコ動画』に第28回分までアップしてあった。それを順番に聴いて、やっと15回ぐらいまで来た。大変に面白い。とにかく

素晴らしいものから、まー言ってみればくだらないものまでジャズや音楽が好きなんだな、ということが伝わってくる。

 

その意味では、先日から、ネットで無料の『ユリシーズ』の勉強会があったので視聴している。これまた、会を運営している方々はどうもノウ・ギャランティでされているようで、これまた、ジョイスや『ユリシーズ』が好きではないとできない相談だ。何かを好きになるということは全く大切なことだな。先日の2月18日分は、第1部 司会/講師:小林広直氏(東洋学園大学准教授) 「第1挿話:母の亡霊、ふたりの主人、歴史」、第2部 講師:横内一雄氏(関西学院大学教授) 「尖れ、そして屈服せよ!――第1挿話の読みどころ」という内容であった。両者とも大変面白かったが、第一部では、何故「亡霊」と言えるのか、亡霊という視点を取ることの意味がより明確になるとよかった。第二部はジョイスの書法として、①「アナグノーシス(Anagnosis)」と②「チャールズおじさん原理(The Uncle Charles Principle)」が紹介されて大変興味深かった。①は語義が後になると解釈が変わってしまうということ。②は地の文が発話者の言葉遣いに影響されるということ。第一挿話では、スティーヴンとマリガンの対立・対照が明確に言葉に出ているが、それを翻訳で味合うのは相当難しいようだ。次も頑張りたい。

 

昨日は相方の妹のバイト先に呑みに行く。忙しそうで余り話ができなかったが、相方と妹は仲が良さそうである。鱈腹食べてお持ち帰りもして売り上げに貢献しようと思ったが、お金を受け取ってくれなかった(´;ω;`)。卒業と就職祝いで倍返しだ!

 

帰宅後、『鎌倉殿』、『ネバーランド』などを観て宴会。エバン・コールのテーマ曲のメロディがやっと覚えられるようになった。

3時頃寝る。

 

🦉

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*[1] 1973年-77年・関西テレビ

なかなか話が進まない( ノД`)………

遍 歴

 

なかなか話が進まない( ノД`)………

 

2022年2月7日(月曜日) 晴れ☀

 

その後どうしたか?  

その後、『鬼滅の刃』について書いていたら、終わらなくなってしまった。まだ書いている。そろそろ終わるか。

目高の水槽の田螺(多分)が増えすぎて、水槽が濁るので、20匹ぐらい取って引越ししてもらった。でもまだ30匹ぐらいいる。

 

昨日は、うにの花と野菜を買いに行ったが、花屋と遭遇できず。どこかに花を買いに行かねば。

相方とMDに行く。餃子のMSに入ってみた。餃子単体であれば別かも知れぬが、中華屋と考えると物足りない感じだった。仕方ない。写真撮り忘れ。

目高の水槽のフィルターの替えをTKHで買うも、もうすぐTKHはKzに変ってしまうので残念だ。

豆腐のSZで豆腐やがんもどき、大豆ミート、乾燥おからなどを買う。

BOに行って、散財する。もうこの段階で相方はサザエさんシンドロームで弱っている。

昨日の収穫。

番号

著者

書名

発行年月日

発行所

備考

ジャンル

コメント

241

野尻抱影

『星と伝説』

2003年2月25日

中公文庫BIBLIO

 

長篇エッセイ

星とか星座に興味があるが、全く分からない。中公文庫BIBLIOがcool過ぎるので見たら買うようにしている。光文社古典新訳文庫講談社文芸文庫と中公文庫BIBLIOはあれば買うようにしている。あ、100円ならね。

242

マンスフィールド

マンスフィールド短編集』

1957年8月30日

新潮文庫

安藤一郎訳

短篇小説集

記憶が曖昧だが、確か、江藤淳の最初期の文章に「マンスフィールド覚え書」があったような気がする。

243

朝日新聞「こころ」のページ編

『江藤さんの決断』

2000年1月5日

朝日新聞社

 

投書集

江藤が自裁した際の一般の読者の反響の集成。読まないかとも思ったが、念のために。

244

柳瀬尚紀

ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』

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1996年1月22日

岩波新書

 

長篇エッセイ

先日からZoomで『ユリシーズ』の講読会が始まったので。

 

245

筒井康隆日下三蔵

筒井康隆、自作を語る』

2018年9月25日

早川書房

 

インタヴュー集

過去の選集と文庫の巻末インタヴユーのようだ。

246

中村光夫

『日本の近代小説』

1954年9月20日

岩波新書

 

入門書

いささか故あって。

247

結城英雄

ジョイスを読む』

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2004年5月19日

集英社新書

 

入門書

先日からZoomで『ユリシーズ』の講読会が始まったので。

248

西村賢太

『寒灯』

2011年6月30日

新潮社

 

短篇小説集

先日亡くなった。46歳だったという。一冊も読んだことがないので、手に取った。風貌が中上健二に似ているが、作風はどうなのだろうか。

 

相方のMMが3月半ばに上京し、3週間ぐらい泊まるという。その間、わたしはうちを出なければならない。JK①に帰るか、ホテル住まいか、野宿か。あるいは、いっそのこと、3週間の旅に出るか?

 

 その後、DEで食材を買って帰る。

 DEで買った総菜パン、唐揚げでご飯(相方は一人鍋、後で雑炊をもらった)、MJで買ったチキンラーメンもどきを食べつつ(ノンアルで。そうか、それで思い出した。土曜日は金曜の深夜から急激な寒気に襲われて、朝から具合が悪く、半分寝たきりだったのだ。今は持ち直した)、テレ‐ヴィジョン番組などを観る。

  •  『鎌倉殿の13人』。

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    いやあ、この段階でMTがSなんて! この辺の歴史があまり分かってなかった(´;ω;`)。つーか、滅茶苦茶無理無理な挙兵じゃないか。よく生き延びたな。頼朝はともかく北条家が相当な鬼謀を巡らせて、政権を取ったと思っていたが、ほとんど偶然の賜物に近かったのか!? 
  • ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019年・アメリカ)。

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    これは流石に酷い映画だった。言いたいことは分かるが、あれだけお金をかけて、もう少し何とかならなかったのか。評価ゼロ。『シン・ゴジラ』への期待が高まる(まだ、見てないんかい!)
  • 鬼滅の刃――遊郭編』。

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    うーーん、なんか昨日のエンドクレジットがもう最終回のようだったぞ。鬼って、死ぬと爆発するのか?
  • 鬼滅の刃』。

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    こっちは以前途中で放棄した第一部。まだ途中。仕方なく見てる。

 

 という訳で3時就寝。9時半起床。

 

🦢

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恵方巻、『そして父になる』、『逃亡料理人』、『きのう何食べた?』など……

遍 歴

 

恵方巻、『そして父になる』、『逃亡料理人』、『きのう何食べた?』など……

 

2022年2月4日(金曜日) 曇り⛅

 

 

 

1 2月3日の食事

昨日は朝食(と言っても昼過ぎ)に、一昨日の残りの辛ラーメン鍋にさらに麺を投入して食べる。

昼食(と言っても夜7時ぐらい)は以前買った大豆ミートのハムカツとナゲット。

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夕食(と言っても0時過ぎだが)は恵方巻各種と豚汁など。恵方巻は齧らず、切断して、北北西も無視して食べる。

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2 是枝(これえだ)裕和(ひろかず)監督の作品を観なければ

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パラパラとテレ‐ヴィジョンのネット配信を見ていると、今更ながら、是枝(これえだ)裕和(ひろかず)監督の『そして父になる』(2013年)と『万引き家族』(2018年)が見られることが分かった。予告編を見て、まさにこれこそ「偶然の家族」のテーマに沿った作品に違いないと確信した。これは見なければ。しかし、いつ? どうやって?

 

3 『逃亡料理人ワタナベ』

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そうこうしているうちに、相方は早々に意識を失ったので、已む無く、池内博之主演による、『逃亡料理人ワタナベ』(2019年3月23日 - 配信開始、ひかりTV)*[1] という、どこかで聞いたようなタイトルと、どこかで見たようなコンセプトの、どちらかと言えば二番煎じのドラマかなと思いつつ、何気なく見たが、これが何だか面白かった。

これは、配役*[2]を考えてもかなりお金がかかっているようではあるが、主として主演の池内博之の醸し出す人徳というのか、或る種の「安心してください」的なオーラが、この作品のチープな(失礼!)コンセプトを救っている。これは重要な要素だとわたしは考える。脚本がどうであろうと、演出がどうであっても、俳優の持つ「見ていて安心」感というのは、なかなか得られるものではない。また、脇を固める助演陣もいい味を出している。

更に重要な要素は、他の料理系ドラマだと(すいません、わたしの極めて限定的な知識によるものです)、例えば、この手のドラマの走りとなった『孤独のグルメ』(2012年~・テレビ東京)が典型例だと思うが、あくまでも料理なり、飲食店なりがメインであって、その他の要素は、あくまでも取ってつけたようなものである。『孤独のグルメ』では、確かに冒頭に主人公の仕事のシーンは出てくるものの、そこでの苦悩なり、混乱なりが食事のシーンに持ち込まれることはない。いわんや、主人公の人生の断片が描かれることもない。もちろん、それはコンセプトが違うので、それはそれでいいのだが、本作は、そもそも主人公は冤罪によって警察に追われている身であり*[3]、そこには当然ながら、料理以外の要素がふんだんに持ち込まれることになる。

大体初回に至っては、主人公は料理を作りもしない。テーマとなっている料理「アジのまご茶漬け」は、岸谷五朗演ずるところのグルメな刑事が入った店での料理なんだから。

ただ、金目鯛のオブジェ? を使った演出は過剰かと思った。

いずれにしても、今後の展開が期待されるドラマの一つではある。

 

4 大変野心的な試み――『きのう何食べた?』を褒め称える

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その意味で言えば、話が完全に逸れるが、料理ドラマの枠を借りて、相当重いテーマを、そういう風には見せないように軽妙に描いたのが『きのう何食べた?』*[4]である。要は、毎回、西島秀俊演ずる一人の主人公「シロさん」が料理を作って、内野聖陽演ずるもう一人の主人公「ケンジ」と舌鼓を打つ、という形式を取りながら、本来のテーマはそこにだけある訳ではない。倹約家である「シロさん」は食費を切り詰め、安売りスーパーの「中村屋」の店内の物色したり、美容師である「ケンジ」が働く店の店長が浮気をして、それを店長の配偶者が相当クールに受け止めていたり、とかいろいろおもしろい。

さて、問題はここからである。

主人公二人はゲイで、同居している。無論、それを理解してくれる人もいれば、当然そうではない人の方が多い状況で、彼らは様々な、客観的に言えば比較的小さな困難を乗り越えていく。家族も含めて、周囲の人々もそれをどう受け入れたらよいのか悩みながら、ストーリーは展開していく。つまり、そんなに簡単な話ではないのだ。「シロさん」の父は大病もする(実際にはその父役を好演した志賀廣太郎が亡くなるということもあり、いろいろ考えさせられた)。

いずれにしても、もともと青年誌『コミック・モーニング』に不定期連載されたということも瞠目するが(今時の青年は「ゲイ」の「料理漫画」を受け入れたのか!)、深夜枠とは言え、それがテレ-ヴィジョン・ドラマ化され、人気を博し、スペシャル版も作られ、尚且つ映画化までされるとは。ちょっと、ここには額面通り受け取れないものがあるようにも思う。実際にゲイなどの同性愛者などに対する偏見は、まだまだ、そうとう根強くあるに違いない。ドラマはドラマということなのか。

それにしても、昨年の晩秋だったと思うが、わたしがバスに乗っていると、50代から60代の二人の女性たちが、この『きのう何食べた?』の映画の予告編か何かを見たのか、そこで紹介されていたと思われる料理の材料について楽しそうに話していた。いやはや。ここまで浸透しているとは。

いずれにしても、世界は多様であり、そのことを互いに受容し合う社会が必要だというのは言うまでもない。サブ‐カルチャーではあるが、サブ‐カルチャーであるからこそ、社会への影響なり、合意形成なりに水面下での力があると思われる。

その意味でも、この『きのう何食べた?』の、原作者も含めて、ドラマ、映画の製作者たちの、相当練りに練られた構想、野心的な企みに拍手を送りたいと思う。

ちなみに、わたしは原作の漫画は未読、映画も未見です。すいません。早いとこ手を打ちます( ´∀` )。

 

いや、それにしても、わたしがリアルタイムでテレ‐ヴィジョン放送を見ることはほとんどないと言ってよい。せいぜいニューズを見るぐらいだ。ここでの議論はネット配信によるものである。かつてのテレ‐ヴィジョン番組はリアルタイムで見るか、意識的に録画しておかなければ見ることは難しかったが、こういうご時世になってくると、いい作品であれば、いくらでも

後から発掘されて、再評価されるチャンスがある。素晴らしいことだ。またネット配信会社を通じて、出演者、製作者に幾ばくかでもギャラが発生するのであれば、更にまた素晴らしいことだ。恐らく、そこのところは、まだ不十分だと思うが、是非そのような面も順次改正、整備をしてもらいたいものだ。

 

🐧

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【註】

[1] キャスト 池内博之岸谷五朗・尚語賢・魏一・中村蒼三浦貴大・新津ちせ・門田宗大・中野良子(特別出演)・いとうあさこ筧利夫・(伊東市ゲスト)内田理央高島礼子・(京丹後市ゲスト)池端レイナ・阿部亮平螢雪次朗・(淡路市ゲスト)良知真次・広島光・渡辺大・(神石高原町ゲスト)飯窪春菜西山潤・(北九州市ゲスト)岩城滉一・清水くるみ、主題歌:「Face feat. 井上苑子」アーティスト/作詞/作曲:川嶋あい、挿入歌:「タバルほおばる」 アーティスト/TABARU ※スピンオフ番組「湯けむり下京」主題歌、監督:門馬直人、北畑龍一、佐藤リョウ、脚本:一雫ライオン、監修:李纓、プロデューサー:伊藤主税、夏暁暉、耿忠、岩崎雅公、エグゼクティブプロデューサー:吉田正大、佐藤崇弘、製作:and pictures /ムーランプロモーション/北京中城网科技有限公司/広州秀美綱絡文化伝媒有限公司/パソナグループ/ Wano、朝日フィナンシャルグループ/NexTone/大川興業、制作:and pictures /クレデウス ©2019「逃亡料理人ワタナベ」製作委員会。

*[2] 岸谷五朗中野良子(特別出演)、いとうあさこ筧利夫、(伊東市ゲスト)内田理央 高島礼子、(北九州市ゲスト)岩城滉一、他。

*[3] ただ、いささか気になるのが、何故逃げた? 殺していないのであれば、逃げずに捜査に協力すべきではないか。逃げるに値する理由が欲しいところだった。

*[4] テレビドラマ 原作 よしながふみ、監督 中江和仁・野尻克己・片桐健滋、脚本 安達奈緒子、制作テレビ東京・松竹、放送局 テレビ東京系列、放送期間 2019年4月6日 - 6月29日、話数12。

映画:劇場版 きのう何食べた?、原作 よしながふみ、監督 中江和仁、脚本                 安達奈緒子、音楽 澤田かおり、制作 エイベックス・ピクチャーズ・ザフール、製作 劇場版「きのう何食べた?」製作委員会、配給 東宝、封切日 2021年11月3日、上映時間 120分。

『ユリシーズ』、『新幹線』、『鎌倉殿』とか

遍 歴

 

ユリシーズ』、『新幹線』、『鎌倉殿』とか

 

2022年2月2日(水曜日) 多分晴れ☀ 

 

 

1 家事と食事など

相方は明け方KSに行った。わたしは一旦起きたのだが、どうにも目が覚めず、なんと11時36分に起床した。9時間も寝てしまった。前のSGに題材を取った奇妙な夢を見たが全く覚えていない。

どうしたのだろうか? 

洗濯、皿洗い、植物の水やり、掃除機、拭き掃除、うにのご飯などを行い、胃に負担を掛けないようにヨーグルトを食べ、昨日の鍋の残りの豆乳を胃に投入する。

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その後、記事をUPして、昨日の残りの台湾風豆乳鍋の汁に萎びかけたパクチーと素麺を入れて昼食とする。ま、これはこれ、ということか。

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その後、昨日から相方が肩とか背中が痛いというのでサロンパス的な奴を張ったが、なくなってしまったので、それも含めて買い物に行った。

今日は辛ラーメン鍋だ。何故、鍋が続くかというと、先日相方が白菜を丸ごと買って来たので、食べないとすぐ腐ってしまうからだ。

わたしは取り立てて、鍋が好きという訳ではない。酒を飲むので、何か固形的な何かの方がよいが、まー食べるものなんて、あれば何でもOKでしょう。

 

その後突如空腹を覚え、残りキャベツと大豆ミートお好み焼きを作って食べる。

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2 『ユリシーズ』zoom講演会

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20:00から22:00までは若手の研究者のグループ「Project 22 Ulysses」が主催するところの「22Ulyssesージェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」のzoomでの講演会に参加。面白かった。初読者向けとのことだったが、で、あるなら、もう少し、ジョイスの人となりや、『ユリシーズ』という作品の概略なり、魅力なり、ポイントとなるべきところが伝えられるとよかったかも知れない。

しかし、こういう縛りがないと、到底読もうとは思わないので、よかったと思う。問題は本が手元にないということだ。次回が2月18日なので、それまでに第一挿話だけでも読まなければ(´;ω;`)。ヤバイ。

いやー、しかし世の中便利になったな。

 

3 『#居酒屋新幹線』と『鎌倉殿の13人』など

晩御飯は予定通り、白菜消費習慣のため、辛ラーメン鍋。いささか水が多かったのと麺を早めに入れ過ぎた。まーまーか。

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テレ‐ヴィジョン・ドラマ『#居酒屋新幹線』と『鎌倉殿の13人』を観る。

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前者はいろいろ縛り(その地の名産の広報?)があるのかもしれないが、もう少しチープな感じでやった方がよかった。駅ビルか、駅ナカ売店で慌ただしく、適当に見繕うのが妥当ではなかったか。普通のサラリーマンがたかが出張ぐらいで、あんなに出費することは考えられない。昨日の回は出張先の宇都宮から往復100分かけて洞窟の造り酒屋に買い出しに行っているが、そりゃもう観光だろう!  あとはもう少し仕事や家庭のトラブルからくる疲弊やなどが出るとよくなるのだが。主役の眞島秀和がいい味を出しているだけに惜しい。

後者『鎌倉殿の13人』はとにかくキャラクターが生きている。

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流石、三谷幸喜である。この調子で頑張ってもらいたい。強いて難点を言えば、ナレイターの長澤まさみが生きていない。これは『麒麟が来る』のときの市川海老蔵と同様である。使いたいけどスケジュール的に難しいということなのか。エバン・コールのテーマ音楽のメロディーが覚えられない( ノД`)シクシク…。

 

3時頃就寝。

 

🐓

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何かを好きになるというのは、他人がどう言おうが、全く大切なことだ。

遍 歴

 

何かを好きになるというのは、他人がどう言おうが、全く大切なことだ。

 

2022年2月1日(火曜日) 多分晴れ☀ 

 

  昨日はあれからテレ‐ヴィジョン・ドラマの『ミステリーという勿れ』の第3回と『探偵が早すぎる』のチェイン・ストーリーという5分ものがあったので5回分観て就寝。2時頃か?

 『ミステリーという勿(なか)れ』は1、2回目は切れ目とか、設定とか、展開方法についていけなかったが、昨日の第3回は柄本佑(たすく)の怪演もあって、とても面白かった。強いて言うと雨の降らせ方とライティングに難があった。そこは残念。

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 早朝、偶々目を覚まして、起き上がったら、グオンという音と共に地震があった。直下型の地震だった。これはヤバイと思って眼鏡を探したが、幸いなことに、震度2だった。それですんだからいいようなものの震度が大きかったらまずかった、と反省した。

今朝は8時ぐらいに眼を覚ました。

ブランチは辛子明太子と生クリームのパスタと、出来合いのバジルのパスタ。写真撮り忘れ。辛子明太子と生クリームのパスタは相方の指示によるものだが、なかなかうまかった。

相方がKSに行くので散歩の代わりに買い物に出る。相方にKJCNでケイキを買う。無駄遣いしないようにすぐ帰る。

スヴィドリガイロフについて書いていたら、村上春樹も「眠り」について書いていたものを思い出して、少し手を入れてupする。

その前にその一節を含んでいた「三浦雅士論」をKH賞に出していたものの結果をHPで見る。今年は該当作なしとのことで、予算不足なのか、なんだか最初から出す気がなかったのではないかとか勘ぐるが、まー、これは売れる! というものが全くなかったということだろう。そういう意味では売れそうだと思って書いていないのが、そもそも感覚が狂っている、ということになる。要はこれなら書ける、とか、これが好きだ、とかいうものしかわたしは書けない、残念ながら……。

ま、でも、予想通りではあるし、去年、偶々、そのKH賞を出しているFW書店のPR誌を読まなければ800枚もの原稿を書かなかったはずだ。原稿の出来は不満だらけなので、これはこれで良かったとも思える。

ま、地道に継続することが大切ですね。

スヴィドリガイロフの下りはまだ途中。

  キャベツが痛み始めたので、焼きそばを作って食べる。

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  家事をしながら、『村上RADIO』の過去のものをYoutubeで聴く。今残っているのは、2019年12月15日放送分の「冬の炉端で村上SONGS」と、2022年1月10日放送分の「村上RADIO 成人の日スペシャル~スタン・ゲッツ 音楽を生きる~」の2本のみである。これもいつ消えてしまうことか。それというのも、わたしのパーソナル・コンピュータやらのラジオ録音機能がおんぼろでできたりできなかったりしたからだ(´;ω;`)。 昔は普通にカセット・テイプで簡単に録音できたのに。ま、もうそれらは多分聞くことはできないであろうが( ノД`)。

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 これらの2本はとてもいい。素晴らしい。とりわけ、スタン・ゲッツの特集は、うーーんと唸らされた。村上さんが訳した、ドナルド・L. マギン『スタン・ゲッツ――音楽を生きる』(2019年・新潮社)はいささか高価(3520円)でなかなか手が出ないが、いずれ読まねばならぬ。

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彼の数奇な人生もさることながら、彼の音楽の、何と言ったらいいのか透明なクールさ、それと共に村上さんが好きなものへの強い愛情というか執念のようなものを感じ取ることができた。

何かを好きになるというのは、他人がどう言おうが、全く大切なことだ。

ま、そんなわけで、何度も聴き返している。

夜は先日MJRHで買った「台湾風豆乳鍋」的なものを作って食べる。豆乳の味とラー油? と酢の味がブレンドされて、未知の味覚だった。特別美味しいとは思えなかったが、これはこれでありかな、とは思った。

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KJCNのケイキを食べる。相方は苺ショート、わたしは苺フルーツケイキ。

相方が翌日早かったので、何も見ずに寝る。

そう言えば、2月2日にジェイムズ・ジョイスの研究会のようなものがZOOMで一般公開される。せっかく時間があるので(普通に仕事をしていたら無理だった)、申し込む。残念ながら、『ユリシーズ』はJK②にあって、今手元にない。これを聞いて面白かったらどうしよう。やること満載で忙しい。ま、好きなことだからいいか( ´∀` )。

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🐦

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人間の拡張 ――村上春樹「眠り」考

村上春樹試論 Ⅴ 

  

人間の拡張

――村上春樹「眠り」考

 

 

1 夢見るための目覚め

 

   「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」

 

 これは村上春樹の言葉、というよりも村上の著書、インタビュー集の書名である*。しかしながら、村上自身の或る種の実感がそこに表れていると言ってよいだろう。

 

*村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです――村上春樹インタビュー集 1997⁻2009』2010年・文藝春秋

 

 眼が覚めると夢の中だというのだから、現実と夢想の世界が丁度反転している形になっているということだろうか。

 もちろん、そうではなくて、直接的には、村上は小説という、共有可能な夢を紡ぐために起床しているのだという意味だろう。書名の元になったインタビューの題名は「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」*だからだ。

 

* 「書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなもの」2003年/前掲『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。

 

 しかしながら、単に職業作家だけが持つ感覚というよりも、冒頭でも述べたが、そこに或る種の感覚、夢の世界の方がリアリティがあり、現実の日常生活の方がむしろ空疎な、あるいはどこかしら底抜けの感じがして摑みどころがない、という感覚は広く一般の人々にも感じられているのではなかろうか。

 言うなれば、夢の世界は、例えば小説の世界でもあるし、広く、映画やテレ‐ヴィジョン・ドラマ、あるいは演劇などの世界にも敷衍することができるかも知れない。

 無論、現実の社会情勢や具体的な事実に竿を差した作品も多く見られることだろう。しかしながら少なからぬ、文学に限らず、現代の表現者たちが、夢の世界に捉えられていることは間違いないと思われる*。

 

*この問題、すなわち多くの文学者たちが夢の世界、すなわち「幽霊」に囚われていることを論じたのが三浦雅士「孤独の発明 または彼岸の論理」(原題「孤独の発明」/『群像』2010年1月号~2011年6月号・講談社。未刊行)に他ならない。

 

 ただ、今回述べたいと考えていることはそういうことではない。そのことを考察するために、村上の短篇小説「ねむり」*を挙げてみたいと思う。

 

*村上春樹「眠り」/

①雑誌初出『文學界』1989年11月号・文藝春秋

②単行本  村上春樹TVピープル』1990年・文藝春秋

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③全面改稿、アートブック 村上春樹・イラストレーション カット・メンシック『ねむり』2010年・新潮社。本稿では③を使用した。

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2 「ねむり」

 「ねむり」は簡単に言えば「不眠症」の話である。「専業主婦」という言い方がOKなのかどうか不明だが、一旦このまま続けると、30歳*の専業主婦の女性が「不眠症」になって「十七日目になる」**。だが「不眠症」ではなくて、「ただ単に眠れないのだ」。「でも眠れないという事実を別にすれば、私は至極まともな状態にある。まったく眠くないし、意識はクリアに保たれている。むしろ普段以上にクリアだと言ってもいい。」***と言うのだ。したがって、あるいは「病気」(の一種)かも知れぬが、何しろ本人に今のところ、全く害がない、むしろ以前よりも快調のようにも読めるぐらいだから、問題はなさそうだ

 

*『ねむり』p.19。

 

** 『ねむり』 p.7

 

*** 『ねむり』 p.12

 

3 覚醒、あるいは人生の拡大

 眠れなくなって彼女はどうなったのか。夜中は起きている。というか24時間ずっと目覚めている。今まで飲んでいなかったブランディーを口にし、夫が歯医者のため禁止されていたチョコレートを食べ、そして『アンナ・カレーニナ』を異様な集中力で読み続ける。最初の一週間で3回も読んでしまう。その都度新しい発見をする。そして、

 

どれだけ意識を集中しても私は疲れなかった。(中略)いくらでも読み続けることができた。どれだけ意識を集中しても疲れを覚えなかった。どのような難解な箇所も難なく理解することができた。(中略)そして深く激しく感動もした。(『ねむり』p69)

 

 

そして彼女はこう言う。

 

これが本来の私のあるべき姿なのだ、と私は思った。大事なのは集中力だ、私はそう思った。(『ねむり』 p.69)

 

 

「覚醒」というのはまさに今まで眠っていたものが目覚める、あるいは隠されていた可能性が開花することを意味するが、まさにそれだ。

   要するに彼女に訪れたのは、今まで睡眠という形で一日の中の何時間が「無駄に」消滅していった時間が、有効に使えるようになった。つまり一日の時間が増殖したということになるというのだ。それは言い換えるなら「要するに私は人生を拡大しているのだ」*ということになる。

 

   * 『ねむり』 p.67・下線部、原文は傍点。

 

 無論消費できる時間が増えているのだから「拡大」ということになるが、先述した、主人公の「不眠」以後の様子を見ていると別の言い方が浮かんでくる。彼女は眠れないのではなくて、眠らないのです。そのことによって、「人間の拡張」をしているのだ、と。

 しかし、そうは言っても、実際にはなかなか「人間の拡張」までは行っていないように思える。せいぜいが、本来のあるべき姿を取り戻しているぐらいが関の山かも知れない。また作者自身の意図としてもそこにはないかも知れない。

 しかし、この作品が潜在的に持っている可能性のようなものを考えていくと、どうもこの考えをわたしには捨てきれないのだ。

 それで結局どうなるのかと言えば、深夜にドライヴに出かけた主人公が波止場に停車していると、見知らぬ男たちに、車ごと揺さぶられるがどうすることもできない。そして「何かが間違っている。」*と独白して、諦めて泣くシーンで終わるのである。

 

* 『ねむり』 p.86・原文ゴシック体。

 

4 眠りの反転

 言うまでもなく、彼女は眠れなかったのではなく、むしろ逆で、眠っていたのである。題名が「ねむり」とあるのだから、眠っているのだ。果たして、17日とか、そのような長期に渡る眠りかどうかは分からない。もし、そうだとすると昏睡状態ということになる。

 車を揺さぶっている男たちは「二つの影」*とあるから、二人です。順当に考えれば、彼女の夫と息子が眠っている彼女を起こそうとしていると考えることができる、一応は。

 

* 『ねむり』 p.85。

 

 最後のシーンで主人公が諦めて泣いているのは、むりやり現実世界に連れ戻そうとする夫と息子という「現実」を忌避しているとも考えられる。

 

5 内面の世界へ

 さて、一体これは何を意味しているのか。無論、作者村上の意図を問うている訳ではない。ここからどんな意味を汲み取ることができるのか、という意味である。

 逆と言っていいのか、同じと言っていいのか分からないが、村上の中篇小説『アフターダーク』*には2か月間眠りから目覚めない女性が登場する。この場合は昏睡状態と言ってもよいだろう。彼女はこの作品の主人公の姉だが、外部からしか描かれないため、その眠りの世界の内面は分からない。そもそもなぜ2か月間も昏睡状態なのかも分からない。

 

*村上春樹アフターダーク』2004年・講談社

 

 ただ、村上にとってこの状況は何がしかの、あるいはそれ以上の意味を持つものだろうということは朧気ながら伝わってくる。

 というのはこの夢想世界と現実世界、言ってよければあの世とこの世の二重構造、対比構造は村上の作品ではしばしば見受けられるものだからだ。

 典型的なものが、まさに題名通りと言うべきだが、出世作世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』*。まさにあの世とこの世である。

 

* 村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』1985年・新潮社。

 

 この世であるところの現実世界ではハードボイルドさながらの冒険活劇が繰り広げられるが、あの世である「世界の終り」では「自我意識」を失った人々が謐かに、そして「永久」に暮らす場所だ。実はこの「世界の終り」は「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公「私」の自意識のコアであるとされる。最後的に「私」は組織の暗躍?   によって意識を喪い、つまりは昏睡状態になるわけだが、その奥で、「世界の終り」の主人公の「僕」は、ということは「僕」は「私」の自意識ということになるが、その「世界の終り」の世界は間違っているから脱出しようと誘う「影」、つまり「僕」の「無意識」に相当するのか、その「影」の誘いを断り、その「世界の終り」の世界は「僕」自身なのだから、逃げ出すわけにはいかない、「責任」を取るべきだとしてその世界に僕は残ることになります。

 ここは村上自身も結末の付け方を迷ったとしているが、これで「正解」ではなかったかと思う。

 「私」は物理的には意識がなく半死半生状態ではあるが、自分の意識ではあるが、「世界の終り」の世界に「僕」として、恐らく永久に生き続けるのである。

 そして、もし『アフターダーク』の姉が眠っている世界も同じような半永久的な世界だとしたら。

 そして、同じように「ねむり」の主人公が眠っている、いや、生きている世界も同じだとしたら。

 いや、確かに「ねむり」の主人公も「あの世」に行っているのだろうけれども、「世界の終り」のような謐かな世界という訳ではなく、むしろ現実そっくりである。それは主人公は現実世界で眠れなくなった、というだけで、あとは別におかしなことはないから当然といえば当然だ。

 いや、そうではなくて、先に検討したように、彼女が自分自身で言うように「人生を拡大」しているというのを、彼女の能力が拡大している、もし、彼女が「死の世界」に「生きている」とすれば、矛盾と嗤うなかれ、「不死の世界」に生きているのだとすれば得心が行くのではないだろうか。

 言うなれば、人間の能力の限界まで拡張させてみた、言い換えるなら、人間の遠い彼方へ拡張させた、ひとつの姿がここにあると言えないだろうか。

 

6 「人間の拡張」

 「人間の拡張」 と言えば、言うまでもなくカナダの文明評論家マーシャル・マクルーハンの『人間拡張の原理』*を想起する方も多いだろう。

 

* Herbert Marshall McLuhan, Understanding Media: the Extensions of Man, (McGraw-Hill, 1964). /後藤和彦・高儀進訳『人間拡張の原理――メディアの理解』(竹内書店, 1967年)/栗原裕・河本仲聖訳『メディア論――人間の拡張の諸相』(みすず書房, 1987年)

 

 マクルーハンは、あらゆるメディアやテクノロジーは人間の能力の拡張として機能すると述べた。例えば脚の拡張が車輪であり、耳の拡張がラヂオであるという具合に。

 で、あるとすれば人間を拡張するヴィークル、乗り物として「夢」はありえないどうか。あるいは小説や映画、あるいは音楽作品というものが人間の能力を、あるいは人間のあり方を拡張しているのだと言えないだろうか?

 

 

4419字(12枚)

 

 

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初稿は2021年の6月から8月にかけて執筆

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『村上RADIO』を聴きつつ鰤大根を作り、日干し煉瓦について考える

遍 歴

 

『村上RADIO』を聴きつつ鰤大根を作り、日干し煉瓦について考える

 

2022年1月31日(月曜日) 多分晴れ  

 

 1 村上RADIOと、うにの脚ダンと、鰤大根について

 

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それから日記のようなものを書いてうちに、夕方になり晩飯を作る。家事をしながら昨日放送された『村上RADIO』*[1]を「radiko」で何度も聴く。何故何度も聴くかというと、家事をしながらなので、全部が全部聴ける訳ではない。洗い物で水が出ているとまず全く聴こえない。遠くに行ってもやはり聴こえない。音量を大きくすればいいではないかと思うが、兎のうにがいた頃、驚かせないように、余り大きな音を出していなかったことの名残だ。

と言っても、うには音楽的な音は耳に入っていなかったかも知れない。テレ‐ヴィジョンの音も大丈夫だったようだ。よく、相方とテレヴィジョンを観ているときの、たったかたったかとやってきて、テレ‐ヴィジョンの近くのソファの下(ここが彼女の実家。「実家」というのは本拠地という意味ではなくて、「実家に帰らせていただきます」の「実家」。つまり、困ったときや、病院帰りで隠れようとするときに籠っていたのが始まり)やミニ・テイブルの下(シン別荘と呼んでいました。別荘はテレ‐ヴィジョンの横の隙間)で寝ていたぐらいなので。

 ただ、お金の貨幣を数えるチャリン、チャリンという音と、何かを朗読する音は、どういう訳か、イラっと来るようで、よく脚ダンといって、後ろ脚をダンと床に叩きつけて怒っていた。何故、その音が駄目だったのかは、今もって理由が不明。

 もうひとつ何度も聴く理由は、わたしが、ジャズのジャの字も分からず、何を聴いても区別が全くつかないからだ。しかし、村上さんの話を聞いていると、何故か、なるほどね、と思えるから不思議ではある。

 

今晩は昨日TKストアで鰤(ぶり)の切り身が半額でまーまー安かったので買い求めたものがあるので、鰤大根を作ってみようと思う。ほんとは先週も作ろうと思たが、意外に鰤が高過ぎて手が出なかった経緯がある。

で、適当に作る。

①もやしのナムル風のゴマ和え。②小松菜と油揚げ人参の味噌汁。③白菜のマリネ。④鰤大根。というラインナップだ。

例の如く味見をしないので、食べて見なければ出来のほどは分からない。

 

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で、食べたところ、③はまーまーいい感じ。だが、④は水を入れ過ぎたのか薄味だった。残念( ノД`)。

 

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2 日干し煉瓦を積むことについて

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わたしは一応山羊座のA型なので(とかいっても全く根拠のない議論ではあるが)、日干し煉瓦を一個一個丁寧に自分で干して、それを更に一個一個丁寧に積み上げて、山の上に小城とか、川の上流の奥地の砦かなんかを築きたいと思っている。まー、要するに、自分の場所、とか自分の守備位置をきちんと決めて、それを頑なに守る、というのが性に合っていると思っている。

ところが、全くそういう状況になっていない。

前にいたKSではそういう方針でやってきたが、或る程度のところまで行くと、主としてJSから、ちゃぶ台返しをされてしまう。つまり、わたしの方針から、人間性から、仕事の能力、様々なことが気に入らないのだろうか、全否定される、ということが何ども続いた。しかし、わたしの性格的には、どんなに酷いことを言われたり、如何なる辛いことがあろうとも、一晩酒飲んでぐっと抑え込む、ということを続けていた。定年まであと少しだったので、なんとか頑張ろうと思っていたにも関わらず、どういう訳か、全く突発的と言ってもいい感じでKSをYめた。自分でもよく分からないが、多分、自分の中で積み上げてきた日干し煉瓦をあっという間に崩されたので、ああ、このままでは、また同じことの繰り返しだ、と思ったわけではないと思うが、何か糸が切れてしまった。

すぐさま、次のKSを探そうと思ったが、なかなかうまくいかない。いろいろ紆余曲折あったが、結局あれから一年が過ぎようとしている。酷いもんだ。どうなっているのだろう。

この一年についても、兎のうにの看病についても、今のわたしにはまだ理解できない、何か意味があるのだと思うが、表面的には結果が出なかった。表面的なことだけを言うと、全く積み上がらなかったということになる。わたしは実質兎のうに担当だった訳だから、自分の担当したうにを死なせてしまった、というのは余りにも辛いことだ。

また、何本か公募原稿も送付したものの、全く箸にも棒にも掛からない。この件についても、長い原稿が書けるようになったということを除いて、何も積み上がっていない。

纏めると、2021年でわたしが主として行っていた三つのこと、つまり

 

  • SS活動
  • 兎のうにの看病
  • 執筆活動

 

これら、いずれも、煉瓦を積み上げること、つまり何らかの形にすることが、できなかった。痛恨というしかない。とりわけ、うにのことは取り返しが付かないことなので、後悔しても、反省しても、どんなに自分を責めても何にもならない。

しかしながら、これらのことは表面的な、物理的なことだ。幸いにも長い年月を生きてくると、或る意味では悪知恵がついてくると言うべきなのか、したたかになってくるとというのか、実は目に見えるものだけが全てではない、ということが多少なりとも分かってくる。

死んでしまっても、実は、それは単に生の裏返しに過ぎないのではないか、いや裏返しですらない。今まで水中に棲息していたヤゴが成虫の蜻蛉になって空中に飛び立っていく。今まで水中で話をしていたメダカの目に映るものはそのヤゴの抜け殻だけである。メダカはもうその蜻蛉と意思の疎通を図ることはできないかもしれない。メダカは、そのヤゴは死んだと思うだろう。生と死というのはそういうものかもしれない。

われわれは、余りにも目に映るもの、形にあるものにこだわり過ぎるのかも知れない。

大切なものはそうそう簡単には手に入らないのだと思えるようになってきた。また、本当に何が大切なのかということもそう簡単には分らないのだも思うようになってきた。

今までにも増して、コツコツと形にならない日干し煉瓦を心の中に積み上げて行こうと思う。

 

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20220201 1022

 

【註】

*[1] 「ジャズ奥渋ストリート」2022年1月30日・東京FM系列。