鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

謎々『ユリシーズ』その2

Νέστωρ

 

謎々『ユリシーズ』その2

 

はじめに

 

 あらかじめ断っておくが、わたし個人はジョイスが好きであるとか、『ユリシーズ』という作品の素晴らしさを痛感している、ということは全くない。

 ジェイムズ・ジョイスについての、わたしの限られた伝記的な知識をもってすると、とてもひねくれた、かなりつき合いづらい男ではなかったか、と思われるが、それに加えて、極めて尊大な自信家で、一体どこにジョイスの良さを見いだせばいいのかさっぱり分からない。

 さらに、その代表作たる『ユリシーズ』であるが、これは流石にお金をもらってお読みいただくような代物とは思えないのだ。正直、一読しただけでは意味が分からない。意味が分からないものをどうやって楽しめ、というのか。いや、文学的価値に娯楽的要素は不要だという方もおられよう。いや、まあ、そういう方々についてはそっとしておく外はない。お休みなさい。

 とまあ、以上が『ユリシーズ』についてのわたしの基本的な考え方で、それは現在でも変わらない。うーーん、何というのか、ジョイスは意外に真面目で、それ故に、自らの小説の純度、密度について、考えに、考えて、考え過ぎて、読者の持つ、或る一定の許容点、限界点を超えてしまったのだと思う。つまりは小説としては破綻しているのだ。それを果たして優れている、と言い得るのか、わたしには疑問である。

 ところが、以上のような前提のもとに、いささか奇ッ怪なことが生じたのだ。

 そもそも、今年の春までは、全く『ユリシーズ』については手も足も出ななかった。それは、詰まらない、というか分からないからだ。

 ところが、と或るきっかけで、『ユリシーズ』を読むことになった、というか、した。そのきっかけとはzoomによる読書会*[1]、というか講義と質疑応答なのだが、第1挿話、第2挿話ぐらいまでは、やはり、そもそもテキストそのものが理解できなかった。しかし、その講義そのものは、大変知的刺激に富み、大変面白かったのだが、それはジョイスそのものとは直接は関係ない話だ。つまり、自分が、お客様で、ただ話を聞いているだけでは駄目なのだ、と気づき、質問をすることにした。そのzoom講義の主催者の方々はなかなか太っ腹で、どんな些細なことでも、素人だからと遠慮せずに聞いて欲しい、という態度だったと思う。大体、冒頭に、まだ読んでない人もいるだろうから、と、詳細な粗筋をも紹介してくれるぐらいだ。

 そこで、浅はかにも、その言葉に気を良くした、わたしは質問を考えようとした。しかし、何も浮かばない。そもそも内容が分からないのだから。

 そこで、相当ゆっくり、嘗めるように、再読してみた、というか再読しようとしてみた。すると、どういう訳か、何か、真っ暗な宇宙空間から、規則的な信号めいたものが傍受されるではないか。あるいは、ずっと砂嵐で視界が閉ざされていたのだが、そこに何かの怪しい図像が浮かび上がってくるではないか。

 気がつくと、同じ1ページのある箇所、場合によっては、或る1文、あるいは場合によっては、或る単語を巡って、ああでもない、こうでもないと調べたり、考えたりしていると、あっという間に数時間が経っていた、というのがざらになっってきたのだ。

 もう一度言うと、わたしは必ずしも、ジョイスや『ユリシーズ』が好きだとか、面白い、と思っている訳ではなくて、已む無く、こういう事態になってしまったのだ。こんな有様なので、全く、他の本も漫画も読めず、大変な迷惑を被っているのだ。極めて腹立たしい。

では、止めればいいではないか、と思うだろうが、そう簡単には行かない。自分ではもう自力ではここから脱出できないのだ。

いわゆる、これがジョイス沼、ということなのだろうか。

そのzoomの講義は隔週に行われる。したがって予習の期間は2週間もあるので楽勝と言いたいところだが、もちろん1読はできる。しかし、ゆっくり読む再読目が遅々として進まず、大抵は時間切れで終わってしまう(´;ω;`)。まさに連戦連敗である。

ちなみに、こんな有様なので、先行研究やジョイスに関わる辞典、あるいはその種のサイトは原則、未読、未見である。予習に時間が費やされて、とてもそこまでは手が回らない、ということと、自分でろくに考えもせず、答え(? そんなものがあるとして)を見ても、知っても、何も面白くないからだ。ま、この辺は素人ならでは、という感じだろうか。

したがって、参照するのは、①原文、②鼎訳の単行本と文庫本(若干違う)、③柳瀬訳、④ネットで検索できる、英和辞典やwikipedeaなどである。

以下は、そのzoom講義のために一素人が乏しい知力とさもしい思考力で捻りだした「質問」の幾つかである。

第2挿話についてはこの質問を元にエッセイを捏造した(「シ」(史/詩/師/死……)の影の下に――「第2挿話 ネストル」を読む)ので、解答らしきものは、そちらを参照して頂きたい。

それ以外の、後に続く挿話については、いずれも途中で終わっている。解答があるものもあるが、私見なので、信憑性は極めて低い。もし、わたしに、愛と勇気と、そして残された時間があるのであれば、続稿をアップしたいのだが、ちょっと、かなり、難しいかも知れない。わたしにだって、いろいろやるべきことがあるのだ。

 ま、そんな訳で、書式が不統一だったり、中断していたり、なんだかどうも、という感じだが、老いたるサラリーマンに出来ることはこんなところが関の山なのである。共に嘆かれよ、諸君、乾杯!!

 

 

「シ」(史/詩/師/死……)の影の下に

――「第2挿話 ネストル」を読む

 

【凡例】

・『ユリシーズ』からの引用は集英社文庫版による。鼎訳・巻数、ページ数で示す。単行本からの引用は、鼎訳・単行本・巻数、ページ数で、柳瀬尚紀訳からの引用は、柳瀬訳・ページ数で示す。また、英語原文はwebサイト『Project Gutenbergプロジェクト・グーテンベルク)』(Ulysses by James Joyce - Free Ebook (gutenberg.org))によった。

・『新英和中辞典』(研究社・電子版)はwebサイト「weblio」からの引用であり、以下「新英和」と略記し、最終更新日、閲覧日については省略する。一般的な訳語についての語註は「weblio」の見出しから取り、「weblio」と表記する。

・綿貫陽、宮川幸久、須貝猛敏、高松尚弘、マーク・ピーターセン『徹底例解ロイヤル英文法』改定新版・2000年・旺文社からの引用は「ロイヤル」と略記する。

・引用文の傍線(下線)、傍点の類いは何の断りもない場合は引用者によるものである。

 

 

ユリシーズ』 第2挿話「ネストル」を読む

 

1.

 

🖊 text

原文 —I have put the matter into a nutshell, Mr Deasy said. Its about the foot and mouth disease.

鼎訳 ――論旨は簡潔しごく、とミスタ・ディージーが言った。(こう)(てい)(えき)のことでね。(U-△Ⅰ,p.83p.86

📖

 ディージー校長の「口蹄疫」の投書は何か意味があるのですか?

 

2.

🖊 text

原文 —Three twelve, he said. I think youll find thats right.

鼎訳 ――三ポンド十二シリング、と彼は言った。これで合ってると思うが。(U-△Ⅰ,p.77p.79

📖

 スティーヴンの「3ポンド12シリング」の給与というのは高いのですか、それとも安いのですか?

 

3.

 

🖊 text

原文  It must be a movement then, an actuality of the possible as possible.

鼎訳 だからこれは、つまり、可能なものとしての可能態が現実態になることは、一つの運動でなければならない。(U-△Ⅰ,p.67p.69

柳瀬訳 すると一つの運動でなければならないわけだ、つまり可能としての可能態の一つの現実態。(p.52

📖

 アリストテレスの「可能態」、「現実態」、「形相」の言及がありますが、この小説ではどんな意味があるのですか?

 

4.  「やつはシェイクスピアの亡霊がハムレットの祖父であるってのを代数で証明するのさ」(175176)はどんな意味ですか?

 

5. 「歴史というのは(中略)ぼくがなんとか目を覚ましたいと思っている悪夢なんです。(中略) その悪夢がおまえを蹴返したらどうなる?」 (..438-441)の後半の「その悪夢がおまえを蹴返したらどうなる?」とはどんな意味ですか?

 

6.  ディージー校長は何故ユダヤ人を嫌うのですか? 512

 

(中絶)

3734字(10枚)

🐧

20220709 0012



*[1] ① 「22Ulyssesジェイムズ・ジョイスユリシーズ』への招待」全22回開催・2022年2月2日から1216日までon lineにて実施・発起人:田多良俊樹、河原真也、桃尾美佳、小野瀬宗一郎、南谷奉良、小林広直、田中恵理、平繁佳織、永嶋友、今関裕太、宮原駿、湯田かよこ、新井智也。2022年の『ユリシーズティーヴンズの読書会」全18回(?)開催・2019616日から・現在はon lineにて実施・主催者: 南谷奉良・小林広直・平繁佳織。