鳥  批評と創造の試み

主として現代日本の文学と思想について呟きます。

偶然性の倫理学・覚書 0、Ⅰ

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偶然性の倫理学・覚書

 

 

※本稿は未定稿です。本来なら行ういろんな手順を省いてあらすじだけを書きました。すぐにでも追加の調査や推敲をしたいのですが(するかも知れません)、ちょっと個人的な事情があって動けないかもしれません。「はじめに」は同居人の兎の危篤の報を受けて、K**市にある動物救急病院の待合室でスマート・フォンに書きました。そういう事情です。その兎のことは別稿を上げましたし、落ち着けば、本稿の1章として「偶然の家族」と題して書こうと思っています。

 

 

はじめに――「偶然性の倫理学」とは何か?

 

善きにつけ悪しきにつけ偶然に起こった出来事に対して倫理的な判断は下せないのだろうか?*[1] というところから始めてみよう。

つまり、仮に善行をなしたとしても、それが偶然によるものであれば、その人はそれだけでは善人とは言えないのではないか。

また逆に悪行を行ったとしても、それが偶然性によるものであれば、それは単なる「事故」と言うべきであって、法律的にはともかくとして、倫理的には、なんら責められるものではないのではないか。

 つまり自らの「意志」を以て、善行をなそうとし、行ったもののみが善人と言うべきである。また、逆に、自らの意志を以て、悪行を働いたもののみが語の真の意味での悪人と言える。

 太宰治の「走れメロス [太宰, 1940]*[2]の主人公であるところの青年牧人メロスはいかにも正義の塊で、人間の「信実」とやらを証明したことになっているが、とんでもないまやかしではないだろうか。彼は途中でへたばって眠り込んでしまうが、「たまたま」目の前にあった泉の水を飲んで復活して走り出すことができた。完全な偶然である。あるいは、泉の有無は関係なく、彼は復活出来たのだいう人もいるだろう。でも、しかし、それはメロスが若くて屈強な肉体を持っていたから可能だったのであって、復活そのもの、あるいはそこに人間の信実の存在を明証するのは、無理があると言わざるを得ない。メロスが若いことも、屈強な肉体を持っていたことも単なる偶然である。その意味では、彼は日本文学史に名だたる詐欺師ではなかろうか。

 いや、そうではない。それは一見偶然に思えるが、偶然ではないのだ、という立場もあり得るだろう。根本は全て必然なのだ、という考え方である。つまり、「意志」の有無がここでは問題になっているかもしれぬが、この意志そのものが問題となる。そもそも人間にとって、我々がイメージしている自由に選択可能だという意味での「意志」というのは存在するのであろうか。

 さまざまな目に見えない要因の連鎖とそれまでの人生経験などによって、あれがいい、これはダメという判断は、本人の全く与り知らぬところで、事前に決定されているのではないか。自らの意志と思い込んでいるものも、実は、相当な割合で、他者との関係性や、社会か文化的な背景などの環境に多分に左右されているのではなかろうか?

 いやいや、そういう社会学的? なことではなくて、そもそも、全ては必然的に生起していることなのだ。その根柢に神の意志を見る人もいるだろう。全ては神が事前に、あるいは瞬時に決定しているのである。そこには人間の自由な意志は存在しない。そしてさらにはそこでは、人間の言動、思念に対する善悪そのものを問うこと自体が無意味になる。全ては神の筋書き通りことは進んでいるのだから。

 あるいは仏教の考え方に基づけば、全ては前世、あるいはそれまでの因果、因縁によるものとされている。いま、何らかの不幸な状況にあるとすれば、それは前世の悪行による。したがって、そこから脱却しようとすれば、今世において、仏教的な意味での善行を積まねばならない。ということは、一旦そこには運命論的な思想があるとは言え、それに対する幾ばくかの自由意志が認められているようにも思える。

 だが、ここで問題となるのが「幾ばくかの自由意志」とやらである。仮にここに悪人Aと悪人Bという二人の悪人がいるとする。悪人Aは自らの不幸を嘆いて、仏の教えに導かれ仏道修行に励むことができ、幸いにも成仏できた。ところが悪人Bの方は、自らの不幸にもかかわらず、仏の教えに耳を貸すことなく、凶悪な犯罪を重ねてついには死刑場の露と消えてしまった。さらには第三の悪人が登場する。悪人Cとやらは南米はアマゾンのジャングルに生を受けて、終生仏の教えに触れる機会が持てなかった😢。これもまた仏教では、当然前世の因縁にて説明するのであろうか。悪人Bも悪人Cも前世においての善根が積み足らなかったが故に仏との機縁を結ぶことができなかった。じゃあ結局のところ、救われる人は救われ、救われない人はなかなか救われないという決定論ではないか、ということになる。

 シェイクスピアの言葉ではないが、この世は舞台で、我々はそこには立つ単なる影法師なのか*[3]

 つまり、全てを検討した訳でもなく、頭に残っていることをただ書き出したに過ぎないが、つらつら先人の教えに耳を傾けてみると、偶然は存在しない。全ては何らかの必然的な事象の現れなのだ、ということになる。要は全ては「運命」なのだ。と、まー、そういうことになるが、本当にそうであろうか?

 個人的な感想を述べるとすると、――あくまでも個人の感想です、現実的に確認できない無数の必然的原因を想定しても致し方がないのではなかろうか? わたしが勝手に思っていることはこういうことである。すなわち、現実に起こっている現象は100パーセントの必然と100パーセントの偶然という両極の間のグレイゾーンにあって、必然性が強いものと偶然性が強いものという言い方ができるだけである。

したがって逆に言えば、100パーセントの必然も100パーセントの偶然も存在しない。必然が100パーセント、必ずそうなるという意味だとすれば、それぞれの現象は多かれ少なかれ何らかの素因を持っているとも言えるが、濃淡はあるにせよ全ての現象は偶然である。

 では、そのような偶然が占有するこの世界において、我々は果たして善悪の判断、倫理的な判断を下すことができるのであろうか、というのが、本稿の元意である*[4]

 結論を先に言ってしまうと人はそのような、必然的決定論を取るにせよ、倫理的な責任が問えないと思われる偶然が満ちた状況であるにも関わらず、あるいはそうであるが故に、逆に「倫理的な行動」を取ってしまうのではなかろうか? この場合、倫理的な行動とは、善行をのみ意味しない。悪行も「反倫理的な行動」としての「倫理的な行動」の中の構成要素として考えたい。以上、殴り書きになったが、現段階におけるわたしの考えである。

 

 

 

偶然性の倫理学・覚書

 

そのⅠ 偶然と意志――ラスコーリニコフで考える

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先日、偶々(たまたま)、『罪と罰』 [ドストエフスキー, 1867]を30年振りぐらいに読み返して様々驚いた。一言で言えばとても面白かったのである。そのいくつかの点は『罪と罰』そのものの感想文として纏めておこうとは思っているが、それとは別に特殊なテーマについては、それそのものとして取り上げてみたいと思った次第である。

その一つが「偶然」あるいは「偶然性」の問題である。この問題は2017年9月3日(ゲゲ、5年も前ではないか!)に突然思いついた、とわたしは思っているが、何人もの先行者の見えざる影響というのが意識下に沁み渡っていたのかも知れない。

最初期のヴィジョンは「(自由)意志と偶然性」の問題であったかと思う。あなたはどこに行って、何をやってもOKですよ、という360°の自由を持ったとき、多くの人々はその自由をなかなか使いこなせず、立ち竦むことが多いに違いない。ところが、逆に、偶々仕事で行った出先の、何でもない街を歩くと、様々な発見があったりする。偶々入った古書店で、偶々探していた本が見つかることがあれば、それはラッキーだし、あるいは、偶々入った全く見知らぬ喫茶店で偶々飲んだ、未知の珈琲の味に驚くこともあるだろう。

それらはまさに「偶然」というしかないのだが、これらは一体何を意味しているのだろうか。ここには何か、考えるに値する意味があるのではないかと思ったのである。

無論、偶然の多くが幸福にかかわることは、恐らく多くの人々にとっても、さほど多くはなく、大半は悲しむべきことに現れるのかも知れない。多くの人々が『旧約聖書』のヨブ*[5]のような連続する、狙い撃ちのような不幸と不運に嘆くことはないだろうが、毎日がハッピーの連続だという人も数少ないと思われる。

本来は、書名も人名も専門的な難解な言葉を使わず、日常的な生活の事例をあげつつ、エッセイ風に議論を進めていくのが理想ではある。冒頭の一節は庭木に遊ぶ小鳥たちの描写から始めたいものだが、残念ながら、うちには庭もなければ、窓からは隣の家の壁しか見えず、木すら見えない。以上のような次第で、残念ながら、そのような高度な散文力を持ち合わせておらぬが故に、どうしても読書ノートの続きのような形で話は進んでいくことになる。ご容赦いただきたい。

本項では『罪と罰』のラスコーリニコフに協力してもらうことにしよう。無論、本人はそんなことを言っても、「冗談じゃない。勝手にやってくれ」とか言い捨てて、下宿の屋根裏部屋を出て行ってしまうだろうが……。

 それでは早速始めてみよう。

 

確かにラスコーリニコフは、いわゆる「ナポレオン主義」に囚われ、非凡な人間は大きな善(世のため、人のため?)の為に、小さな悪をなすことも許されると思い込み、老婆を殺したとも読める。が、しかしながら、彼は事前に何度もその計画を断念しようとする(その意味では「ナポレオン主義」というものは彼の本来の信念と言えるのであろうか?)。けれども、まさに「偶然」の連鎖が彼を犯罪へと、犯行現場へと導いていくのである。 

迷った挙句の最後の決断は、「7時過ぎに老婆の義妹リザヴェータが用事で家を離れ、老婆が一人きりになる」との情報を彼が、「偶々」立ち聞きした瞬間だ。

 

どうしてああいう重要な、あれほど自分にとって決定的な、と同時にあれほどにも偶然的な出会いが、センナヤ広場で(そちらに足を向ける理由すらなかったのに)、よりによってあの時刻に、彼の人生のあの瞬間に、しかもああいう精神状態にあるときに、そう、ああした状況をねらいすましたかのように訪れてきたのか。ああした状況にあったからこそ、あの出会いは、彼の全運命に対して、このうえもなく決定的で、取り返しのつかない影響をおよぼすことになったのではないか。そこで、まるで自分を待ち伏せしていたみたいではないか!( [亀山, 『『罪と罰』ノート』, 2009]p.164より援引)

 

 それ以降も何重もの障害を「偶々」乗り越えて、老婆殺害まで「辿り着き」、そして、またもや、「偶々」居合わせた義妹のリザヴェータをまで殺害するに至る。そして、本来であれば脱出が難しいはずの老婆の部屋からも、まさに単なる偶然の連鎖によっても、辛くも脱出に成功する。

この偶然の連鎖は、この物語の登場人物たちが、選りにもよって、あたかも同じ舞台の上に立ってなければならない、とでも言いたいかのように密集する*[6]のと同様に、確かに「物語的ご都合主義」とも読める。しかし、果たしてそうなのであろうか。

 さらに、この事件は、言うなれば完全犯罪のはずであった。警察は、予審判事のポルフィーリーも含めて、ラスコーリニコフが真犯人であるところの物的証拠は一切握っていなかったと思われる。したがって、彼が自首さえしなければ、そのまま闇に葬られていたかも知れないのだ。めでたく完全犯罪の成立、すなわち迷宮入りだ。

しかし、彼は、呼び出されたからと言って、どういう訳か、ご丁寧にも警察署に出頭し(これは単なる家賃の滞納の件だった)、予審判事のポルフィーリーの自宅にも出向き議論を吹っ掛け、レストラン「水晶宮」で偶々遭遇した、警察署の書記官のザメートフには言わずもがなのことを口走ってしまう。逮捕されたいんかい? お前は! と言いたいところだ。

最大の謎ポイントは何故、ソーニャに犯行の告白をする必要があったのか、ということである。そもそもなぜ、ソーニャに会いに行こうとするのか。もっと根本的に言って、何故、ラスコーリニコフは高飛びしないのか? 逃げりゃいいじゃん。何故、逃げないんだ?

 つまり、犯行に関わること、すなわち「罪」に関わることは、実はほとんど「偶然」である。無論、聖書にあるように思っただけで罪であるとすれば、確かに罪である*[7]。というかほとんどの人間は罪人であろう。しかし、法令的な意味での罪という観点では、彼の行動はほぼ偶然によって左右されている。つまり、「事故」と言ってもよい*[8]。にも拘わらず、これが、彼にとっての「罪」*[9]なのだ。

 しかし、それに対して、犯行後の彼の動向は、あるいは「何者か」に操られているような気もしなくもないが、基本、しなくてもいいこと、自らの犯行にとっては極めて不利なことを「敢えて」行っているように見える。決して具体的な誰かに強制された訳ではない。したがって、自分の「意志」*[10]によってなされていると一旦は言える。つまり「罰」を自らに下すという道行、成り行きは彼の「意志」によるものだと見える。

 つまり、行きはよいよい、帰りは怖い、ではなくて、行きは偶然、帰りは意志となる。なぜ、そうなるのであろうか。

 仮に、偶然を「悪魔の誘惑」と捉えるとすれば*[11]、意志はその反対に、その悪魔の誘惑を振り切って、神の方へ、あるいは悪魔的な何かではない何者かの方へと決断し、行動することに他ならない。

 ここでわたしが想起するのは、『カラマーゾフの兄弟』*[12]の次兄イワンが述べる叙事詩「大審問官」の中に登場するイエスの行動だ。その箇所を『口訳 新約聖書』から引く。

 

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。( [日本聖書協会, 「マタイによる福音書」/『口訳 新約聖書』]/Wikisource

 

エスは文字通り、悪魔の誘惑を退ける。この場合の誘惑は3点あるが、一旦、この文脈に合わせるとすれば「奇跡をなせ」ということになる。だが、それに対して、イエスは聖書の文言を引いて、奇跡を拒絶しているのだ。すなわち、悪魔の誘惑を拒絶するために、奇跡、すなわち神の恩寵に期するのではなくて、それを拒絶しているのである。無論、神学的な議論をここでしようという気はさらさらないし、そのような能力も持ち合わせていない。

先程の話に戻るが、何かの出来事がたまたま起こる。マイナスの方向のものであれば、それは「偶然=悪魔の誘惑」となり、プラスの方向であれば、「奇跡=神の恩寵」となる。結局のところ、その判断のブレ、つまり、どっちとも取れるブレ、本来はどっちでもあるようなブレは、その「偶々」起こったことに、意志の力によって、判断していくことが重要なのだ、と、予定調和的な、分かり切ったようなことを言いたい訳では全くない。

しかしながら。彼が、本来偶然であったことの連鎖に、自分自身の何かを見て取って、意味を、あるいは責任を感じたことは間違いない。そこに彼の意志の発生が現れているのだ。

何故、ラスコーリニコフは、偶然であるところの、或る意味「事故」である出来事に、あれほど苦しんだのであろう。それを彼の意志と呼ぶのはいささか憚られる。しかし、犯行後の彼の行動は、単に偶然の連鎖に振り回されるというよりも、彼自身が、望むと望まぬとに関わることなく苦しみの渦中へと吸い寄せられていく。言ってみれば、「受苦的意志」と言えばよいのか、あるいは「絶望的意志」とでも言えばよいのか、更にあるいは、「意志的な受苦」であり、「意志的な絶望」とも言える気がする。ここに何か秘密があるような気がする。

そんなことを言えば、わたしはスヴィドリガイロフはラスコーリニコフの、奇妙な言い方になってしまうが一人二役だと思っている。第6部でスヴィドリガイロフが「大活躍」をするときに、ラスコーリニコフは登場しない。あたかも主役がすり変わったかのような印象を与える。それもそのはずで、ラスコーリニコフが扮装をして演じているのではないかとさえ思う。無論、リアリズムに則って言えばそんなことは全くないのだが。いずれにしても、我がスヴィドリガイロフはそういう意味合いの人物である。

わたしが謎に思うのが彼の自死である。彼にとっては死ぬことは、アメリカに渡るのと同じぐらいの意味しかなかったのかも知れないが、ドゥーニャに脈がないと分かったぐらいで自死を選ぶものだろうか。恐らく、ここにあるのも、先程述べた「意志的な絶望」とも言い得る状況である。

あるいは彼は、自分の分身ラスコーリニコフのために身代わりに死んでいったのだろうか?

われわれは、偶然の骰子の目に弄ばれる。それに対して、有限的な力しか持ち合わせていない人間にできることは「絶望的に」それを自らのものとして「意志」することでしかないのか?

ラスコーリニコフの罰は、彼の名前の通り、人々から、世間から、世界から、あるいは大地からの「分裂」に他ならなかった。彼を苦しませた罪は一体何だったのであろうか?

 

 

  • 第Ⅰ項、合わせて10036字(26枚)

🐤

20220122 1955

 

【参考文献】

シェイクスピア ウィリアム. (1606?). 「マクベス」.

ドストエフスキー ミハイロヴィチ フョードル. (1867). 『罪と罰』. (江川卓, 訳)

メイヤス― カンタン. (2006). 『有限性のあとで――偶然性の必然性についての試論』.

ローティ マッケイ リチャード. (1989). 『偶然性・アイロニー・連帯――リベラル・ユートピアの可能性』.

亀山郁夫. (2009). 『『罪と罰』ノート』. 東京: 平凡社新書平凡社).

九鬼周造. (1935年). 『偶然性の問題』. 岩波書店.

太宰治. (1940). 「走れメロス」. 『新潮』1940年5月号.

日本聖書協会. (日付不明). 「マタイによる福音書」/『口訳 新約聖書』.

木村敏. (1994). 『偶然性の精神病理』. 岩波書店.

木田元. (2010). 『偶然性と運命』. 岩波新書岩波書店).

 

 

 

 

【註】

*[1] つまり、「偶然性」を倫理学の範囲で論ずることは不可能ではないか、ということである。

*[2] 【「走れメロス」あらすじ】純朴な羊飼いの青年メロスは、16歳になる妹の結婚のために必要な品々を買い求めにシラクスの町を訪れたが、町の様子がひどく暗く落ち込んでいることを不審に思い、市民に何が起きているのかを問う。そしてその原因である、人間不信のために多くの人を処刑している暴君ディオニス王の話を聞き、激怒する。メロスは王の暗殺を決意して王城に侵入するが、あえなく衛兵に捕らえられ、王のもとに引き出される。人間など私欲の塊だ、信じられぬ、と断言する王にメロスは、人を疑うのは恥ずべきだと真っ向から反論する。当然処刑されることになるが、メロスはシラクスで石工をしている竹馬の友で親友のセリヌンティウスを人質として王のもとにとどめおくのを条件に、妹の結婚式をとり行なうため3日後の日没までの猶予を願う。王はメロスを信じず、死ぬために再び戻って来るはずはないと考えるが、セリヌンティウスを処刑して人を信じることの馬鹿らしさを証明してやる、との思惑でそれを許した。王城に召されたセリヌンティウスはメロスの願いを快諾し、縄を打たれる。メロスは急いで村に帰り、誰にも真実を言わず妹の結婚式を急ぎ、夫を信じて誠心誠意尽くすように言い含め、式を無事に終えると3日目の朝まだき、王宮に向けて走り出す。難なく夕刻までに到着するつもりが、川の氾濫による橋の流失や山賊の襲来[注 4]など度重なる不運に出遭う。濁流の川を懸命に泳ぎ切り、山賊を打ち倒して必死に駆けるが、無理を重ねたメロスはそのために心身ともに疲労困憊して倒れ込み、一度は王のもとに戻ることをあきらめかける。セリヌンティウスを裏切って逃げてやろうかとも思う。しかし、近くの岩の隙間から湧き出てきた清水を飲み、疲労回復とともに義務遂行の希望が生まれ、再び走り出す。人間不信の王を見返すために、自分を信じて疑わない友人の命を救うために、そして自分の命を捧げるために。こうしてメロスは全力で、体力の限界まで達するほどに走り続け、日没直前、今まさにセリヌンティウスが磔にされようとするところに到着し、約束を果たす。セリヌンティウスに、ただ1度だけ裏切ろうとしたことを告げて詫び、セリヌンティウスも1度だけメロスを疑ったことを告げて詫びる。そして、彼らの真の友情を見た王は改心し、2人を釈放する。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

*[3] 「人生とはいわば歩く影、愚かな役者」( [シェイクスピア, 1606?]「マクベス」第5幕第5場)。

*[4] 別の言い方をすれば、この世を決定していることが必然であっても、個人の倫理的な責任は問えないし、また逆に偶然であったとしても、やはり、個人の倫理的責任は問えないということになる。個人の倫理的な責任は、そこに個人の「(自由)意志」が確認されなければならない。

*[5] 『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

*[6] ラスコーリニコフの母と妹ドゥーニャが上京して、近くに宿を取る。友人ラズミーヒンが近くに転居してくる。ドゥーニャの婚約者ルージンがマルメラードフと同じアパートに居候する。ドゥーニャに横恋慕して上京したスヴィドリガイロフはソーニャのアパートの隣りの部屋を借りている。という具合に、ご都合主義というよりも、あたかも演劇の舞台のように、同時にそこの場所に多くの登場人物がいなければならないかのような制約を作家自身が自ら課しているかのようにも見える。あるいは、これを「方舟」のイメージで考えると、彼らは同じ方舟に乗っているのだから、こうなるのは当たり前だとも言える。この問題、すなわち「演劇的舞台とは何か?」、「方舟とはなにか?」という問題は更に別稿にて詳論する予定である。

*[7] エッチなことを考えるだけで、それはエッチなことをしたのと同じです。と言われたら、もう俺なんか153万回ぐらい地獄に落ちているな。

*[8] つまり過失致死である。無論、彼にも反省すべき点はあるが、さほど重い罪とは言えない。ちなみに、当時のロシアの判例は未調査ではあるが(すいません( ノД`))、日本だとすれば、故意の「殺人罪」の法定刑は死刑、無期、5年以上20年以下の懲役だが、過失致死の場合は1年以上20年以下の懲役となるようだ。

*[9] ちなみに、江川卓によれば日本語で「罪」と訳せるロシア語には二つあるという。人間の定めた掟を越える行為に対する罪は「プレストプレーニエ」であり、一方、神の掟に背く行為に対する罪は「グレーフ」であるという( [江川, 『謎とき『罪と罰』』, 1986]p.20)。 そして、『罪と罰』のロシア語の原題は『プレストプレーニエ・イ・ナカザーニエ』だから、この場合の「罪」は「人間の定めた掟を越える行為に対する罪」ということになる。

*[10] 意志とは何か、という問題も別に検討しなければならない。完全な自由である意志など本当に存在するのだろうか?

*[11] このラスコーリニコフの場合は悪の方向への偶然の連鎖だったから、偶然=悪魔の誘惑ということになるが、その逆に正しい方向、良いことへの方向であれば、偶然ではなくて、奇跡、すなわち神の恩寵ということになるであろう。

*[12] ここに書くべきことでもなく、全くもってどうでもいいことだが、『カラマーゾフの兄弟』は、何故、『カラマーゾフ兄弟』ではないのか、という問題がある。これは、江川卓の『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』 [江川, 『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』, 1991]の第Ⅰ章でも触れられている問題ではあるが、要は、そこでは、「カラマーゾフ」というのは「カラマーゾフ的な」という意味を含んだ形容詞なのだ、という内容だったと思う。最初にそう訳した米川正夫の慧眼に敬服するものではあるが、ここからは単なる思い付きである。何故、名字に「の」が付くのか。普通は付かない。「源兄弟」とは言っても「源の兄弟」とはまず言わない。しかし、名字の下に「家」を入れるとどうか。「源家兄弟」とは言いづらい。「源家の兄弟」と方が普通ではないか。したがって、「カラマーゾフの兄弟」は「カラマーゾフ家の兄弟」の「家」が省略されたものだと考えてみた。無論、これは、日本語の問題であって、原作とは全く関係がない。何か、意味がありそうではあるが、今は判断が付かない。考察を続けたい。